2年に進級すると、和泉が教室のドアを開けることは、殆ど無くなっていた。
相変わらず食べたり食べなかったりの食生活。
胃酸でやられてしまったのか、咽喉が常に痛む。
なおも続く叔母の嫌がらせは陰湿なものへと変わった。
時折冷静になる叔母は一人部屋で泣いているが、結局自らの精神バランスを保つ為に和泉は丁度良すぎる存在で。
同級生から受けるいじめはより悪質になった。
原口は上級生との繋がりもあったので、たちどころに和泉の相手は膨れ上がった。
もう誰も、理由なんて覚えていない。
あったのかどうかも定かではない。
あまりに和泉が抵抗しないので、止めるタイミングを失ってしまったのだ。
唯一反応を見れるのは、和泉を暗く狭い所に閉じ込める時。
父親と母親を最後に見たあの場所を彷彿とさせる為、和泉はそんな場所が苦手だった。
苦手、というより、もっと強い恐怖さえ感じる。
数ヶ月前体育館の用具室に閉じ込められた和泉は、副任の長谷川に発見された時、意識を手放していた。
進級したての4月。
和泉の机が原口達によって意地悪く撤去されたのをきっかけに、和泉は教室へ行くのを止めた。
和泉が居ない教室は、あの殺伐とした雰囲気ではないため、教員達も結果的には安堵していた。
とはいえ家に居ることも出来ない。
登校して向かう先は保健室だった。
貧血が一層酷くなり、長時間立っている事も出来なかった。
手首の傷は増え、記憶はますます安定しなくなった。
それなのに意識して何かすることは出来なくて。
傷は深くなるのに、意識は生へ執着している。
具体的にどう生きたいのかは分からないが、じゃあ屋上から身投げできるかと言ったら、それは怖いと思った。
延々と続くパラドックスに、和泉の精神は消耗していった。
そして、友達が出来た。
2-3 岩林洋一。
去年は1-2。
今年は一組になった和泉は、今まで岩林の姿を見たことが無かった。
最も岩林の方は入学式の時から、和泉の事を知っていたのだけれど。
そして、忘れたことも、無かったのだけれど。
その日は朝から快晴。
いつも通り和泉は保健室、最奥のベッドで横になっていた。
血圧が上がりきらず、窓から差し込む光が眩しかった和泉は、両腕で顔を覆っていた。
後頭部が内側から鈍く痛む。
昨日叔母さんから熱湯をかけられ、火傷した部分が痛くて、迂闊に寝返りも打てない。
(今・・・何時だ、っけ)
記憶が安定しなくなってからは、小まめに時計を確認する癖がついた。
壁の時計を見ようと、目を眇めた時だった。
カーテンが開いた。
「「!」」
(誰っ・・・!)
養護教員は無言でカーテンを開けたりしない。
視界に黒い人影が飛び込んできた。
制服を着ている見たことないこの人は誰。
驚いた和泉は飛び起き・・・ようとしたが、強い目眩でそれは叶わず、ふらりとまた横になった。
「・・・ごっ、ごめん、ごめんっ!誰か居るなんて気付かなかったんだ!」
数瞬の沈黙を破ったのは、遠慮がちに焦ったそんな声。
視界を覆った腕を少し動かし、うっすらと目を開く。
目が合った。
「・・・和泉、直矢・・・?」
見覚えの無い相手の、僅かに躊躇った声。
(・・・?)
