関係者A

放課後、特別補講が開かれる。

「榎本」

廊下ですれ違いざまに呼び止めると、息をするように振り返る背中。
櫛も通していないようなボサボサの髪型に、野暮ったい眼鏡をかけた榎本真澄は、視線を合わせずに「はい」と言った。

「放課後、進路指導室に」

それが意味することには、暗黙の了解があった。榎本真澄は名前を呼ばれた時と同じように、抑揚の変わらない声でもう一度はいと返す。
顎を引くように軽くお辞儀をして、教室の中へ去っていった。

 

生きている気配を殺したような彼、榎本真澄は、教員の一部では有名人だった。
高校二年生とは思えないような落ち着きと、達観した視線。それは全て諦めに由来するものだと、最近になって気が付いた。
両親の離婚で一年のうちに名字が変わったが、今は父親と一緒に暮らしているらしい。父親が婿に入っていたのかとまず浮かんだが、どうやらそういう訳でもないそうだ。要するに、榎本真澄は戸籍的には他人となったかつての父親と、日々を送っているのだ。

国語教師である自分が〝榎本真澄〟としての彼に初めて会ったのは、昨年の秋。突然の病休となった前任の国語教師の代わりとして、臨時採用になったのだ。
しかし、彼自身に出会ったのは、もう少し前の出来事。
去年の春、最寄り駅の裏側、少し離れたところにある公園で。
そこはいわゆるハッテン場で、そういう目的をもった男がごろごろと集まっていた。

「木戸ちゃーん、なぁに、そんな湿気たツラしちゃって。木戸ちゃんもたまにはこういう所で発散するべきよぉ」

やたらシナを作った口調でベンチに腰かけるのは、よく行くゲイバーで知り合ったオカマのジェニー。無国籍風な風貌に違和感のない名前だが、もちろん自称だ。
極彩色の派手な服装に、同じく派手な長い金髪を後ろで一つに結っている。度重なるブリーチで痛んだ毛先はほとんど死んでいる。とんでもない格好だが、ジェニーには不思議と浮かずに似合っていた。
好んで着る服は女物ではなくユニセックスで、性転換手術も受けるつもりはないという。
女になりたいわけではないが、男でもない。
この世界は思っていたよりずっと複雑にできていた。
普段はインテリアデザイナーとして働いているが、ストレスがたまると近場の(と言っても職場からは離れた)ハッテン場に繰り出し、後腐れないその場かぎりの相手を漁るのだとあっけらかんと言っていた。金銭の授受は面倒なことになるのを避けるため絶対にしない。それが、この男のポリシーだという。
「これから西口の公園行くけど、木戸ちゃんもどーお?」そんなふうに誘われた。電話の向こうで声が弾む。
採用試験を受けず、講師として複数の学校に勤務したり、塾で働いたりする毎日に飽き飽きしていた自分は、あっさりとその提案に乗った。
ゲイだと自覚したのはもう遥か昔。長いこと特定の相手もおらず、朝目が覚めても誰もいない。夜はもっと一人だった。

「木戸ちゃんこういうとこ初めてよね。いい?未成年とゲンナマちらつかせる奴には手ぇ出しちゃダメ。さくっと一発慰めてくれそうな奴をね、こーやって見分けるのよ、こうやって」

指を丸くして、双眼鏡のように当てて辺りを見渡すジェニー。「アタシは狩人なのよ」と言う。どこまで本気か分かったもんじゃない。
突然「あっ」と低い男の声を上げる。「イイ男はっけ~ん!じゃ、木戸ちゃん、まったね~」そう言いながら立ち上がり、軽い足取りで跳ねるようにベンチを去っていった。
唐突に一人取り残された俺は、呆然とその背中を見送るしかなかった。

さて、どうしたものか。夜も深くなり、如何わしい雰囲気は一層密度を増した。制服姿の学生らしき姿も見られるが、未成年のブランドを切り売りするのが本物の学生なのかは定かではない。
よく分からない場所だし、今日はもう帰ろうか……そんな風に考え始めた時だった。
ベンチが重みで軋んだ。
はっとして横を見ると、年齢のつかめない男──いや、少年が座っていた。

