「ありがとうございましたー」
翌日。真澄は昼からの出勤だった。
最後の客を入り口まで送り出して、ランチタイムの営業は終わった。笑顔で扉を押さえていた真澄は、店頭のメニューボードを下げて店内に戻った。openの吊しをひっくり返してcloseすることも忘れない。
「榎本さん、お疲れさまっす」
初日に話した高校生は、森谷といった。土日のシフトが多い彼が平日の昼に入っているのは珍しい。不思議に思っているのを察してか、それとも、既に誰かに問われていてか。何も言わないうちに「今日、創立記念日で」と先手を打たれた。「そうなんだ。いいね」と真澄は返す。
「…………榎本さん、大丈夫っすか」
机を拭く森谷の瞳が窺うように翳るのが、視界の端に映る。
「ええ?何の話?」真澄は知らん顔をして、淡々とブラインドを下ろし続けた。森谷の案ずる推測は、きっと本質ではないと想像できたから。
「毎日の出待ちだけじゃないっすよね。なんか、なんつーか、何て言ったら良いか分かんないんすけど……」
だから驚いた。不意に恐れが仮面を剥いで素顔を見せる。気のせいで済ませておきたかったから、見ないように、言葉に出さないようにしていた恐れに、気が付いたら影を踏まれていた。
「だから、何の話か分かんないよ。別にそんな、気にしてないって」
「榎本さん、今どんな顔してるか分かってますか」
心臓が縮み上がる。
これ以上近付かれたら、これ以上覗き込まれたら。
「あの、こんなこと、俺が言っていいのか、分かんないんすけど……。……瀧本さんが、」
「森谷」
鋭い声が飛んできた。
呼ばれた森谷はほとんど反射的に振り返り、少し遅れて、真澄も声の方を見た。数拍の間が空いたのは、内側を探り当てられてしまった動揺を処理しれなかったから。
「瀧本さん……」呼び掛けるわけでもなく、森谷が呟く。
「在庫チェック」
「あっ、ハイ。今行きますっ」
「俺、榎本さんのこと心配してるんで」そう言い残し、いそいそと駆けていく背中を、真澄は見送る。
森谷の白い制服姿は瀧本とすれ違い、キッチンの奧に消えた。
瀧本が次に見据えたのは真澄だ。
「榎本さんは、休憩入ったら」
初めて、まともに目を合わせた。
***
店は午後も盛況だった。出待ち目的の客ではなく、お店の料理を求める本来の利用者で満席を迎えたことに真澄は安堵する。
森谷は何を言いかけていたのか。
「瀧本さんが」と言いかけた森谷。ディナー営業前の休憩時間、真澄はその続きに思案を巡らせていた。
鋭い視線、後をつけられている感じ。それらは単なる気のせいに終始するものではなく、所謂ストーカーと呼ばれる存在を示すものだった。
そう実感したのはつい昨日のこと。
瀧本のロッカーで見つけた茶封筒に、真澄の写真がぎっしり入っていたのだ。
しっかりと数えてはいないが、三十枚近くあったと思う。
料理をサーブする様子、客を見送る背中など、客席から撮られたものもあれば、ロッカールームで着替えていたり休憩室で横になっているところと、中の人間でないと撮れない写真も多かった。
ストーカーの正体は瀧本であり、森谷はそれを知って、伝えようとしてくれたのではないか。
理由なんて分からないが、不自然な言動に辻褄が合う。
モヤモヤと漂っていた予感が確信に変わった。
絶対負けない。屈してなんてやるもんか。
そんなことを考えていたら、「顔が怖いよ」と瀬尾間に笑われてしまった。ディナータイムが始まって、夕方から夜になってもなお、ふとした拍子に邪推が巡る。慌てて笑顔を作って誤魔化したが、実際気が立って疲れていた。喜ぶにも怒るにも、動く感情には体力を使う。
「――くん、――榎本くーん」
「!」
ぼんやりしていた。名前を呼ばれていたのに気付かなかった。
はっと振り返ると、瀬尾間がキッチンから覗いていた。慌てて駆け寄って頭を下げる。
「すみません。なんでしょうか」
「あのね、オリーブオイルのストックがラスト。今日の発注に追加しておいて」
そう言ってオイルの瓶をゆらゆら揺らす。
「了解です」
目を伏せるように頷く真澄の顔色が白いような気がして、瀬尾間は怪訝に眉根を寄せた。
