橋葉章、妹尾貴樹の初対面
叩きつける雨の音に、電子音が絡んだ。
体温計に示される温度は、今朝と変わらないものだった。
せめて下がっていれば、と思いながら、ふらつく足取りで体温計を引き出しに戻す。
数値で提示されてしまうと気分の方が先に滅入ってしまう。
病は気から、とは、つくづく良く出来た言葉だと思う。
貴樹は仕事が忙しいらしく、昨夜夕食を作りに戻ってきたきりだ。
熱に気付いたのは今朝。
当然食欲も無く、歯を磨いていたら、雨が降ってきた。
(別に、大したことない、・・・大丈夫、大丈夫、・・・)
自分にそう言い聞かせてリビングのソファに蹲る。
一人で部屋に居るのは、どうしても気が進まなかった。
膝に顔を埋める。
服の袖を握り締めた。
手の平に、微かに汗が滲んでいる。
時計の秒針の音がやけに煩く感じられた。
熱の所為かやけに敏感になった耳が、雨音を執拗に拾う。
貴樹に迷惑を掛けたくない。
掛けたくないのに、どうして。
時計の音が煩い。
心臓の音も煩い。
消えてしまいたい
「青木ー、井口ー、和泉ー、・・・和泉、休みか?」
担任の視線が俺に向く。
「分かりません。でも朝から居ないんで、おそらくは」
「また無断欠席かー、お前らも休む時は連絡しろよ。えっと、じゃあ江村ー・・・」
気だるそうな声は雨音に紛れた。
チャイムの音と同時に出欠確認が終わり、一限の準備をするべく教室内は一斉に騒がしくなる。
「・・・って、」
突然背中を叩かれた。
振り返ると、五十嵐のひょろりとした姿。
「おや、おまえさんの北の方は?」
俺の隣の席を見やって言う。
「アホか」
「先生の所にも連絡無かったみたいですけどねえ」
カミングアウトした日以来、五十嵐の言葉の端々に南条との関係が匂わされる。
「そーかよ」
「最近機嫌悪いねぇ 思うんだけど、猫被りは止めたの?」
相変わらず、鋭い指摘だった。
「止めた、というか、どうでもよくなったというか」
自分でも良く分からない。
気を抜くと誰に対しても五十嵐と話す時の様な口ぶりになってしまいそうで、しかし不思議な事にそれに対する焦りは全く無いのだ。
「和泉のお陰かね」
「知るか」
この応酬のどこがツボに入ったのか、五十嵐は吹き出した。
「何笑ってるんだよ・・・。ほら、何しに来たの、何か用があるんだろ」
笑いが収まらない様子で、だから笑い混じりに五十嵐は「古語辞典」と言った。
「勝手に持ってけ」
「はいはい」
ロッカーに向かおうとした五十嵐は、何かに気がついたように足を止め振り返った。
「あれ、橋葉携帯鳴ってない?」
「え?」
鞄を探ると、確かに振動していた。
「だめだねえ、校内ではサイレントでしょう」
サイレントどころか電源まで落とすという五十嵐は笑いながらそう言った。
「あ、」
表示を見て、一瞬固まってしまった。
「和泉から電話だ」
「へえ?」
五十嵐は興味深そうに寄ってきて、画面を覗き込む。
恐る恐る、通話ボタンを押す。
和泉と電話で繋がるのは初めての事だった。
「・・・もしもし?」
五十嵐まで耳を寄せてくる。
しかし、和泉の声は聞こえなかった。
「もしもし?和泉ー?」
何かの音は聞こえるのだが、確実に音声ではない。
雑音に紛れて、呼吸音が聞こえた気がした。
五十嵐に携帯を奪われる。
暫く耳に当てていた五十嵐は首を横に振ってそれを押し返してきた。
「駄目だね、何も聞こえない」
「・・・あ、っ」
何かにぶつかる鈍い音と共に、突然通話が終了した。
「何だったんだ・・・」
「何か、まずそうだねえ」
膨張する不安感。
「学校は、」
「抜け出せないね」
「・・・知ってるよ」
学生証がICカードになっていて、玄関にはリーダーが設置されている。
それを通過しないと外には出れないのだが、イレギュラーに、規定外の時間に通過してしまうと教務室及び管理室に筒抜けとなる。
加えて通過しても校門が開く事は無く、裏門まで辿り付くのが関の山、追ってきた教員に捕まってしまう。
だから抜け出そうなんて目論む奴が居ないし、管理が甘かったとしてもデメリットしか生まないそんな事をする奴も居ないだろう。
とはいえ、このままでは心配で、授業なんて受けられない。