「何だ、君………」

久しぶりに自分の声を聞いた、気がした
彼は長い前髪を流し、ぱちぱちと瞬きをする。猫に似た双眸がこちらをじっと覗き込んだ。やたら大きな、水分を湛えて吸い込まれそうな瞳。
紺色のパーカーに、薄いブルーのストレートジーンズ。黒いナイキのスニーカー。取り立てて目立つ格好ではないのに、思わず視線を奪われるほど、整った外見をしていた。
こんな安っぽい蛍光灯に晒されるのは勿体ない、というか、こういった場所が恐ろしく似合わない。

「ねえお兄さん、僕を買う?」

妖艶という言葉がぴったりの微笑みを浮かべ、小首を傾げる少年。

「未成年と、金はダメ」頭の中でジェニーの忠告が駆け巡る。警鐘が鳴り響く。

こんなの、間違っている、危険だ。理性が脳みその外側で叫んだ。

「一晩、どう?」

ベンチが錆びた音を立てる。少年が身を乗り出すように動いた。冷たい手が、触れる。
唾液を飲み込んだ。喉が渇いて張り付いている。
目の前には、にっこりと、天使のような微笑みを浮かべる、悪魔。
あるいは、美しい鬼の子。

この日は、自分がいかに誘惑に弱く、快楽に流されやすい質なのか、自覚することになる。

***

翌朝、ホテルで目覚めた時には、彼はすでに身支度を整えていた。

「お兄さん、お金」

開口一番、そう告げる。体温と同じくらい冷めた声音だった。
そうだ、これはビジネスだ。需要があって、供給がある。まったく良くできたシステムだった。

「……幾ら、払えばいいんだ、」

寝惚けてはっきりしない頭で応じる。ガリガリと頭を掻き、枕元に手を伸ばすも空振り。そうだ、ここはホテルで、自分の部屋ではない。サイドテーブルにもタバコはない。
彼は少し考え、うーんと唸ってから「最低三万」と俺を見た。
相場なんて知らないから、この金額が高いのかどうかも分からない。どうにでもなれ、と、昨夜ホテルに入った時から腹をくくっていた。

「そこの鞄……黒い財布が入ってるから、そっから抜いてけ。俺はまた寝る」
「えっ」

チェックアウトは昼の十一時。布団に潜り込むと、その向こうから驚いたような声が聞こえた。
再び睡魔が忍び寄ってきた頃、毛布が捲られて光が差し込んだ。
一万円札が三枚、眼前に掲げられる。

「……ねえ、これ、貰っていくからね。ちゃんと三枚だから確かめて」
「…………なんだ、お前」

変な奴だと思った。金儲けのためにやっているのに、自分を売り物にしているくせに、素直なんだかバカ正直なんだか分からない。欲望の方向性が掴めなかった。
「……別に、もっと取ってっていいぞ。……ろくに入ってないがな。ああ、カードはやめてくれ」寝返りをうって彼に背を向ける。早く一人になりたかった。
結局、こんなことは〝ひとり〟を浮き彫りにする一瞬の慰めにすぎないのだ。
もう当分は、ジェニーの誘いになんか乗らないと決めていた。

「…………お兄さんお金持ちなの」
「……そう見えるか?」
「……じゃあやめておく。三万貰っていくね。……お兄さんこういうの向いてないよ。いつか騙される。じゃあね、ばいばい」

深追いする気なんて一ミリも無かった。もちろん、もう一度関係を持つ気も、脅す気も。

「お前、名前は?」

けれど、ただ何となく気になってしまったのだ。
物音ひとつしない沈黙の後、彼は小さく「スズハラ」と呟いた。本名かどうかなんてもちろん分からなかったが、それでよかった。

