進級したての春の出来事だった。
満開の桜に囲まれて、坂の上に立つ公立高校。
県内でも有数の在籍人数の多さで、クラス替えの度に新しい出会いがある。
春浩が四組の教室に入った時にはほとんどの生徒が揃っていたが、三年目にしてもやはり見慣れない顔が多く並んでいた。
教卓の座席表が示した自分の席に荷物を置く。
名簿順で暫定的に指定された場所は、一番窓側の席だった。
少し顔を向ければ高台から、通学路である急な坂、さらにその下に広がる街並みが一望できる。眼下に広がる一面の桜色は少し息苦しさを感じるくらい、圧倒的だ。
「よっ、春浩。すげえな、また同じクラスだ」
言いながら近付いてきたのは忠彦で、彼とは三年前の入学式で前後に座ったときからの縁だ。去年も同じクラスだったことを喜び、今年もこのように顔を会わせた。遂に三年間、同じ教室で同じ時間を共有したことになる。このマンモス校で三年連続クラスが重なるなんて、少なくとも自分の周りに例はない。
失礼しまーす、なんて言いながら、忠彦は空いている席に腰掛ける。
「まだ全員来てないけど、俺ほとんど初対面っぽいな。忠彦は?」
「どーだろ、部活で一緒なやつが何人かいるくらいかな。ま、皆そんなもんだろ」
「あー、部活ね。忠彦は部活入ってるからなあ……」
そんな風に適当な話を交わしながら、机の中身を整理する。と言っても授業もない新学期初日で必要な物はさほどなく、せいぜいファイルとペンケースを鞄から移す程度だ。
ホームルーム前の騒がしさが教室を満たしていた。
誰もが雑談に花を咲かせている。
だから、その噂話が談笑に紛れて飛び込んで来た時には、耳を疑った。
「ね、このクラスらしいよ、〝売ってる〟ヤツ」
すぐ隣で固まっていた女子の集団から聞こえてきた、新学期の朝には似つかわしくないそんな言葉。
盗み聞きをしようとしていたとか、そんなことは決してない。
ただ、聞こえる音量で憚ることなく話しているから、耳に入ってしまうのだ。
センセーショナルな話題に集団は一気に盛り上がり、口々にその噂話を広げていく。
聞き取れた所によると、所謂エンコーをしているヤツがこのクラスにいて、しかもそいつは男だという。そして、買うのもどうやら男らしい。売る方も売る方だが、買う方も大概だ。
わりと有名な噂らしいが、当人の名前や特徴は一切出てくることはなかった。話の中でも細かな食い違いはいくつもあり、当然尾ひれがついていることは簡単に推測できる。それでも、雑談の一部として消費されるには充分に刺激的な内容だった。
「あ、俺、知ってんよそいつ」
前の机に腰かけた忠彦が、ぽつりと呟く。
女子の会話をひっそり聞いていたことを気付かれてギクリとしたが、忠彦は気にするふうでもなく続ける。
「え、マジな噂なの。俺、初耳」
「なんか部活の友達が、西口公園のハッテン場……っていうの?そこで見たって」
「………たまたまそこにいたとかじゃなく?」
「万札、握らされてたって」
うわー、と思わず背筋を反らせてしまう。
こうやって噂は広がっていくのだろう。
「なんか、このクラスだってな。忠彦、名前も知ってんの?」
「確か……鈴原真澄?あ、そういや、そいつ名字途中で変わったんだった。榎本真澄だよ、エノモト」
「詳しいね」
「その友達が同じクラスだったんだよ、榎本真澄と」
忠彦は教室を見渡したが、「まだ来てないっぽい」と首を横に振った。忠彦はどうやら、榎本真澄の顔も知っているらしい。「たぶん」と言い添えたので、自信はなさそうであったが。
丁度その時チャイムが響き、前の扉から担任が入ってきた。
大声で挨拶をしながら、席につけと出席簿で教卓を叩く。
「へいへい。じゃ、春浩また後で」
「おう」
榎本真澄は、まだ来ない。
