和泉と五十嵐の初対面。
***
人気の無い教室棟一階。
和泉は保健室へ通じる廊下を、軽く身体を折りながら歩いていた。
額にはうっすらと汗をかき、両手は腹部を庇う様に抱えている。
二時間目の途中、激しい腹痛――おそらくストレス性のものだろう――を感じた和泉は、休憩時間にひっそりと教室を抜け出していた。
三時間目の始業を告げるチャイムが響く。
それが丁度鳴り止んだのと、和泉が保健室のドアに手を掛けたのは同時。
無言でドアを開けると、そこには人影が二つ。
一人は白衣の養護教諭で、一人は制服だった。
「ああ、」
生徒の方が声を発した。
口元は笑みを作っているが、目は少しも動かず、不気味。
「・・・?」
(なに・・・この人達)
養護教諭は当然ここに居るべき者として当然だが、生徒の方は特に具合が悪い訳でもどこか怪我をしているという訳でもなさそうだ。
薄く微笑んだすがたはこの白い部屋とは全く不釣合い。
「・・・っ!」
思い出した様に腹痛が和泉を襲い、深く体を折った。
「先生、俺の方向いてくれません?」
「見て分かりませんか。私は、仕事中です」
低い声でついでにもう直ぐで出張の時間です、と付け足される。
カタカタとキーボードを打つ養護教諭、南条の肩に手を回し、五十嵐はディスプレイを覗き込んだ。
「そもそも幸喜、あなた今授業中でしょう。出席日数足りなくなって留年したら、私はこの関係を見直そうと思いますけど」
その言葉が自分を心配しているものだと五十嵐は分かっていた。
しかしそれを素直に喜んで受け取るほどの素直な性格を持ち合わせていない五十嵐は、あえてとぼけてみせた。
「そしたら先生がちょっと学校のパソコンいじって、皆勤とまでは言いませんが、規定の日数を満たすように書き換えてくれれば良いだけですね。期待しています」
にっこりと笑みを向けると、南条は大きく溜息をついて、眉間を揉んだ。
「あなたは私を懲戒処分にさせたいのですか」
そんな事をしたら、クビです、とまっすぐ立てた人差し指を、五十嵐の顔すれすれまで近づる南条。
五十嵐の鼻先と人差し指がぶつかった。
長い指に唇が触れる。
「そうしたら先生は、俺と暮らすことが出来ますねえ。・・・先生、俺と暮らしたいでしょう?」
その唇をそのまま南条の顔まで移動させようとした時、物音がした。
それにドアが控え目に開かれる音が続く。
反射的に五十嵐は振り返り、南条に回した手と、顔を離した。
俯きがちに、ふらふらと一人の生徒が入って来た。
ちらり、と顔を上げ、目が合った。
数瞬の沈黙。
(これはこれは…何て偶然…)
まだ一面識も無かったが、友人の橋葉から聞いて聞いていた。
(……和泉、直矢)
橋葉からこの復帰生の話を聞くたびに、自分がもし橋葉の立場だったら、と五十嵐は考えていた。
結論は「厄介である」一つ。
どう考えても訳ありな生徒を押し付けられる。こんなに厄介な事は無い。
しかしながらどういう理由か、始めは訝しがり面倒がっていた橋葉も、今ではこの“和泉直矢”に随分ご執心。
どういう心境の変化だろうと本人に尋ねてみても、「説明のしようがない」一言。
それが五十嵐の好奇心を更に刺激し、趣味も兼ねて情報収集に試みた。
ところが頼みの綱の南条は「幾らあなたでも、それはお答えできません」の一点張り。
和泉を知る生徒に尋ねてみても、和泉はあまり好印象ではないことが分かっただけ。
和泉のことを疎んじる生徒も中には居るようであった。
どの意見も、自分の結論を揺るがすほどの大きな情報ではなかった。
しかし、
実際目の前で本人を見て、橋葉の心境の変化が若干理解できた気がした。
百聞は一見にしかずとはまさにこの事。
「ああ、」
気が付いたら微笑み、そして手を差し伸べてやりたい気持ちに駆られていた。
「・・・っ!」
突然、息を詰めて目の前の和泉直矢が身体を折った。
一見した所、腹痛に苛まされているようだった。
そのままずるずるとしゃがみこんでしまいそうだったので、あわてて駆け寄り体を支える。
「大丈夫?見て分かる通り、教員在室しているよ。ベッドも空いているし、好きに使うといいよ」
