ポスターが貼られていたのだ。
目立つ黄色地に黒のゴシック体で「キッチンスタッフ募集!」と大きく印刷されていた。
連休明け、水曜日の昼間。信号待ちをしていた真澄はそのポスターになんとなく目が止まり、歩行者信号が青に変わってもその場から動かなかった。カッコーの電子音響が鳴り止み、青信号の点滅を伝えてもなお、真澄は横断歩道に背を向けたまま募集要項を読み込んでいた。
急募、とパンチのある枠で囲われている。週一日から相談可能、皿洗いや調理補助など単純なキッチン作業、時給千百円から。それになにより、
「……未経験歓迎」
ここにしよう、と思った。条件は揃っていたし、ならば当てもなく他を探して無為に選択肢を増やしていくのはとてつもない徒労に感じた。いいじゃん。ここにしよう。
真澄はスマートフォンを取り出して、ポスターに書かれている電話番号を打ち込んだ。
振り返ってもう一度横断歩道の白線を見る。三歩進んで信号が青に変わるのを待つ。真澄は自分の頬が緩んでいることに気付いていない。
『はい。レストラン「ファーヴェ・ディ・カルピーノ」×××店です』
コール音が止まり、弾んだ女性の声が耳に飛び込んできた。
春の日差しも、風が吹くとまだ少し肌寒い気温も、信号待ちの雑踏さえも心地良い。きらきらと眩しい街中すべてが背中を押してくれているようだった。
***
真澄がバイトを探し始めたのはここ数日の話ではない。これまでも何度となく試みては、佳隆に阻止されてしまっている。それでも今度こそはと決意したのは、佳隆の甘さゆえに他ならない。
例えば。「あ、これ良いね」二人で出掛けた折、真澄がついそんな風に興味を示してしまったら、それがだいたい三日後、時にはその日の夕方には、佳隆が掲げて持ってくる。大変満足そうな表情をして、真澄に手渡すのだ。
「あのね佳隆さん、俺こういうのやめてって言ったよな」
両手を顔の横に上げて、簡単には受け取らないぞと態度で示す。嬉しい気持ちはあれど、そういう問題ではないだろう。
「でも、僕も良いと思ったし」
佳隆が持っているのは、有名セレクトショップの紙袋だ。中身はくすんだインディゴブルーのパーカーだろうと想像できる。昨日立ち寄った路面店で、真澄がうっかり体に合わせてしまったから。
「じゃあ佳隆さんが着てよ。良いと思ったんでしょ」
「真澄くんに似合うだろうなって思ったんだよ」
「なら、俺が飛行機良いなって言ったらどうするの。ジャンボジェット欲しがるよ」
「そもそも真澄くん物を欲しがらないじゃないか。真澄くんが飛行機を欲しがるとは思えないな。そしたら、旅行に行く?」
「……アンタさぁ……」
良いと思ったのはあくまでも感想で、今すぐこれが欲しいという意味ではない。それが、どうも佳隆には伝わっていない気がする。いや、確実に伝わっていない。
受け取るまで目の前にぶら下がっていそうだったので、真澄は両手で受け取り肩を落とした。ありがと、と感謝も添えて。佳隆はへんなところで強情というか、傲慢というか。これまでのやり取りを経てもなお、今の自分が欲しかったものを手に入れて喜んでいるように見えているのなら、馬鹿にされているようにすら感じてしまう。
「……俺、バイト探す」真澄は呟く。
「もうしてるのに?」
「これは違うじゃん!」
真澄は、佳隆の経営するゲーム会社を手伝っている。会社といっても固定のオフィス等はなく、数名の社員が各々自宅で、あるいはカフェで、時にはレンタルスペースで、パソコンお供に分業しているスタイルだ。ゲームやアプリを開発したり、依頼があればプログラマーやエンジニアを派遣したりする。この会社で真澄に与えられた仕事は、プログラムの試行チェック、メールの仕分け、インタビュー記事のゴーストライター……要するに、お手伝いを「させてもらっている」のだ。
