物心ついた時から、あらゆる悪意に囲まれていた。
家の中に飛び交う罵声。光る刃物の切っ先。時折、飛んでくる拳。
都会の空高く伸びたタワーマンションの一室には、憎しみと利己的な欲望、溢れ出しそうな悪意だけが詰まっていた。
これが異常だと真澄が気付いたのは、小学校にあがってからのこと。顔を会わせれば始まる両親の口論も、なかなか会えない母親も、暴力的な父親の姿も、それが日常の一部だったから。
朝起きて誰もいないなんてしょっちゅうで、それを不思議に感じたこともない。
朝、机の上には数枚の紙幣と、デパートの袋に入ったままの菓子やコンビニの食品を見る。きらきらと繊細な洋菓子は母親が職場で貰ってきたものらしい。
彼らの手料理を口にしたことは、おそらく無い。両親のどちらかがキッチンに立って料理をする姿を見たことが無かった。
調理実習でカレーを作り、個々の食材がひとつの鍋に収まる過程を初めて知った。
真澄の母親は、繁華街の風俗店「レーティ」でナンバーワンだったのだ。若く美しい母は、高値で競り合われる商品だった。
入店以来パトロンが途絶えることの無い彼女の名前は、旧姓榎本美世子。源氏名はアイリ。そして美世子より一回り以上歳上の父親、鈴原達男はレーティのオーナー。真澄は彼ら二人にとって、全く予期せぬ妊娠の結果だった。
けれど厄介なことになったと頭を抱えたのも一瞬。達男は華やかな美貌の美世子に骨抜きで、美世子からしても気分屋なオーナーからの安定した待遇が得られるのは降って湧いたラッキーだと、そう楽観的にシフトした。
当時二人には相当な額の収入があり(店ナンバーワンの美世子の売上と、諸経費という名目で諸々を差し引いた純利益が一ヶ所にあつまるのだから当然だ)、子供一人くらいなんとかなるだろうと、そう安直に考えていた。
お金はあった。家もあった。物は溢れていた。しかし二人は、壊滅的に育児に向いていなかった。というより、〝親〟に向いていなかったのだ。
真澄が産まれた直後はベビーグッズを揃えてみたり、服やおもちゃを買い集めて子育てをかいつまんでみた二人が〝子ども〟に飽きるのに、そう時間はかからなかった。
真澄が保育園に上がる歳には、美世子は早々に仕事に復帰した。
夜職へ出かけ、明け方過ぎに帰ってきて眠る美世子。店長を雇っているため自由に出勤できる達男も、子育てのあまりの煩わしさに殆ど家に寄り付かなくなった。
そして、子どもという荷物を抱えきれなくなったふたりは、衝突をはじめる。
「お前が産んだんだろ!」
「あんたが産めって行ったんでしょ!」
「金もかかるし冗談じゃねえ。なんとかしろよ」
「こっちの台詞よ!ふざけんじゃないわよ!」
暴言の濁流を眺めながら、真澄は小さく丸まって一過を待った。高価な食器の割れる音、ひらひらと薄いドレスが破ける音。美しい母は、殴られる。
ぞっとした。
この男は、恐怖そのもの。震える声で「だれか、」真澄は呟いた。
言葉は、音にはならなかった。
同じような日々を繰り返す。達男の機嫌が悪いときには、真澄の体もゴム鞠のように軽く飛んだ。顔が売り物の美世子とは違って、真澄相手には容赦がない。不機嫌を煮詰めたような達男に蹴り揚げられるたびに、痛みと衝撃で気が遠くなる。
それでも、このマンションは真澄の家で、世界のすべて。
***
真澄が小学五年生の時、美世子はマンションに帰らなくなった。
家中から消えていく美世子の痕跡を埋めるように、酒瓶や空き缶が転がっていく。
カーテンも開けず、換気もせず、淀んだ悪意は徐々に腐敗していった。
「……何見てんだよ」
リビングで朝から酒を煽る達男は、部屋から出てきた真澄を見るなり顔を歪めた。物音がしないので居ないものだと思っていた真澄は、迂闊にもリビングを覗き込んでしまったのだ。
視線に絡め取られ、真澄は硬直した。逃げようとした両足は、床に張り付けられたように動かない。この男の関心が向かないよう、細心の注意を払っていたのに。
男は亡霊のように立ち上がり、右手に掴む日本酒の瓶を振る。
底の厚いガラスは真澄の頭を直撃した。
倒れたかけた所を、髪の毛を引かれて戻される。殴られた痛みは時間差で、内側からじいんと効いてきた。
「……うっ」
「何見てんだよ、アア?」
酒臭い息。真澄の顔に唾を吐きつけながら、達男は思う。美世子と全く同じ顔が、ここにある。〝これ〟は誰の子だ?