「駄目元で、やってみるよ」
「教務室で先生達が青くなる姿が目に浮かぶねえ。あの橋葉君が!脱走!新聞の見出しみたいだ」
「笑ってると殴るぞ」
笑いながらも、怖っと肩をすくめる五十嵐。
「まあ落ち着いて。聞きなよ、俺は抜け出し成功例を一つだけ知っている」
「はあ?」
五十嵐は、人差し指で自分の顔を指した。
「まさか」
「そのまさかです。聞く?南条先生と俺のアバンチュール・・・痛い、橋葉、鳩尾は痛い」
「おい、お前のそれを召喚しろ、今すぐ、」
「先生をお前呼ばわりするおまえさんを始めて見たよ」
「そんな裏技反則だ」
考えてみれば当然の事だった。
教員の外出までいちいち統制する必要がないのだから。
教員のカードを使えばいつでも出入り自由だ。
斯くして、俺と五十嵐は校外へ出ることに成功した。
「体調を崩した男子生徒二名が早退する…という話にしておきましたから。直にタクシーが来ますよ。料金は…私の名前を出しておいてください」
「はいはーい。先生ナイスですねえ」
こちらは罪悪感やら緊張感やらで神経を尖らせているのにも関わらず、五十嵐は呑気なものだった。
傘をくるくると回す。
どこからどう見ても、楽しんでいる。
(五十嵐もさることながら、この人も大概謎だ…)
南条がペーパードライバーとは意外だった。
五十嵐と軽口を叩き合って居る姿を見ると、何となく複雑な心境になる。
南条は文句を言いながらも、何だかんだで学校を抜け出す全ての準備をしてくれた。
南条と、目が合う。
「手伝わせてしまって、申し訳ありません…」
「全く、教員の手引きで校外脱走なんて、前代未聞でしょうね。くれぐれも気を付けてください」
そう言う南条の顔には、悪戯好きの笑みが浮かんでいる。
ふと、南条の視線が遠くを見やる。
「ああ、タクシーが来ましたよ。…幸喜、」
黒いタクシーが、キッと音を立てて停車した。
五十嵐を呼び止めた南条が、五十嵐に何かを耳打ちしていたが、何を言っているのかは聞こえなかった。
2人して後部座席に乗り込み、行き先を伝える。
この間、多少強引ではあったが、和泉の家へ付いて行って良かった。
「お願いします」
こんな時間に、こんな場所で、制服姿の二名を乗せるなんて、めったな事では無いだろうに、運転手は何も言わなかった。
「…こんなにあっさり学校を出れるとは思わなかった」
車が走り出して暫く、信号で止まったのを契機にそう口を開くと、五十嵐は笑い出した。
「人生初のサボタージュの感想は?」
「…殴るぞ」
怖っとわざとらしく肩を竦めた五十嵐は、「ところで」とやけに勿体ぶった前置きをした。
ふざけた調子ではなく、一本筋が通ったその口調に、思わず声を潜めてしまった程だ。
「おまえさん、いつ和泉の本当の住所を知ったんだ?」
そうだった。
こいつは、〝知っている″のだ。
俺が知らない和泉の事も、こいつは知っている。
忘れていた(或いは意図的に忘れていた)そんな事を思い出し、腹の底の方に黒い重みが姿を掠めた。
「…この間、和泉を家まで送ったんだよ」
「…へえ?」
真っ直ぐに五十嵐の顔を見ることが出来なかった。
後ろめたさなんて、感じる必要がないのに。
沈黙を破ったのは五十嵐だった。
「俺はね、はっきり言って腹が立つよ」
「は、」
「どうして俺に聞かない?知りたい癖に、誰よりも多くの事を知りたいと思っているのに」
「別に、そんな事」
「現にお前は今俺に苛ついているだろ?俺だったら殺してやりたくなるね。こんな風にあからさまに優越を示されて、悔しくない訳がない」
挑発的な声に、挑発的な視線。
五十嵐の言いたいことは、十分過ぎる程伝わって来た。
「有難う。でも違う。俺はちゃんと和泉の事を知りたいと思ってるよ」
恐らく、根本的に価値観が違うのだ。
「前にも言っただろ。和泉が知られたくないと思ってる事は知りたくないの。五十嵐は全部を知りたいと思っていて、きっとあの人もそんな五十嵐を全部まとめて許容してるんだろ。バランスの取り方は一つじゃない」
「…俺には分からないね」
「だろうな。俺はあの時、保健室で、なんで五十嵐があんなに怒ったのかが今でも不明だよ。南条先生が入ってこなきゃ、マジで喧嘩ものだったよ」