このまま、佳隆の甘さを享受し続けてしまったら。自分は、今度こそ歩けなくなってしまう。
「俺、佳隆さんから自立するから」
「ま」
ますみくん、とは、音にならなかった。口を「ま」の形に開けたまま、ぽかんとした表情の佳隆に、真澄は頭を下げた。
「佳隆さんから自立させてください」
***
真澄がバイトを始めると聞いて、佳隆は気が気でなかった。さっきから手を滑らせてはコーヒーを溢し、階段を一段踏み外しては腰を打ち、それでもなおじっとしていられずにソワソワと動き回っていた。
プレゼントなんて送りたくて送っているのはこちらなのだから、気にしないでくれればいいのにと思う。彼がそういう性格でないのは分かっているが、自分はそういう性格なのだ。そもそも、彼は何かをして欲しいとか、欲しいものがあるとか、そういうことを殆ど言わない。たまに見せる興味のサインを掬い上げたいと思うのは、仕方の無いことではないか――佳隆はそう考えていた。
強気な口振りだが、真澄には不安定なところがある。映画を観に行って人混みに酔ったり、時々、夢と現実が混同することもあった。確かに最近はそんな姿を見ていないが、いつ調子が崩れるかは本人にも分からない。何より、佳隆自身が、真澄を外に出したくなかったのだ。
(……でも、これは僕のエゴだからなぁ)
そんな自覚もあって、佳隆は真澄の宣言を受け入れた。自立させてくれと、下げられたつむじを思い出す。
自立したいというのは、つまるところ、自由になりたいという意味なのかもしれない。彼が欲しいものが自由ならば、それを引き止めることはできない。
「真澄くん、バイト明日からだっけ?」
二人分のコーヒーをテーブルに置きながら、佳隆が問う。
「ううん。今日から」
「今日から?!」
おはように続く、今朝のリビングでの会話。大袈裟に驚く佳隆に、「言ったじゃん」真澄は口を尖らせる。
先週面接を受けたレストランのバイトに、真澄は即採用となった。社員のキッチンスタッフが産休に入り、バイトのスタッフも就職や進学で辞めたりと、欠員続いたそうだ。週一日でも入れる従業員を増やし、穴を埋めたいという考えらしい。内情を忌憚なく伝える店長に、佳隆も少なからず好感を覚えた。
「とりあえず今日は洗い物して、お通し盛るだけだよ」カフェオレをちびちびと飲みながら真澄が言う。
「本当に裏方なんだねぇ」
「俺、接客とか無理だし、やだし」
「ちょっと出てきたりしないの。見に行こうかな」
「出ないって」
真澄の意思は強い。やると決めたら絶対に曲げないし、こうなってしまった以上引き留め続けてはかえって意固地になってしまうかもしれない。
それに、その意思をこんなにはっきり口にするなんて、これまでの真澄にはなかった。決意や決断を溜めに溜めて、そうして爆発することが多かったから、今の様子を見たら佳隆も諦めざるを得ない。
「制服と靴は貸してくれんだけど、靴下が真っ黒指定なんだよ。丈も脛までないとダメみたい。俺、くるぶしまでしか持ってない」
「じゃあ、今度買いに行こう」
「うん」
そんな風に次の約束を決めていく。バイトをすると決めてから、真澄は本当に楽しそうだ。今日は九時からシフトに入っているそうで、カフェオレとコーンブレッドで朝食を済ませて出掛けていった。十時の開店に合わせた出勤だ。
行ってらっしゃいと見送ってから、佳隆は誰もいなくなったリビングで落ち着かない時間を過ごすことになる。
***
「ちょっといいかな」
