それぞれの前日。
#橋葉
いよいよ体育祭が目前に迫り、全ての授業はその準備に当てられた。
何の役割も担っていない教員の中には海外旅行に出掛けた人もいるらしい。
俺は生徒会の仕事が倍増したし、和泉は補助役員として呼び出される事も多くなった。
生徒会長と一緒になって体育館を回った時、和泉が他の審判補助の中体育教師の指示を聞いているのを見た。
長袖のままぼんやりと話を聞く和泉と、空調の効かない蒸し暑さはどこか不釣り合いだった。
(…そういえば、和泉はいつも長袖だ)
「午後、東椋高校の実行委員が来るから、そこで最終打ち合わせだな、橋葉」
「あ、ああ、はい」
和泉に気を取られ上の空だった。
会長が不思議そうに俺を見る。
「何か気になる事あったか?」
「いや、…体育館、少し暑くないですか?」
「ああ確かにそうかもな。でもテニスやらバドやらここだろ?風が入るとまずいからこれ以上窓開けられないんだよ」
第二体育館はどうだったか、と呟く会長を尻目に、視線は和泉を追う。
俯いて、少しだるそうだ。
単に面倒くさいのか、それとも具合が悪いのかは分からなかったが、和泉の真面目さを思うと前者な気がして余計目で追ってしまう。
「じゃあ、次は倉庫確認に行くから」
「はい」
体育館に背を向ける。
和泉の伏した目を思い浮かべていた。
#和泉
ガコン、と音がして、床にテニスボールが広がった。
爪先にプラスチックのバスケットがぶつかる。
和泉は壁に体を預けた。
(…補助役員って…雑用…)
信じられない位多忙だった。
体よく雑用を押し付けられている気さえする。
軽い貧血で、視界が揺れた。
「和泉!早く拾ってこい!」
体育教師の怒声が響く。
良く思われていないのは知っていた。
「…今、行きます」
急いでボールを片付ける。
足元が歪む嫌な感じは消えない。
待ちかねた体育教師は、もう説明を始めていた。
重力に、負けそうだ。
蒸し暑い体育館では周りの空気も熱を持つ。
ぬるい室内でじっとりと汗ばむのが不快だった。
ボールを拾うためにしゃがみ込んだら、もう立ち上がるのが億劫になってしまった。
眩暈のような感覚も引かず、背中を丸めて壁に寄せる。
全ての音が薄い膜の向こうに感じた。
(だる…)
毎日こんな雑用を渡されたらとても体力が持たない。
もう、限界だ、と思う。
でも学校を休んだら、貴樹に心配されてしまう。
体育教師の話は終わったらしい。
すぐそばを何人もが通り過ぎていく。
怪訝そうな声が聞こえた気がしたが、何を言っているのかは分からなかった。
影が立ち止まった。
「おい和泉」
体育教師の声だ。
顔を上げると、大きな体が見下ろしていた。
天井の照明が眩しくて頭痛がした。
「お前俺の話聞いてたのか」
低い声。反射的に背筋が伸びた。
「…ごめんなさい」
「聞こえないぞ」そう言って胸ぐらを掴まれる。
息がかかる程近い距離で凄まれ、心臓がどきりとした。
背筋に冷たいものが走る。
「1人でもこういう奴が居ると全体に響くんだ。全体の士気が下がるんだよ」
「っ…ごめん、なさ…」
手を、離して欲しかった。
体育教師を押し返そうと腕を掴むと、ふん、と鼻を鳴らし、汚いものでも払うように手を外した。
心臓が嫌に脈打った。
息を吐きたいのに、うまくできない。
教師がそのまま立ち去り、通り過ぎようとした誰かに顔を覗き込まれた。
「なあ、大丈夫か」
そう言って肩に手を置かれる。
無意識に、その手を払っていた。
その人は何も言わずに戻っていった。
(もう、嫌だ…!)
