当事者(後編)

初めて達男に連れていかれたビルの一室で、母親そっくりの造りをしたこの顔はよく売れた。

物好きな変態は気前が良く、一晩で一ヶ月分の生活費を稼げてしまった。

吐き気がする。気持ち悪い。反吐が出る。…………怖い。
全部の感情に蓋をして目を閉じる。

これは、俺じゃ、ないよ。
他のだれでもなく、自分に言い聞かせる。

 

高校生になっても、そんな生活を続けた。
その日の収益は三万円だった。
珍しくまともな客で、へんなやつだった。
きっとああいう所に来るのは初めてだったんだろう。きっと彼は男が好きな側の人間だが、男を買った経験はない。
埃っぽいラブホテルで迎えた朝。眠そうな彼の声は、俺に背中を向けたまま、好きなだけ取っていけと投げやりに言った。財布の中身も確認せずに。免許証も保険証も入っていた。「木戸景吾」というフルネームも、誕生日も、住所まで分かってしまう。
あの無用心さと諦念は、いつか騙される。
そう言うならもっと抜いてやろうかと一瞬だけ脳裏を掠めたが、やめた。地の底に落ちても、まだ、獣じゃない。

「ただいまー……って……」

朝、帰宅し玄関を開けると、見慣れない革靴が揃えられていた。それから、華奢なミュールが脱いだままの状態でそこにある。
こんな所に客なんて来るわけがない。
借金取りか、だとしたらあの女物の靴は?
いずれにせよ関わる気は少しもなかった。俺はお金を持ってきた、それだけ。
和室に籠ろうと靴を脱いだとき、洋室の引き戸が開いた。洋室とはいえ床がフローリングになっただけで、その他の造りはまったく古い木造住宅のそれなのだ。
タイミングの悪さに思わず舌打ちをしてしまう。
洋室から出てきたスーツ姿の男と目が合った。仕立てのいいブラウンのスーツと、きっちりと整えられた髪型。年齢は達男とそう変わらないだろうが、風体は雲泥の差だった。

「君が真澄くんかい」

張りのある、よく通る声。

「そうだけど」視線だけで見上げながらそう返すと、スーツの男は鞄から分厚い書類の挟まったファイルを抜き取った。これを、と差し出される。真澄は片手でそれを受け取る。

「君にも関係のある書類だからね。よく目を通しておいた方が良い」

返事を聞く気は無いようで、早口に告げながら彼は直ぐに手を引っ込めた。そして体半分で振り返り、洋室を覗く。

「美世子さん、真澄くんです」

その言葉を理解するのに、その名前を思い出すのに、気が遠くなるような一瞬が爪先から頭まで駆け巡った。

「えっ」

驚く声と同時に、ガタリと揺れる立て付けの悪い障子戸。下半分の磨りガラスの向こう、人影が動いた。
立ち上がり、扉を掴み、隙間から、顔を出す。

「………真澄」

数年ぶりに見た母親は相変わらず華やかな洋服に身を包み、そして、驚くほど、自分と同じ顔をしていた。

 

分厚い書類の内容は、一言で言うならば二人の諍いの説明書。
美世子は再婚が決まったが、しかし達男との離婚が成立していない。まだ戸籍で繋がっていたのかと、真澄は驚きを通り越して呆れた。
一対一で会うのは身の危険から憚られたため弁護士を雇い、事務手続きを進めていたのだという。

達男と弁護士はこれまでに二度面談をしていた。
その中で双方の言い分や要求を擦り合わせ、着地したのがこの結論だった。
美世子は、真澄を引き取ることを条件に提示して、離婚を申し入れた。
達男に断る理由は無かっただろうと思う。邪魔な子供、負の遺産が取り払われるならむしろ願ったり叶ったりだったのではないだろうか。

こうして、真澄は美世子の旧姓をうけた。榎本真澄。耳慣れない響きだが、それほど大きな変化ではなかった。
担任を「スミマセン」と呼び止め、両親の離婚の旨を伝えた。また、それに伴い母方に親権が移るので、名字が変わるという事も付け加える。
淡々と用件だけを伝えられた担任は、眉根を寄せ、唸るように相槌をうつ。
「そうか。その……大変だったな。後で必要書類を渡すから、親御さんに記入してもらうように」
軽く頷き返答とする。太いフレームの眼鏡が、少しずれた。