店長――間宮さん――が左手をメガホンに呼び掛けると、ホールに出ていたスタッフ数名の視線が集まった。「こっちもこっちも、ちょっと顔だけ」キッチンにも声をかける。ホールとは違う白いエプロンに帽子を被った調理スタッフが一人顔を出した。
「こちら、今日から入った榎本さんだ」
視線で促され、真澄は相好を崩す。
「榎本です。よろしくお願いします」
会釈程度に頭を下げると、調理スタッフは人好きのする笑顔を見せ頷いた。
「榎本さんにはキッチン補助で入ってもらったのでね。皆さん、よろしくお願いします」
その場にいたスタッフから返ってきた返事は間延びして不揃いだったが、それは友好的な気安さだった。交わされる短い挨拶に肩の力が抜ける。こわばりがほどけて初めて、この場に緊張していたんだと自覚した。
「とりあえず、皆も自己紹介してもらおうかな。名札もあるし、順番に覚えてくれればいいからね。じゃあまず、瀬尾間くんから」店長が調理スタッフの方を向く。
「瀬尾間です」
柔らかい表情と対極に、かっちりと聞こえるテノールの声音だ。声だけ聞いたら固くなってしまいそうだが、のんびりした笑顔とその口調が威圧感を与えない。年は佳隆と同じくらいだろうか。取り繕わない誠実さがそこにあり、真澄は好印象を持った。
「このお店のチーフやってます。榎本くん、キッチンに入ってくれるんだったね。よろしくね」
「よろしくお願いします」
「キッチンはあと、三人社員がいてねえ。それに加えて、榎本くんと同じようなアルバイトの子が……えーと、今、何人だったかなあ。けっこういるんだよ。学生さんとかね」
「はい」真澄は頷きながら相槌を打つ。
「それで、今奥にいるのが、その社員の一人。見えるかい?こっちこっち」
手招きされ、キッチンを覗くと確かに調理服姿のスタッフが一人、大きなフライパンを揺らしていた。背面にあるこれまた大きなオーブンを見て、タイマーをセットして、それからこっちの視線に気付く。
「ごめんね、予約入ってて手が離せなくて」そう説明するのは瀬尾間だ。
「彼、瀧本くん。おおい、瀧本!こちら、今日から入る榎本くん」
「よろしくお願いします!」
火力の音に負けないよう、真澄は声を張った。瀧本と紹介された男は無愛想に会釈して、再び調理を再開する。
(…………え?)
ほんの一瞬だ。
フライパンに向き直った瀧本が、何を思ったか僅かに顔を上げ、ほんの一瞬、目が合った気がしたのだ。
その顔がなぜか驚いているようにも見えて、もう一度顔を見ようと思った時にはもう彼は料理に専念していた。
(何だ……?)
触れてみて初めて気付くささくれのような違和感。
それを噛み砕く前に瀬尾間が他のスタッフを次々と紹介していくので、真澄はその後を追いかけた。
***
バイト初日は三時間のシフトだった。賑わうランチ営業が始まる前に退勤となる。「お疲れさまです」すれ違うスタッフからそう声をかけられて、ぎこちなく挨拶を返した。おつかれさまです、しつれいします。呪文のように繰り返す。
それから、ロッカールームで着替えを済ませ、来た時と同じ裏口から外に出た。建物の裏は室外機が並び、濁った空気が滞留している。大通りに出てようやく人心地ついた真澄は、大きく深呼吸をした。
(…………つっかれたー……)
店の前から少し離れたバス停には、ベンチが置かれているのを知っていた。真澄はバスを待つわけではなかったが、少し迷ってそこに腰掛け、ぼんやりと宙を見つめる。
自分が、いかに世間と離れていたかを思い知った。
たった三時間のバイトだったが、一日分の体力を使いきった気分だ。
洗い物をしながら高校生のアルバイトと話した。自己紹介ついでにこれまでどんなバイトをしていたのか問われ、返答に困った。
――高校生のころ。自分は。