「お兄さん本当に向いてない。マナー違反だよ、変な人」

入り口のパネルを操作する音が聞こえて、それから薄い扉が開き、閉まった。
静寂が訪れる。

「あーーあ」誰もいない広い部屋は、俺の溜め息だけを受け入れた。

***

それから数ヵ月後、臨時講師として採用された高校で彼と再開したときは、文字通り頭を抱えた。

乱雑な髪型と黒縁眼鏡。一見あの夜の面影は無かったが、視線が交わって直感した。
それは向こうも同じだったようで、露骨に「あ」という顔をした。
慌てて名簿を確認するも、しかしスズハラという名字はない。やはり偽名だったようだ。

初回の授業のあと、放課後、俺は彼に声をかけた。
廊下で話す内容でもないだろうと、すぐ隣の進路指導室に滑り込む。

「あーー、あのな、人違いだったら忘れて欲しいんだが、お前あのときのスズハラか」

前髪の隙間から覗く表情は、ぴくりとも動かなかった。
あれ、と少しの違和感にひっかかる。

「そうですよ」

驚くほどあっさりと、彼は認めた。口には笑みさえ浮かんでいる。
こいつ、本当にあの時の少年か?

「やっぱりスズハラは偽名か。まあ別にいいけどな、まさか会うとは思わなかったし」
「……別に嘘ではなかったんだけど……俺は、榎本です、榎本真澄。よろしくお願いします。……センセイ」

言いながら軽く頭を下げる。ますます、妙な感じがする。そういえば一人称も、「俺」になっている。
それに全く覇気のないこの口調。
あの公園では、もっと生き生きとしていた。

「お前、その、前会ったとき……から、そんなんだったか。格好も、言葉も、全然」
「違うって?」棘のある声。

後ろめたさから伏せていた顔をはっと上げると、そこにはあの時の彼がいた。
不敵で強気な、片目を細めて微笑む、少年と青年のちょうど真ん中。

「だってそうでしょう。変装、みたいなものだよ。それに俺、ここで浮いてるから、これくらいでちょうどいいんだ」

公園では素顔で振舞い、学校で変装をするなんて、これもおかしな話だ。けれどこれ以上の追求はやめた。自己の保身も、同然含んでいる。

「心配しなくても、先生のこと言わないよ。それより、どう?ここで……溜まってるんじゃ、ない?」

言うなり、床に膝をついて榎本真澄は俺を見上げた。ガラスレンズの向こう、濡れた目が光っている。

「バカ、やめろ、おい」

彼の細い指が、スラックスのファスナーに伸びる。隙間から冷たい感覚が侵入する。
素肌に触れられ、ぎょっとして思わず仰け反った。ご明察というか、何というか、実際何もかもご無沙汰だった。三十も半ばを過ぎると疲労感が勝るのだ。勿論そうでない場合もあるのだろうが、少なくとも俺はありとあらゆる欲望に鈍感になってしまっていた。

「おい、スズ……榎本、」

制止する間もなく、榎本真澄は下着から取り出したモノを、なんとそのまま咥え込んだ。
舌先が隅々まで走り、窪みを刺激する。相変わらず冷えた彼の指先とは対照的に、あっという間に熱を持ったそれはガチガチに固くなった。背筋がぞくりと痺れる。意識が点滅する。まずい、これはまずいだろう、さすがに、いや、でも──……

頭の中の冷静な部分が、溶けた。呆気なく果ててしまった事実に打ちのめされそうだ。脳裏を転がるのは男としてのプライドや、常識や、社会通念。いや、そんなことはどうだっていい。それ以前に、何もかもが狂っている。

まるで悪夢だ。

「おえっ、ぺっ、……ぺっ、」

置かれていた備品のティッシュを数枚抜き取り、榎本真澄は口に含んだものを吐き出した。飲まれなくて良かった、と、そんなことをぼんやりと考える。俺は脱力して、デスクに凭れかかった。

「先生、ソーロー?」にやりと笑みを浮かべる。ティッシュに精液を吐いていても、綺麗な顔は少しも乱れていなかった。
「アホ、お前なあ、……」
「内緒ね、お互いに。じゃあ、さよなら。失礼します」