五十嵐は再び声を上げて笑った。
「いやあ、だから橋葉って好きだよ。飽きないねえ」
「どーも」
「はっきりした事が一つあるよ」
「何だ」
「学校に提出した住所が偽装されていることを、和泉は知らない」
「…そうだな」
和泉がその事を知っていたなら、俺に本当の住所を知らせる訳無い。
多少強引に付いていったとはいえ、隠す必要があるなら何としてでも断っただろう。
「あの家は、特に隠すべきものでは無かったのか?」
「分からないねぇ、…本当の住所を書くと何か不都合が生じるのか、」
「お客さん、」
タクシーの運転手が、車を止めて振り返っていた。
「言われた辺りの所まで来ましたけどね、これ以上はもう少し詳しい住所が分からないと厳しいんですよ。どうされます?」
「ここまでで結構です。有難うございました」
「料金は、南条に付けといて下さい」
すかさず五十嵐が口を挟んだ。
躊躇いを感じたが、結局南条の言葉に甘えることになった。
雨は随分と小雨になっている。
見覚えのある路地だった。
和泉の家は、もうすぐだ。
「ここだ」
「間違いないかい」
「ああ」
この間は、ここで別れた。
「5階って、言ってたな」
抜かりないねえと五十嵐が揶揄するので、足を踏んでやった。
笑いながら、傘を閉じる。
「ちょっと広いねえ。…まあ、地道に探すか」
携帯でもう一度和泉に電話を掛けるが、やはり繋がらない。
そういえば、と、さも今思いついたかのように五十嵐は呟いた。
「『和泉』のプレートを探しても無いよ」
「…『妹尾』か」
「さすが、覚えてたね」
和泉の携帯には、実質俺と『妹尾貴樹』しか登録されていない。
印象は深かった。
あった。そう、独り言の様に五十嵐が呟いた。
「多分、ここじゃない?」
指さす方向を見ると、確かに「se-no-o」というプレートがあった。
その脇に小さく「妹尾」ともある。
チャイムを鳴らすが、沈黙が返ってくるだけだった。
「…思ったんだけど、」
「…なんだい」
「冷静になって考えてみたら、和泉が家に居る保証なんてないんだった」
五十嵐が吹き出したので、さすがに腹が立つ。
「なんと表現して良いやら…重症だねえ、こりゃ」
「うるさい」
半ばやけになって、もう一度チャイムを鳴らす。
学校まで抜け出して、非常事態に頭がハイになっていたのかもしれない。
強烈な自己嫌悪に襲われた。
「帰ろう。付き合わせて悪かった」
と、五十嵐がドアに耳を寄せた。
「…そうでもないかもしれないよ」
「え?」
「物音がした。呼んでみて、和泉を」
俺には全く聞こえなかったその音を、五十嵐は聞き取ったらしい。
半信半疑に思いながらも、和泉の名前を呼ぶ。
「……はしば?」
「和泉!」
ドアが、開いた。
和泉に会うことが目的だったはずなのに、ドアの隙間から実物が見えた時は嘘だろ、と、真っ先に思った。
驚いていたし、和泉も目を丸くしていて、五十嵐だけが得意げに笑っている。
「橋葉、なんで、…ええ…?」
ドアチェーンを外し、俺を見上げる和泉。
状況が理解出来ない、といった様子で。
当然だ。
俺だって、何だかもう良くわからない。
少しだけ、目が充血している。
「和泉、俺に電話したんだよ。覚えてない?」
「え…?電話…?」
「まあまあお二人さん、立ち話もなんですから」
「ちょっと、五十嵐、」
五十嵐に背中を押され、三人で玄関に収まってしまう。
「五十嵐、何、勝手に…」
「…見てわかんないの、和泉体調悪いんでしょ。あと玄関に靴が無い。多分今和泉ひとりだ」
小声で早口に情報が詰め込まれ、五十嵐の観察力の高さに驚くばかりだった。
「状況説明するから、お邪魔していい?」
和泉は、不思議そうに頷いた。
玄関に入ってまず目に映ったのは階段だった。
ロフト風の作りになっているようで、廊下の途中から天井が低い。
集合住宅には珍しい設計に、何となく興味が引かれた。
遠くで、雨の音が微かに聞こえた。
和泉はリビングのソファに腰を下ろした。
だるそうに背中を預けて、一つ息を吐く。
そのまま黙ってしまったので、話始める事にした。
少しの抵抗を感じたのは、頭が随分冷えてきたのと、予想外に(というのも変な話だが)和泉と会えて、拍子抜けしていたからだ。