真澄は目を閉じ、災厄が身に降りかかる現実から、離れた。
美世子が出ていって二ヶ月。今度は、真澄達がマンションを去ることになる。
達男の店が、検挙されたのだ。
罪状は風営法違反。未成年を雇っていたことが明るみに出て、店は当然営業停止。オーナーの達男には店の借金と数百万の罰金が降りかかり、この豪奢な城で生活することは不可能となった。
それだけでなく、店の売上金の一部を暴力団関係組織に流していたことも、警察の目に止まることとなる。
現金のやり取りを担っていたのは店長だが、繋がりを持っていたのはオーナーの達男だ。
雇われ店長は血眼になって達男の行方を探しているのだろう。携帯のコールが鳴りやまない。「ちくしょう!」叫んだ達男は携帯を投げ捨てた。
夜逃げ同然で転がり込んだ次の家は、今にも崩れそうな古いアパートだった。
木造二階建て。赤く錆びた鉄階段は、所々足場が抜けていた。窓は玄関の横と、部屋の奥に一枚。洋室と和室がひとつずつ。
前の住人が置いていったのか、カバーのない扇風機が台所に放置されていた。
ふたり分の荷物は、引っ越しとは思えないほど少なかった。もとより、あの城には大切な物なんて何ひとつ残っていなかった。
達男は部屋の中をざっと見回すと、大きな舌打ちをして、また靴を履いた。日焼けした腕で、真澄の襟を掴む。
「おいガキ。俺が帰ってくるまでに荷物片しとけ」
「………どこ、いくの」
「ア?パチンコだよ、文句あんのか」
「ない」
「……んだその口。ありません、だろうが」
「あ、りません」
「クソッ」
達男は悪態をつきながら、夕焼けの町へ出掛けていった。
中学生になった。
現金収入がゼロとなった達男は、しかしまともな働き方など続けられるわけもなく、生活費はいよいよ枯渇していく。電気や水道は度々止められ、大家が怒鳴り込みに来ることもあった。張り紙の重なった薄い玄関扉を何度も何度も叩かれる。
真澄はその度、目を閉じる。自分はここにいない、これは自分ではないと、心のなかで繰り返す。
どんなに困窮を極めても、達男は酒もタバコもギャンブルもやめない。
真澄は高校生と年齢を偽って、バイトを始めることになる。
明らかに幼い外見と、細すぎる体躯でとても高校生には見えなかっただろう。人手の足りていない、規律の緩い所を選んで働いた。
学校に行っている時間より、働いている時間の方が長かったかもしれない。
早朝の新聞配達、深夜のコンビニ、休日は日雇いの派遣……とにかく、生きていくにはお金が必要だった。
まともに思考する余裕もない。ただ、お金を持っていけば殴られないし、普通の基準を知らない真澄には選択肢なんて存在しなかった。
学校では、達男の暴力によるおびただしい数の傷跡を隠すため、一年中長袖を着る必要があった。不審に思った担任から何度か呼び出されたが、全て無視した。バイトの時間が迫っている。
そんな真澄の様子を気味悪がり、クラスの誰も、真澄には近付かない。
夕方、コンビニでレジ打ちをしている時だった。週刊雑誌とお握りふたつ、それから発泡酒を会計に通す。
お金を受け取ろうとして、突然目の前が真っ暗になった。さあっと血の気が引いて、引きずられるように意識が遠のいていく。冷たくなっていく指先。足下が歪む。絞られる視界、どこまでも沈んでいく床。
真澄は倒れた。
目が覚めると、まず視界に映ったのは長方形のタイルと蛍光灯。天井だと理解するのに、それから数秒。
起き上がってはじめて、ここが休憩室のソファだと気が付いた。数ヵ月前のキャンペーンで特典になっていた、キャラクターのブランケットまで掛けられている。薄いけどふかふかと柔らかい手触り。真澄はこの感触が好きで、展示の見本品を時々触っていた。
「あ、起きた?」
声に驚き振り返ると、何度か同じ時間に働いたことのある大学生が入ってくるところだった。四角いフレームの眼鏡を掛け、立花と名札をつけている。
「………あっ、あの、俺……?」
「倒れたんだよ、貧血?腹へった?おれが入ってて良かったなあ。ほら、廃棄の肉まん。あ、おれも休憩いただきまーす」