それからは、なんだか怒濤の日々だった。
まず、案の定というか、想像通りというか。美代子が真澄を迎えに来ることはなかった。引き取るというのは、離婚を成立させるための口実だったのだ。
達男は昔のツテで新しく事業を始めたようだった。何をやっているのかは定かではないが、きっとまっとうな道ではないだろう。
住居は相変わらず、廃屋同然のアパート。真澄の生活も変わらなかった。
驚いたのは、あの公園で会った木戸と、よりにもよって学校で再会したこと。
向こうも全く予想外だったようで、目を丸くしていた。気まずそうに挨拶を交わしたのも最初だけ。また、三万円の関係が始まった。

こんなもんかと、思ってさえいた。

ただひとつ、厄介な出来事があった。
真澄の〝商売〟を、誰かが学校にリークしたのだ。
公園で金銭を受けとる現場、連れ立って立ち去る現場……そんな一部始終を収めた写真が、匿名で学校のアドレス宛に送られたらしい。
撮られるリスクは考えていたし、そのための変装でもあった。だから密告自体はたいした傷では無かったのだが、メール事件(先生たちは、そう呼んでいる。)以降、売り上げには結構響いた。
世も末なことに真澄の客には、先輩や教師まで揃っていた。
担任もその例に漏れず、受信したメールを開封した時には縮み上がったのだろう。
メールの件は瞬く間に広まったらしく、教師陣からの連絡は事件からぱたりと途絶えた。

「木戸先生、か」

公園で出会い、学校で再会するというイレギュラーを辿った木戸も、あれから呼び止められることはない。非常勤講師である木戸の耳にも事件の話は届いているのだろう。連絡先を表示した小さな画面を見ながら、指を動かす。
ものの二秒で、「消去しました」メッセージが表示される。
性欲処理の相手となりながら、真澄は、木戸との関係にある種の安息を感じていた。
なぜだろう。愛情のような、きっと今以上の何かを期待していたのかもしれない。けれど所詮はその程度だったということだ。もちろん自分には、その資格もない。
寂しさを痛みで埋めること。
真澄の自衛手段は、それしかなかった。

 

怒濤というのはここからである。
ある日帰宅すると、玄関に男が二人立っていた。
締まった体と穏やかなふりをした鋭い視線。嫌な予感が走った。

「君、真澄君かな」

こんなふうに呼ばれることが前にもあった。
しかし、やはり弁護士とは漂う雰囲気が、空気が違う。
一人が胸元から取り出したのは警察手帳だった。まるでドラマのようだ。「署まで同行願おう」とか、「現行犯で逮捕する」とか、言われるのかな。笑いのため息が漏れそうになるのを、唾を飲み込んで堪えた。

「A署の松村と言います。君のお父さんが逮捕されたんだ。一緒に来てもらえるかな」

 

初めてここに来た日に似た夕焼けの中、感じたのは、安堵だった。

 

覚醒剤使用の容疑で逮捕された達男だったが、五年前の風営法違反もあり実刑判決は免れなかった。真澄達の暮らしにも焦点が当てられることとなり、少年課の刑事から施設への入所を勧められた。
身寄りもおらず、荒れた生活がどこまで明らかにされたのかは分からないが、どこを切り取っても到底まともな暮らしぶりではない。そんな真澄の状況に対して提示されたその提案は妥当だった。
その日は金曜日だったこともあり、真澄は土日をA市の児童養護施設で過ごした。
想像より居心地は悪くなかったが、しかし真澄は入所を拒否する。そこに居たのは小学生や園児ばかりで、それも含めた根本的な彼らとの違いに、居たたまれなくなったのだ。
彼らの中で暮らすなんて、自分の汚れを一秒ごとに見せつけられることに等しい。自傷行為のようだった。とてもじゃないが、耐えられない。
自分はバイトも出来る、大丈夫、と半ば脱走するように施設を飛び出した。

家に帰ろうとして、歩みを逸らす。向かった先は公園。

どうしようもないのは、まともじゃないのは、もう自分のものだった。
冬が、近付いていた。

 

高校三年。
連日、狂ったように体を売る時期が続いた。
もはや強要はない。もはや強制はない。
それなのに真澄は行為を続けた。そうなるとこれは、真澄の意思だった。
こうすることでしか、自分の輪郭がわからない。自分と世界の境目を見失ってしまうことが、何よりも怖かった。
夜になると、亡霊が枕元に立つ。時には夢の中に立つ。押し寄せる恐怖に身を縮め、震えながら朝を迎える。
糸の切れた凧は風に浮かび、流され、やがて―
そして、決定的な出来事が起こる。