でしょう、先生、と視線を後ろに送ると、「問題ありません」と一言返って来た。
何だか最近の会話は一言あれば十分なようだ。
「和泉君ですね、クラスや番号などは…もう分かってますが、とりあえずルールなので、教えて頂けますか?」
南条も歩み寄ってきて、五十嵐に支えられたままの和泉にそう尋ねた。
その慣れた口調で、和泉と南条は初対面ではなく、加えて和泉は何度か保健室を利用したことがあるらしいと推測できた。
「…2年の、…C。番号、は、3…」
「把握しました。大分辛そうですね…、幸…五十嵐君、手前のベッドまで和泉君を」
他の生徒の前で名前で呼びそうになってしまった時くらい、焦った表情を見せてくれてもいいものを、全くのポーカーフェイスで眉一つ動かさない南条に、五十嵐は内心苦笑した。
直ぐに今はそれ所ではないと我に返り、和泉が倒れないよう手を貸しながら歩を進めた。
南条は先回りしてカーテンを引いており、布団は既に捲くられていた。
「いつから、どのような症状かお話できますか?…あちらに居る背の高い生徒は保健委員なのでご心配なく」
ベッドに倒れこむように横になり、腹部を抱えてうずくまった和泉に布団をかけながら南条が養護担当としての仕事を遂行する。
(…どこの誰が、保健委員だって?)
一見優男である五十嵐の恋人の特技は、ポーカーフェイスと嘘である。
カーテンのむこうの淡々としたやり取りを聞きながら、五十嵐はぼんやりと考えていた。
倒れそうになった和泉を支えたのは五十嵐。
しかしその後、和泉は五十嵐に身体を預けようとはしなかった。
腹痛が酷いのは目に見えていた。
にも関わらず、決して手を掴もうとはしなかった。
ふらつく和泉を支えていても、触れたところから和泉の身体が不自然に強張っているのが分かった。
(…あれは、拒絶だ)
好意を素直に受け止められないひねくれた性格なのか、と考えたところで、それは自分も同じじゃないかと帰結し、五十嵐は一人再び苦笑した。
二人の会話、というより南条の短い質問が静寂を強調していた保健室で、突如内線のコールが響いた。
急ぎ足で南条がカーテンの内側から出てきて、3コールで電話を取る。
「はい、保健室の南条です。……ああ、今体調を崩した生徒が来ていて……はい、分かりました、すぐに伺います」
受話器を置き、デスク横の鞄を手にする南条。
心なしか、焦りが覗える。
「どうかしたんですか、先生?」
「出張に向かう際に呼んでおいたタクシーが到着したようです」
南条は身分証明のためだけに免許を取ったペーパードライバーだった。
移動は基本タクシーである。
さっき出てきたばかりのカーテンの内側に、再び潜り込む。
「和泉君、申し訳ありません。そういうことで、出なければいけなくなりました。おそらく腹痛はすぐに治まると思いますが、好きなだけお休みしていって構いません」
南条の潜められたくぐもった声が聞こえた。
それに対する返事はどうだか知らないが、南条はカーテンを閉め上着を羽織り、教室を後にしようとした。
すれ違いざま、五十嵐の耳元でこう囁く。
「和泉君の面倒、宜しくお願いしますよ、幸喜」
そう言われたら、断わるなんて選択肢は消えたも同然だった。
南条は部屋を後にした。
ドアがしっかりと閉じられたのを確認した後、小さく溜息をついて、五十嵐はカーテンの内側を覗き込んだ。
(……白い顔)
やけに庇護欲を掻き立てられる。
椅子を引っ張ってきてベッドの傍らに置き、腰を下ろした。
和泉は、というと、目をきつく閉じ眉間に皺を寄せながら、時々苦しそうに息をついている。
(これ、本当に大丈夫なのかね)
南条の判断を疑いたくは無かったが、事実目の前の和泉は随分辛そうで、とても「すぐに治まる」様には見えない。
「どうも初めまして、五十嵐です」
慎重に言葉を選んだつもりだが、返事はない。
「どうしても辛いようなら誰か他の先生呼ぶけど、…どんな?」
やはり返事はない。
聞いているのか、と問いたい気持ちがあったが、目の前のこいつは病人だ、と思い出す。
加えて表情を覗おうにも、顔が背けられているので叶わない。