和泉の眉が怪訝そうにぴくりと動いたのを、彼は肯定と受け取った。
もちろん、彼には100%に近い確信があった。
忘れる訳が無い。
「和泉でしょ。隣の、隣のクラスの、岩林洋一っていうんだ、俺」
嬉しそうに一気にまくし立てる。
丸型の眼鏡に、硬質な癖毛。細長い体型に、青白い肌。
その陰気そうな顔を僅かに高揚させ、岩林は続けた。
(・・・うるさ・・・)
大きい声では無いが、頭に響く。
聞く気が無いのだとアピールする為に、和泉は仰向けだった身を捻って、目線をずらした。
ふ、と、岩林は口をつぐむ。
「・・・あれ」
そして突然岩林の指は、和泉の細い左手首を掴んだ。
「・・・・ひゃっ、」
何の前ぶれも無い接近に、和泉は小さく悲鳴を上げた。
直ぐ目の前には、岩林の顔。
「・・・これ・・・」
岩林は一点を見つめている。
しまった、と思った時には遅かった。
岩林の視界は、既に和泉の傷だらけの腕を捕らえていた。
反射的に起き上がり、手を払う。
和泉はベッドの淵ぎりぎりまで後ずさったが、所詮狭いパイプベッド。
怯えの様な気持ちで岩林を見上げた。
意外にも、彼は微笑んでいる。
(・・・何、何・・・?なに・・・)
和泉の頭はパニックだった。
何を思ったのか、岩林はおもむろに制服のジャケットを脱ぎ始めた。
続けざまにシャツの袖を捲くる。
すいっ、とその腕を目前に差し出された。
傷、傷、傷、傷。
(えっ・・・)
どれも、見覚えのある切り傷だった。
顔を上げると、やっぱり岩林は薄く笑っている。
見覚え。
丁度、この、自分の左手首に。
「・・・俺も、同じだよ」
腕を下ろす。
「和泉、」
ゆったりとした口調で、彼はおれの名前を呼んだ。
そう言ったきり、岩林が色々と詮索して来る事は無かった。
だから和泉も、岩林について深く尋ねることはなかった。
どこにも居場所がない和泉にとって、岩林の存在は大きかった。
休み時間になると、必ず現れた。
どうでも良い話を散々して、帰っていく。
友達と無駄話なんて始めてで、和泉は岩林が来るのを、いつしか楽しみに思いながら待つようになった。
時々勉強を教えて貰う。
嫌いどころか寧ろ勉強好きな和泉は、教科書を読めば大概理解できた。
が、それでも解けない問題を、岩林は上手に教えた。
「これ、この式。どこから来たの?」
「和泉なら解けるよ!2ページ前に公式あったでしょ。それの応用」
今や保健室のこの一角は、和泉のためのスペースになっていた。
「・・・解けた」
そう言って微笑むと、岩林も目元を緩めた。
「和泉が笑ってるの、ほんと嬉しい」
まるで、貴樹さんみたいな事を言う。
心のどこかで居場所を求めていて、だからこそ和泉が岩林に打ち解けるのは早かった。
無意識のうちに、嫌われないように、と、振舞ってしまう程に。
チャイムが響く。
「あっ、じゃあ、俺、戻るね」
そう言って腰を浮かせる岩林に、寂しさを感じた。
「うん」
「ばいばい。次の休み時間も来るね」
「うん。ばいばい」
まるで女子みたい。
ひらりと手を振って岩林を見送る和泉は、今までにない充足感と安心感を感じていた。
あれ、と思ったのは、岩林と知り合って3ヶ月ほど経った秋の頃だった。
久しぶりに教室に居たのを、岩林が見かけたのがきっかけだった。
久しぶりの自分の机には、大量のごみが詰まっていた。
わざと机にぶつかられ、ペンケースが落ちる。
薄い笑い声。
それらをかえって新鮮に感じながら、2時間程授業を受けた。
(・・・疲れた)
外の空気を吸おうと、何気なく、廊下に出た時だった。
「やっと出てきたね」
背後から低い声がした。
ぎょっとして振り向くと、吃驚するほど近い位置に、岩林の血色の悪いがあった。
「、えっ・・・?」
なんだ、岩林だ、と安心したのも束の間。
直ぐにいつもと様子が違う事に気付く。
「教室から。何で今日は教室に居るの」
「・・・今日、は、調子・・・良くて。・・・授業、出なきゃって」
目が、怖い。
口は笑っているのに、目が。
「勉強なら、俺が教えてるじゃん」
「だ、・・・けど」
