an omen

2日後になって、和泉は登校してきた。
いつも通り始業ぎりぎりで、鞄を少し重そうに持っている。

「おはよ、和泉」

鞄の中身を机に移す和泉に、そう話掛ける。

「…、」

躊躇うような沈黙。
違和感を感じ改めて和泉を見ると、困った表情を浮かべて俺を見ていた。

「和泉?」
「…ん、…おはよう」

窓からの風で、和泉の髪が揺れた。
色素の薄いその毛先は、光の中に溶けそうだった。

じわりと広がる違和感。

それが拭い切られる前にチャイムが響いた。
担任がやっぱり気怠そうに入って来て、出席を取り始めめる。

名前を呼ぶついでに和泉に対して無断欠席の注意をして、和泉は小さくすいません、と言った。
前の方に座る数名がちらちらと和泉を見るので、和泉は俯いてしまった。

柴田が和泉を敵視している、という話は、もう殆ど知られていた。
それだけに教室内の空気も少し違っているのだが、和泉がそれに気付いているのかは定かではない。

おそらく、この件に関してクラスを二分するとしたら、両方ともほぼ半々だろう。
担任の声を頭の隅で聞き流しながら、そんなことを考える。

片方は柴田に対して一定の怯えを持っている人達。

もう一方は、厄介事に巻き込まれないよう、静観を決めた人達。

和泉は復学して間もなく、また積極的な交流を取ることも無かったので、和泉に対して好印象を持っている人は少なかった。

とは言え和泉に対する集団的な嫌がらせが起こりそうかと考えると、そんな気配は全く無い。
おそらくは柴田も、適当にざらざらした関係を作るだけで良かったのかもしれないし、温厚派な人が多いこの学校ではこれが限界かもしれなかった。

それよりも、気になるのは和泉本人。

様子がおかしかった。
落ち着きが無く、どこか心此処に在らずだ。

「じゃあ、和泉、次の訳は?」

英語の時間。
訳を当てられた和泉は黙ったままだった。

「和泉」

二度目、呼ばれても尚気が付かない。
ぼんやりとノート、あるいは教科書を眺めている。

「…いずみ、いずみ、」

「!」

小声で呼びながら、和泉の机を人差し指でコツコツと叩くと、和泉はそこで初めて自分が当てられていることに気付いた。

「あっ、」

比較的静かな教室に響く大きな音。
慌ててノートを掴んだ和泉が、勢い余ってペンケースを落としてしまったのだ。
タイルの床に、ペンが数本、定規や消しゴムと、和泉の筆記具が広がった。

和泉はそれを、やはり慌てて拾う。
転がってきた青いペンを拾って手渡すと、ごめんなさい、と、細い声が聞こえた。

周囲の、怪訝そうな視線が刺さる。

「和泉、今日、ちょっと変だよ?大丈…」
「変?」
休み時間。思わずそう話し掛けてしまった。
全てを言い終わらないうちに、和泉は言葉を繋いだ。

「変…?」
和泉の瞳が、不安そうな光を持って揺れている。

例えるなら救助を待つ遭難者。
勿論実際に見たことがある訳では無かったが、脳裏にふと浮かんだ。

「いや、…ちょっとだけど…。何か、あった?」

和泉は俯き、沈黙が訪れる。

(…マジで、なんかおかしい…)

