初詣も似たものどうしで

大晦日の夕飯は蕎麦だった。蕎麦つゆは醤油ベースの濃厚な関東風だ。小ネギやミョウガ、シソを刻んで、生姜をおろして、それぞれ丸い小皿にのせていく。基はさすがの手際の良さで、慣れた手つきで着々と薬味を並べていった。司はというと、そんな基の邪魔にならないようにテーブルを拭いたり、グラスを出したり、こつこつとリビングを整えていく。

調理の専門学校を卒業した基は、定年をとうに迎えた夫婦が営む個人居酒屋で働いている。大晦日と年始は営業をお休みするような、超のつくホワイトさである。加えて、基母が経営する料亭の厨房にも不定期に立つ。料理以外の家事はからきしダメな基だが、その秀でた特技に司の胃袋はがっちりと掴まれていた。

「飲むもん、ビールでいい?」台所に立つ基に呼び掛ける。
「うん。あ、ワインあるから、後でそれも」基は珍しく声を張って答えた。
「えっ、基、いつの間に。赤?白?」
「白」
「やりぃ」

蕎麦つゆが鍋からふつふつと湯気を立てる。一緒に煮込まれているのは鴨肉と九条ネギだ。鴨肉はすぐに固くなってしまうから、火が通ったタイミングを逃してはいけない。
隣のコンロでは蕎麦が湯がかれていた。鍋底から浮かぶ気泡で麺がゆらゆらと踊っているように見える。麺がほぐれてもうすぐ60秒。基は息を止め真剣に鍋を見つめた。
今!基はサッと火を消して、蕎麦をざるに掬い上げた。水の入ったボウルにざるごと浸し、手を突っ込んでゆるやかに粗熱を取る。

「よっ!料理人」

拍手と掛け声はすぐ後ろから飛んできた。振り返るより早く司の顎が肩に乗る。手元を覗き込む司に構わず、基は手を動かした。

「良い蕎麦だかんね。うまく茹でないとかないでしょ」
「生蕎麦だもんな」
「そうですよ」

つやつやと茹で上がった生蕎麦は、基の専門学校時代の同期から送られてきたものだった。卒業してからずっと、信州の蕎麦屋で働いているらしい。毎年年末になると律儀に冷蔵便で届くので、司もありがたくご相伴に預かっている。基からも、百貨店で選んだ練り物や燻製品などを送っていた。

「早く食おうぜ。腹へった」

そこに相手が立っていたから。顔が近くにあったから。基は瞬きのようなキスをして相槌に代える。司からも、まるで念押しのようにぐっと唇を押し付ける。お互い、唇が触れあうくらいで赤くなったりしない。そうして、基は蕎麦の盛られたセイロを二つ手渡した。

「いただきまーす」
「いただきます」

手を合わせて一口目をすすったのは、年末の歌番組が中盤を迎える頃。二人だけの夕飯は、基本遅い。基は後ろでまとめていた髪をほどいた。食卓には、せいろに盛られた蕎麦と熱々の蕎麦つゆ、薬味の小皿とだし巻き卵。
あ、と言って基が立ち上がる。

「かき揚げ冷めちゃった。あっためる?」
「いいよ、そのままで」

基は長方形の平皿に乗せたかき揚げを持って戻ってきた。大判で丸く揚げられたかき揚げには、刻んだ柚子の皮が入っている。司は基が腰を下ろす前に、ひょいと皿からつまみ上げた。つゆにくぐらせ一口かじり、柚子に気付いてにっと笑う。司の名字、柚原にかけて、なにかと柚子を取り入れたがるのは、八坂基の習慣になっていた。

「これ見終わったらさ、初詣いくか」

缶ビールをぐっとあおって司が言う。マンションから歩いて20分の所に地元で有名な神社がある。元旦12時過ぎから明け方3時までが一番混雑すると分かっているのだが、歌番組を最後まで見て食器を片して、それから出かけるという流れがなんとなく恒例に続いていた。人混みもそんなに苦ではないし、毎年あの行列に詰め込まれるのがある種楽しみでもあったのだ。
基もその気持ちは同じで、グラスにワインを注ぎながら頷いた。司に勧めながら自分でも一口含む。