苦い記憶に触れるのが怖くて、「そんなに色々やってないですよ」外行きの笑顔だけは崩さないよう、曖昧に言葉を返すと、彼は自分のバイト遍歴を話してくれた。シアトル系コーヒーショップ、同時に居酒屋。短期で引っ越し業。どれも長続きしなかったが、週一日からOKなここのレストランはもう半年続いてると。
これが、ふつうの、普通の高校生なのだろうか。
だとしたら、やっぱり自分は異常だった。
そんな分かりきったこと、割りきれていたと思っていたのに、切り離すことが出来なくて。この高校生に気取られてはしまわないかと綱渡りの気分だ。
過ぎ去ってしまったものはもう、どうしたって埋められないと、分かっているんだけど。
たった三時間のシフトで、彼と話したのはそのうちのほんの僅かな時間だったが、思い入れも思い出もない「高校生」という時代に憧憬を抱いてしまうくらいの引力はあった。
「かーえろっ」
ちょっとだけ勢いをつけてベンチから立った。
えっという顔で振り返った通行人に、慌てて微笑みを返す。
だって仕方ない。
ずっとデスクワークだったから、殆んど家に籠っていたから、疲れるのなんて当然だ。体が疲れて、少し過敏になっていた気がする。
いいじゃん。上等。
今の自分には、たとえ失敗したって、帰る場所がある。
***
「失敗したぁー!」
帰宅すると、佳隆が叫んでいた。
「なんだよ、どーしたの」
真澄のバイトは、順調に一ヶ月続いていた。佳隆が作ってくれた真澄名義の口座に、しっかりと初給料も入った。最近ではだいたい週に三日くらい、休憩を挟むロングシフトも組まれるようになった。
始めはなかなか体力が持たなくて、昼過ぎに帰ってそのまま翌朝まで寝る……なんて日もあった。一回だけ、仕事中に酷い眩暈がして、休憩を貰ったこともあった(これは佳隆には言っていない)。
ずっと佳隆と――たまに佳隆の仕事仲間と言葉を交わすことはあったけど――それだけの範囲で過ごしていたから、急に開けた世界で泳ぎ方を忘れてしまっていたのだろう。近頃はそんなこともなくなって、出勤して、挨拶して、働いて。途中で息が切れることもなく、凄く調子が良い。
バタ足からクロールへ。次は何をできるだろうか。
「ああ真澄くん。お帰り」
「玄関まで声聞こえた。何?トラブル?」
頭を抱える佳隆がパソコンを開いていたので、仕事の話だろうと想像できた。
真澄は鞄を椅子に引っ掛けて、モニターの並ぶ机に近付く。
「うん……。海外に外注してるシステムがあるんだけど、契約更新し忘れてたみたい」
叫んでいたわりに、炊飯器のスイッチ押してなかったよ、みたいな調子で言うものだから、真澄は深刻さを図りかねた。
「それはつまり?」
だから、聞いた。
「僕は一ヶ月、缶詰になるよ」
それは。
かなり、まずいじゃん。
***
「それで、缶詰って、具体的にはどうするの」
「うん。別の下請けを探しながら、僕が組む。皆にも頭下げなきゃ」
果たしてそれがどの程度具体的な方針なのか、真澄には分からなかったが、「皆」という社員に自分は含まれていないだろうということはさすがに分かった。
「俺メールチェックするよ。代理人として、返信するくらいできる」
「ううん。それも僕が」
「伝書鳩くらいできるって」
「でも先方、中国語だよ?」
「……ぐ」
「うん。じゃあ、メールの仕分けをお願い。後でリスト渡すから、そこからのメールはパスワード付きで転送して。通常のメールはいつも通りに返信してもらおうかな」
「うん」
いつものトーンでそんな風に続けるが、ピンチにも関わらず淡々としていて、むしろ冷えていくものがあった。
『明日から、ちょっとだけホール出てほしいんだ』
