直矢が風邪を引いた。
半分、予想していた事だった。
というのも昨夜、帰宅して洗濯機前のカゴを覗くと、絞れる程にずぶ濡れの制服が入っていたからだ。
リビングに行くと、ジャージ姿の直矢がテレビを見ていた。
『直矢?これ、どうしたの』
カゴごと直矢の眼前に掲げる。
『・・・その・・・転んで、』
『転んだ?まさか外で?』
『・・・』
直矢が雨を苦手としているのは知っていた。
(・・・詳しく聞こうにも、話さなそうだしなあ)
『・・・そ、分かったよ。クリーニング出しとくから』
制服が濡れているという事実は変わらない。
話を終わらせようとそう言うと直矢は、お願い、と小さく呟いた。
気付いたのは、翌朝。
いつも通り直矢を起こし、テーブルに朝食を用意する。
ハーブティーを入れたカップを持って行った時だった。
「顔、赤くない?」
え?といった風に顔を上げる直矢。
「そう?」
耐熱性のガラス容器に手をかけ、首を傾げた。
「いや、赤いよ。・・・ちょっと待って」
慌ててキッチンに戻り手を水で流す。
さっきまで紅茶を入れていた手では、何を触っても自分の体温が邪魔になるだろう。
ぺたりと額に手をやると、直矢の熱が流れ込んできた。
水で冷やしたばかりの手、という事を考慮しても、絶対に熱い。
「熱がある」
「うそ」
「嘘じゃないっ。そういえば、昨日あんなに濡れたんだし、考えて見れば当然だよ」
そう言ってもまだ自覚症状が無いのか、自分の手で額や頬ををぺたぺた触る。
「・・・直矢、自分でやっても意味ないでしょう」
「・・・でも、朝いっつもこんな感じだから、よくわかんない」
恐るべし、低血圧。
「分かった。直矢が僕のこと信じないなら、僕だって考えがあるからね」
「えー・・・?」
「確か、この引き出しに仕舞ったはず・・・」
テレビの横に置いてあるクリアケースの引き出しを開け閉めし、探すのは体温計。
絆創膏やガーゼの類と一緒にしておいたはずである。
「あった!・・・ほら、直矢測ってみて」
直矢は不服そうに体温計を受け取る。
改めて見ると、特に目などは、熱がある時特有のそれだった。
測定速度が自慢の体温計は、30秒も掛からず電子音を響かせた。
緩慢な動作で服の中からそれを取り出した直矢は、電子画面を見て眉を潜めた。
「どうだった?」
「・・・さんじゅう、ななど、ごぶ」
決まり悪そうに、その大きな瞳で見上げる直矢。
「学校欠席。一日安静ね」
「うー・・・」
「文句言わないの。病院嫌いが風邪こじらせると大変なんだから、今のうちに治すのが一番なんだってば」
直矢から体温計を受け取り、元の場所へ戻す。
使い終わったら直ぐに片付ける。
これは貴樹の鉄則である。
「直矢?」
俯いていた直矢が、ふと顔を上げ窓の外を見やる。
その表情は曇り、不安そうに外を睨んでいた。
何だろう、と思ったが、直ぐに合点が行く。
(雨が降りそうな天気だもんな・・・)
強張った和泉の肩を優しく叩く。
「そんな顔しないでもだいじょーぶ。仕事位休めるから、ね?」
そう言って微笑むと、ようやく直矢は頷いた。
「熱が上がると困るから、安静にしててね?」
まだ少し不満そうな直矢をベッドに収め、そう言う。
一瞬顔を上げたが、直ぐに肯定の頷きに変わる。
不満を口には出さない。
反抗なんて絶対しない。
言われた通りに、忠実に、確実に。
言い方を変えれば、緩やかな絶対服従。
――――全ては、僕に嫌われないように。
意識されない所に、直矢の一番柔らかい場所に刷り込まれた昔の記憶は、今も尚効果は絶大で。
ふとした拍子にそれを感じると、何だか泣きたくなる。
と同時に湧き上がってくる優越感にも似た感情の名前を僕は知らない。
「大丈夫。ここで本読んでるから。傍に居るから、ね」
大丈夫、とか、好き、とか。
そういった類の言葉を聞いた時の直矢は、それは嬉しそうに笑う。
「ほら、横になる!寝ないと治んないよ」
「・・・子守唄でも歌ってくれたら考える」
「ばーか」
「ふふっやだ、くすぐったい」
「寝る?寝るね?」
「あはっ分かっ、分かった!寝るってば、貴樹っ」
軽い笑い声。
嬉しそうな笑い声。
シンプルな部屋に、ふたつ。
嫌う訳がないのに。
自室から読みかけの文庫本を持ってきて、直矢のベッドに寄りかかった。
床の冷たさを感じながら、時間の流れを見送る。
酷く平和なその時に眩暈がしそうだ。
どれ位の時間が経ったのか、見当もつかない。
何度か寝返りを打っていた直矢から、規則正しい寝息が聞こえてきた。
本を閉じ、顔を向けると、直矢はいつも通りのうつ伏せで眠っていた。
微笑ましくて頬が緩む。
「・・・何も、心配しなくていいからね」
崩れそうだった天気も今は落ち着いている。
雲の隙間から覗く青に感謝の念さえ沸く。
ほら、
直矢が心配することなんて何もない。
幸せになって良い。
主張して良い。
自分を認めて良いんだよ。
静かに呼吸する直矢の頭を軽く撫で、部屋を後にした。
*
直矢の部屋を出た貴樹は、リビングに向かった。
文庫本をテーブルに置き、ノートパソコンを引き寄せる。
持ち帰ってきている仕事を進める為だ。
起動している間、ミネラルウォーターを取りにキッチンへ立つ。
500mlのペットボトル片手に貴樹が目にした物。
光を点滅させる直矢の携帯だった。
直矢の携帯に登録されている番号を、貴樹は全て把握しているつもりでいた。
操作もままならない直矢の代わりに自身で一件一件登録したのだから当然だ。
だからそれ故に、着信、或いはメールの受信を知らせるランプが点滅しているという状況は不可解だった。
登録してある番号は自分を除いて病院などの公共機関のみ。
さらにそれらからの連絡は自分の携帯に来る様になっている。
怪しげな迷惑メールでもない限り、直矢の携帯が自分以外の番号から受信する事はありえないのだ。
どういう事だ。
あの人嫌いの直矢が、人間不信の直矢が、自ら番号の交換など想像に難い。
――――きっと、迷惑メールか、間違い電話だ。
そう言い聞かせても、視界の端にどうしても点滅が映り込む。
罪悪感を引きずりながら、遂に貴樹は手を伸ばした。
まっすぐ、直矢の携帯へ。
『受信メール一件』
待ち受け画面に表示されたそのメッセージに、貴樹は自分の中の何かが閉じるのを感じた。
無意識のうちに親指が動く。
食い入るように画面を見つめた。
『受信BOX』
『メインフォルダ』
『0001 橋葉 章』
――――橋葉?
どこかで聞いた名前。
『sb.和泉?』
『風邪引いたんだって?担任から聞いた。
無理しないで休んでね。
ノート要る様だったら言って
明日は来れる?』
貴樹は、無表情に携帯を閉じた。
ミネラルウォーターを一口飲み、そしてもう一度携帯を開く。
空は不釣合いに晴れてきた。
『削除』
『一件削除』
『受信メール一件 削除しました』
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