「教室楽しいの?和泉ってマゾ?苛められたいの?」
ふるふると首を振る。
これは、誰。
首を横に振る和泉を見て、岩林は満足そうに微笑んだ。
いつもの岩林だった。
「和泉、顔色悪いじゃん。やっぱり保健室で休んでた方が良いよ。ね?また休み時間に行くし」
ん、と頷く和泉。
今の和泉にとって、最優先事項は、やっと見つけた自分の居場所。即ち岩林だった。
「保健室で、待ってて」
岩林の左手が、和泉の左手を、するりと撫でる。
秘密を匂わす様に、楽しそうに。
なぜか全身が粟立った。
ずっと、教室の前で待っていたのだろうか。
休み時間の度に、ずっと、じっと、そこで。
岩林に言われた通りに、和泉はまっすぐ保健室へ向かった。
今までに見たことの無い岩林の態度と、行動。
背筋がひやりとするものを感じたが、やはり岩林の存在が大切だった。
誰かと話すことの楽しさを思い出してしまった和泉には、もう一度前の様に戻る事は難しかった。
何をされても、何があっても、その後に岩林と話せれば良いや、と。
階段を降りながら、もしかして、と和泉は考える。
もしかして、岩林は休み時間に保健室に来たのかもしれない。
折角来たのに自分は居ない。
わざわざ来てくれたのに、それは自分が悪かったんじゃないか。
(・・・だから、怒ってたのかも)
それだけで怒って、挙句の果てに教室の前に張り付くのはやり過ぎじゃないかと思ったけれど、今までしっかりとした人付き合いの無い和泉は、「そんなものなのかもしれない」と容易に納得した。
(謝らないと・・・)
見方を変えれば無自覚の投げやり。
見方を変えれば無意識のセルフマインドコントロール。
和泉はそれに気付かない。
「あのっ、すいません」
途中、廊下で呼び止められる。
振り返るとまだ制服に「着られている」感のある小柄な女子生徒3名。
(一年生だ・・・)
「かっ、化学室はどこですか?あの、あの、実験の方の」
なぜか、声が上ずっている。
内心小首を傾げながらも、和泉は淡々と答えた。
「・・・あっち」
細い指が廊下の突き当たりを指す。
和泉自身も数えるほどしか行っていない。
「一回外、出ないとだから、外履き・・・」
「あ、っありがとうございます!」「ありがとうございましたっ」
きゃあきゃあと楽しそうに、3人は廊下を駆けていった。
そして、見慣れた白い部屋。
養護教員は視線を一瞬上げて、「どうぞ」と、柔らかに口が動く。
その優しさに、ずるずると甘えている。
昼休みになると、岩林はいつも通りに保健室へ足を運んだ。
「和泉、元気?」
横になっていた体を起こす。
「今日、何か調子良いんだ。・・・朝ごはん食べても、吐かなかった」
「それ、朝食食べたから元気なんじゃない?逆に」
岩林は笑いながら丸椅子に座る。
「そうかも」
「和泉ぃ、朝食大事だよ」
暫く、軽い会話を繰り返した。
小テストの話、テレビ番組の話、天気の話。
それらが一通り終わった後、唐突に岩林は切り出した。
「今日みたいなの、止めてね」
何のことを言われているか、直ぐには頭が追いつかなかった。
「あっ、ごめん、・・・ごめん、岩林。此処まで来てくれたんでしょ」
「休みかと思ったんだけど」
鞄があったからね、と呟く。
「うん、ごめん・・・。教室行く時は、ちゃんと、岩林に」
「違う!」
先ほどの呟きと打って変わった大声に、和泉はぎょっとした。
目を丸くして、岩林を見返す。
「ああ、ごめんね、吃驚させたね。教室なんて、行かなくていいんだよ、和泉は」
そしてまるで赤ん坊をあやすような声。
「え、っと・・・?どういう、意味」
「勉強は俺が教えてあげてるじゃん。和泉は習ってないだけで頭良いから、直ぐに分かるでしょ。教室なんか行く意味ないよ。あいつら和泉に変なことするし。和泉分かってんの?嫌がらせされんのやでしょ?」
一気にまくし立てられ、和泉は唖然とした。
「・・・だから、和泉はここに居るの。・・・いいね?」
それは、懇願でも命令でもなかった。
凍った目で浮かべる微笑に、有無を言わさぬその調子に。
「・・・うん」
それは、静かな脅迫。
