no title days <月にむら雲、花に風>

通りに面したブラインドを開けると、若い女性が数人、中を窺うように立っていた。掃除用具を持った瀬尾間と目が合うと、きまりが悪そうに去っていく。
ここ最近の日課になりつつあった。

「榎本くん、まーた来てたよ」

苦笑いで振り返ると、真澄は「え」という顔をした。掃除モップを手放しそうになり、慌てて握り直す。その顔色は、あまり良いとは言えない。それもそうだろう、連日のように彼目当てのお客さんが訪れ、一挙手一投足に注目を向けられているのだから。

「すみません……」
「榎本くんが謝ることじゃあない。SNSの運営には、店長からズバッと削除依頼出してもらったからね」
「俺、キッチンの床やってきます」

浮かない表情だ。冗談めかして言ってみた甲斐もないまま、モップとバケツを持った薄い背中を見送る。瀬尾間は顎に手を当て、どうしたものかと頭を捻った。

 

ことの発端はSNSの海に放たれた一件の投稿だった。

来店した女性客が、料理の写真と一緒に、注文をサーブした真澄を写して投稿したのだ。彼女は都内のカフェやレストランを紹介する、そこそこ名の知れたユーザーで、その投稿によって「レストランで働く美貌の青年」の姿は世に晒されてしまった。
瀬尾間自身もその写真を確認したが、動いている所を撮影されたため焦点はやや甘く、視線も伏せているので決して写りが良いとは言えない。しかし、それが逆に興味を駆り立てたのか、真澄目当ての女性客が次々と来店した。『ファーヴェ・ディ・カルピーノ』は予期せぬ展開で満員御礼を迎えてしまったのだった。

にわかに増えた女性客に、最初は何が起こっていたのか分からなかった。
華やかな集団が店前に並び始めて一週間。「この人、今いますか?」そのうちの一人にそう話しかけられて、差し出されたスマートフォンの画面を見た。そこに映っていたのが、件の写真だったのだ。

 

綺麗な子だと思った。

間宮店長から新スタッフとして紹介された時、はっと目を引かれた。

瀬尾間はアルバイトの採用にも携わっているため、真澄の履歴書を見ている。高校中退の他に職歴はなく、殺風景な履歴書だった。いかにも即席な証明写真も、取り立てて目立っていた印象はない。時間に融通のきくフリーターであり、最大週五日入れるという希望日数だけで採用を決めたと言ってもいいくらいだ。面接には入らなかったが、人間的によほどひどくなければ採用すると間宮店長から聞いていた。だから、採用になったと報告を受けた時も、「そうですか」とあまり気にも留めていなかった。
けれど実際に会ってみて、不思議な求心力を彼に感じた。ブラウン管……とは、今はもう言わないだろうが、テレビの外にも綺麗な子はいるもんだと感心さえした。女性には見えないが、男性と括るのもなにかが違う。性別の枠が不確かに、そして些末なものに感じた。こんな風に視線を浴びることも、出待ちのように追われることも、きっと初めてではないだろう。

「あれ。榎本くん、痩せた?」
「え?」

業務にあたろうとキッチンに入って、ワイングラスを拭く真澄を見た。おや、と思う。袖から覗く腕が、横を向いた立ち姿が、なんとなくやつれたように感じたから。

「そうですか?」

真澄は腕を掲げてみる。そうか。痩せたのだろうか。
拭いたグラスをハンガーに引っ掛けながら、真澄は首を傾げる。

「もしかしてこの騒ぎ、けっこうしんどい?フロアのシフト、外してもらおうか」
「まさか。大丈夫ですよ。それに、蒲田さんまだ戻ってこれないんでしょう」

蒲田というのは、例の骨折したアルバイトのことだ。

「大丈夫です」と念押す微笑みが、瀬尾間の背筋を僅かに冷やす。底知れない恐ろしさを垣間見た気がした。

アルバイトの大学生が二人出勤してきたタイミングで、この話は打ち切りになった。折良く「瀬尾間チーフ」と呼ばれて、瀬尾間は結局またすぐにフロアに戻る。入れ違いに、瀧本が大きなケースを抱えてやって来た。裏の冷蔵庫から、納品されたばかりの食材を運んできたのだ。

「おはようございます」真澄は挨拶を投げ掛ける。
「……どうも」

瀧本はケースに視線を落としたままぶっきらぼうに返す。一瞬、顔を上げた。が、真澄の視線に気づいて、その目が捉えたのはきっと大きな赤いトマトだ。
いつもそう。
目が合うと素早く逸らされてしまうので、真澄はその横顔を睨み返した。

 

気掛かりなことがある。

出勤初日の挨拶で、瀧本に僅かな違和感を覚えていた。それは触れなければ忘れてしまうくらいの些細なものだったが、例えば料理を受けとる時、また或いは他のスタッフと話している時、瀧本の視線を感じることが度々あった。

それがちょうど、SNSの一件で不本意に店が賑わい始めて以降、明らかに頻回になっている。店の外でも視線を感じるようになったり、退勤後、後をつけられているような気がし始めたのもそれと同時期だ。このことは、誰にも言っていない。