「榎本くん、本当に大丈夫かい。なんなら、今日あがりにする?客入りも落ち着いたし、発注入ってもいいよ」
真澄には、瀬尾間の気遣いが歪んで刺さった。お前は不要だと言われた気がして。邪魔だから帰れと言われた気がして。一方では、瀬尾間はそんなことを言わないと分かっているのだ。分かっていても、いびつな切っ先はまるでプログラムされたように浮かんでは牙を剥く。
「ぼんやりしててすみません。……ちゃんと働くんで、やらせてください」
柔らかくも、しかし強く念押すような笑顔に鬼気迫るものを感じた瀬尾間は、あやうく手に持ったオリーブオイルを滑り落とすところだった。
この子は、何に追い立てられているのだろう。
「分かったから、無理はしないように。――そうだ。実は今日さ、営業後に、一杯飲んでかないかって話あってね。榎本くんも呼ぼうと思ってたんだけど、あんまり体調万全じゃなさそうだし、どうだろう。近くに朝までやってる居酒屋があるんだ」
「えーと、飲み会、ですか」
「そうそう。迷うくらいなら聞いちゃえって思ってね。直接聞いちゃった」
「一杯」という誘いが「飲み会」なのだと気付くのに一瞬の間を要するくらい、真澄には無縁の場面だった。飲みの席が、という意味ではなく、誰かから親しく酒に誘われるというシチュエーションは、これまでの生活では考えられないものだったから。
日の当たる世界。日の当たる関係。
それ自体を嬉しく感じている自分にまず驚く。こんな時でなければきっと参加していた。
けれど今、連日積もり積もった疲労と、昂って擦りきれそうな神経をもって楽しめる気はまるでない。でも断ったら、やはり体調が万全でないのを肯定したことになるまいか。どう断ろうか。こんな時、なんと返したらいいのか分からない。
「瀧本くんもさ、『榎本さんも誘いましょう』って」
予想外の言葉が続き、真澄は目を見開いた。
「二人が喋ってる所あんま見ないけど、あいつ人見知りだからさ。君と仲良くなりたいんじゃない。同じキッチン配置なんだし」
まあ、あいつは社員だけどね。屈託ない笑顔でそう続く。
ストーカーが、〝仲良く〟だって?
「……それは……嬉しいですね。ありがとうございます」
気遣いを無下にしないよう、浮かんだ不快をぐっと飲み込む。この人に悪気はないのだから。
「せっかくなんですけど、今日はまっすぐ帰ろうと思います」
「うん。分かった。ゆっくり休みな」
「また誘ってください」
うまく、笑えているだろうか。
瀬尾間は頷いて奥に引いていった。自分の挙動は、怪訝に思われるようなものではなかったと、そう思っていて良いだろうか。
***
それから、午後の営業を終え、レストランは閉店時間を迎えた。
売り上げの処理が片付いて、時刻は二十二時過ぎ。
真澄は、休憩室のソファに横たわっていた。
「――くん、榎本くんっ」
肩を揺すられ、浅いところを浮き沈みしていた意識がぼんやりと浮かんでくる。揺蕩えども沈まぬ倦怠から、徐々に視界がはっきりと冴えてきて、瀬尾間の不安そうな顔が視界に映る。目が合うと、瀬尾間は大袈裟なまでに深く息を吐いた。
「ああ、良かった。起きなかったら、どうしようかと思って」
「あ…………、すみませ、」
「急に起きたらいけないよ。ゆっくり体起こしてごらん」
「…………すみません……」
真澄のシフトは二十時までで組まれていた。仕事を終え、フロアから引き上げ、キッチンスタッフに挨拶をして。着替えのために戻ってきたロッカールームで、真澄は倒れてしまったのだ。
「……いてっ」
「どこか痛む?」
「あ、いや、膝が。どっかぶつけたんだと思います」
そういえば、ひどい眩暈で動けなくなる前、膝から床に崩れてしまった。じいんと痛みが爪先まで駆けていったことを思い出す。
「びっくりしたよ。森谷くんが泡食ってキッチン来るんだもん。見せてあげたかったな。んで、来てみたら、君は床に転がってるし」
口調こそ軽快だが、目は真剣そのものだ。
こういう相手には、一言返すのにも緊張する。
「さすがにちょっと、疲れちゃったみたいで。驚かせてすみません。もう、かなり良くなりました」