***
岩林の束縛は、徐々により酷いものへとなっていった。
けれど優しいときは今までと一切変わなかったし、その存在は和泉にとって理想的だった。
恐怖を感じるときもあるが、向けられる好意は嬉しかった。
和泉が何よりも求めていたものだったから。
不器用ながら、それでつりあいは取れていた。
不安定平衡を保ったその関係は、だからこそ崩れるのは早かった。
3月。
抜けるような青空と、肌寒い空気。
肌寒いといっても不快なものではなくて、目が覚めるような心地よい冷たさ。
和泉はそれが好きだった。
空気と自分の境目がはっきりするようで。
自分とそれ以外のものをくっきりとまではいかなくとも、線引きしてくれているようで。
けれどその日、和泉の体調は最悪だった。
とにかく酷い貧血で、目が回って立っていることが出来なかった。
登校中に一回、学校のトイレで一回、和泉は嘔吐していた。
一人じゃどうしようも無くて、けれどどうする事もできなくて、不安と吐き気で押し潰されそうだった。
「和泉、大丈夫・・・っ」
いつも通りひょっこり顔を出した岩林も、和泉の様子を見て言葉を詰まらせた。
「・・・いわばやし」
うつ伏せになって丸まっていた和泉は掠れた声で応じる。
「何なに?何かあった?」
岩林は心配そうに枕元に駆け寄り、和泉の身体に障らない様声を潜めた。
和泉はゆるゆると首を振る。
色素の薄い髪の毛が、光を弾いた。
「・・・岩林が来てくれて、良かった」
「え」
「気持ち悪くて、怖くて・・・気が狂うかと思った・・・!」
枕に顔を押し付けて、和泉は華奢な肩を震わせる。
「和泉・・・」
優れない体調の所為か涙腺の脆くなった和泉の頭を、岩林はまるで壊れ物にでも触れる様にそっと撫でた。
その姿が見ていて痛々しい程で。
それでも和泉の呼吸を手の平でリアルに感じて、にわかに焦りに包まれた岩林は、ぱっと手を離した。
それを誤魔化すように、言葉をなぞる。
「・・・疲れてるんだよ、きっと。寝てなよ、・・・ね?」
「・・・ん、」
「ああでも、今日一日うるさいかもね。廊下とか」
岩林の言葉に、和泉は興味が引かれた様だった。
「なんで?」
「何でって・・・今日卒業式前日だよ?一日中予行練習とか、飾りつけとかやってるから、騒がしくなるなあって」
「明日、3年生は卒業するんだ・・・?」
「・・・その話、昨日しなかったっけ?」
不思議そうに顔を覗きこまれて、和泉はびくりとした。
記憶が安定していない事は、岩林には言っていない。
曖昧に微笑む。
「やーな先輩だったんだよ。大きな声じゃ言えないけど、さっさと卒業して欲しかったんだ」
心底憎そうに宙を睨む岩林。
「そうなんだ。じゃあ、明日は良い日だね」
「・・・そうだね、本当に」
和泉は、それに深い意味なんて考えなかった。
どれくらい眠っていただろう。
カーテンの開く音で目が覚めた。
意識がはっきりするにつれて吐き気まで甦って来て、和泉は眉根を寄せる。
(・・・岩林、かな)
ぼんやりとした頭で考えたのはそれ。
岩林以外にカーテンを開けるひとなんて居ない。
嬉しさを真っ先に感じ、身体を起こした。
視線を上げる。
そこに居るのは岩林だと信じて。
「・・・!?」
けれど、カーテンを開けたのは岩林では無かった。
目に映ったのは見たことのない大柄な数名。
ネクタイの色で、辛うじて上級生だということは分かる。
「おい、起きたぞ」
「へえ、やっぱり綺麗な顔してんなあ」
「山辺好きだろ、こーゆーの」
ぎゃははは、ひゃははは、と下品な笑い声が響く。
何が起こっているのかさっぱり分からない。
「・・・んだよその目、誘ってんのか?」
山辺、と呼ばれた上級生の腕が伸びてきて、和泉の肩を揺すった。
「!」
相手の体温が流れ込んでくるのが不快で、身を捩る。
どっと笑い声が湧いた。
「そんな事したって無駄だぜ。そうやってお前、誰でも誘うんだろ?手管か?」
「あっは!難しい言葉使うなぁー」
「俺達一回分位、何てことないだろ?」
彼等の言葉の意味も分からなかった。
(・・・?何、何の話??)