なるほど、そういうことか。バレて困るなら、こんなこと、早く止めれば良いものを。

「おい、ちょっと待て」膝を払って立ち去ろうとする背中を呼び止める。

振り返ったその胸に、一万円札を押し付けた。

「……どういうつもり」

榎本真澄は、視線を警戒心で尖らせる。

「そういうことにしてもらえないと、俺が困るんだよ。黙って受けとれ。お前は売って、俺は買った。ビジネスなんだろ、お前の」

驚いて目を見開く榎本真澄。そうすると、本当に大きな瞳だった。

「……先生、バカじゃないんだね。……でも、向いてない。そうだよ、俺の商売だ」

そこまで言って、ふと俯いた榎本真澄は、押し付けられた紙幣を恐る恐るといった感じで受け取った。

「……そうしないと、生きていけないんだ」

えっ、と聞き返す隙も与えられず、一瞬垣間見えた闇はすぐに引っ込んだ。万札を受け取り、微笑みながらポケットに突っ込む。

「じゃあ、先生またね」

さようならが〝またね〟になった、地獄のような秋の終わり。これが、榎本真澄との出会いで、再会だった。

***

それから月日は流れ、榎本真澄が進級して二年生になってからも、この関係は続いた。放課後の進路指導室で、彼の取り引きは行われる。気が向いたら呼び止めて、体を重ねた。なぜこんなことをしているのか、稼いだお金を何に使っているのか、そういうことは一度も尋ねなかった。

榎本真澄との関係は教師と生徒ではなく、自分は彼の客だったからだ。

学校での彼は、とにかく全くと言っていいほど馴染んでいなかった。

いじめとまではいかないものの、少なくとも友好的な雰囲気は感じられなかったし、彼もそれを改善する気はないようだった。

そして気付いたのは、たまにすれ違うと酷い顔色をしている時があるということ。

階段で蹲る彼を見掛けたときは、教師として本当に心配した。

保健室の来室記録を見せてもらうと、かなりの頻度でここに来ている。ある時は九度以上の高熱で倒れており、なぜそんな体調で学校に来たのかと問い詰めたくなった。

 

再会からちょうど一年が経ち、また秋がやってきた。

校舎の周りに高い建物は他になく、坂の上に建つ立地から、見下ろす限り一面の紅葉は圧巻である。この季節は郷愁を連れてくる。

職員会議が行われたこの日、教務室はちょっとした騒ぎにになっていた。
二年一組の担任宛に、一件のメールが届いたのだ。件名も本文もなく、あるのはいくつかの添付ファイルだけ。ファイルを受信して開いてみると、それは写真だった。
数枚の写真は、無言であらゆる事実を語った。
それは、榎本真澄の写真だった。
薄暗い公園で二人の男に囲まれ、何か──おそらく紙幣──を受け取っている。そしてそのうちの一人と連れ立って歩いていく姿まで。

「全く……どこですかねえ、ここは」年配の誰かがそう呟いたが、俺にはすぐに分かった。これは、あの公園だ。

しかも、比較的最近撮影されたものだろう。小さく写る電線工事のビニールカバーは、先月にはなかったはずだ。
ここ数日、彼は特に具合が悪そうだった。連日あの公園に通っていたのだろうか。こんな風に無茶をしていたのなら当然の結果だろう。
画面を食い入るように見つめる担任の顔色も蒼白だった。眼鏡のレンズがブルーライトを反射する。

その日は校長が会議の後から出張で、理事長も不在だったため、ひとまずは担任からの生徒指導を行う結論に落ち着いた。
画像が暗く不鮮明で、ここに写る生徒が本当に榎本真澄であると断定できない……というのが、その理由だった。
「本人に確認して、厳正に指導します」担任は震える声でそう言った。正直この教員はそんなに指導熱心な方ではないし、こんなにもショックを受けた姿は言っては悪いが意外だった。