嘘だ。
けれど実際、ここで横になっている現状そのものが、真澄を落ち着かなくさせていた。外に出たほうが、遥かに気分が晴れる確信があった。
――着替えのために、ロッカールームに戻ってきた。ロッカーを開けて、ワイシャツを脱ぐ。着てきたフード付きのスウェットに袖を通したとき、これまで思い出すことのなかった昔の記憶がありありと蘇ってきたのだ。
突然だった。クソみたいな父親の拳も、その拳に殴られた感覚も。連れていかれた先で初めて自分の体を暴いた中年男の刺青も、その薬指に嵌められていた結婚指輪の輝きも。
ナップザックに現金を隠した。全て父親に取られてしまってはたまらない。正気を失ってもなお金勘定だけは忘れない男だったから、間引きすぎないように気を付けないといけなかった。
やがて通帳を手に入れた。増えていく残高だけが現実を繋ぎ止めてくれた。
息を殺していた高校生活。どこで呼吸をすればいいのか分からなかった。どんな時も酸欠に喘いでいた。
それでもなんとかしがみついていられたのに、黒板一面に剥き出しになった真夜中の秘密は、とどめのひと蹴りだった。瓦解。そんな言葉がよく似合う。浮き輪を掴む手は痺れ、あっさりと水底に沈んでいった。
そんな、思い出したって仕方のない全てのことが、乱暴なまでに強引に、真澄の〝今〟を支配した。
亡霊の気配は感じていたのだ。いつかこうなってしまうと予感していた。それは、森谷から高校生らしいエピソードを楽しげに聞く瞬間だったり、自分がこれまで経験してこなかった新しい関係が築けた瞬間だったり。
そんな風に少しずつ亀裂の入った脆い足場に、瀧本のロッカーで見つけた隠し撮りの束は致命的な衝撃を与えたのだろう。どこか他人事に感じてしまうのは、徐々に崩れていく自らの足元に気付かなかったから。否、目を閉じて、気付かないふりをしていたから。
狂暴な亡霊に牙を剥かれ、真澄は文字通り立っていられなくなった。こんな時、人間の取れる行動なんて限られている。闘うか、逃げるか、固まるか。真澄の本能は逃げるために、固まることを選んだのだ。
そして、ほとんど同時に襲ってきた強い眩暈と吐き気が真澄に追い討ちをかけた。天と地がぐるぐると回って、頬がひんやりとした。床に伏せてしまったと遅れて気付く。こういうとき、どうしたらいいんだっけ。どうしたら――目を閉じたら、そのまま気を失っていた。
「真面目に聞くよ。榎本くん、君、誰が迎えに来てくれる人はいますか」
問われて我に返る。また、亡霊に包まれようとしていた。かけられたブランケットの下で手のひらを握って、開く。それを何度か繰り返す。現実感が、戻ってくる気がして。
瀬尾間が改まった声でそう尋ねる。たまらず、真澄は目を逸らした。
「こんな状態で一人で帰るのは危ないよ」
「…………あは。大丈夫ですよ。ごめんなさい、心配かけて……」
「二時間もひっくり返って何言うの」
被せるように瀬尾間が言う。もう、やめてくれと真澄は思った。
「あの、ほんとに………」
「一人暮らし?そうじゃないなら、誰かに迎えに来てもらったほうがいい。近くに家族か友達はいない?電話して―」
「いいっつってんだろ!」
しまった、と思った時にはもう遅い。
放っておいてくれ。踏み込んで来ないでほしい。浮かんだ言葉を飲み込んで、「ごめんなさい」真澄は小さく呟いた。
瀬尾間は目を丸くして真澄を見る。
蛍光灯の安っぽい光に照らされて、顔色は一層青く見える。長い睫毛が落とす影に見入ってしまうのに十分な沈黙があった。
華奢な肩が、指が、震えている。暗い顔で俯く生気のない青年と、いつも笑顔で機転の利く「榎本くん」が同一人物だなんてまるで思えない。瀬尾間は瞬きも忘れていた。
呼吸すら躊躇われるような空気だ。真澄はやっとの思いで唾を飲む。
しんと静まり返った一室に申し訳程度のノックが聞こえ、そのまま扉が少しだけ開く。助かった、と思うも束の間、僅かな隙間から顔を出したのは、着替えを済ませて私服になった瀧本だった。
「…………瀬尾間さん。榎本さん、どうですか」