「蕎麦と白って合うよな」
「もとい、毎年言うよね、それ」
「白ワインは和食にいけるって聞くけど、煮物と合うとは思わないんだよな。でも、蕎麦はいい」
「おう。俺もそう思う」

普段多い方ではない口数が、料理の話になると途端に饒舌になる。司はそれを面白いなあとか思いながら、笑って同意と肯定を。もともと大味だった司の味覚は基好みに矯正され、今では食の好みは大体似通っている。

セイロの上から蕎麦がなくなる頃にはワインも空いて、歌番組もエンディングを迎えていた。食べきれなかったかき揚げはラップをかけて冷蔵庫へ。基はグラスに残ったワインを少しずつ飲み続けていたので、司は代わりに流しに立った。特に当番なんかで決めたわけではなかったが、なんとなく大晦日の洗い物は司がこなしている。

スポンジで洗剤を泡立てながら、ほんのり赤くなった基の目元を盗み見る。少しだけ下がった目尻で、テレビの光をぼんやりと追っていた。最近の基は髪の毛が伸びてきて、料理中はひとつにまとめて縛っている。タートルネックのセーターから覗く首筋が好きだなあと、司はこれまたぼんやりと思う。その首のラインは、今は薄茶の猫っ毛に隠されている。

「さーん、にーぃ、」

日付が変わった。
基の匂いとワインの味。そこに、食器用洗剤の人工的な柑橘類の香りが混ざる。
水を流していたから、テレビのカウントダウンに気付かなかった。
いつの間にか台所に入っていた基が3秒前をカウントして、

「ぜろ」

年を越した。
大きな感動もなく、物凄く特別な感じもなく、いつものように変わった日付が元旦となってやってきた。
テレビの向こうでは色とりどりの紙吹雪が舞っていて、アナウンサーやタレント、芸人、モデルに女優。華やかな面々が祝福に手を叩くのを流れるように映している。

元旦を迎えてしばらくは、呼吸の音しかしなかった。

「さ、初詣行こ」

頬をくすぐっていた基の睫毛はあっさりと遠ざかり、ぬっと伸びた腕が水道の蛇口をひねって閉めた。あ、もしかして水、流しっぱなしだった?
見れば床に泡がぱたぱたと落ちていて、スポンジを持った手が宙ぶらりんだったとようやく気がつく。

「基っ、待てって」
「置いてくよ」
「今行く!」

手を流して床を拭いて、ばたばたと身支度を整えた。スウェットを脱いでコーデュロイパンツに履き替える。ソファーにひっかけていた焦げ茶色のダッフルコートに袖を通す。洗面台でちょっと前髪を直し──いや、夜の0時過ぎだ、必要ない。
玄関に駆けると、すっかり着込んだ基が携帯カイロを揉んでいた。

「遅い」と不満顔でむくれる基。
「冷やすなよ、腹」
「わかってる」

基はとても、それはとても胃腸が弱い。ダメなのは刺激物や生物、それから寒さ。朝起きて挨拶より先に「お腹いたい」と呟く基も、トイレに籠って不機嫌な基も、もう何度も何度も見てきた。
さらに基はとんでもない寒がりなのだ。今年新調した基のコートは濃紺のダウンジャケット。アウトドアメーカーの手掛けた寒冷地作業にも採用されているアウターで、充填されている羽毛は純国産だと言われていた。精製も縫製もすべて日本国内。果たして国内生産のために仕上がったクオリティなのかは分からないが、とにかくその着心地は目を見張るものだった。細身のシルエットに反して一枚で保温し、羽織ったそばから暖かい。
なぜそんなことを司が把握しているかと言えば、一緒に出掛けたときの購入品だからに他ならない。お連れ様も一着どうかと店員に勧められたが、そんな試食感覚で手の出せる代物ではとてもない。自分にはポリ50アクリル45、ウール5パーセントの中国製で申し分ないと丁重に断った。これだって百貨店のメンズフロアで三万はしたはずだ。
基は上機嫌で支払いを済ませていたが、司は恐ろしくて最後まで値段を確認できなかった。
冷え性基は防寒着に関してのみ、金に糸目をつけない。中に着るのはどこにでもあるような白のセーターとベージュのスキニーだ。

