ache

「…このとき、この式は関数ととれるから、…」

コツコツと音を立てて板書が進む。
それを写そうと筆記具を握るも、ぐるぐるとした不快感に集中力を削がれてしまった。

授業が始まった時から、何となく気分が悪かった。
喉の詰まるような不快感が吐き気だと気付くのに、そう時間は掛からなかった。

板書の早さに定評のあるこの数学教師は、さっき書いたばかりの文字をおざなりに消して、また新しい文字を並べ始めてしまった。

早く、写さないと。

何度も生唾を飲み込みながら必死に右手を動かす。
時々迫り上がってくる吐き気に、文字が揺れた。

「…じゃあ、教科書の問題を解いてみてくれ。今から5分取る」

静まり返った教室に、鉛筆を走らせる音だけが聞こえる。

教師は神経質そうにタイマーをセットし、教室を回り始めた。

(…吐きそ、…)

もし、我慢できなかったら。
もし、ここで吐いてしまったら。

最悪の事態を想定して、ぞっと血の気が引いた。
胸の辺りを擦り、何とか吐き気を宥めようとするも、大した効果は無かった。

(…橋葉)

隣に座る橋葉の様子を横目で伺う。
真剣な面持ちで問題に取り掛かっていた。

迷惑を、掛けたくない。

突如電子音が鳴り響く。
どうやら5分が経過したようだ。

それはあまりにも唐突なそれに、一瞬緊張を緩めてしまった。

「…っ」

食道が押し広げられる独特の感覚に全身が粟立った。
慌てて左手で口元を覆い、右手は無意味に喉を押さえた。

冷房の効いた室内だというのに、嫌な汗が首筋を伝った。

きつく目を閉じて俯く。
授業時間は後少し。
頼むから、収まってくれ――…

「じゃあ、最初から、和泉。」

突然の指名。

ぎょっとして顔を上げると、教員と目が合った。

きっと、この教師はおれが手を動かしていない所をしっかり見ていたのだろう。
寝ている生徒、内職している生徒を好んで指名する、嫌な所のある人だった。

胃の辺りから喉の際まで、鉛の様な不快感が広がっていた。

こんな状況で、答えられる訳がなかった。
問題だって、一問も解けていない。

いつまで経っても口を開かないおれに苛立ったのか、教師に訝しげな調子で名前が呼ばれた。

「口頭でいいから答えなさい」

言葉を発したら、そのままもどしてしまいそうだ。

「…わかり、ません…」

そう呟くだけで精一杯。

正面を向く事が出来なくて、俯いたまま自分の膝に向かってそう言った。

そして教師が何か言葉を発する前に、チャイムが響いた。

「じゃあ、解散。次回までに次の演習もやっておくように」

そう不満そうに教師が告げ、皆が音を立てて席を立つのと同時に教室を抜け出した。

廊下は人で溢れていた。
ざわめく話し声や笑い声が、どこか遠くの方で響いているように聞こえた。

人の流れに逆らって、真っ直ぐ階段を目指す。

さっき、
座っていることも辛かった。

保健室に行って、少しだけ、横にならせて貰おう。

吐き気はあるが、じっとしていれば、そのうちに収まるかもしれない。
吐かずに済むなら、その方が何倍も楽だった。

ふらつく足取りで何とか一階にたどり着き、目の前の引き戸をノックする。

その途中も吐き気は断続的に込み上げ、喉の奥には酸の苦さがこびり付いた。

「はい、どうしましたか…、って、和泉君!」

中から出てきた南条先生に、慌てた様子で肩を掴まれた。

「酷い顔色です。奥のベッド、空いてますから」
「…」

背中を柔らかく押されて、そのままベッドに潜り込む。

入室記録を書く必要があると分かっていたが、中途半端な体勢で居るのがこの上なく辛く、柔らかな枕に顔を埋めた。

「吐きそうですか?」

腰を屈めた南条先生に覗き込まれ、首を振った。
その表情が心配している時のそれで、申し訳なさが滲んだ。

これ以上誰かに迷惑を掛けたくない。
頭の中で、何度も謝罪の言葉を繋ぐ。

胃が、内容物を押し出そうと蠢いているのを感じた。

「…っく、」

胃液がすぐそこまで逆流してきて、反射的に嚥下した。
息を止めて、何とかやり過そうと必死に祈る。
喉が、食道が、ひりひりと痛んだ。

布団の中で、身体を丸める。

横で洗面器やビニール袋が用意される音を聞きながら、吐きたくない、と、恐怖にも近い感情が湧き上がっていた。

気付いたのは、和泉が数学教師に指名された時。

単純な計算問題で、和泉が解けていない訳が無いのに、和泉は無言だった。

それが気になって視線を動かすと、そこには驚く程青い顔をした和泉。

机の所為で教師は気付いて居ないだろうが、和泉の左手はシャツをぐしゃぐしゃに掴んでいた。

明らかに具合の悪そうな和泉は、それでも懸命に教科書を目で追う。
吐き気が込み上げて来るのか、時々眉間に皺を寄せ、目をきつく閉じる。

「口頭でもいいから答えなさい」

教師は苛立ちを隠そうともせず言い放つ。

「…わかり、ません」

それに対し和泉は辛そうに姿勢を崩し、搾り出した様な細い声で応じた。

チャイムが響くのは同時だった。

解散の合図と同時に和泉は席を立ち、足早に教室を出て行ってしまった。

(一言くらい、俺を頼ってくれてもいいのに…)