そもそも売りなんてやってるくらいだし、それだけでも不良っぽいというか、少なくともマトモじゃない。果たして初日から登校してくるのかも怪しい所である。
「お前ら出席取るぞー。相澤、……梅田……」
名前を呼ばれ、はいと返事が続く。その流れも、エノモトで早くも止まってしまった。
「榎本、……榎本真澄ー、……遅刻か?」
怪訝そうに空席を見やる担任。誰か聞いてないかと問われ、沈黙が答える。榎本真澄の名前は飛ばされた。
教室の扉が開けられたのは、サ行の佐藤が呼ばれた時だった。
ドアの開く音に教室は一瞬で静まり返り、前の引き違い戸から小柄な男子生徒がふらりと姿を見せた。思わず、息を飲む。
榎本真澄だ、と直感する。
空席は一つしかなく、このタイミングで教室に入ってきた可能性は遅刻した榎本真澄しかないのだが、直感はそんな推測の先に立っていた。
「あー、榎本か、初日から遅刻だぞ。気を付けなさい」
「……はい」
かろうじて聞き取れるくらいの小さな返事をして、誰とも視線を交えることなく、まっすぐに空席まで歩いていく。淡々と。淡々と歩を進め、鞄を置き、椅子を引いて席につく。
榎本真澄の第一印象は、一言で表すなら地味だった。
取り立てて特徴のない、覇気のない様子。ボサボサの髪と黒縁の眼鏡に顔の殆どが隠されていて、なんというか、すごく暗そう。
良く言えば真面目そうにも見えるのに、あんな噂のネタになるなんて、人は見た目によらないものである。
唯一際立っていたのはその華奢な体躯で、三年にもなるというのに制服がまだ大きく見える。裾から覗く厚手のセーターは濃い紫色だった。
隣の女子が、離れて座る友達に目配せする。「ほら、噂のあいつ」という視線。理解できないもの、自分とは違うものを笑う目をしていた。
榎本真澄は自身の噂や好奇の視線を知ってか知らずか、俯いたまま顔を上げることはなかった。
ただ、音も立てずにそこにいて、怠そうに頬杖をつくだけ。
出欠確認は何事もなかったかのように再開した。
なぜか春浩は、榎本真澄から視線を離せなくなっていた。
***
「なあ、そういや思い出したわ」
昼休み、弁当を持ってやって来た忠彦は、開口一番そう言った。
前の椅子を勝手にひっくり返して座り、弁当の包みを開く。
「何を?」
「榎本真澄。あいつ、確か始業式でぶっ倒れたやつだよ。今朝顔見て思い出した」
言いながら、忠彦は玉子焼きを口に放り込んだ。
春浩は煮物を咀嚼しながら、昨日の始業式の記憶を辿る。
そう言えば、途中で前の方が騒がしくなったような、気もする。
式は最初から最後まで起立で通され、誰かが貧血を起こすのは毎年恒例の話。だからきっと、気にも止めていなかったのだろう。
「まあ、それだけなんだけどな。倒れたってか、立ってらんなくなった、って感じで。養護の教員がすっ飛んできて連れてったよ」
「ふーん」
視線を忠彦の後ろに伸ばし、榎本真澄の席を見る。
授業中は確かに座っていたはずだが、昼休みになるとすぐにどこかへ立ち去ってしまった。その空席は、切り取られてここではない別の世界にあるような、そんな浮き方をしていた。
おそらく今も、教室のどこかで彼の噂がされている。
誰もが遠巻きに榎本真澄の姿を認め、いたずらに噂話を繰り返すのだ。誰も、彼に近寄ろうとはしない。
彼は今、どこにいるのだろう。
放課後、一緒に帰ろうと荷物を持って来た忠彦に掃除当番だと告げた春浩は、だらだらと教室のすみを掃いていた。
ランダムに割り振られた当番制で、榎本真澄も同じ班だと掲示されていたのだが、時間になっても彼が姿を見せることはなかった。
「ねえ、誰かゴミ捨て行ってくれない?」
黒板を消していた女子が、教卓でチョークを数えながら声を張った。