実は今日、間宮店長からそんな提案をされていた。
提案というより、懇願と言った方が近いのかもしれない。ホールスタッフが一人骨折してしまったのだ。
実はこれまでも何度か、思い付きのようにホールとキッチンの兼任を打診されていた。ホールスタッフは数だけ見ればたくさん雇われているが、基本的に人手は足りない。けれど多くの人と関わるのは苦手だし、自分が接客に向いているとは到底思えない。常に数人で回しているキッチンで食器洗いや軽作業をしている方が、圧倒的に性に合っていると思うのだ。
なので店長から冗談半分にそう勧められる度、真澄はのらりくらりと受け流し、適当にかわしていた。
しかし、今日の店長の顔は本気だった。
顔の前で手を合わせるので、一体どうしたんですかと真澄は聞いた。
「ホールの子が一人骨折したそうなんだ。明日もシフト入ってるんだけど、代わりが見つからなくて。明日、榎本くん入ってるよね。その時間ホールに代わってほしい」
「骨折……」
「それで、出来そうだったらしばらくホール兼任でやってほしい。彼、ほとんど毎日入ってたから、代わりも皆に割り振らなきゃいけないんだけど、榎本くんも結構入ってくれてるからさ。榎本くんにも担ってもらえたら助かるんだ」
「でも俺、接客したこと……」
「大丈夫!呼ばれたら注文聞いて、テーブルに運ぶだけだから!」
「だ、だけってことないですよね」
「榎本くん、絶対フロア向いてるんだって。手際も良いし、いや、絶対フロア向き。ね、頼むよ」
もう一度頭を下げられて、迷った末、真澄はその提案を飲んだ。
店長は大袈裟なまでに喜び、予め用意してあったように首尾よくフロアの制服を手渡した。抵抗はあったが、必要とされて喜びを感じたのも、また事実だった。
真澄は複雑な気持ちで帰路についた。表に出るんだって言ったら、佳隆も喜びそうだな、なんて考えながら。
「――じゃあ、ちょっと僕、部屋に籠るね」佳隆が席を立つ。
「分かった。いってらっしゃい」
「いってきます」
リビングから出ていく佳隆の背中を見送って、真澄はソファに腰掛けた。
ドアの開閉する音。
少し窮屈に横になり、天井を見上げる。
深呼吸して、目を閉じる。
***
外から戻ってエプロンを結び直していると、「すみません」お客さんから呼ばれた。
「お伺いします」
そう声を出して、オーダーシートを手に客席に向かう。サラリーマン二人組だ。近くのオフィスに勤めているようで、スーツに財布ひとつの組み合わせで身軽に訪れているのを度々見かけていた。名札は胸ポケットに収まっている。
「お待たせしました。ご注文お伺いします」
「これ二つ。アイスティーとアイスコーヒーでお願い」
「そら豆と生ハムのクリームパスタですね。セットのお飲み物はアイスティーと、アイスコーヒーで」
「はい。お願い」
シートに注文を書き込んで、キッチンへ。瀬尾間チーフが笑顔で受け取ってくれた。
「すーっかりフロアの顔してるじゃないか。接客も問題ないし」
「あは。ありがとうございます」
「最近毎日入ってくれるね。大丈夫?」
大丈夫かと問う声は決して深刻なそれではなく、おどけた調子で投げ掛けられたコミュニケーションだった。
けれどその実、真澄のことを本気で気遣ってくれているのだということも知っている。一度店で倒れてから、時々こんな風にそっと声をかけてくれるのだ。
「稼げて助かります」真澄も冗談めかした口調になる。「そうかい」瀬尾間は返す。
事実、瀬尾間は真澄を気にかけていた。
一ヶ月、しかも回数も多く勤務に入っていれば、身の上話のひとつやふたつ、自然と出てくるのが普通だ。それが、週の半分以上顔を合わせていてもなお、真澄の個人的な話を一切聞かない。話を聞くのがうまいのだろう。真澄が自分の話をしなくとも、じゅうぶん間が持ってしまう。それも、無理な会話を引き出そうとするのではなく、至って自然なやり取りのうちに。