体調が悪い、というのとはまた違う様子の不自然さ。
妹尾はあの後、和泉に何を話したのだろう。
どんな事を、和泉に言ったのだろう。

もう一度和泉に話し掛けようとした時、遠くで俺の名前が呼ばれた。

顔を上げると、入り口の所に会長が立っている。

「今時間良いー?少し確認があるんだけど」
「…今、行きます」

会長の用件が済んだ時には休み時間は終わっていて、和泉に話し掛ける機会も失われてしまった。

それからも和泉の様子はおかしく、一貫して「心ここに在らず」という言葉が当てはまった。

決定的だったのは、昼食時。

以前食堂に誘ったら、お弁当がある、と断られてしまった。
それ以来昼食を持ち込む事にしていて、だから今日も登校途中で購入していた。

「和泉、お昼食べない?」
鞄からミネラルウォーターを取り出したばかりの和泉は、びくりと肩を震わせた。

「え、悪い、驚かす積もりじゃ無かったんだ。…どう?」

頷いてくれ、と願った。
柴田の事もあったし、何より今日の和泉を一人にするのが怖かった。

西沢が菓子パンをいくつか持って近づいて来るのが見えた
西沢は菓子パンを常備していて、食堂に行くか、それを昼食にするかはその日の気分で決めているらしい。

暫く迷った和泉は、遂に「じゃあ、」と言って頷いた。
鞄から、さらに小さめのバッグを取り出す。
お弁当はその中に丁寧に収納されていた。

「あっ、和泉も一緒に食べるんだ?僕のメロンパン、少し食べるー?」

西沢は、楽しそうに近くにあった椅子を引き寄せた。
和泉は目を伏せ曖昧に微笑む。

和泉のお弁当は、予想通り小さかった。
ネギの入った卵焼き、唐揚げ、ミニトマト…。
白米には白ゴマが振られていた。
全て丁寧。
恐らく、というより絶対に妹尾が作ったそれに、何となく複雑な気持ちになる。

話を振られない限り、少しも話さない和泉は、一つ一つの食材を丁寧に食べていた。

そう言えば、和泉が何かを食べる所を今までに見たことが無かった。
だからそれは、ついぼんやりと眺めてしまう位新鮮だった。

和泉が復学してきた当初、昼時に姿が見えず、校内を捜した事があった。
屋上に続く階段で、和泉を見つけた時、和泉はミネラルウォーターしか持って居なかった。
けれどその後、貧血を起こした和泉は階段から落ちかけ、俺は丁度和泉が座っていた辺りに錠剤が落ちているのを発見していた。
種類の違う二種類。
一つはクリーム色で丸く、もう一つは黄色い楕円形だったのを覚えている。
あの時は気を失った和泉を保健室に連れて行く事で精一杯で、詳しく見ることが出来なかったが、ずっと気になっていた。

考えを巡らせていて、西沢が話し掛けていた事に気付かなかった。

「…、橋葉ってば!」

机の下で足を蹴られ、漸く我に返る。

「わっ、何?ごめん、ぼーっとしてた」
「もう…。ねえ、和泉の様子、へん」

二人とも動かなくなったからびっくりした、そう言いながら、西沢の視線は和泉に移る。

和泉は、箸で器用にトマトを掴んだまま静止していた。
俯いた顔色は悪い。

西沢はパンを持ったまま、心配そうに和泉を見ている。

「和泉…?どうかした?」

「…っ」

カシャンと音がして箸が落ちるのと、和泉が椅子を引くのは同時だった。

トマトが床を転がる。

和泉は、ふらつく足取りで教室を飛び出した。

「和泉!」

突然のことに茫然としてしまって、体がうまく動かない。

後を追って教室を出ると、トイレに駆け込む和泉が見えた。

「和泉っ」

和泉は、流しで嘔吐していた。
トイレは並んだ手洗い場よりも少し奥にある。
床にしてしまうよりは、と考えたのかもしれない。

「はっ、あぁっ、…う、…っ、はあ…っ」

近づいて背中をさすると、吐瀉物特有の酸の匂いがした。

「ゲホッ…っ、う、えっ、げほっ、ゲホッゲホッ」

センサーで流れる水がずっと流れていて、和泉の髪の毛を濡らした。

目の前の大きな鏡に映った和泉の顔には、困惑が浮かんでいた。

吐いてしまったことに、自分で戸惑っている――…?

吐いて体力を消耗しながら、腰を屈めた不安定な体勢を維持できるはずもなく、和泉は文字通り床に崩れた。

慌てて腕を伸ばし、頭を打つのは防いだが、体を支えているのもやっとな和泉の様子に、酷く胸騒ぎがした。

「…っ、は、はあっ、はっ、…っあ、」

大きく乱れた和泉の呼吸。
唾液で濡れた唇から、悲鳴のような息が漏れる。
名前を呼ぶも、反応は無い。

と、今まで張り詰めていた糸が突然切れたように、力の抜けた和泉の体重が落ちてきた。

「和泉っ…」

苦しげに息をする和泉を見て、暫く動くことが出来なかった。

形容し難い胸騒ぎ。

和泉を、保健室に連れていかないと。

そんなことを、頭の隅で考える。

体育祭が近づいていた。

>>an omen:END

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