言いながら視線を巡らせた瀧本と目が合う。瀬尾間の返答はいらなかった。言いにくそうに、瀧本が口を開く。
「あの、店長達から電話あって。先始めててもらってるんですけど、どうします。今日、やめときますか」
「あっ、どうぞ。瀬尾間さん。俺帰れるんで、お店向かってください」
瀬尾間が何か言う前にと、真澄は被せるように口を開いた。そうだ、今日、飲みに行くと言っていたじゃないか。返事も待たず、ブランケットをたたみながら立ち上がる。
「ご迷惑おかけしてすみません。もうほんと、大丈夫なんで。施錠しとくんで、お二人、先にどうぞ」
「…………いや。カギは僕がやっておこう。気をつけて帰りなさい」
「じゃあ、お言葉に甘えます。お先に失礼します」
真澄は逃げるように部屋を抜けた。残る二人の視線を断ち切りたくて、扉をやや強引に閉めてしまう。早足で店を出て、夜の大通りを駆け足で通りすぎる。その足取りは徐々にペースを上げ、最後は全力疾走で風を切った。
***
「――はあっ、……はぁ、はー…………」
通りを駆け抜け、住宅街に差し掛かったところで、真澄の足取りは緩やかになる。
(横っ腹痛てー)
もとより、家まで走って帰ろうなんて思ってないし、そんな持久力もない。ただ冷静に、頭を冷やす効果は十分にあった。
脇腹をさすりながら呼吸を整える。
考えていたのは、今後のこと。
(…………バイト、辞めないとだな)
失礼な態度を取った。失礼なことを言った。ひっくり返って醜態を晒した。
それに何より、自分の心が持たない気がして。
(…………馬鹿みてぇ。…………俺なんかに、出来るわけなかった)
ろくに学校も通ってない。まともに働いたこともない。そんな自分が優しい環境に身を置いて、ちょっと必要とされた気になって。新しいことを頼まれたりなんかして、自分にもなにか出来るんじゃないかって浮かれてた。
一ヶ月先のシフトは出てしまったから、その分はしっかり働いて。いや、それ以前に、こういうの、なんて言うんだっけ。解雇。クビだ。こんな風に迷惑かけたアルバイトなんて、即刻クビになるに決まってる。
「佳隆さんから自立させてください」なんて、そんな大口叩いて、結局このザマか。
クッと失笑が漏れた。自暴自棄な気分になって、誰もいない宅地通り、ひとりで大笑いしていたかもしれない。
――不自然な足音に気付かなければ。
「………………」
警戒、警鐘、赤信号の点滅。
針に刺されたように緊張のアンテナが起立する。
歩調は揃っていたけれど、今真澄が履いているのは底の厚いスニーカー。アスファルトをカツカツと鳴らすことはない。だからこそ、ぴったりと揃っているのは不自然で、不気味だった。
嫌な感じがする。
ストーカー。思考はショートカットで可能性を弾き出す。瀧本の、こちらを窺うような顔が浮かぶ。
歩みのペースは変えないまま、真澄は目線だけで辺りを確認した。全体的に街灯が少ない。住宅地だから、もっと早い時間であれば家そのものや玄関の明かりで十分なのだろう。
右手に公園。引っ張り込まれてしまったら分が悪い。
背後の足音が一歩ずれた。間隔を詰められたのだと気配で感じる。
(――――くそったれ)
真澄は走った。角を曲がった細い路地を目指して地面を蹴る。後ろからついてくる足音も、もう隠すことなく靴底を鳴らす。
(――金玉蹴り飛ばしてやる)
闘争心に火が着いた。待ち伏せしてやるつもりで、角を曲がってすぐの電柱の辺り、真澄は振り返る。
瀧本と自分。それほど大きな体格差はないはずだ。舐められたままではいられない。どうせ辞めるバイトだ。一発蹴り入れて文句のひとつでも言わないことには気がすまない。
気付かぬうちに、真澄自身パニックに陥っていた。
足音が響く。だんだん大きくなる。伸びた影が角から覗いた。
「!?」
蹴りあげてやろうと足を引き、しかし、飛び出してきた人影は真澄の予想を外れていた。
(――瀧本じゃない)
ぞくりと肌が粟立った。
中肉中背。黒い縁のある眼鏡。近付いてきて、ワイシャツがストライプ柄だと目が拾う。特長のないスラックス。所々剥げかけた革靴。
(誰だ、こいつ)
「――――ひっ」
