校内で和泉が倒れる話。
***
和泉は廊下を歩いていた。
目的地は教務室。
体育教諭の折田に、見学申請をするためだ。
一単位の授業だから見学はかなりの痛手なはずだが、特例を認めて貰っている。
医者から激しい運動は控えろと言われているし、そもそも運動自体が嫌いなので、“特例”は有難い事だった。
どうせ毎回見学だと分かっているのだから、申請は省略させて貰えても良さそうなものだが、生憎その体育教諭の折田の性格は最悪。
申請を強要するくせその度に文句を呟く。
(どうせ“あの”校長のことだ… 説明も、省くんだろうな)
何度目か分からない溜息を吐いた時だった。
視界が揺れた。
あっ、と思った時にはその揺れは立っているのが困難なほど大きくなり、壁に身体を預けずるずるとしゃがみこんでしまった。
とっさについた手から、ひんやりと冷気が伝ってくる。
(……また、きた…)
和泉は何年も、突発的に、何の前触れもなく起こるこの発作に悩まされていた。
最近では罹患者が増えてきているのか、病院の待合室などでこの病気に関するパンフレットをよく見かける。
周囲への理解を求めるためだけのもので、大抵は呑気なイラストで埋められている。
発作には波があるが、今回のは、久し振りに、酷い。
「、は…っはあ、は、あっ…」
息が苦しい。
吸っても吸っても、肺まで届かない。
心臓が狂った様に脈打ち、心拍数が急上昇する。
何事かと好奇の目で見られたり、囁かれたりする声が、全て遠くの出来事の様に感じられた。
(気持ち、悪…)
漠然とした不快感。
(どうしよう…!)
経験上、10分から20分で症状が和らぐ事は知っていた。
けれどこの時の和泉に、そんなことを冷静に考えている余裕は無かった。
橋葉は廊下を歩いていた。
体育館に行くには東階段を降りていくのが最短ルートだった。
しかしその道順だと近いぶん混み合う。
それを避けるために橋葉はいつもあえて遠回りとなる西階段を選んでいた。
西階段を降りるとすぐに教務室に行き当たるので、生徒からは敬遠されているのも好都合。
友人の村野と一緒になって、雑談をしながらがら空きの階段を下っていく。
踊り場に差し掛かった時だった。
「なあ、何か騒がしくね?」
手すりから身を乗り出して一階を覗き込みながら、村野がそんなことを言い出した。
言われてみれば、確かに、変な空気が漂っている。
でも、騒がしいという程ではない。
ちょっと浮ついたような、そんな感じ。
「そうかなあ・・・ 模試の結果でも返ってきたんじゃない?」
あくびをかみ殺しながらそう答えるやいなや、村野はあっと声を上げた。
「あれ、和泉!?」
和泉、という言葉を聞いて、まどろんでいた脳が一気に現実に引き戻された。
聞き返すまもなく村野は階段を駆け下りていた。
俺も、それに続く。
角を曲がってまず目に写ったのは人。
数人が、何かを囲うように立っている。
そして次に目に入ったのはその奥、床にくっつきそうな位まで体を折って蹲る和泉の姿だった。
村野はすでに和泉に駆け寄っていて、周りにいた数人がそれに気付き、道を空けた。
「なに、どうしたの」
と村野。
和泉の近くで、和泉と目線を合わせる様にして屈んでいる別のクラスの生徒、柴田に尋ねる。
柴田は不満そうな表情を浮かべて顔を上げた。
「さっき急にこうなったんだよ。心配して声掛てやったのに、何の反応もしやしねー」
そのあまりの言い草に絶句した。
それぐらいなら、心配してくれなんて頼んだ覚えはないだろう、と言いたくなってしまう。
「和泉!おーい、具合悪ぃの?」
和泉と向き合って屈みながら声をかける村野。
村上の手が、額に被さった前髪をどかし、表情を覗おうとした時だった。
ぱしん、と乾いた音。
和泉が村野の手を払っていた。