玄関を出て、施錠する。暗闇の寒さに二人で身震いした。風に乗って除夜の鐘が届く。基が、猫のように身を寄せてくる。
「手、繋ぐ?」と左手を差し出したが、基はふいっとそっぽを向く。「寒いから嫌だ」どうやら繋ぐためにカイロの入ったポケットから手を抜くのが嫌らしい。
司は肩をすくめ、そうですねと嫌みらしく呟いてみせた。

それにしたって底冷えする気温だ。時間を考えればそりゃ、当然ではあるのだが。司もポケットに手を突っ込んで、握ったり開いたりを繰り返す。
驚いたことに、屋根のなくなった通りまで出ると、白いものがアスファルトをうっすらと覆っていた。

「嘘。雪じゃん」

感嘆の声を上げながら、基は数歩駆け出し地面に足跡をつけた。

「ほんっとだ。へええ、いつ降ったんだろ」

道理で寒いわけだと納得する。まさか、雪が降っていたなんて。思わず空を見上げたが、厚い雲で星も見えない黒が広がっているだけだった。

靴底で雪を踏みしめる感覚。ぎゅ、ぎゅ、と、一歩進めるたびに音が鳴る。すれ違った夫婦が「雪ねぇ」と話している。
神社が近付くにつれ、人通りが増えてきた。若い連れも少なくない。司は基の口数が減ったのが気になって、半歩後ろの顔を覗き込む。

「冷えた?平気?」

自分は鈍感だから。言葉で言われないと、気付いてやれないから。だから少しでも気になった時には、司はストレートに尋ねることにしていた。
心配して投げ掛けた言葉に、基はぽかんと顔を上げた。

「え?何、急に」
「や、黙ってるから。冷えたかと思って」
「いや、そりゃぁ、寒いですけど。ほら見て、前の人の足跡だけ踏んで行けるか、挑戦」

何だそれと思って足元を見ると、なるほど既にある足跡を踏むように足を進めていて、やっぱり「何だそれ」と笑ってしまう。とりあえず、具合が悪いわけではなさそうだ。司はひとまず安心して肩を並べる。

「甘酒どうぞ」

境内に入る手前、テントがひとつだけ張られていて、地元の酒屋が毎年温かい甘酒を配る。少しだけ生姜の効いたあっさりとした甘酒だ。

「明けましておめでとうございます」
「はい、おめでとう。はい、甘酒ふたつね」
「いただきます」

基が紙コップふたつを受け取って、横に並ぶ司に回す。司も酒屋のおじさんにお辞儀をしたが、人混みに飲まれて額しか見えなかった。
甘酒をちびちびと飲みながら、鳥居までの階段を登っていく。屋台の手前数百メートルから参拝客の姿が増え、階段は一段一段登っていくのがやっとなほど、ごった返していた。町中が目を覚ましたんじゃないかと思うくらいだ。

「毎年のことだけど、人、すっごいな」

先の長い階段を見上げ————立ち止まってはいられないので足を動かしながら————司は思わず呟いた。

「ま、元旦でもないと、来ませんから。俺たちもさ」
「調子良いよな、まったく」
「はは。神様に怒られるよ」

基の軽やかさが嬉しくて、隠すことなく頬が緩む。中身の無い会話の最中、基が「あっ」と足を滑らせたのを言い訳に、体を引き寄せ腕を組んだ。

「これなら手、ポケットでもいいじゃん」

基はちらっと司を見て、そうですねと口調を真似て、拗ねたようにツンとする。照れている顔だと今なら分かる。
実は、元旦にきちんと初詣をするようになったのは、基と付き合うようになってからだった。基がいなければこんな風に参拝することも一生なかっただろうと思うから、そのくせ、来てみればいっぱしに願い事なんかをしてしまうのだから、余計に「調子が良い」と思うのだ。

牛の歩みでしばらく進み、階段の、ちょうど真ん中辺りだろうか。列がぴたりと止まった。きっと先頭が拝殿に到着したのだろう。
立ち止まると寒さが際立って、身を縮めるのは二人同時だった。