いったい、何のために――と怪訝に思ったが、嫌がらせや執着に論理的な理由は必要なかった。

今のところ実害はなく、視線や気配を感じる以上のことはない。だから放っておいているのだが、それでも不愉快甚だしいことに変わりはない。真澄は苛立ちを燻らせていた。

それに、佳隆とも暫く話せていない。実態のつかめないあやふやな焦燥と煩わしさに、気を抜けば舌打ちしてしまいそうだ。
不快な気配の主が果たして瀧本なのかどうかは分からない。連日訪れる女性客の可能性もあるだろう。

(言いたいことあんなら直接言えっての)

憎らしくて、真澄は内心舌を出す。

 

――写真。

 

不意の瞬間を収めた写真を晒される。
嫌な既視感があった。ざらざらとした、なるべく触れないように遠ざけていた塊。

(あ、)

唐突に。
喉が狂暴に抉じ開けられる感覚がして、全身に鳥肌が立った。吐く。急に。どうして。
焦った真澄は乱雑にグラスとクロスを置き去り、スタッフルームの隣、従業員用のトイレに走る。目だけで追いかけてくる瀧本の視線が糸を引くようだ。

「うっ、…………んぐ………っ」

待って。待って。まだ。
頬が膨らむのを手の甲で無理やり押さえ、転げるように個室に飛び込んだ。蓋を開けるのと口から半固形の中身が溢れるのは同時だった。バシャバシャと薄い水面を叩く。便座に片手をついて、一度、二度、嘔吐する。その後思い出してようやく個室の鍵を閉めた。

「はあっ、はあ、は………っ、はぁ」

 

――黒板いっぱいに貼られた秘密が脳裏に浮かんでは沈む。においそうな程鮮明な、生々しい夜の事実。

 

レバーを引いて水を流す。胃のむかつきも、過去のあの瞬間も、全て下水に流せればいいのに。

 

呼吸を整えて個室を出た。一つしかない鏡には、亡霊みたいな顔色が写っている。手を洗い、両手で頬を叩いた。青白かった頬に強引に赤みが差す。早く気分を切り替えたくて、水道で顔を洗った。

吐いたと報告したら、きっと早退を命じられるだろう。
飲食店としての安全管理と、俺の健康を案じて。優しい人達だから。
だけど真澄は帰りたくなかった。佳隆も仕事中で、一人になったらきっと色々なことをぐるぐると考えてしまう。

吐き気は一時的なもので、一度吐いたら霧は晴れた。感染性の嘔吐ではない。ここにいても良いだろうか。忙しく働いて、余計なことを忘れていたい。何かを考える余白を埋めてしまいたい。冷たい水で念入りに手を洗う。

せめてシャツだけは着替えようと、トイレを出た足でロッカールームに向かった。予備の白シャツが一着支給されている。エプロンを脱ぎ、シャツのボタンを外しながらドアノブに触れると、ちょうど内側に引かれて扉が開いた。前に出した右手は宙を掴む。

出てきたのは瀧本だ。

「あ……」
「すみません」

咄嗟に謝ったのは真澄のほうで、瀧本はたじろいで身をそらせた。目が合って、一瞬変な間があって。それから瀧本は、「どうも」と頭を下げてすれ違う。言い訳がましくキッチンエプロンを結び直しながら出ていく背中が、そそくさと廊下に消えた。何かを、ポケットにねじ込んで。真澄の視線は、連鎖反応のように次々と挙動を捉えた。

あの目を知っている。疚しいこと、隠し事のある人間の目だ。

 

入れ違いになったロッカールームで、真澄はシャツを着替えた。普段ならハンガーに掛けておくシャツも、今はなんだか苛立っていて、ぐるりと丸めて放り込んだ。
ロッカーに鍵はついていない。貴重品は金庫に預けろと言われていて、長財布がちょうど入るくらいの金庫が十個くらい、スタッフルームに置かれている。面倒だし大金もカードも持っていないので、真澄はその金庫を使ったことはないのだが。

真澄の隣は、瀧本のロッカーだ。

連日続くめんどうな騒ぎと、わずらわしい視線、それに吐いたばかりの不快感が輪をかけて、真澄はすこぶる不機嫌である。
そして、嫌な予感には鋭い。

真澄は躊躇わずに瀧本のロッカーを開けた。絶対に、ここに何かがある。

スチール製の長方形には、見慣れた制服がかかっていた。内側にはマグネットが二つ。通勤に使っているのだろう、黒いリュックが奥でぺしゃんこになっている。
ざっと一瞥して、目に留まったのは茶封筒。
網棚の上、無造作に放られていた。
店名の印字がある茶封筒には真澄も見覚えがあった。給与明細や連絡事項は、この封筒で渡される。
だからこのロッカーに入っていても特別不自然ではないのだが、真澄はその封筒に手を伸ばしていた。

 

どうしてかなんて聞かれても困る。気味の悪い執着と同じように、嫌な予感に理屈は必要ないからだ。

 

***no title days <月にむら雲、花に風>:END

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