それでも、この人達と関わってはいけないという事だけは分かる。
漠然とした恐怖がじわじわと攻め上がって来る。
山辺の手が、自分のシャツのボタンに掛かった。
ようやく覚醒した頭が、危険信号を出し警鐘を鳴らす。
ここに居たら、まずい。
「離して・・・っ!」
山辺の手を掴んで、引き離そうとした。
が、びくともしない。
「離して!だってよ!」
再び響く下品な笑い声。
「本当にこいつ男かよ!ちゃんとついてんのか?誰か確かめてみろよ」
「じゃあ俺下いただき~」
もう一人の手が、今度はベルトに手を伸ばす。
はっきりとした恐怖、恐怖、恐怖。
叔母のそれとは比べ物にならないほどだ。
「やだっ・・・!離せ!離せ・・・っ」
山辺の指が顎・・・というより首の付け根を掴み、唇が押しあてられる。
勢い余って、歯と歯がぶつかった。
「・・・っんぅっ・・・!」
爆発的な嫌悪感と、吐き気が一気に押し寄せる。
成す術も無く、寸での所で山辺の身体を押し返し、逆流してきた胃液を吐き出した。
「げほっげほっげほっ、ゲホ、ッ」
吐瀉物が床に叩きつけられる音と、酸の匂いが鼻に付く。
「はあっ、はあっ、はっ、はあっ」
涙で視界が揺れた。
「はっ!マジかよ、汚ねっ」
「おい山辺、お前下手なんじゃねーの?」
笑い声が響く。
逃げようと身を捩るが、力の差は歴然。
無我夢中で、いつの間にか左手はベッドサイドのテーブルから花瓶を掴んでいた。
それを目の前の山辺に向かって投げつける。
全く無意識の行動だった。
「痛ってえ!」
唇も触れていた近距離で、それは山辺の顔面に直撃した。
花瓶の割れる音。
山辺の怒りに火をつけるには、十分だった。
花瓶の水で顔を濡らした山辺の顔は怒りで真っ赤だった。
「てっめ、調子乗んなよ!」
視界の端で、何かが光った。
頬に鋭い痛みが走る。
山辺の手に握られているのは、折りたたみ式の小さいナイフだった。
自転車かバイクか、何かの鍵に付いているいわやキーホルダーだが、凶器。
「・・・・!!!!」
「山辺!やっちまえよ!こいつぜってえマゾだわ!」
不釣合いな笑い声が、恐怖を助長した。
(誰か・・・!)
「助けて・・・っ、誰か!誰かっ!」
夢中で叫ぶ。
入り口付近のベッドだったら、窓が開いていたら、ドアが開いていたら、気付いてもらえたかもしれないのに。
「おい、うるせえよ!」
圧倒的な力で押し倒される。
「助けて!誰かっ、・・・岩林!岩林!」
力なく倒れこみながら、それでも叫び続けた。
岩林なら、きっと気付いてくれる。
そんな確信めいたものさえ感じていた。
「おい、聞いたか?岩林ぃ、お前、呼ばれてるぜ?」
(・・・!?)