「…和泉が休みだなーって思ってたんだけど、電話があって、出てみたんだけど、無言で切れちゃって。心配だったから、五十嵐に協力してもらって学校出てきた」
驚いたような、困惑したような、複雑な表情を浮かべる和泉。
和泉が責任を感じないように、慎重に微笑む。
床に膝をつき、目線が揃う。
「……朝、起きたら、熱があって、動けなくなって…、…ぼんやりして、電話しちゃったのかも…」
「熱、大丈夫?」
和泉の口から謝罪の言葉を聞きたくなくて、すかさず質問を挟んだ。
「たぶん、…少し、下がった」
「何か食べた?」
首を振る。
「食べたいもの、ある?」
また、首を振る。
「痛いところは?」
「……ちょっと、気持ち悪い、だけ」
「ソファじゃなくて、部屋で寝てた方が、良いんじゃない?」
今まで歩き回って居た五十嵐が、突如口を挟んだ。
置いてある新聞を何の気なしに眺めている。
人様の物を弄るな、と言おうとして、しかし五十嵐が口を開く方が早かった。
「ソファで寝てても疲れるだけだろうし、和泉、部屋どこ?歩ける?」
和泉の顔を覗き込む。
決して良いとは言えない顔色に、明らかな困惑が滲んだ。
「ちょっと、五十嵐…」
言葉を繋ぐ前に、五十嵐に目で制された。
「ほら、和泉、部屋行こう」
急かされるようにそう言われ、和泉は言われるがままに、戸惑いながらも腰を浮かせた。
……のだが、突如ふらりと上体が傾き、 薄い体が目の前に降ってきた。
「わ、っ、和泉、大丈夫?」
無言のまま何度も頷くが、貧血を起こしたらしい和泉の目はきつく閉じられ、俺にもたれかかったまま動けない。
確かに、体温が高い。
五十嵐がじれったそうに、珍しく焦りを滲ませた様子を見せる。
小さな舌打ちまで聞こえた。
「橋葉、和泉支えられる?見た感じ、和泉の部屋二階だと思うから、階段上らないと」
「おい、五十嵐、お前、いい加減に…」
新たな声が響いたのは、その時だった。
「直矢!!」
乱暴にドアを開ける音がして、何度も和泉の名前を呼びながら、荒々しい足音が近づいてくる。
―――視界の隅で、五十嵐がポケットから何かを取り出した。
―――それを机の上に、実に自然な具合にそっと置く。
―――白くて、飾り気のない、和泉の携帯電話だ。
「直矢!」
俺たちの居るリビングに、若い男が飛び込んできた。
息を切らせる程、明らかな動揺と焦りがそこにあった。
直感した。
『妹尾貴樹』だ。
彼はまず、俺に倒れ掛かった和泉を見て、それから俺を見て、最後に立っている五十嵐を見た。
五十嵐には見覚えがあったのか、微かに眉間に皺を寄せ二秒ほど静止した。
「君たちは誰だ。…直矢に何をしている?」
先ほどまでの動揺した姿から一変、彼の持つ雰囲気が攻撃的なものに変わるのを感じた。
「……たか、き、」
和泉が小さくそう呼んだが、妹尾貴樹には届かない。
「この男…橋葉章っていうんですけど、こいつの所に和泉から電話があって、その様子がおかしかったんで心配して来てみたんですよ。俺達に用心するより、和泉の心配した方が良いんじゃないですかね。熱もあるし、見ての通り動けない」
五十嵐が投げやりな口調でそう言う。
俺は状況が呑み込めず、ただその一連の様子を眺めていた。
妹尾が、まさに血相を変えて俺の方、正しくは和泉へ駆け寄った。
「直矢、 …立てる?部屋行こう」
五十嵐が小さな声で「だから言ったのにね」と呟く。
和泉の体温がすっと離れた。
妹尾に掴まりながら、何とか立ち上がった和泉は、そのままリビングから消えていった。
五十嵐と、二人残される。
五十嵐を問い詰めずには居られなかった。
「何を考えている?」
まるで妹尾が帰ってくる事が分かっていたかのような行動。
目的も理由も分からなかった。
それにどうして、和泉の携帯を、こいつが。
「和泉の携帯が転がっててね。光が点滅してたから、好奇心から見てみたら、なんと着信15件。お前さんからのを除けば、全部あの人からだった。その時にも帰ってくるだろうな、って思ってたよ。お前と和泉が話してる間にも断続的に着信はあったんだけど、それがさっき突然途絶えた。もしかしてここに到着したのかと思って、和泉を部屋に連れて行こうかと思ったんだ」
