鞠谷圭太は可愛かった。
小さい頃から可愛い可愛いと言われ続け、「お人形さんみたい」「女の子のよう」と例えられた。姉のおままごと道具の手鏡を見て、これが自分の顔かと目を合わせたことを覚えている。
可愛いという形容詞に違和感を覚えたのも束の間。賢い鞠谷はそれを利用することにした。それも、隅から隅まで、余すことなく。
学んだのでも教わったのでもなく、感覚で自ずから身につけた処世術だった。
大人たちを思い通りに動かすのは簡単だった。
幼い鞠谷にとって大人は二種類。
最初から笑顔全開で、人懐っこくしていれば簡単に「可愛い」「良い子」のレッテルをくれる存在。
あるいは、最初は人見知りの風体で様子を伺い、徐々に笑顔を出していくことで「まあ可愛らしい!」と落ちてくれる存在。
ことあるごとに服の裾を引っ張って、ありがとう、と微笑んでしまえば一瞬だった。
同性相手でもチョロいもんだった。
大人しいキャラではなかったから、一緒になってバカみたいに遊んで、つるんで。
そして時々、弱って見せるのだ。
鞠谷はお稚児さん扱いよりも、愛されるクラスの中心でいることを選んだ。その方が、何かと好都合だったのだ。不注意で足を骨折した時なんかは、クラスメイトが一から十まであらゆる手助けをしてくれた。
先輩になるともっと簡単で、ニコニコと愛想を振りまいて過剰なまでに持ち上げておけばイチコロだった。中学時代には共学にも関わらず、同性五人の先輩に告白された。どうやら、自分の顔やキャラクターは同性にも、〝そういう意味〟でウケるらしい。
男子校に行こうかとも思ったけれど、人並みには女の子が好きだったからやめた。
それに、わざわざむさ苦しい所に飛び込まずとも、鞠谷は持ち前の可愛い容姿を十分に生かすことが出来たのだ。
とは言えチヤホヤされるのは満更でもないため、サッカー部で活躍しながらも柔道部のマネージャーを掛け持ちしたり、そんなことをしていた。
異性相手、つまり女子は一番最初が肝心だと、経験的に感じていた。
けれど異性から嫌われることはまず考えられなかったので、笑顔で、優しく、時には面白くふざけてみて、適当に過ごせば問題なかった。
そういう訳で、鞠谷圭太は本当に賢く、自他共に認める可愛さを存分に発揮して生きてきた。先生にも先輩にも気に入られ、気さくな姫としてフランクで、それでいて丁寧に扱われる環境を作る術に長けていた。
だから、高校に入学し、入学式で彼とすれ違った時、抱いたのは〝敵意〟だった。
可愛い可愛いと持て囃されても、それはあらゆる計算と計画の上に出来上がっているもの。所詮本物には敵わないと、鞠谷はちゃんと自覚していた。
初めてその本物の存在を知った時、一目で自分の立場が脅かされると直感した。
可愛いというだけで全て自分に甘く、好都合に可塑的な環境。その城が崩される危険を初めて感じた。
すぐに彼の名前を調べようと躍起になった。
鞠谷圭太にとって初めての脅威の名前は、鈴原真澄と言った。
鈴原真澄は、一切手の掛かっていない起き抜けのような髪形と、ダサくて地味な黒縁眼鏡をしていた。ひょろりと不安定な体型も相まって、一見するとただのオタクか、いわゆる暗い男子の印象を受ける。
けれど鞠谷は、まずその眼鏡が伊達だとすぐに気がついた。
そして、その下には珍しいくらい整った顔が隠されていて、透けるような肌や薄い唇に釘付けになる。その性別不詳な人形を思わせる風体は鞠谷にとって地味だなんて微塵も思えない、まさに〝脅威〟だったのだ。
一年の時は、全く別のクラスだった。顔を見ることさえなかった。
近隣でも有名なマンモス校で、同じクラスになる確立はかなり低いのだということに、鞠谷は密かに安堵した。