五十嵐は、こういうタイプの人間は苦手だった。
顔には出さないが、反応が無いのが一番腹立たしいとも思っていた。
普段の五十嵐なら、いくら病人でもあっさり見捨ててそのまま放置しているだろう。
しかし和泉に対しては、なぜかそこまで非情になれなかった。
寧ろ甲斐甲斐しく手助けをしてやりたいような、そんな気持ちにさえなる。
(橋葉は、これにかかったんだねえ…)
こんな所であの友人の心境を深く理解してしまうとは思ってもみない出来事だった。
痛みが襲ったのか、布団が掛けられてても明らかに細い背中が丸められる。
「ちょっと待っててね、何かあったら呼んでくれていいから」
あることを思いつき――それは普段なら絶対に浮かばない思考だけど――五十嵐は腰を上げた。
数分後、五十嵐は再びカーテンをくぐった。
右手には、小型サイズの湯たんぽ。
特有のゴムの匂いが鼻に付いたが、ほんのりと暖かくて心地よい。
当然ながら、校内の備品を勝手に使うことは禁止されている。
湯たんぽや電気ポットもまた然りだったが、先ほど南条直々に「保健委員」認定されている事だし、多少大目に見てもらおう。
「……ねえ」
再びベッドの横に立ち、見下ろすような形になりながら、やっとのことで話しかけた。
「これ、使う?」
(人に話しかけるのに、こんなに緊張するのは始めてだ)
何て声を掛けるべきか、何を言うのがベストか、色々考えを巡らせた結果、一語一句慎重に言葉を選んでいくのが面倒になり、結局はぞんざいな物言いになってしまう。
しかし頭のどこかで声色を優しくしようと自己統制がかかる。
自分の脳がこんな繊細な思考回路も持てるのか、と五十嵐は内心驚いていた。
それほどまでに目の前でうずくまる和泉直矢なる人間は、脆く壊れやすそうに見えるのである。
和泉が、体を動かした。
少し顔をしかめながら、五十嵐を見上げた。
そして、目が合う。
その時の衝撃を隠しきれずに、五十嵐は手にした湯たんぽを落としそうになった。
男か女か。国籍さえも疑わしかった。
額は軽く汗ばみ、前髪がところどころ張り付いている。
唇をずっと噛んでいたのか、薄い下唇にはくっきりと歯型が付いている。
顔色は最悪。
けれど、そんなことは全く関係なかった。
何より驚いたのは、その瞳だった。
もっと弱々しいものと思っていた。
何を見ているか分からないような、そんなぼんやりとしたものだと思っていた。
けれど実際はその何倍も芯が通っていて、長い睫毛の奥、しっかりと五十嵐を捉えていた。
「これ、湯たんぽ。お腹温めると、楽かなあと思いまして」
平静を装ったが、普段の幾倍も緊張し、心拍数も何倍にも跳ね上がっていた。
こんなこと、南条に伝えたら、彼はどう反応するだろう。
少しはあのポーカーフェイスを崩し、少しでも動転してくれるだろうか。
湯たんぽを差し出すと、和泉はおそるおそるといった感じに布団からほっそりとした長めの指を出した。
いいの?と目が言っている。
もちろん、と微笑むと、今度はその指で、しっかりと受け取った。
その姿は形容しきれない程可愛らしかった。
「まだ痛む?」
微かに、浅く頷く和泉。
どうやら一度相手を認識しさえすれば、普通に意思表示を返すらしい。
「あっ、待って」
湯たんぽをあてがい、再びうずくまろうと体勢を整えだした和泉を五十嵐は制した。
不思議そうにこちらを見返してくる。
見入ってしまいそうで、不自然に目を逸らした。
「身体丸めないで、仰向けになって、ちょっと膝立てると…」
緩慢な動きではあったが、和泉は言う通りに、素直に身体を動かした。
「どう?幾分か楽な気がしない?」
そういって、意識して作った微笑みを向ける。
他の何の為でもない、和泉に警戒を解いてもらうために。
和泉は、それには応えなかったが、まっすぐに五十嵐を見ながら口を開いた。
「…ありがとう…」
聞こえるか聞こえないかの小さな声だったが、それが五十嵐に対しての和泉の第一声。
初めて“聴いた”和泉の声は、少し、掠れていた。
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