飛行機雲とユーフォリア

(和泉、居ない・・・?)

響く予鈴を耳に流して、橋葉は教室を見渡す。
今日和泉は朝から登校していて、一度も抜ける事なく授業に出席していた。
そんな日も最近は増えていて、以前は和泉が教室に居る回数をカウントしていたりもしたのだけれど、いつの間にかそれも止めていた。
相変わらず昼休みになるとふらりと出て行ってしまうが、大抵予鈴までには着席していた。

5時間目は生物。
移動教室だ。

既に教室に残っている人数はまばら。
教室の照明も落とされている。

「和泉、いねーの?」

小脇に教材と内職用の課題を抱えながら、村野が声を上げた。

「ああ。・・・机の上に教材あるから、まだ行ってないと思うんだけど」

困ったなー、と呟く村上。

「でも、俺等が遅刻するぜ?和泉は心配だけど・・・すっげ心配だけど、やっぱり何か・・」

村上の意見は的確だった。
もしかしたら、体調を崩して保健室に行っているのかもしれないし。

廊下で倒れ警戒心がピークに達していた和泉に手を弾かれて以来、あれほど和泉と仲良くなってやろうと熱を上げていた村野も、何となく和泉との距離感を掴み損ねたままである。

「じゃあ、軽く探しながら行く事にしようか。来れるなら来るよね」
「うん、うん。そーしようそーしよう」

もう数人しか残っていない教室を出ようとしたその時、クラスメートが小走りで走り寄って来た。
スカートを揺らし、急いだ様子で立ち止まる。

「生物、多目的教室4に変更だって!単元テストやるらしいよ」
「げっ、そーなの?最悪ー!」
「ね。・・・今教室に残ってるので全員かなあ?」

そう独り言の様に言いながら教室に入り、同様の説明をまだ残っている数名に繰り返す。

えー、という叫び声が廊下まで響いた。
「抜き打ちとか、最悪だよな。・・・橋葉?」

妙に真剣な表情を浮かべた橋葉を、訝しそうに村野は見返した。
何か気に掛かる事があったのだろうか。
橋葉は神妙な面持ちで口を開く。

「・・・いや、和泉を、割と真面目に探しながら行かないとって思って」
「!はははっ!そりゃそーだ。普通に生物教室に行くだろーな。そんなマジな顔してるから何事かと思ったよー」
「?・・・そんな面白い事を言ったつもりは無いんだけど」

変に頭の固い橋葉の言動に、村野は笑いが止まらなかった。

実のところ、村野は橋葉の事をスーパーマンなのではないかと密かに思っていた。
頭は良いし運動も出来て、人当たりも良くまず敵を作らない。
本当は毒舌で怖い位に冷静な面もあるのに、猫を被らせればその片鱗も滲ませない。
気の合う友人だけれど、あまりに欠点が無さすぎて、無意識のうちに薄い膜を作っていた。
しかし和泉が絡むと、完全無欠の橋葉も年相応な人間味が感じられる。

ああ、こいつも自分と同じ17歳なんだな、と、妙に安心するのだ。
自分と同じ様に悩んだり、焦ったりする事があるのだな、と。

「にしても、どこ居るんだろ」
歩を進めながら、長い廊下で村野は呟く。
「・・・どこかで倒れてないと良いけど」
「てか、前から思ってたんだけど・・・和泉ってどっか悪いの?」
そりゃ全く健康だなんて思ってないけど、と付け足す村野。
何となく触れてはいけない気がして、今まで村野が直接聞いたことは無かった。
橋葉なら知っている筈。いつか聞こう、いつか聞こうと思っていた。
けれど、その期待は裏切られる。

「さあ・・・何か聞きづらくて。それ以前に、変に詮索して良いものなのか・・・」

ぼんやりと歩いていた所為で、橋葉は角の向こうの人影に気付かなかった。

「わっ」
「っ!」
華奢な人影は橋葉とぶつかり、壁によろめいた。
橋葉は慌てて体勢を整える。
「すいません、気付かなくて・・・って、和泉・・・?」
「・・・橋葉?」
壁に寄り掛かりながら、だるそうに瞳を上げる。

和泉。

安堵が広がる。
「どこに居たの?軽く探したよ~」
何気ないその言葉に、怒られたと思ったのか、和泉は身体を強張らせた。
「・・・ごめ、」
俯いたその顔色は、良いとは言えない。
「・・・大丈夫?」
ちらりと顔を上げて、暫くの沈黙の後小さく頷く。

(・・・それが大丈夫って顔色かよ)

そうは思うものの、和泉の動向を強制する権利も、欠席を勧める義務も、橋葉には無い。
橋葉にもその自覚はあった。

「・・・そう。次の時間多目的4に変更だよ。テストだって!」
「ん、」
「先、行ってるね」
「・・・行く」
「え?」
「出るから、授業」

しっかりと目を見据えて、そう言った。
嬉しくて、頬が緩む。

「じゃあ、待ってる」

そうしてすれ違う。
和泉はふらつく足取りで教室に向かって行った。

「・・・という訳だから、村野。先に行ってて」
「え!?待ってるって、教室でって意味じゃないの?マジで遅刻すっぞ」
「でも、明らかに和泉の様子変だったし」
「あー、あー、そうだよな。俺が居たら和泉話さないよな」
ずるい、と、おどけた視線で睨まれる。
優越感に似た感情が込み上げるのを隠そうともせずに、橋葉は微笑んだ。