だけど同時に不安も膨らんだ。自分の知らない所で自らの城が侵略されていたら。もっと言うなら、鈴原真澄が自分の立場に取って変わろうとしていたら。そんな危惧をしていた。
一度あまりに気になって、鈴原真澄のいるクラスを探し出し、そこにいる友人に話を聞いてみたりもした。
返ってきた返事は、「スズハラ?そんなやついたっけ?」「あの暗ーい眼鏡だろ」。
鞠谷には鈴原真澄が暗いどころか、寧ろ発光しているようにさえ見えていたため、その反応が理解できなかった。
二年に上がった時だった。
掲示されたクラス表を見て、鈴原の名字がないことにほっと胸を撫で下ろす。
取り敢えず、この一年は平和に暮らせそうである。
しかし教室に向かうと、なんと壁側の席に鈴原真澄が座っていたのだ。
鞠谷はぎょっとして、慌てて卓上の座席表に目を通す。
鈴原真澄は、榎本真澄になっていた。
名字が変わるということは、それだけでイレギュラーな事情が垣間見える。
鞠谷は榎本真澄を取り巻くほの暗い雰囲気に、知らず知らずのうちに惹かれていた。
それはもちろん、敵意を媒介として。
「鞠谷、最近さ、……えーっと、何だっけ、そう、エノモトのことよく見てるよな」
だから同じクラスの友人からそう指摘されたときは、思わず頬が引きつった。
昼休み、いつもの数人でだらだらと過ごしていた時のことだ。
「え……、そうかな?榎本くんを?」
鞠谷はとぼけてみせた。
可愛いと計算ずくの角度で首を傾げる。
「あ、いや!気のせいかも」
「おい、鞠谷が困ってるだろ。鞠谷があいつと関わりあるわけないじゃん」
「ええ?別に困ってはいないけど……僕榎本くんと話したことないんだよね。だから、どんな人かなって気にはなってたかも」
そして、戸惑ったような微笑みを作る。
友人は慌てたように首を振る、手を振る。大丈夫、まだ城はある。
「やーー、止めとけ止めとけ。鞠谷、それはダメだ」
「そうだぞ鞠谷。あいつ、いい噂ないし」
「ってか、悪い話しか聞かねえよ」
「えっ」予想外の反応に驚きを隠せない。
身振り手振りを交えて大袈裟なまでに否定され、思わず周りを見渡す。
「わ、悪い噂って……?」
「鞠谷には汚い話は出来ねえよ~」
「取り敢えず鞠谷にはあいつと関わって欲しくないな。俺達は鞠谷を心配してんだよ」
うんうんと一様に頷くので、それ以上の追求は出来なかった。
そう、これなのだ。
可愛い扱いをされることの、唯一の弊害。
いつも何となく、一線を置かれてしまう。
そうなるように振る舞っているのは他でもない自分なのだが。
好奇心が燻る。
***
鞠谷の危惧が現実味を帯びたのは、秋の初めだった。
クラスの中で特別誰かと親しくすることもなく、浮きに浮いていた榎本真澄だったが、課外学習に向かうバスに酔って体調を崩したのだ。鞠谷の座席は榎本真澄の斜め前に決められていて、振り返ればその一部始終が見てとれた。
休憩に立ち寄ったサービスエリアで、集合時間を過ぎても戻らなかった榎本真澄に心配の声が上がったのがきっかけだった。
「サボり?」
「いやフケんだったら高速道路はねーだろ」
「迷ってるのかな?」
口々にそんな憶測が飛び交う。
結局、榎本真澄が姿を見せたのは、出発予定時間から十分は過ぎたころだった。
小走りでやってきた榎本真澄の顔色は悪く、咎めようとしていた担任も「おい、大丈夫か」と声を掛けた。
その声が大きかったので、車内は一斉に静まり返った。
「すみません、少し、酔って」と掠れた声で呟くのが聞こえた。
待たされてイライラしていた雰囲気が、同情と心配の色に変わる。
「治まったか」担任の問いかけに無言で頷いた榎本真澄は、視線を集めながら通路を進み、自分の座席に戻った。