文字通り、耳を疑った。
(岩林・・・?)
顔を上げる。
確かにそこには、上級生に紛れて、岩林の姿があった。
ああ、そうか。と、妙に静かな気持ちが広がっていった。
期待するだけ自分が馬鹿だった。
こんな自分に好意を向けてくれる人なんて、居ないのだから。
手足が、誰かに押えられた。
「・・・っやめ、て、離して」
叫ぶ体力も無くなってきて、もう外に聞こえる以前の問題だった。
「細っせえ身体。骨浮いてんじゃん。萎えるな~」
「オレ、ムービー撮りまぁーす」
薄く目を開ける。
岩林は上級生と話している。
口に笑みまで浮かべて。
目の前が暗くなった。
(・・・・・・もう、どうでもいい・・・)
叫ぶのを止めた。
考えるのを止めた。
助けは来ない。
どうやって家に帰ってきたのか、覚えていない。
上級生に押し倒されて、そこから先の記憶がすっぽりと抜け落ちている。
殴られた記憶も、断片的にある。
そんな中信じられない位の体中の痛みと、一際酷い腰の痛み。
さらにその皮膚の下、形容し難い違和感がやけに現実的で。
全てがぼろぼろだった。
耐え切れなくなって、玄関で吐いた。
物音を聞いた叔母さんが、小走りでやってきて、悲鳴を上げた。
「何であんたがここに居るのよ!」
普段なら学校に行っている時間帯だ。
叔母さんの絶叫は的確だった。
叔母さんは何かを喚き続ける。
「ねえ、私見たのよ、あの人が、髪の長い女の人と、車に乗っているのを。あんた知ってるんでしょ。ざまあみろって、思ってるんでしょ」
今日は訳の分からない事ばかり言われる。
自分の記憶ほどあてにならないものは無いから、きっととにかく自分が悪いんだろう。
もう疲れた。
「あんたは疫病神よ、ああほら、車が。あの人の車が通った。黒い車が」
何の物音もしない。
叔父さんの車は濃い青色だった。
「疫病神よ。あんたのお母さんも、お父さんも、みんなあんたの所為で死んだんじゃない!」
妙に鮮明に頭に焼きついた叔母の声。
そうだ。
何かたった一つの絶対的な解答を貰えた気がした。
その通りじゃないか。
二人とも、その日が自分の誕生日なんかじゃなければ、外出することもなかった。
その日が誕生日じゃなければ。
生まれていなければ。
ふらつく足取りで階段を昇る。
踏み外して何段か落ちる。
それでも昇る。
手すりの冷たさが皮膚に伝わる。
真っ直ぐ。
部屋。
引き出し。
カッターナイフ。
いつも無意識の行動だったけれど、今ははっきりと意志を持って。
解答を貰えた事で、やっと、意識と意思が一致した。
もう疲れた。
既にみみず腫れになっている柔らかい皮膚に、その刃を押し付ける。
ラインに沿って、何度も裂く。
足から力が抜けて、それから吐き気が襲ってきて、フローリングの床に嘔吐した。
血が噴き出して、辺りに広がる。
もう右手はカッターを握っていなくて、ひたすらその傷口を引っ掻いていた。
意識が遠のく。
今は、何時だっけ。
目を開けた時には、何もかもが変わっていた。
白い部屋。
点滴のチューブ。
規則正しい機械音。
泣き顔の、貴樹さん。
「直矢・・・!!!」
強く抱きしめられる。
背中が熱かった。
「直矢、・・・っ」
貴樹さんの腕に、より一層力が篭る。
「僕の家で暮らそう。・・・今まで、気付いてやれなくて、本当に、・・・っ」
語尾は聞き取れなかった。
貴樹さんは、静かに泣いていた。
それをどこか、他人事のように聞いていた。
貴樹さんと暮らす。
何もかもが、変わった。