弾かれた村野は不満そうに溜息を吐く。

「何かお前等って独特の雰囲気」
「・・・どういう意味?」
「何でもねー。じゃあ、遅刻すんなよ」
「ありがとう」

片手で手を振り、申し訳ないが半ば追いやる様にして村野を見送った。

村野が階段の向こうに消えるのと、和泉が教室から顔を覗かせるのはほぼ同時だった。

「行ったよ、村上は」
「うん」

教材片手に和泉が教室を出てきた。

和泉の人嫌いも大概である。

再び見返して、やっぱり顔色が悪い。
というより、泣きそう、といった感じだ。
普段からあまり表情が無い為にそれが際立つ。

けれど、本人が大丈夫と言っているのに、追求できる訳も無かった。

「あと2分だ。急がないと、ほんとに遅刻する」

返事は返って来ない。
そんな和泉とのやり取りにももう慣れた。

渡り廊下を渡り、特別棟まで来た時だった。
和泉が突然上体を折り、壁に身体を預けた。

「・・・っう」
「和泉っ・・・?」

音を立てて教科書、ノートの類が床に広がる。
和泉はずるずると姿勢を崩し、遂に立って居られなくなったのかぺたりと座り込んでしまった。
右手は壁についているが、左手は腹部を庇うように抱えている。

「・・・腹、痛いの?」
同じように自分も屈んで、和泉の背中を擦る。
俯いた顔を覗くと、前髪の隙間から涙が伝っていた。
和泉は薄い唇を噛みながら、微かに頷く。

「こんな状態じゃ授業なんて無理だよ。南条先生は居ないけど、第3保健室なら近いから・・・とりあえず休もう。床じゃ冷えるよ」

丁度そこで、本鈴が響き渡った。
和泉はびくりと薄い身体を振るわせた。

「・・・ごめん、なさ・・・っ、橋・・・、テスト・・・」
「そんなの気にしてるの、和泉。大丈夫だから、保健室行こう。・・・ね?」
「・・・ん、」

涙声で頷いた和泉を何とか立たせ、引きずる様にして保健室に連れて行き、背を丸めた和泉をベッドに押し込んだ。

一体和泉は何に、ここまで負い目を感じているのだろう。

外は軽やかに晴れている。
飛行機雲が窓から見えた。
その始まりを見ようとして、その眩しさに思わず目を細めた。

和泉の腹痛も少し治まりを見せているらしく、窓の外を見る余裕も生まれていた。

「皆が授業受けてる時間帯に、こうやって・・・切り取られた空を見上げるのってさあ、何か良いね」

一緒になって授業を休ませてしまった事への罪悪感を少しでも減らそうと、そう言って和泉に笑いかけた。
一度位はこんな事をしてみたいと思っていた。
こんな風に有意義な時間の浪費を楽しみたかった。

和泉は布団を口元が見えるか見えないかの所まで上げている。
時々痛みが襲うのか、きつく目を閉じ枕に顔を埋めてしまう。
今も、背中を丸めて小刻みに震えている。

「は・・・、っ」
目に涙を浮かべ、枕から顔を覗かせる和泉。
吐き気があるなら背中を擦るなり吐かせるなり、対処のし様があるのに、腹痛となるともどかしい。

「でもおれは」

突如、和泉が口を開いた。
掠れた声。
一瞬何の話か分からなかった。

「それでも、おれは外を眺めるより、空を眺めるより、普通に・・・教室に行って、・・・授業を受けたい」

「・・・っ」

考えるより先に、「ごめん」と口をいついて出ていた。

「そんな、つもりじゃ無かったんだ」

それすらも、許されない環境居たという事。
一体、どんな経緯で、何があって、和泉は此処に居るんだろう。

「ねえ和泉」
「橋葉」

二人は同時に口を開いた。
驚いて顔を見合わせ、橋葉はどうぞ、と表情で促した。

「・・・どうして、こんな風に、おれに付き合ってくれるの」

目が、合う。
諦め、期待、疑いに希望に、様々な感情が移っていた。
どうやったら、何と返せば、天秤はプラスに傾く?
暫く考えた結果、結局簡単で簡潔な解答となった。

「和泉と、仲良くなりたいから」

ふっ、と和泉は顔を上げた。

「・・・だと思うんだけど。正直分からない。・・・こういうのって、理由とか、はっきりしたもの、要る?」

秒針の音だけが、この白い部屋を支配した。

「和泉ともっと話したい。和泉のことを知りたい。・・・衝動に・・・理由ってあるかな。説明しきれないよ」

これじゃ駄目?と、和泉を見返すと、和泉の目には涙が溜まっていた。
真っ赤な目が自分を捉えていて、思わずに心臓が大きく脈打つ。
横になっている為、右目の涙は既に枕カバーが受け止めている。

徐々に呼吸が乱れる。

「信じるよ・・・?」

しゃくり上げながら、やっと、和泉は声を絞りだした。

「信じて良い?」
「うん」
「信じて、良いの」
「うん」
「・・・信じる、からね、?」
「・・・うん。・・・嬉しい」

何度も肯定を伝えると、堪えきれずに、和泉は小さく嗚咽を零しながら泣いた。
その細い背中を擦りながら、何ともいえない充足感に包まれていた。

「・・・さっき、何を言おうとしたの」

ひとしきり泣いて、まだ呼吸も落ち着かない和泉が尋ねる。
橋葉は無言で首を横に振った

「・・・ううん。なんでもない。もう良いんだ」

なに?という目。
警戒や、不審。そんなマイナスの感情はそこに無い。

和泉のことは気になるけど、それを今求めるのは欲が張りすぎだ。
今、この空気、空間を壊したくない。
今、新しい波を起こしたくない。

ふと窓の外に目をやると、飛行機雲は消えていた。
チャイムが響く。
随分久しぶりに感じられた。

ねえ和泉、
切り取られた四角い空を見上げる、こんな午後も良いでしょう。

>>飛行機雲とユーフォリア:END

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