怠そうに俯く猫背を見て、ああ、こいつ、吐いたんだな、と思った。
あの黒縁眼鏡を、外していた。
外した眼鏡は左手に握られている。相変わらず前髪は長かったが、その下、泣いたような目元ははっきりと見てとれた。
「………待たせて、ごめんなさい」
座る前、隣の席にそう告げる。
座ったまま僅かに顔を上げたクラスメイトが、榎本真澄の顔を見上げて固まるのがすぐに分かった。
鞠谷は舌打ちをしそうになった。
「……あいつ、あーいう顔だったんだ」
鞠谷の隣に座る友人も、感心したように言う。
「えー、見えなかったよ。見逃しちゃった」
面白くない、展開だ。
***
それからの展開は、鞠谷にとって本当に面白くないものだった。
クラスの殆どが榎本真澄の美貌に気付いてしまったからだ。
馴染んでいないのは変わらずだったが、そこに拒絶や悪意はなく、寧ろ受容的だった。
――やっぱり、人間、顔の美醜でこうも反応が変わるものなのだ。
可愛さを武器にここまで城を作り上げてきた鞠谷も、改めてそれを痛感した。
休み時間、トイレの鏡で自分の顔を見る。
周囲から散々言われるだけのことはある、と自分でも思う。
大きく丸みを帯びたアーモンド型の瞳に、幼さを感じるようなふっくらと厚みのある唇。猫っ毛の髪はスタイリング剤を付けずともふわふわと揺れる。今までにこの顔を活用して楽をしたことは数えきれないほどあった。
底意地の悪さが滲み出ては居ないだろうか。そう、珍しく自嘲的になっていると、バンと大きな音を立ててドアが開いた。
ぎょっとして鏡から離れて顔をあげると、駆け込んできたのは榎本真澄だった。
校舎の特別棟の端、普段あまり使われないこのトイレに人が居るとは思わなかったのか、鞠谷の姿を認めた榎本真澄は目を見開いた。
その顔は、すぐに苦痛に歪む。
うっと短く呻き、口元を押さえて背を丸める。押したら壊れてしまいそうな薄っぺらい肩が、堪えるようにびくりと跳ねる。
ふらつきながら個室に入ろうとする榎本真澄の前に、鞠谷は立った。
榎本真澄は真っ青な顔色で眉間に皺を寄せる。
至近距離で見ると、目に毒なくらい、本当に整った顔立ちだった。
けれど今、その顔は苦痛に歪み、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「………なに、」
絞り出される小さな声。
吐き気の波がきたのか、再びびくりと体が強張ったのが見てとれた。
普段の背丈は自分よりも少し高いくらいだが、今は弱々しく縮んでいる。鞠谷は背中を丸めた榎本真澄を無言で見下ろした。
「ちょ、っと、どいて………」
ひりつく焦燥感の滲んだ声音。ぱくぱくと喘ぐように開く、薄い唇。
耐えられない、といった様子で、俯いて胃の辺りを押さえていた左手が鞠谷の腕を掴む。
その腕を、鞠谷は払った。
「僕、お前が嫌いだ」
「ほんとに、どいて……ってば……」
あっけなく榎本真澄は限界を迎えた。
「ひっ」息を詰めるのが聞こえた。ぐぶ、と喉が鳴って、頬が膨らむ。
がくりと背を折り、タイルの床に堪えてたものを吐き出した。
洗面台を掴もうとして叶わず、バランスを失った体は頽(くずお)れる。吐物の広がる床に汚れるのも構わず座り込んだ。
「ゲホッゲホッ、げほ、ゲホッ、」
肺が痛そうな咳だった。
「僕はお前が嫌いだ、大嫌いだ」
乱れた呼吸に合わせて上下する背中に、もう一度大嫌いだと叫ぶ。
吐物のにおいは、強い芳香剤の香りに負けていた。
まだ落ち着かない呼吸で、濡れた口元を手の甲で拭いながら、榎本真澄が顔を上げる。
ぞっとするほど酷い顔色だった。その目尻には涙が滲んでいる。
弱ってもなお鋭さを失わない視線にまっすぐ射貫かれた。
「………俺は、……あんたを、知らない、よ」