面倒な掃除から早く解放されたい面々は、曖昧な返事でお茶を濁す。「誰かが、行くでしょう」そんな雰囲気が漂っていた。
春浩はホウキを動かす手を止めた。
「あー、じゃ、俺行ってくる。先解散してていいよ」
「春浩くん、いいの?」
「おー。別に俺、用事ないし。校舎裏だっけ?」
周囲から、役割を押し付けられずに済んでほっとした様子がありありと伝わってくる。
ゴミ捨てくらい大した手間でもないし、バイトや塾が待っている訳でもない。可燃ゴミでいっぱいになった袋をゴミ箱から抜き出し、口を縛る。間延びしたたくさんの「お願い」と「ありがとう」に送られて教室を後にした。
校舎裏には、一階渡り廊下の職員通用口から出るのが最短ルートだ。
踵の踏まれた靴で、ゴミ袋を引き摺らないように廊下を歩く。外に繋がるスチール製のガラス戸を開けると、突風に包まれた。
砂埃が目に入り、思わず顔をしかめる。桜の花びらが風流の欠片もなく飛ばされていた。
「風つっよ……」
制服の裾がバタバタと煽られる。
高台で遮るものが何もないせいか、この辺り一帯の風は強い。
校舎裏の植木や花壇は正門側ほど整備が行き届いておらず、桜の木の枝は伸びっぱなし、草は生えっぱなしの状態だった。自然に伸びた満開の桜は生命力に満ちていて、寧ろ好感を持てる。
ゴミ捨て場に向かいながら、舞い上がる花びらを何となく目で追っていくと、視界にふと制服の紺色が映り込んだ。
立ち止まってみれば、その人影は木の根本に寄り掛かるようにして幹に背中を預けているのが分かる。
何となく気になって近付いてみて、そしてぎょっとした。
芝生と言うには伸びすぎた雑草の中、桜の木に体重を預けて眠っていたのは、あの榎本真澄だったのだ。
サクサクと土を踏み、そっと柵を越える。自分の影が榎本真澄を覆う。
こんなに至近距離に近づいてもなお、彼は起きる気配を見せない。無防備に寝顔をさらすその姿に、作り物めいた印象すら受ける。
具合でも悪いのかと一瞬焦りを覚えたが、規則的に上下する薄い胸に安堵した。
随分長いことここに居たのか、榎本真澄の髪や肩、風によってあらわになった額には、たくさんの花びらが落ちていた。
黒縁眼鏡は外されて、右手に握られている。隠されていたその下、睫毛の長さに目を奪われた。
木漏れ日がゆらゆらと揺れる。榎本真澄の頬に光が落ちる。
春浩は困惑していた。
起こすべきか、起こさざるべきか。
人気の少ない校舎裏で、このままでは確実に日が暮れてしまう。
けれど自分は今まで榎本真澄と話したこともなく、何なら存在さえようやく知ったくらいである。
加えて彼を取り巻く噂のせいで、変に身構えてしまっている。偏見なしに、どう話しかけろというのだ。出来ることなら、関わることなく立ち去りたい。
そんなことを考えていた矢先、再び強い風が吹き、木々が擦れあってざわめいた。
「!」
その音に起こされたのか、榎本真澄は小さく身じろいだ。作り物のようだった顔に、ぴくりと意識が走る。
握られていた眼鏡がカチャリと音を立てるのが聞こえ、春浩は逃げるようにその場を離れた。
何かに急かされるように走り去り、ゴミ捨て場に袋を投げ入れる。
走って乱れた呼吸を整えようと、深く息を吸い込んだ。
「はーっ……はーっ……」
制服の袖で顔を擦る。
この焦りの正体を、春浩はまだ知らない。
梢の触れるザワザワとした葉音が、どこか遠くに聞こえた。
***
気付いたことがある。
榎本真澄は、よく見ると、かなり綺麗な顔をしていた。
伸ばしっぱなしの髪型と縁の太い眼鏡で隠れていたが、その下の長い睫毛は現実で、「こりゃ、好きなやつは好きだわ」と、あの噂を一人合点した。はたと冷静になってみると、大変失礼な話である。
結局、あの後春治が校舎裏に戻ることはなかった。