水蒸気を吸って少しふやけた肉まんを受け取る。さっきまで蒸し器に入っていたのだろう、温もりはじんわりと指先を暖めた。包みにくるんで、しばらくカイロのように持っていようと真澄は思った。
立花がカップ麺にお湯を注ぎ、腕時計を確認する。
そこでハッとした。今、何時。いったいどれだけ寝ていたのだろう。
「ねっ、ねえ、今何時」
「今?八時だけど」
「……!」
真澄は飛び起きた。今日、バイトは二十時までと伝えてある。半までに帰らないと、あの男に殴られる。体が震えた。
「か、帰らなきゃ……、帰らないと、」
「あっ、ちょっと!」
俄に異常な反応を見せる真澄の肩を、立花は掴んだ。頭を庇うよう、反射的に身構える真澄を痛ましげに見下ろす。
「………ねえ、君さ、……高校生ってのウソだろ。おれ、君がA中学の制服着て歩いてんの、見たよ」
「……」
「とりあえず座って。ふらついてる。おれ休憩上がりだから。バイクで家まで送ってくよ」
言われるままに腰を下ろしたが、震えが止まらない。頭はパニック状態だった。呆然と時計を見上げる。もうダメだ。どうやったって、どうしたって間に合わない。
前にもバイトが長引いて、帰りが遅れたことがあった。その時の怒り狂った達男の様子を、今でもはっきりと覚えている。亡霊になった達男は、時々真澄の夢の中にまで侵入してくる。
「……ど、どうしよ……どうしよう……」
「…………あのさ、」
あてもなくどうしようと繰り返す真澄を見て、立花は堪らずに口を開いた。カップ麺の蓋を開ける。ふわりと上った湯気で眼鏡が曇った。
「俺の友達にさ、児相でバイトしてるやついるんだよ」
「…………ジソー……?」
「児童相談所。余計なお世話かと思って聞かなかったけど……君、ちょっと傷だらけだよ」
言いながら、立花は自分の首や腕をトントンと叩いていく。真澄はぎょっとして襟元を正した。見られていた。気付かれていた。
血の気が引いて、目の前がチカチカした。息が、苦しい。頭の中がぐらぐらする。
立花が麺を啜る音だけが、休憩室に響く。
真澄は、目を閉じる。深呼吸をひとつ。
「………立花さん、何の話してるの?これ……この傷、学校の友達とケンカしちゃって。今、クラスであまり上手くいってないんだけど、まあ、だいじょうぶ。……俺んち、親一人だから、俺もバイトしてないと、かなりやばいんだ。だからお願い、俺が中学生って店長には黙ってて」
「…………君、」
「お願い、立花さん。俺がちょっとバイトすれば、大丈夫なくらいなんだよ。本当に。さっきは、明日のテスト思い出して、結構焦っちゃったけど。ちゃんとガッコーにも行ってるし。だから、お願い」
ね、と両手を合わせると、立花は溜め息を吐いて箸を置いた。
そして、備え付けのメモにペンを走らせる。ビッと破き、それを真澄に手渡した。
「おれの電話番号。必要になったら連絡して」
「……え、」
「…………なんか、放っておけないよ、君」
真澄は、十一桁の数字を手のひらに見下ろした。
バイクで送っていくという提案をなんとか断り、結局、立花が食べ終えるのすら待たずに店を出た。
寂れた商店街から離れると、街灯はいっそうまばらになる。
コンビニ、木材倉庫、公園、それらを通過し段々家が近付くにつれ、動悸が激しくなる。
眩暈がして、立ち止まる。ガードレールに片手をついて体重を預けた。
「…………っ、……は、」
早く、帰らないと。早く歩かないと。
亡霊の姿が脳裏にちらつく。
何度も立ち止まりながら、やっとアパートが見えてきた。
顔を上げて、あれ、と思う。
電気がついていない。
(あいつ、いないのか)
どこに行っているのか知らないが、達男は家に帰ってこないこともしばしばある。
もし今日も帰ってこないのなら、殴られることはない。痛い思いをすることはない。
唯一の安寧の時だ。
電気が止まっただけかもしれないし、達男が怒りに任せて照明を壊しただけかもしれないんだ、と期待しすぎる気持ちを抑えてドアノブを回す。
ガチャンと引っ掛かり、反動がきた。
鍵がかかっている!
