和泉からメールが届いた。
『学校に一番近い駅って?』
非常に短い簡潔なそれは、初めて和泉から送られてきたメール。
自分からは昨日、一度送っていた。
和泉が欠席すると知って、今日は来れるのかな、と一通。
もちろんそんなの薄い言い訳で、何でも良いから手にしたアドレスを使ってみたかっただけである。
断言してテクノ依存ではない。
メールも電話も無意味に使ったりはしない。
そもそも殆どが翌日顔を会わせる様な相手なのに、わざわざ小さい画面で繋がる必要性が感じられなかったからだ。
けれど昨日、初めてメールの内容を考えた。
初めて文面を推敲した。
半分覚悟していた通り、返事は無かった。
和泉のことだから・・・と、都合の良い理由を捏ねていただけに、朝机の上で携帯が振動した時には心底驚いた。
表示された名前を見て、図らずして心臓が跳ねた。
その時俺は朝食を食べ終えたばかりで、ぼんやりと雑誌を眺めていた。
携帯のバイブレータの振動音。
液晶画面が『和泉』と表示する。
「!」
慌てて雑誌を閉じる。
急いで携帯を開き、どういう訳かそれは電話だと勝手に判断していて、画面一面に表示されるメールマークのグラフィックに無性に恥ずかしくなった。
『sub.(notitle)』
『>学校に一番近い駅って?』
「・・・和泉、今日学校来るんだ・・・」
無意識のうちにそう呟いていた。
(・・・って、あれ、)
和泉は、確か車で通学していたはず。
駅の事を聞くという事は、もしかして今日は電車に乗って来るのだろうか。
文面から判断するに、電車通学の経験は無いに違いない。
あの時間帯の電車は、通勤中のサラリーマンや通学中の学生でかなり混み合う。
和泉が、そんな状態の電車に、一人で?
国籍、性別さえ疑わしいあの外見も相まって、和泉にはどこか浮世離れした所がある。
丁度いい言い訳を見つけた脳は、考えるより先に指を動かした。
『sub.おはよう』
『へえ~、電車で来るんだ。何時頃のに乗るの?』
数分待って、手の内に振動。
『>8時過ぎ』
「藤ヶ谷だよ・・・と」
学校の最寄駅を打ち込みながら、和泉が乗るであろう電車の当たりを付ける。
和泉の乗る駅を聞けば一番早いのだろうけれど、それを聞き出す切り口が見つからなかった。
一緒に登校してくれと頼まれた訳でも、ましてやそんな話をした事がある訳でもない。
和泉との距離感が掴めなくて、お節介に、煩わしく思われそうで、それ以上用件外の雑談は出来なかった。
そんな風に小心な考えを巡らす一方、頭の片隅では時間の逆算をしていた。
和泉がいつも教室に来るのは8時25分頃。
電車で登校するにしても、恐らくその時間は変えないだろう。
学校から最寄の駅まで徒歩10分近く。
という事は8時15分頃には駅に着いているはずである。
それ位の時刻に到着する電車は・・・
「あーっ、だめだ、無理無理!」
急に恥ずかしさが込み上げてきて、勢い良くベッドに倒れ込んだ。
そんなアバウトな時間帯で和泉の乗る電車が絞り込める訳がない。
まずどの方角から和泉が来るのかさえ、検討もつかないのだから。
(うわー、恥ずかしいっ!何やってんだよ俺・・・)
五十嵐に言われた言葉がじわじわと実感を持って染み出す。
(ああもう、どうかしてる・・・!)