憮然とした思いが横切ったが、やはり和泉が心配で、その後を追った。

「橋葉!」

が、しかし、廊下に出た所で呼び止められる。

無視してしまおうかとも思ったが、向かってきた相手は先輩で、同じ生徒会役員――しかも会長――だった。

「どうしましたか?」

和泉を見失ってしまう事への焦燥感を感じながら、書類のファイルを抱えた先輩と対峙する。

「それがさ、例の合同体育祭の件なんだけど、相手校が送ってきたデータをプリントした書類がまとめて無いんだ。橋葉何か知らない?」
「ああ、それだったら体育顧問の折田先生が。教員用の原本にするから、生徒会用のはUSBからもう一度プリントアウトしてくれって。…報告が送れて申し訳ありません」

先輩は気にする風でもなく相槌を打った。

「あっ、そうだったんだ。あー良かった、無くなったんじゃなくて。でも困ったな、そういう連絡は俺にしてくれないと…」

軽く言葉を交わし、挨拶をして別れる頃にはチャイムの鳴る2分前。
和泉を追いかけるのは諦めた。

もしかしたら、次の時間には戻ってきているかもしれない。

そんな期待もしていたが、けれど和泉が姿を見せる事は無かった。

心配ばかりが募って、次の授業はやたらと長く感じられた。

終了の号令と同時に、小走りで保健室へ向かった。

ノックもそこそこに保健室のドアを開けた。

「橋葉くん、」

はっとした様な声で南条は俺を呼んだ。
手には清涼飲料のペットボトル。

カーテンの閉まったベッドが目に映った。

南条の声のトーンが抑えられていて、反射的にそれに倣う。

「和泉は?」
「さっきまで何度かもどしていたんですけど、今ようやく落ち着いたみたいで、眠っています」
「…何度か?」

そんなに具合が悪いなら、どうして、

「洗面器や、袋も用意しているんですけど、どうしても抵抗あるみたいで、そのつど起きてトイレに向かうんです。脱水症状も起こしかけてて、ふらふらな状態なのに。…だから、きっとまた直ぐに目を覚ましてしまうのではないかと思うのですが…」

南条の読みは正しかった。

カーテンの奥から、押し殺す様に咳き込む音が聞こえたからだ。

南条はペットボトルを机の上に放り、カーテンへ向かう。

それよりも先に、弾かれた様に和泉の所へ動いていた。

「和泉、大丈夫?」

和泉は涙で虚ろな目を俺を捉え、一瞬表情が動く。

「は、…し、っ…。何で、」

と、和泉がえずき、身を捩じらせた。

左手をしっかりと口元に宛がったまま、和泉はベッドを降りようとする。

「和泉、洗面器あるから、ここに吐いちゃいなよ。ね?」

そう言いながらベッドの横に置かれた洗面器に手を伸ばすも、和泉は首を横に振って抵抗した。

何度もえずいて、喉の奥から濁った音まで聞こえたが、和泉は懸命に耐えている。

その様子があまりにも苦しそうで、結果的に和泉の意思を無視することになってしまった。
もっともベッドから出しても、この様子でトイレまで歩いていけるとは思えない。

洗面器を顔の下に来る様に置き、背中を上下に擦った。

「んっ…やっ、やだ、嫌…」

吐き気の波が襲ってきたのだろう。
がくりと状態を傾かせた和泉は、けれど尚も吐かなかった。
震えるまでに歯を食いしばって、身体を強張らせている。

見ているこっちが苦しい。

見かねた南条がすっと反対側に回り込み、和泉の腹部を押すように擦った。

下から上へまるで吐き気を助長するかのように。

吐きそうな時にそんな事をされたら、もう抗う術はない。

背中を俺、腹部を南条に擦られ、あっさりと和泉は決壊した。

「げほっ、…う、ぇっ、ううっ」

ばたばたと静かに胃液まみれの吐瀉物を吐き出して、それから盛大に咳き込んだ。

「げほ、ぅ、ゲホッゲホッ、ううっ…げほ、っ、ゲホ」

吐いて、咳き込むの繰り返し。

「和泉…」

和泉は苦しげに息をし、涙が頬を伝っていた。

睫毛に絡んだ涙は瞬きの度にぱたりと落ちる。

こんなに苦しいなら、俺が変われたらいいのに。

心の底から、痛いくらいにそう思った。

>>ache:END

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