「電話とパージ」の裏
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何が起こったのか、分からなかった。
熱でぼんやりしていた所為もあるだろうが、それにしてもこの短時間で起きた出来事は目まぐるしく展開した。
見たことの無い表情を浮かべた貴樹が居た。
「ここに居るんだよ」
口調こそ荒くは無かったが、その態度は明らかに平生のそれと違った。
怒ったような、悲しそうな、呆れたような、そんな気配が漂う。
「…はい」
思わず敬語になってしまう程の威圧感。
心臓が、狂ったように脈打つ。
(…怖い…っ)
貴樹に対して、初めて抱く感情だった。
おれの返事を確認して、貴樹は頷き、そして部屋を出た。
下には、橋葉達が居る。
どうして橋葉が来たのか。
おれが電話をしたから、と言っていた。
電話を、いつ?
どうして貴樹が帰って来たのか。
どうして、貴樹はあんな態度になったのか。
考える程に、混乱は深まる。
何がいけなかったのだろう。
貴樹に無断で学校を休んだこと。
貴樹に無断で人を呼んだこと。
何が、貴樹を怒らせてしまったのだろう。
ノックの音が響いた。
「直矢、」
ドアの向こうから声がした。
薄い板の向こう、貴樹はどんな表情をしているのだろう。
「ご飯になったら呼ぶから、それまで寝てなよ」
お昼はどうする?と聞かれる。
食欲は無かった。
「…いい。寝てる、ね」
異常な位、汗をかいていた。
水分が奪われ、喉の奥が痛い。
了解の返事が聞こえ、足音が遠ざかる。
「…苦し、…っ」
息が、上手く出来ない。
吸っているのに、吐いているのに、小さな箱に閉じ込められてしまったかのような息苦しさ。
その苦しさから逃れるように布団に潜り、いつの間にか眠りに落ちていた。
_______
夢を見た。
小さな自分が、崖の上に立っている。
地鳴りと供に崩れ始め、もう向こう側へ行くことは出来ない。
徐々に、足場が小さくなる。
その下の方、暗闇の中に懐かしい顔を見た気がして、落下への恐怖がすうっと消える。
目を閉じて、3、2、1。
名前が呼ばれる。
驚いて目を開けると、貴樹がおれを掴んでいた。
引き上げられ、地面に足がつく。
「お帰り」
唇が、そう動いた。
_______
「…や…、直矢、」
「!」
「…魘されてたけど、大丈夫?…ご飯できたよ」
硬い声。
相変わらず食欲は無かったが、頷かざるを得なかった。
部屋をでた途端、食べ物の匂いに包まれる。
「いいよ、座ってて」
お茶を注ぐ貴樹の背中からは、やはりいつもの穏やかな雰囲気は消えていた。
貴樹はきっと、まだ怒っている。
肉じゃがを口に押し込み、嚥下する流れ作業。
生ハムに巻かれた水菜が、色鮮やか。
あの寂しさから救い出してくれたのは、貴樹。
白米は少し軟らかかった。
箸を置く。
貴樹がちらりと目を留める。
「…ご馳走さまでした」
「直矢」
「…?」
「誰かと接するということを、良く考えなさい」
貴樹の目を、見れない。
どんな表情をしているのか、知るのが怖い。
どこか、覚えのある感覚。
「…はい」
リビングを出ると、真っ暗だった。
貴樹に嫌われたら、どうなるんだろう。
貴樹。
貴樹が居なかったら、きっと、おれは、
「…っ」
突き上げるような吐き気。
さっき無理やり流し込んだ夕飯が、逆流してくるのを感じた。
慌ててトイレに駆け込み、便器を抱えると、吐瀉物が溢れ出した。
息を吐く間もなかった。
「…っ、…っんん、」
音を立てないように、神経を尖らせる。
貴樹に、迷惑がかかる。
誰の不都合にもなりたくないのに。
水を流している間にも吐き気が込み上げ、ぐるぐると渦巻く中にもう一度嘔吐した。
指先が、冷たい。
『誰かと接するということ』
心臓が、狂ったように脈打つ。
それは、恐れと、焦りと、全てをかき混ぜて流れていった。