突然、携帯の振動。
驚いてして飛び起きると、和泉からのメールが一件。
『>ありがと』
その四文字を見た瞬間、今日の予定が決まった。
と、ベッドの脇の固定電話が鳴る。
内線専用の、その白い子機に手を伸ばした。
「はい、章です」
「お車の準備が整いましたが・・・」
時計を見ると、普段なら車に乗り込む時間をとっくに回っていた。
「すいません、今行きます。あ、今日は駅までで結構です、と、伝えて貰えませんか」
「は?」
何年も前から雇われている家政婦、民代は怪訝そうな声を上げる。
「今日は電車で登校します」
受話器の向こうで再び疑問の声が聞こえたが、「よろしくおねがいします」と言い切り通話を切った。
別に同じ電車に乗れなくても構わない。
駅で会いさえすれば、もしかしたらそこから一緒に登校できるかもしれない。
学校に行くには必ず駅の東口を抜けるののだから、そこで待っていればいい。
(・・・まるでストーカーだな)
自嘲的にそんな事を考えながら、部屋を後にした。
「・・・凄い人」
通学に使う電車は、予想より遥かに混んでいた。
くたびれたスーツに身を包んだ、疲れた様な顔の人。
それとは対照的な、エネルギー満タンの若者。
様々な制服の学生も入り乱れる。
カラフルな頭に携帯電話。
かと思いきや黒くて眼鏡で参考書といった集団も居る。
(・・・これ、毎日って相当キツいなあ・・・)
既に座席は一杯で、真っ直ぐ立つ事も難しい。
あまりの混雑ぶりに苦笑しながらも、やっとの事で座り、二駅目。
(・・・あ、)
知っている顔なんてもう随分乗ってきただろうに、今までそんな事気にもしていなかった。
――――和泉、だ。
こんな混雑した電車とは無縁そうで、とても似合わない。
駅で会えればいいや、とか、その程度だったのに、まさか同じ電車の、同じ車両に乗れるなんて。
和泉と自分の乗る駅が、それほど離れていないのも驚きだった。
人に紛れて良く見えないが、乗り口すぐの仕切りに寄りかかって俯いている。
不安そうに何度も頭上の路線図を見上げる。
(・・・ってか和泉、こういう所だめそう)
そんな考え通り、和泉の顔色は見るからに悪くなっていった。
電車の揺れに足元を奪われそうだ。
手すりにつかまり何度もふらついているのが見える。
それでも、席を譲りに行くには遠いし・・・などと考えていた時だった。
丁度、下車する一駅前。
和泉は崩れるように倒れ込み、膝をついた。
咄嗟に立ち上がってしまった。
周りに立っている人や、座っている人は、手を貸すでもなくじろじろと和泉を見ている。
その中には、知った顔も少なくない。
「・・・何、こいつ」「おい大丈夫かー」「え、どうするべき」
そんな声まで聞こえてきて、苛立ちが湧く。
「すいません、どいてくださ・・・、和泉!」
人混みを掻き分け、和泉の所へ着く。
壁に手を付け、蹲る和泉。
「は、しば?」
眉間に皺を寄せた和泉の顔がのろのろと俺を視界に捉えた。
顔色は最悪で、目には涙が溜まっている。
「和泉っ、どうしたの?大丈夫・・・じゃないね、立てる?」
「・・・っ」
返事の代わりに、小さな呻き声。
肩を震わせ、口元を手で押さえている所を見る限り、相当、まずい。
華奢な指の隙間から、きつく閉じられた唇が覗く。
『次は、藤ヶ谷、藤ヶ谷―。お出口は右側・・・』
停車を知らせる音が鳴り、空気の抜ける音と共にドアが開いた。
外の喧騒が一気に流れ込んでくる。
「とにかく、駅着いたから降りよう?・・・西沢!」
近くに居た西沢に声をかける。
気付かれていないと思っていたのか、驚いた顔で此方を見返した。
「遅れるって、言っといて」
「わ、分かった・・・」
焦った様に、きまり悪そうにそう言う西沢を見て、申し訳ない様な気持ちになる。
後で何とかしとく、と言った村野は具体的に何をどうしたのだろうか。
西沢はいそいそと電車を降りていった。
ふらつきながら前屈みで電車を降りた和泉は、不意に俺の袖を引いた。
「橋、葉・・・ちょっと・・・、」
消え入りそうな掠れた声。
何、と聞き返そうとしたその時、和泉の体から力が抜けた。
糸でも切れたかの様にがくりと体を折った。
「っぅ、ゲホッ、ぇっ・・・」
「和泉っ」
指の隙間から吐瀉物が溢れ、地面に広がる。
同時にその場に膝をつき、激しく咳き込む。
直ぐ脇の自動販売機を使っていた誰かが「うわっ」と声を上げると、それにつられる様に好奇心を孕んだ悲鳴がいくつも聞こえた。
そんな視線から和泉を隠そうと、和泉の後ろに回り背中を擦る。
丸まった背中は、不規則に上下する。
「ゲホッ、・・・ぅ、ぐ、っげほっげほ、げほ」
和泉は汚れていない方の手で咽喉の辺りを押さえ、苦しげに咳き込んだ。
「和泉・・・」
荒い呼吸を繰り返し、何度もえずく。
見てる事しか出来ないなんて、余りにも歯がゆい。
「っは、はあっ、・・・ふ、はぁ、・・・」
徐々に呼吸が落ち着いてきて、和泉の背筋が少し伸びる。
ずっと俯いたままだと目の前の吐瀉物に催すだろうから、できればタオルで顔を覆ってあげたかった。
「あの、大丈夫ですか?」
突如聞こえた声に顔を上げると、誰かが呼んでくれたのか駅員が一名心配そうに此方を窺っていた。