突然のことに、村上は目を丸くしている。
「うっざ、お前、何とか言えよ!」
そう和泉に向かって吐き捨てた柴田は、怒りが頂点に達したのか、足を引いた。
____和泉を蹴り飛ばす気だ。
「和泉!」
とっさに和泉の身体を自分の下へ引き寄せる。
よろめきながらもされるがままといった様子で、抵抗は感じられなかった。
和泉が立ってもいられないようだったので、俺も屈み、和泉を支えた。
心なしか浅い、時々詰めるように止まる和泉の呼吸。
沈黙が廊下を包んだ。
空振りに終わった柴田は、ばつが悪いのかぎろりとこちらを睨んできた。
「暴力には反対だ。—–村野、俺と和泉、次遅れてくから。」
「あっ、ああ」
「・・・・行こうぜ、心配して損した」
後ろ髪を引かれているような様子の村野を引っ張るようにして、柴田が去った。
それに続くようにその他の野次馬も散っていく。
まるで台風だ。
和泉を引き寄せたままの、尻餅をついたような体勢は、布越しに俺の体温を奪っていった。
和泉は無言のまま、小刻みに身体を震わせている。
目の焦点は定まっておらず、涙で満たされた大きな瞳は宙を捉えるだけだった。
睫毛が涙をはじいて、窓からの光を乱反射させる。
どうすることも出来ないまま、俺は間抜けに座ったまま和泉の背中を撫でていた。
というのも和泉が俺のシャツを掴んで離さないせい。
柴田という台風が村上を巻き込んで去った後、誰かを呼んでこようと立ち上がろうとした俺のシャツを掴んだのは和泉。
無意識下の行動だと分かっていても、あれほどまでに干渉を拒んだ和泉から求められた事が嬉しかった。
だから、何かがおかしいようなこの状況にも、さほど疑念が湧かなかった。
きっと脳のどこかが麻痺していた。
和泉が正気に戻ったのは、それから5分後の事。
先ほどまでぐったりと俺の背中に回っていた和泉の手が、意思を持って俺の背中を叩いたのがサインだった。
「和泉?」
抱きかかえられたままの格好で、俺の制服に埋めていた顔を、俺の表情を覗うようにそろそろと上げた。
「和泉、大丈夫?何かただ事じゃない感じだったけど」
ずっと噛んでいた唇を開き、舌でしめらせるような仕草をした後で、和泉は口を開いた。
ちらりと見えた舌が何か、扇情的というか、妙に艶かしくて、慌てて目を逸らした。
「・・・・・・ごめん、おれ、・・・」
「ほんとに、こっちは大丈夫だから・・・。それより、和泉が大丈夫なの。」
あまりにも申しわけなさそうに謝るものだから、こっちが悪いことをしている気になる。
言葉を繋げられずにいると、意外にも和泉が沈黙を埋めた。
「・・・・・・・時々、なんだけど、ああなって、何もかも良く分からなくなるんだ」
ともすれば話す事を止めてしまいそうで、相槌を打ちながら和泉の話を促した。
和泉について知らないことが多すぎて、やっぱりそれはただの好奇心だった。
和泉から聞いたその症状の名称は、俺も以前に耳にしたことのあるものだった。
「どんな感じなの、それって」
「・・・目に見えたものが、細切れになって、それが重なって、頭の中に・・・・・ごめん、説明できない」
ちらっと目線を上げて俺を見上げた和泉の顔には、困ったような自嘲気味な笑いが浮かんでいた。
「はは、そうだよね」
平静を装いながらも、心臓が激しく脈打つのを気付かれないように必死だった。
こんな饒舌な和泉を見られるなんて。
「・・・和泉とちゃんと話したの初めてだ」
何気なく、そう呟くと、和泉はひどく驚いた表情をした。
その表情も直ぐにぎこちなく崩れて、微笑みを模る。
「・・・おれも、ドン引きされなかったの始めて」
一呼吸置いて、橋葉みたいなひと初めてだ、と付け足された。
どういう訳か、その日は一日中、頭の芯が痺れていた。
<ディスオーダー:END>