なにか事情がありそうだ。瀬尾間は真澄に対して、底の知れない危うさを感じていた。
「あ、そうだ。さっきのお客さん、無事に財布渡せましたよ」
不意に真澄が振り返る。詮索しかけていたのが気取られてしまったようで、瀬尾間はドキリとした。
「そうか、それは良かった」
さっきの、というのは二人組のサラリーマンの前に接客した男性で、会計の際に財布を落としていってしまったのだった。それに気付いた真澄が届けてきますと言うものだから、行き先が分かるのかと瀬尾間は聞いた。
「駅だと思います。新幹線の指定券入ってたので。二時半東京発に乗るなら真っ直ぐ駅に向かわないと間に合わない」
頭の回転が速い子だ。いや、子という歳ではないのだが。
勝手に開けた財布から切符を抜いてみせる度胸に感心しつつ、瀬尾間は思う。
ここから駅までは歩いて十分。そして、真澄はエプロンを脱ぎ、財布を掴んで店を出た。
「それで、すぐ見つかったのかい」
「はい。窓口の横で鞄ひっくり返してましたよ」
「ちょうど間に合って良かったなあ。いやあ本当、榎本くんがいてくれて助かったよ」
「ありがとうございます」
「ちょっと、瀬尾間さん」
穏やかな雑談。客の入りもまあまあ。合間を縫って、硬質な声が飛んできた。瀧本だ。
「瀧本くん」
「キッチン入ってください。それに、もうすぐ納品来ます」
「ああ、そうだね。ごめんごめん。じゃあ、榎本くん、ありがとね」
「いえ。そんな……」
(…………って、なんだぁ…………?)
大したことないです。そう言おうとして、真澄は首を捻る。
キッチンに向かう瀬尾間の背中越しに感じたのは、瀧本の視線。細く眇められて、まるで何かを試すような、あるいは値踏みするような、あまり心地よくない類いの注目を向けられている気がした。
「オーダーお願いしまーす!」
フロアからスタッフの声が聞こえる。真澄は反射的に返事を返して、客席に向かう。瀬尾間が手をひらひら振ってくれるのが見えた。瀧本はこちらを向くことなく、冷蔵庫から調味料を取り出している。
***
「ただいまー……」そっと帰宅を告げる。
玄関と、廊下と。沈黙が真澄の声を吸い込んだ。
(寝てるな)
午後四時を過ぎたところだったが、ここ最近の佳隆はすっかり昼夜逆転してしまっている。リビングに行くと手書きのメモがあり、「お帰り。親子丼作ったから温めて食べてね」と佳隆の筆跡。冷蔵庫には、タッパに入った親子丼の具と、お茶碗に盛られた白米が鎮座していた。
真澄は冷えた扉をそっと閉じて、その足で佳隆の部屋に向かった。ドアノブに手をかけて、そして躊躇う。佳隆の仕事が忙しくなってからは、各々の部屋で就寝している。
会いたいなぁ、と思った。佳隆の邪魔をしたくないと思いながらも、触れて、体温を感じながら、その腕に絡み付きたい。まどろみの中朝日を迎えたい。そんな本音が捨てられない。
逡巡の末、真澄は静かにドアを開けた。僅かな光を頼りに様子を窺う。案の定佳隆は眠っていた。パソコンの電源は付いたままだ。
ベッドの脇に膝をつく。潜り込んだら起こしてしまいそうだから。
薄い羽毛布団に頭をのせた。眠っている佳隆に触らないように両腕ものせて、枕みたいにしてみる。目の前に大好きな優しい顔がある。佳隆は横向きで眠るから。
目を閉じる。佳隆の呼吸のリズムに合わせてみた。
吸う、吸う、吐く、吐く。吸って、吐いて。
十分、いや、五分だけ。
五分だけ。
***no title days <未経験者歓迎>:END