だから榎本真澄がいつまであの場所で昼寝をしていて、いつ室内に戻って、どうやって帰ったのか、何一つ知らない。
彼は今日も頬杖をつき、気配を殺して教室にいる。
そして、もう一つ。榎本真澄は、時々酷い顔色をしている。
それは授業中であったり、たまに廊下ですれ違った時だったり。とにかく死にそうなくらい真っ白な顔をしているのを見かけたのは一度や二度ではない。
この前の体育の時間。その日も榎本真澄はただでさえ色素の薄い顔色を一層白くさせていた。
笛が鳴って試合が始まる。試合形式のバスケットボールで、彼の班がコートに出ていた。
榎本真澄は一応中には入っているものの、積極的に動くことは当然ないし、周囲も彼を居ないものとして扱っているのは誰の目にも明らかだった。
忠彦と二人、壁に寄りかかって試合を目で追う。
忠彦は友人の応援に精を出していたが、春浩は相変わらず、榎本真澄から目が離せない。
「うわっ」忠彦が声を上げた。
「あ」
ロングパスで投げられたボールが、榎本真澄の頭に直撃した。思わず目を閉じる。あんなの、絶対、痛い。
勢いに負けて、あっさりと彼は床に崩れた。膝から木張りの床に倒れ込む。ボールは弾みながら転がっていく。
教師がホイッスルを鳴らす。
「どんくさ」と、笑う声がまばらに聞こえた。
手を貸す人はいない。大丈夫か、と得点板の脇に立つ教員が叫んだ。けれど、榎本真澄は起き上がらない。
冷たい体育館の床に、手足を投げ出して倒れていた。
異変に気付いた周囲が徐々にひっそりと騒ぎだし、それを見た教師も榎本真澄に近づいた。やや乱暴に肩を揺するが返事はない。
そのまま、榎本真澄は保健室に運ばれていった。
今度も春浩は、ただ、見ているだけだった。
「うっわ、脳揺れたんじゃねえの、あれ」
ぎょっとしたように顎に指を添わす忠彦が言う。
不自然に空いたコートの真ん中には、壊れた彼の黒縁眼鏡が落ちていた。
彼の眼鏡は、翌日には復活していた。少し形は違ったが、変化のない黒縁だった。
頬には大きなガーゼが当てられていた。
その日の午後、英語の時間。
教科書を読み上げながら机の間を歩いていた教師を、榎本真澄が呼び止めた。
いくつか言葉を交わし、彼は席を立つ。手の甲で口元を押さえていた。
僅かに背を丸めて、不安定な足取りで教室から出ていく。
行き先は想像に易かった。
教師は再び英文を続ける。
背中を向けた時、春浩は教室を抜け出した。
ドアの開く音でバレるだろうとか、目を丸くした忠彦の視線とか、そんな理性に気付かないふりをして、真っ直ぐに廊下を歩く。
この階に男子トイレは無い。少し迷って、階段を下る。
階下。廊下に出ると、ちょうどトイレのある角に入っていく人影を見た。やや前傾姿勢で、つんのめるように角を曲がった薄い背中。はやる気持ちをそのままに、小走りで追いかける。
乱雑にドアが開閉される。施錠の音は聞こえなかった。そんな余裕も無かったらしい。
間髪入れずに耳に飛び込んできたのは、くぐもった嘔吐き声。バシャバシャという水っぽい音。
「う、オエッ………げほっげほっ、……ゲホ、うぇっ………」
吐いている。
喉の奥がよじれるような苦しげな声が廊下まで響いていた。
壁に背を預けながら、息を殺して開き戸の向こうを想像した。トイレに入ってすぐ、榎本真澄は吐いていた。駆け込んだのは一番手前の個室か、あるいは、個室までもたなかったかもしれない。そうだ。きっとそうだ。
あの綺麗な顔が、苦痛に歪むのか。
涙や鼻水でぐしゃぐしゃになった姿を思う。桜の下で、きっと自分は殺されたのだ。いや本当は、もっと前、最初に教室に入ってきた時から、きっともう。
咳き込む声。呼吸が乱れる音。
頬のガーゼに、吐物がはねているかもしれない。
彼が蹲るドアの向こうに、たまらなく興奮した。
***傍観者A:END