そして、放課後。メールひとつで榎本真澄を進路指導室に呼んでいる。相変わらず、一万円札三枚で繋がる取り引きだ。
昼間見た写真のせいで、なぜか虫の居所が悪かった。
臨時講師にそこまで多くのタスクはない。放課後までには終わる仕事を片付けて、進路指導室に向かっていると、ちょうど彼の背中が見えた。
部活の始まる時間帯。外から運動部のかけ声が聞こえ、廊下には既に誰もいない。
後ろから近付き、その腕を掴んだ。
ぎょっとした表情で振り返る榎本真澄。俺を認めて、なんだ先生か、と呟いた。

「やろうぜ」

下品な誘い文句だと、我ながら思う。待って、と垣間見えた動揺を無視して狭い教室に潜り込む。後ろ手で鍵をしっかりと閉めた。

「ちょ、ちょっと待ってよ、何、急に」

放課後に約束をしていたくせに、珍しく抵抗するからどうしたのかと思う。
待ってと繰り返す榎本真澄を無視し、ネクタイを緩め、彼の履いている制服の下に手を伸ばす。彼は過剰なほどびくりと反応した。
耳に噛み付くと、強い力で押し返された。

「だからっ、ちょっと待ってって……!」
「どうしたんだよ、珍しい」

怪訝に思って顔色を窺うと、榎本真澄は真っ赤になって視線を逸らした。肌が白いからよく分かる。 こんな様子を見せるのは初めてだった。
「何、どうしたの」質問には答えず、ぐいと俺を押す。そわそわと腰を動かす姿を見てぴんときた。けれど同時に、意地の悪い心も起き上がる。虐めてやりたい。羞恥に染まる頬を、もっと見たい。ドロドロと醜い加虐心がこれまで自分の中に眠っていたのだという事実に驚きながらも、自分を制御することができない。
壁に寄りかかった体勢で、曲げられた太股を辿るようにそろりと撫で上げると、彼はひっと息を詰めた。

「どうしたの」もう一度聞く。

榎本真澄は、観念したように溜め息を吐いた。

「……トイレに、行こうと思ってたんだよ……っ。ちょっと待ってて、戻ってくるから」

食欲も性欲もほんとうはたいして無いくせに欲望を売り物にして、そのくせトイレに行きたいと排泄欲を恥ずかしがる。
彼がこんなに抵抗して、恥じらう姿は珍しかった。

「そうか。じゃ、我慢だな」
「はあ?」

押し返す両手をまとめて掴み、自由を奪う。そうされてしまうと非力な彼にできる抵抗はなくなった。下着の中に手を突っ込んで、彼の震える性器を手に収める。細い体をうねらせて、必死の表情で尿意をやり過ごそうとする様に、衝動が背筋を駆け上がった。手の甲で膀胱の辺りをぐっと押してやると、彼は隠すことなく矯声を上げた。びくびくと震える下腹を絶えず刺激して、そうしながら、尿道口を締めるように包んで、握る。

「ひっ……。ね、ェ、本当に待ってって………ッ、あさから、ずっと行けてな……っ」

先端から、微かに温かいものが溢れる。咄嗟に太股を閉じて擦り合わせるも、俺の手が邪魔でうまくいかないようだった。
両手の拘束を解いてやると、ばっと隙間にその手を差し込む。腰を曲げて必死に押さえる様子がやたらと扇情的で、俺は彼のシャツの下、薄い胸に右手を這わせた。「やだ」「やめて」うわごとのように呟いて、熱い呼吸が歯の隙間から逃げ出す。呼吸がでたらめに乱れる。激しく巡る血流が沸騰しそうだ。

「っ…………まって……本当に、漏れる、からぁ……」
「だから、俺が押さえててやるって」

朝から我慢してる尿意なんて、自分にはとても想像が出来ない。なぜこんなに我慢したのだろう。
行こうとして学年で折り合いの悪い生徒と鉢合わせたのかもしれないし、単にそれほど切迫せず、後回しにしてしまったのかもしれない。
いずれにせよ今の彼が相当差し迫った危機にあることは変わらないし、俺が彼を手洗いに行かせる気が無いのも事実だった。
それに今、俺は彼を三万円で買っている、彼の客。自分達を繋ぐこの行為も、愛し合っている人達のそれではなく、欲望を満たすための動物的なセックスだった。