両手で髪の毛をぐしゃぐしゃに掴む。
指に絡んで細い痛みが走った。
苦しいと叫びたい。辛いと訴えたい。
でもそれを、誰に伝えればいいのか。
自分は、どうすればいいのだろう。何をすれば、誰の迷惑にもならずに生きていけるのだろう。
#西沢と村野
「和泉君ってさあ、どうなの?得点係の名簿に名前あったけど、学校来てるっけ」
「和泉?あー、外国語のクラス一緒だけど、あんまり見ないかも。サオリも得点係やるんだ?」
「そ。サッカーで同じ回だったから、怖い人だったらやだと思って」
「どうだろうね。見た目は怖くないけどね…」
教室の窓際、そんな風に噂する女子2人を、西沢は不満そうに見やった。
「勝手な事言ってる。柴田のほうがよっぽど怖いよーだ」
その声の音量に、村野は慌てて西沢の口を塞いだ。
「ばか、聞こえたらどーすんだ」
だって、と西沢は未だ不満そうである。
ふと遠くに視線をやる。
「…ねえ、最近避けてるでしょ。橋葉のこと」
そのまま村野とは目を合わせず、村野の机に顎を乗せたまま、西沢は切り出した。
一瞬言葉を詰まらせた村野も、あーとかんーとか呻きながら、否定はしない。
意外にもあっさりと肯定を示した。
「避けてるっていうか…や、避けてることになんのか…」
「良いか悪いか分かんないけど、橋葉は気付いてないみたいだよ。…この前村野から聞いた、和泉と柴田の話あったじゃん。その話を橋葉にして、村野から聞いたって言ったら、えって顔してた。ちょっとショックそうだったけど。…僕、2人がそんな感じなの嫌なんだけど」
小動物で例えるなら子犬のような目をつり上げて、西沢は真っ直ぐ村野を見る。
村野は何か言いたそうに口を動かし、しかし黙ったままだった。
「あー、…いや、…うーん」
「唸ってないで答えてよ。…まさか、聞いたらまずい話?村野に限ってそれは…」
「酷!…あー、でも、うー…」
額を机につけ、俯いたまましばらく唸る。
それから「引くなよ」と小さく念を押した。
半ばふざけていた西沢も、そこで初めて緊張を感じた。
真面目な空気が流れ、少し戸惑う。
「引かない」
そう答えると、村野は表情を見せないまま、俺さあ、と呟いた。
「和泉のこと好きかも」
数秒の沈黙。
教室のざわめきが急に大きく聞こえた。
「…え?」
村野は言葉にならない音を叫びながら頭を抱える。
「あー!ほら!引くなって言ったのに!あーしぬ。うわー」
足をばたつかせ、机がガタガタと音を立てる。
こいつ幾つだ、と西沢は思った。
「引いてない引いてない!あと村野うるさい」
村野はやっぱり呻く。時々壊れたおもちゃみたいに動いて。
「そっかあー、それは困ったね…」
西沢は首を傾げて頬を掻いた。
衝撃的なカミングアウトだが、騒がしい教室は平和だ。
がばっと顔を上げた村野は、もう開き直ったようだった。
「和泉ってさ、橋葉以外に心開いてないじゃん。それ考えたらさあ…別に橋葉に対抗意識持ってる訳じゃないけど、何か…」
口ごもり、それから俯く。
「…僕は村野も橋葉も好きだから、どっちがどうとか言わないし、そんなの分かんないけど、でも2人の空気がこのままだったら嫌だ」
「…お前の素直さっていいよなー」
「何、いきなり」
西沢は笑いながら村野の背中を殴った。
村野も笑う。
でも、と西沢は呟くように続けた。
「でも和泉今、体調悪いよね」
村野の笑顔は一瞬で引っ込み、真剣な表情を浮かべて頷く。
ふざけた空気は底の方に沈んだ。
「すげー心配」と村野は言った。
身を乗り出して西沢に向かう。
「マジで、和泉が学校休んでたのって何だったの?病気とかじゃ無いんだろ。誰も知らないって、そんなのおかしくねえ?聞いたら、教えてくれるかな」
その勢いに、西沢は少しだけ気圧された。
「…僕には、分からない。…でも、誰も知らないって事は、和泉が誰にも言いたくないって事もあるかもしれない。そうだったら、それを村野が無理に聞こうとするのは、だめだよ。きっと」
村野は黙って頷く。
そう言うと思った、という感じに。
自棄になったのか、村野は饒舌になった。
「好きかもとか言ったけどさ」
「うん」
「その、和泉とセックスしたいとか、そういうのじゃないんだ。一番最初に頼ってくれたらなーって思うだけなんだ」
きもいなー俺、と自嘲気味に続けるので、西沢は少し背筋を伸ばした。
「いいと思う」
西沢もむきになっていた。教室は相変わらず平和に賑やか。お祭り前の興奮と斜めの緊張が一緒になって動いている。
「全然、悪いことじゃない」
村野は、この話を始めてから初めて西沢と目を合わせた。
この視線に色を付けるとしたら、きっと夏の木々の色に似ているはずだ。
「どーも」
村野は照れくさくなって笑う。
静かに、少しずつ、動き出す。
>>体育祭―前日:END