それはつまり、留守ということ。真澄はほっと胸を撫で下ろした。
ポケットから鍵を取りだし、鍵穴に差し込んだ。錆びて噛み合わせが悪いのか、立て付けの問題か、なかなかすんなりと解錠できない。
ようやく鍵が一周し、玄関が開いた。
なんでもいい、早く寝たい。真澄が願うのはそれだけ。
あの男がいないという事実ほど嬉しいことはない。
ドアを開き、室内に飛び込む。
「……って、」
けれど、すぐに何かにぶつかった。
何、と見上げて数秒。暗闇にぎらりと光る視線を真澄は捉えた。
冷気に撫でられたように、さあっと全身に鳥肌がたつ。
「……ンだよテメェ、クソガキ…………どこ行ってたんだよ…………ア?」
「…………違、ちがくて…………」
達男は、家にいた。電気がついていなくても、鍵がかかっていてもいる時もあるのだと覚えていなくては。頭の冷静な部分が働いたのはそこまでで、瞬きの次には、弾けるような衝撃を食らっていた。
「口ごたえしてんじゃねぇぞクソガキ!!」
体が吹っ飛び、錆びた鉄柵が背中に食い込む。一瞬、月が見えた。
下はコンクリートの駐車場だ。二階とはいえ、落ちたら軽い怪我ではすまないだろう。真澄はぞっとして、慌てて柵から離れた。
達男はそんな真澄の首根っこを掴み、ゴミでも捨てるように家の中へ放った。
床に叩きつけられ、痛みに思わず背中が反る。何かが刺さった。割れた酒瓶か、ガラスの灰皿か。その正体も分からないまま、腹に重たい衝撃を受けた。踏まれたのだ。胃に収まっていた内容物が口から吹き出す。
「オエッ」
「オラ、クソガキ!お前誰のお陰で生きてると思ってんだ、ああ!?」
「うっ、ゲホッ、……っ」
「あいつに似た顔しやがって、お前、誰の子だよ、おいっ!」
意識が、飛びそう。瞬きをしたら、次はもう目を開けていられない気がした。
筋肉が弛緩していく。どこを殴られているのか、蹴られているのか、追い付くこともできない。
「クソッ……アァ?テメェ、漏らしてンじゃねえよ、汚ねぇな!」
「……はっ…………はぁ、…………」
「んとか言えよ!親父様の命令だそ!」
下腹部を思い切り踏まれ、潰れたカエルのような声が喉から溢れた。
視界が霞む。
男の獣じみた叫び声が遠くに聞こえる。
真澄はいつの間にか、目を閉じていた。
ある冬の日。古びたアパートでの暮らしは相変わらずだった。
学校に通いながら、年齢を偽ってアルバイトに明け暮れる日々。達男も時々仕事をしているようだが、長続きはしない。
タバコの吸い殻と酒の空き缶、外れ馬券やパチンコ店の広告が入ったティッシュなど、どうしようもない残骸が部屋を侵食していく。
その朝、暖房のひとつも無いような和室で、真澄は起き上がることが出来なかった。
新聞配達のバイトを無断で休んでしまった。
破れたカーテンからは朝日が十分に差し込んでいる。起きなくてはと思うのに、体が鉛のように重い。
異常なまでの寒気を感じた。布団に潜っているにもかかわらず、全身ががたがたと震えた。頭が酷く痛む。
ああ、やってしまった。風邪を、引いてしまったんだ。
絶望的な気持ちに打たれていると、乱暴に襖が開けられた。
「テメェ、おい、金稼いで来いや」
布団が剥ぎ取られる。刺すような冷気が襲ってきた。
体を起こそうにも、全身がふやけてしまったようで、どこに力を入れたらいいのか分からない。末端の感覚も、あまり無かった。
ぐいと腕を掴まれる。
手の甲にチリチリとした痛み。タバコの灰を落とされていた。
前髪の隙間からそれを確認したが、何も考えられない。感じない。
何も言わない真澄に興味を失ったのか、達男は手を払って和室から出ていった。殴られなかっただけ機嫌が良かったのかもしれない。
真澄は崩れるように布団に倒れた。
それから、たぶん、三日。真澄の熱は下がらない。
真澄の持ってくる日払いの給料が途絶え、パチンコで大負けした達男の所持金は底を突いた。
「おいっ、クソガキ!いつまで寝てんだよ!親父様のお帰りだぞ!」
布団の上から蹴り飛ばされ、真澄は目を開けた。
三日間、水以外のものを口にしていない。服も着替えていない。
真澄の意識は、高熱と栄養失調で混濁していた。
「…………ねえ」
張り付いた喉から絞り出した自分の声は、まるで他人のもののように、そして少しの現実味もなく聞こえた。
「金稼いで来いってんだろうが!クソガキ!」
「…………ねぇ、」
「あ?」
「………無理、だよ。…………働けない。も、……何も、……できない」
口角が上がった。目を囲む筋肉がぴんと張る。
自分は今、笑っている。
「…………もう、死んでもいい?」
達男がどんな表情をしているのか、窺い知ることは出来ない。
ただ、少しの沈黙の後、男が言ったその言葉だけは、今でもはっきりと思い出せる。粘りつくような下卑た笑い。
「…………まだ売るモン、あんじゃねえか」
バイトの掛け持ちは、必要がなくなった。
***当事者(前編):END