「あ、……あっ……ぁ」

いよいよ立っていられなくなった榎本真澄は、壁を背にずるずるとしゃがみ込む。足踏みをする余裕もない。
太股が、膝が、がくがくと揺れていた。

──おそらく、彼も途中からビジネスだと割りきっている。最初こそ抵抗を見せたが、本来の関係を思い出したのか、今は従順だ。嫌がって見せるのも、ある種のパフォーマンスなのかもしれない。

不規則に捩る腰を浮かせて、後孔に指を一本、二本と増やしていく。ゴムの持ち合わせが無かったので、今日は指だけにしておこう、と、妙に冷静な自分に驚いた。指の腹が奥の一点を掠める度に、ぎゅうっと付け根を押さえ込む。

「ひっ、……ぅ、…………やぁっ……」

両目にいっぱいの涙を溜めて、唇をきつく噛む。

「………も、……もうむり、無理………っ、」

半分だけ下ろされたズボンは、足の自由を奪っていたんだと思う。身じろぎして動かす度、ベルトがカチャカチャと音を立てた。
榎本真澄は自分で自分を支えることがもう困難で、上半身も半分以上床に預けていた。
きつく握り込まれる彼の性器も、おしっこが溢れそうな先端も、俺の指を咥え込んだ後ろも。全てが明るいところに晒された光景は、欲望が生々しかった。
薄い腹と骨の浮いた窪み、その真ん中で下腹部だけパンパンに膨らんでいる。
一日分の老廃物が、ここに溜まっているのだ。

「イッてると、小便出ないって聞いたことあるけど、本当かな?」
「しっ、知らない……そんなの……っ」

酸素を失った金魚のようにぱくぱくと口を動かす。快感と尿意と、それから羞恥心も加わって、もうどうしたら良いのか分からなくなったのかもしれない。
彼のいいところを続けざまに刺激してやると、声にならない悲鳴を上げて溜め込んでいたものを放出した。最初はたらたらと溢れるくらいの勢いだったのが、徐々に筋肉が緩んで弧を描く。はだけた彼のシャツにも、俺のスーツにも、彼のおしっこがかかる。
これは彼のビジネスで、俺は顧客。そう頭のなかで唱え続けることに必死で、もしかしたら、きっと、俺も演技をしていたのかもしれない。

全て出しきって放心状態にある榎本真澄は、切れた唇もそのままに天井を見上げた。
頬を涙が伝う。
手持ちのスポーツタオルでは、床に広がった水溜まりを吸いきれなかった。
俺も脱力感に包まれて、反対側の机に寄りかかって目を閉じる。

「…………お前の写真、学校のメールに届いてたぞ」
「……はあ?」

見当がつかないのか、思考を放棄しているのか、何の話をしているのか本当に分からないといった顔。「公園の」と一言添えれば、合点がいったようだった。へえと相槌をうったきり目を閉じる。
少しは焦りでもするのかと思ったが、本人は呑気に「大変だね」と力無く呟く。

「バレたらやばいんじゃないのか」
「……別に。……もう担任も……俺の客だもん。今頃向こうも色々勘ぐって、……焦ってるんじゃないの」

何でもないことのように、彼はとんでもない爆弾を落とす。あの担任が青ざめていた訳がようやく理解できた。
一体こいつは、何がしたくて、何があって、こんなことを続けるのだろう。
臨時講師で取り引き相手の一人である俺は、やっぱり深入りを避けた。
「そうか」とだけ返して、彼の服を整えてやる。
保健室からタオルを借りてくるために、その教室を後にした。

絡みつくような彼の視線を断ち切るように、ドアを閉める。
そうでもしないと、彼の引力に負けてしまいそうだったから。

 

これきり、彼との三万円の時間は二度と作らなかった。

 

***関係者A:END

1件のコメント

  1. ピンバック: 短編 – Lepsy02

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