「人の携帯を勝手に覗くのが常識的にどうかというのは今は置いておく。あの人が帰ってくると分かったからって、どうして和泉を部屋に連れて行く必要があったんだ?動けない程具合が悪いなら、ここで寝てた方が楽じゃないかと思うけど」
「……そこは、俺の私情を挟んだんだよね…。悪い、予想外だったんだ」
「私情?」
「妹尾貴樹とちょっとでも良いから話す必要があったんだ。でもそこに、和泉が居ると少し不都合」
十中八九南条絡みだろうということは容易に想像できた。
それに、俺の知らない和泉の事情関連だということも。
「俺が居るのは?それも不都合?」
「うーん、…正直言って半々だね。だから和泉と一緒に和泉の部屋に居てもらおうかと思ってたんだ。暫くしてもあの人が帰って来なかったら、そのままお前さんと帰る予定だった。賭けだよね、ちょっとした」
「…」
「不都合、っていうのは、橋葉にとって、ってことだからね。橋葉のいうバランスの取り方を崩すかもしれない」
そこまで言った五十嵐は言葉を区切り、すっと目を細め俺の背後を見やる。
つられて振り返ると、リビングの入り口に不機嫌そうな顔の妹尾が居た。
「まだ居たのか…」
そう冷たく言い放つ。
酷く不条理な感じがした。
この人の機嫌をこうまで損ねる事をしただろうか。
「和泉、大丈夫ですか」
「…昔から疲れが溜まると熱を出すんだよ。君たちに心配して貰う程の事じゃない」
そんな言い方は無いだろう、そう思ったが口には出さなかった。
「…あの子の、直矢の心配をしてくれるのは有難いけど、必要以上に関わらないでくれないか」
妹尾は、真っ直ぐに俺たちを見た。
「君は、この前電話をしてくれた人だね。そっちの君は、その時保健室に居た怪我人。和泉と、どういう関係?」
「俺は、和泉と同じクラスで、担任から和泉のサポートを任されています。こっちは、俺の友人です」
「…色々と迷惑を掛けてるだろうね、」
「迷惑なんて、思ってないです」
少し怪訝そうな顔を浮かべ、妹尾は首を傾げた。
心なしか、疲れた顔。
「直矢は誰かに接近される事に慣れてない。関わらないでくれ」
接近される事に慣れていない。
確かに、そうだろうとは思っていた。
それは例えば教科書を覗き込んだ時だとか、名前を呼んだ時だとか、薄々とそう感じさせる事は多々あった。
でもそれは、確かに拒絶を感じる事もあるけれど、もっと根源的な所、何か、妹尾の考えと食い違っている気がした。
それを形にする前に、妹尾は突然声を上げた。
「君達、ここがどうして?」
はっとして、咄嗟に口をついて出ていた、という感じ。
妹尾は困惑していた。
その事に驚いていると、五十嵐に背中を突かれた。
説明を促されている。
けれどそれを話す為には、和泉がその日学校へ行こうとしていた事も話さなければならず、けれど確かあの時和泉は妹尾に言わずに向かっていたはずだった。
和泉は「貴樹の言った事を守らなかった」と、半ばパニックになっていた。
その様子を思い出し、微かに目の前の人物に対する不信感が燻った。
妹尾の様子に躊躇ったが、話さざるを得なかった。
「この前…和泉が、電車で登校しようとしてて、」
「電車だって?」
すかさず妹尾は食いついた。
困惑に加え、ある種の苛立ちの様な空気まで感じたが、その対象は分からなかった。
「欠席するつもりだったけれど、熱が下がったから、って、言ってました。…それで、でも途中で体調を崩して、俺が近くまで送ったんです」
何がこの人に対して触れてはいけない事なのかが分からず、我ながら酷くしどろもどろだったと思う。
妹尾の顔には焦燥も感じられる。
「…直矢が?…そんなこと、…」
そしてその焦燥や戸惑いを全て残した顔のまま、俺たちを睨んだ。
「悪いけど、帰ってくれないか」
一呼吸置いて、見据える。
そして、次に聞こえた声は懇願だった。
「帰ってくれ」
妹尾が隠している事、守りたい物、そして和泉。
その腫れた部分を、俺たちは掠めたのかもしれない。
厚い扉が閉まり、チェーンの掛けられる音も聞き、駅へ向かう途中、五十嵐とは一言も話さなかった。
>>電話とパージ:END