混乱で頭がいっぱいで、ジリジリと後退する最中、ついに腕を掴まれる。
「エノモトマスミくん。やっと会えたね。やっと会えた。さあ捕まえた。一緒に帰ろう」
「な、に言ってんだ、あんた…………」
「口が悪い。君はそんな子じゃないでしょう。そんな言葉は使わないよ」
ジトッと粘るような視線で睨まれる。
(――あ、)
思い出した。
財布を届けた新幹線の男。
「あのね、僕ね、名古屋に家があるんだ。うるせえジジイとババアがいるけど気にしなくていいよ。あいつら、僕の奴隷みたいなものだから」
逃れようと身を捩ったら、腕を引かれて思わずよろけた。背中を塀に押し付けられる。街灯に照らされて、男の顔がよく見える。間違いない。レストランで落とした財布を届けた男だ。
「き、ききき、綺麗だね、エノモトマスミくん。ドールみたいだ。ど、ど、どんなパーツでできているのかな。カスタムはできるのかな」
顔が近付く。生暖かい息がかかるほど。
舐めるような視線が不快で、真澄は両腕で顔を守ったが、男はそれをこじ開けようと躍起になる。べたべたと体を触られる嫌悪感に、胃がむかついてきた。
「なんで隠しちゃうの。恥ずかしがりやなんだね。だ、だだ、大丈夫。僕の部屋に、たく、たくさん、友達がいるから」
「気色悪いこと、言ってんじゃ、ねぇよ…………っ」
急所を狙おうと足を上げた。
男は驚くような速さでそれに気付き、真澄の軸足を払った。
「いっ…………!」
背中に衝撃。視界が反転して、反射的に閉じた目をゆっくり開くと空が見える。月が見下ろす。その視界に、男が割り込んできた。胴体を挟むように膝立ちされて、真澄がどれだけ足をばたつかせても男には届かない。もちろん、両腕の自由も奪われたまま。
「退けよ!離せ!」
声を上げると同時に、頬に衝撃が生まれた。あっと思えば弾けるような衝撃は徐々に痛みへと姿を変え、視線を動かした先、男の震える拳に何が起きたのかを理解する。頬がピリピリと熱くなる。鼻を啜ると血の味がした。
殴られた。かつて、クソ親父に、そうされたように。
(…………ヤバい)
力じゃ敵わない。
そう自覚したら、一気に、サアッと血の気が引いた。
怖い。
怖い、怖い、怖い。
胃の辺りがぐるぐるした。心臓が悲鳴を上げる。
まずい。吐きそう。
「大丈夫?泣きそうなの?大丈夫だよ。すぐにお家に帰ろうね。ああ、でも、もう電車終わっちゃってるからさ、今日は近くで一泊しようね」
猫なで声と裏腹に、腕を押さえる力は少しも緩まない。そのアンバランスさが恐ろしくて、にもかかわらず、男が勝手に盛り上がれば盛り上がるほど、真澄の思考はだんだん冷えて、落ち着いていった。鼻からあたたかなものが流れていく感覚もよく分かる。
(…………バチが当たったんだ)
ツケが回ってきた、とでも言うべきか。
このまま、殺されるのかもしれないな。
お似合いじゃないか。
汚れた自分と、妄想癖のオッサン。
不相応の生ぬるい安寧よりも、陽のあたるあたたかな平穏よりも。
もう。
死んじゃってもいいや。
「――――なっ、にやってんだよ!このクソ野郎!」
突然、視界が開けた。
覆い被さっていた男が剥がされたのだ。
男は蹴り飛ばされ、「ふぐっ」とくぐもった声を出す。
「お前も!火事だーとか、泥棒ー!とかっ、なんか叫べよ!」
怒りを纏った声は、今度は自分に向けられた。
瀧本。
男を剥がしてくれたのは、瀧本だった。
何が起きているのか分からなくて、呆然と見上げていると、肩に手が触れた。ぎょっとして体が跳ねる。
「あっ、ごめん、ごめんね、驚いたよね。僕だよ。瀬尾間です」
「せ、瀬尾間さん…………瀧本さん…………?」
どうなってるんだ。
どうして、二人がここに。
困惑と同時に息が上がってきて、体の芯から震えが込み上げてきた。苦しい。うまく息ができない。
「榎本くん。もう大丈夫。もう大丈夫だよ」
荒くなっていく呼吸と、がたがたと大きく震える体。瀬尾間はそれを、手のひらに直に感じていた。真澄を落ち着かせようと、思い付く限りの声をかける。
***no title days <疑惑、確信へ>:END