「救護室お貸ししましょうか。ここは片付けておきますから」
「すいません。お願いします」
ぐったりとした和泉の代わりにそう答える。
人の多いホームで休ませるよりも、何倍も良いだろう。
「和泉、立てる?」
こくりと頷く和泉。
「・・・ご、ごめん、橋葉、・・・お、れ」
涙声で、口にするのは謝罪の言葉。
凄く辛いだろうに、そんな最悪な体調で、真っ先に。
和泉の口についていた吐瀉物を、ハンカチで拭ってやる。
「だから、俺は大丈夫だって」
安心させようと微笑んだのに、和泉はより一層泣きそうな顔になった。
駅の救護室。
よほど具合が悪かったらしい和泉は、もう一度戻した。
和泉の薄い背中を擦っていると、見かねた駅員はティッシュペーパーやビニール袋、洗面器等を次々に持ってきてくれた。
「君の友達電車酔い?珍しいね・・・辛そうだけど平気?」と、聞かれた程だ。
「・・・和泉落ち着いた?ほらお茶・・・俺のだけど」
ようやく落ち着いたらしい和泉に和泉に、わざと軽くそう言ってやる。
「口んなか気持ち悪いでしょ。洗面器あるし、これでゆすいでいいよ」
「えっ、・・・で、も」
「いいのいいの。どうせ俺買おうと思ってたし」
案の定和泉は躊躇ったが、申し訳無さそうに一口含む。
「・・・和泉さ、何で今日は電車だったの?」
非難に感じたのか、和泉は肩を強張らせ俯いてしまった。
慌てて付け足す。
「や、そうじゃなくて、・・・珍しいな、と思って。駅も知らない位だから、初めてでしょ」
一瞬顔を上げ、目が合うも、直ぐに伏せてしまう。
そのまま、ぽつりと呟く様に話し出した。
本当に、自分の事を話したがらない。
「いつも・・・貴樹の車なんだけど・・・。今日は休めって、言われてて」
「休めって、貴樹さんに?」
微かに頷く。
『自我とか無いのか、こいつ』
俺が和泉を初めて見たときに抱いた感想だ。
「熱も下がったし、・・・大丈夫かなって、思ったんだけど」
ただでさえ小さい声が、消え入りそうに細くなる。
青白い顔に、驚くほど赤い唇が、俯いているので凄く目立ち、綺麗としか言い様がなかった。
沈黙に、駅員の話し声が聞こえた。
学校か家に電話して、車を出して貰うべきじゃないか。そんな事を話し合っている。
和泉にもそれは聞こえたらしく、はっと顔を上げる。
「橋葉、もう、大丈夫。」
「え!?」
全く大丈夫そうには見えないが、和泉はふらつきながらも立ち上がって、救護室を出ようと行ってしまう。
急に動き出した和泉を、駅員の怪訝そうな視線が追う。
「えーっと、すいません、お世話になりましたっ」
それだけ言って、和泉を追いかけた。
「何、和泉連絡されたく無かったの?」
小走りで追いかけながらそう問いかける。
和泉は走って立ち去った訳では無かったので、直ぐに肩を並べる事ができた。
「・・・帰らないと」
数瞬の後、思い詰めた様な鬼気迫った声が返ってきて、ぎょっとする。
「・・・貴樹の言った事、守らなかった。早く、帰らないと・・・」
「和泉・・・?」
「どうしよう、どうしよう・・・!」
細い指で、髪の毛をぐしゃぐしゃに掴む。
微かに震えている。
ともすればまたしゃがみ込んでしまいそうで、慌ててその腕を掴んだ。
「和泉、落ち着いて!別にどこか怪我した訳じゃないんだし、学校に行こうとした位で怒られたりしないよ」
「違、・・・違う、おれ、・・・っ」
はっと我に返った和泉と目が合う。
不安定に揺れていた瞳が、焦点を定めるのを見て胸を撫で下ろす。
「ごめん、橋葉・・・どうかしてた。・・・でも、帰る」
「・・・体調回復したなら、何も帰ること無いんじゃ・・・。保健室に居ればいいんだし、」
―――未練がましく、和泉を引きとめようとする自分に、嫌気が差した。
ゆるゆると首を振る和泉。
「・・・ごめん、橋葉。あの・・・有難う、ほんとに」
もう一度、ごめんと呟き、和泉はふらふらと歩きだした。
殆ど反射的に、その肩を掴んでいた。
びくりと体を震わせ、振り返る和泉。
「送る」
「え?」
「家まで送る」
もう、どうにでもなれ。
「な、何言って・・・。おれの所為で、凄い遅刻・・・」
「いまさら大して変わんないよ。・・・心配だし、送らせて」
和泉の家がどこにあるのか知りたい。
そんな下心もあった。
空いた車内、冷房の効いた車内。
特に話すことも無くお互い無言で、俺は和泉の後をただ追った。
(・・・強引だった、かな)
和泉の思っている事を探ろうにも、相変わらずの無表情で。
和泉の足が向かった先は、勿論”あの”坂の上の家では無く、ごく普通の、それより数段階か位の高そうな、そんなアパートだった。
立体駐車場付き。
「和泉、何階?」
「・・・5階。あの、本当にごめん。こんな所まで・・・」
「午前中の授業かったるいものばっかだったから、丁度良かった~」
和泉は足元に目を落とす。
その姿は、泣きそうに見えた。
凄く悪い事をしてしまった様に感じて、いたたまれなさを感じた。
そんな空気を押し切って、半歩下がる。
「じゃあ、お大事にね」
「うん」
そう言って手を振ると、和泉も遠慮がちに振り返す。
今は、これだけで十分。
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