途切れ途切れに告げられた榎本真澄の言葉に、カッと頭に血が上る。
気がついたら、その顔を殴っていた。
張り倒す程の力は無かった。
せいぜい榎本真澄の上体が傾くくらい。
鞠谷は、逃げるようにその場を去った。
***
「じゃーな、鞠谷~」
「また明日ー」
放課後、繁華街で寄り道をして、照明ばかりが煌々と眩しい最寄り駅で友人と別れた。
「うん、また明日ね」
ひらひらと手を振って、笑顔を固定。
二人が背を向けたのを確認して、家とは反対方向へ歩き出した。なんとなく、まっすぐ帰る気分になれなかったから。
――榎本真澄を殴った。
右手に、まだ感覚が残っている。何かしら変化があるかと思ったが、あれから一週間経った今も、彼の態度は一切変わらなかった。
そのこともまた、腹立たしい。
間違ってるのも、悪いのも、自分だという自覚はある。
けれど、イライラして仕方がないのだ。その苛立ちの正体は掴めない。
ぼんやりと歩いていたら、いつの間にか帰路を外れてしまっていた。ほんの少し遠回りをして、いつもの道に戻るつもりだったのに。
街灯も少なく、微かな光がぼんやりと照らす公園に出る。
(こんな公園、あったんだ)
木々に囲まれた狭い公園で、しかし人影はまばらにあった。
何となく足を踏み入れようとして、すぐにその歩みを戻す。
ベンチに座る女子高生に、スーツ姿の男性が紙幣を渡しているのが視界に入ったからだ。二人は連れ立って歩いてくる。
制服姿の鞠谷とすれ違いざま、訝しげな視線を投げられた。
(あーーーヤバい所か、ここ)
鞠谷は一瞬で理解した。
面倒なことになる前に、さっさと立ち去った方が良さそうだ。
そう踵を返そうとした時、突然、静寂の公園に怒声が響き渡った。
思わず振り返って様子を伺う。
「おい、五だよ、五!さっさとしろよ!」
背の低い男が、華奢なラインの人影に向かって怒鳴っている。
鞠谷から見て背を向けているその人影も、声を張って言い返す。
「やだよ、あんたとはもうしないって言っただろ」
聞き覚えのあるその声に、文字通り心臓が飛び出そうになった。
(えっ……え……?)
好奇心。それ以上によく分からない衝動に突き動かされて公園に入り、木の後ろに身を隠した。二人の口論が一字一句はっきりと聞き取れる。
怒鳴られている相手は、間違いなく、榎本真澄だった。
しかも、普段の様子とは一転、眼鏡も無ければ前髪だって、ちゃんと整えられている。
鞠谷が殴ったあの顔を、惜しげもなく晒していて、安っぽい街灯の下、どことなく毒々しささえ感じる。
普通、こういう場所に来るときこそ変装が必要なんじゃないのか。
榎本真澄を取り巻く〝悪い噂〟とは、この事を指していたのかもしれない。
バスに酔い、集合に遅れたことを殊勝に謝る姿。
人気のないトイレの床に、苦しそうに嘔吐する背中。
そして、いかがわしい公園で男と口論する強気な態度。
どれが、本当の榎本真澄なのか?
二人のやり取りを聞きながら、鞠谷はふと思い立ち、鞄から携帯を取り出した。
やはり自分はどこまでも性悪で、曲がった根性をしていると、笑ってしまう。
無音カメラで、榎本真澄の姿を捉える。
いつの間にか人が一人増えていて、榎本真澄はそいつから万札を握らされていた。
フォルダに数枚の現場が保存されたのを確認して、鞠谷は公園を出た。
教員に報告したら、きっと大問題になる。
鞠谷は込み上げてくる笑いを止められなかった。
すれ違う人々に奇妙な視線を向けられた。そんなこと、少しも気にならない。
担任のメールに、匿名で送信しよう。
停学にでも、退学にでもなってしまえ。
つくづく、自分は最低だ。
しかし、鞠谷がその写真を密告した後も、榎本真澄に処分が下ることはなかった
***目撃者A:END