いつものように、遅刻ギリギリで校門をくぐる。
春に満開だった桜はすっかり花を落とし、えんじ色のがくと深い緑が揺れていた。夏の近付く澄んだ空によく映える。前髪の隙間から空を見上げ、あまりの眩しさに目を細めた。
風が強い。砂だらけのアスファルトを踏んで、生徒玄関へ向かった。
下駄箱で靴を履き替え、階段を上っている時に、最初の違和感。
すれ違う人達が、皆そろって真澄を見ていく。
自意識過剰か、気がおかしくなったか。真澄には何が起きているのか分からない。

「あ、」「こいつだ」「いた」
かろうじて耳が拾うくらいの囁きで、口々に噂されている。
目立たないように、息を殺して過ごしてきたのに。校内でこれだけ多くの視線を浴びるのは初めてで、不快な違和感と嫌な予感に冷や汗が出る。

(……なに、何だ…………一体何が)

自然と足が速まり、みな遠巻きに真澄を見やりつつも、道が空いた。
廊下を進み、階段を上り。教室が近付くにつれて人が増える。
一際多くの生徒に囲まれていたのは、やはり、真澄のクラスだった。

囁きから逃げるように、視線に押されるように。
走るような勢いで、真澄は教室に飛び込んだ。途端、その場にいた全員が、まるで弾かれたように振り返る。

顔を上げて、唖然とする。

黒板には、数えきれないほど大量の写真が貼られていた。

じっくり見なくても、写っているものは予想できる。何の写真か、直感する。

 

糸の切れた凧は、落ちた。
真澄は髪をかき上げた。伊達眼鏡を外す。
あらわになった鋭い美貌に、誰かが息を飲む。険しい表情のまま、黒板に一歩ずつ近付いていく。
異様な沈黙が続いている。誰かが思わず後退り、椅子を倒す音が教室に響いた。

 

そこにあったのは、ここ数週間の、行為の最中に撮られた写真だった。
撮ったのは勿論、真澄を買った相手だ。
暗がりで撮られていても、濡れた真澄の顔ははっきりと映っている。
黒板一面に貼られた無修正の画像からは、においまでしてきそうなほどである。

眩暈がして、咄嗟に机を掴んだ。

 

──こんなもんかと、思ってさえいた。

 

「何をしているんだ!教室に入りなさい」

騒ぎを聞き付けた教員が、何事かと駆け付ける。

校内の掲示板に、退学者として真澄の名前が掲示されたのは、それから一週間後のことだった。

***

「だから、嫌だって言ってるだろ」
「こっちはお金を払うと言っているんだ、拒否権があると思っているのか」

いつもの公園で、真澄は厄介な変態に絡まれていた。
かつて一度買われた事があったのだが、大学教授だというそいつは強烈な変態趣味だった。人のことを言えた筋合いではないが、酷い目に合わされたことが軽くトラウマになっていた。

「離せよ、俺はあんたとはやんない」
「口答えするんじゃない。生意気な」
「離せってば……」

しつこく言い寄られ、腕を掴まれる。汗ばんだ手のひらに鳥肌が立った。やっぱり無理だ。生理的に、無理なものは無理。
なんとか逃れようと身を捩るも、百八十越えの男に力で敵う訳がなかった。
このままじゃまずい、機嫌を損ねているから、どんな目に合うか分からない。
ただでさえこいつには、クスリの影がちらついている。買った相手をヤバい薬漬けにして家で飼っている、とか。そんな噂も聞いていた。

「あ、あの──……」

間の抜けた声に挟まれたのは、その時だった。
見るからにこの場に似合わないその男は、財布から万札を引っ張り出す。どうにも危なっかしく、「あ、ちょっと破けた」なんて呟きながら。

「彼、僕が買っても良いかな?」
「「はあ?」」

思わず、真澄も脱力。
なんだこいつ、と訝しがりながらも、助けられたのは事実だった。
それから二人は真澄を挟んで二、三言い合って、真澄は呆然と成り行きを見守っていた。こんな状況を目にするのは初めてだ。

決着はすぐだった。穏やかな物腰の男は、満足そうに頷く。横顔は、ちょっと得意げ。
そして、悪態を吐きながら去っていく変態男には目もくれず、真澄に微笑みかけながらこう言った。

「ところで、いくらで君と過ごせるの?」

 

***当事者(後編):END

2件のコメント

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