「俺、トイレ行きたくなってきたわ」
「ああ、俺も」

司の呟きに、基も乗った。タイミング同じかよ。なんとなくおかしくなって吹き出した。これは、家に帰ったらじゃんけん勝負だな、とのんきなことを考える。元旦早々、成人男性二人で便器の取り合い……とてもマトモな絵面じゃない。

一段進み、小休止。一段進み、小休止。
ゆっくり過ぎてバランスを崩しそうな歩みだ。石の積まれた階段は、結構傾斜がきつい。
毎年芯まで凍えて来年は昼間にしようと思うのに、いざ終えてしまうとまた来年な、と約束していると想像に易い。これまた勝手で調子の良いところである。

「司」

名前を呼ばれて、基が組んだ腕をぎゅっと締めた。返事をするより前に、基は続ける。

「俺、ちょっとヤバい」

誤魔化すように小さく「かも」と付け足して。少しずつ進む人混みを見上げる。

「──マジ?」
「マジ」

意図するところは、すぐに直感できた。基の靴底が地面を踏む。石段に擦れてざりっと砂の音がした。

「おま、さっき行きたくなったばっかじゃん」
「急にきたんだってば」
「ハラちっさ!」

腹というか、膀胱というか。基はそう思ったが口には出さなかった。突っ込んでも仕方のないことだったから。
また一歩列が進んだ。前後左右満員電車のような密集ぶりだ。寒さのせいか、尿意のせいか、這い上がってくる鳥肌に、基は小さく足踏みした。今、ちょっと息んだら、確実に出る。ああそういえば、家を出る前に用を足さなかった。

「どうする?下りる?」

境内の中にトイレはなかった気がするが、すぐ近くにコンビニがある。司の提案に、「ええ、でも」と基は上ってきた階段を振り返って見下ろした。司としては、下までいってもう一度並ぶのも、まったく苦ではない。だってもともと、”基と”初詣に行きたいだけなのだ。

「……うん。じゃあ」

ややあって、基は顎を引いて、窺うように頷いた。

***

人の流れに逆らって下りる二人組を咎める人はひとりもいなかった。新年早々、おまけに初詣に並ぶような参拝客に、そう気の短い人も居ないのだろう。並んではみたが、人の多さに諦めた若者……多くの目にはそう映っているはずだ。
司が低姿勢に謝って、詰まった道を開けてくれる。

「ああ、兄ちゃん達。だめだよ」

牛歩の倍くらいの進みで階段を下っていると、両手を広げて止められた。ちょうど、父親くらいの男性だ。驚いてたたらを踏み、勢いあまってぶつかってしまう。立ち止まってみて初めて、何やら不穏な騒がしさに気が付いた。

「下でテントが燃えたって。帰んなら本殿の裏から通りに出な」  

男性は親切に立ち止まってくれたが、下からは慌てた様子で群衆が駆け上がってくる。「火事っ!火事!」伝言ゲームは誇張され、悲鳴を伴う混乱がさざ波となって広がっていく。

「テントが燃えたって……」司は拾った言葉を繰り返す。
「酒屋のテントさ。甘酒の」
「怪我人はっ」はっと食いついたのは基だ。
「コンロの火が飛んだんじゃねえか。テントが倒れたもんで、騒ぎになっちまった。なに、誰も怪我なんかしてねえよ。燃えるもんもねえしすぐ消える。だから兄ちゃん達も、焦ることねぇけど上から帰ったほうが面倒ねえぞ」

ちゃかちゃか喋る男性は、そう言って階段をのぼっていった。人混みに押されるようにして、二人も上へ上へと流されていく。待ってくれ。そんなに焦らなくたって。戸惑いに目を見合わせた。

「ええ、嘘でしょ……」

状況を飲み込めない顔で基が呟く。おそらく、上へと急ぐこの群衆の中には、なぜ走っているのか分かっていない人も多いだろう。

小走りで駆け上がり、もう拝殿が見えてきた。その後ろに建つ本殿をぐるりと囲むように道があり、杉林を抜けて通りに出るとあの階段を避けて下ることができる。

「もとい」
「……うん」

司は小声で呼び掛ける。細い林道が人で詰まり、再び膠着状態となった混雑を見て、唇を噛む基に気付いたからだ。 
その場でトントンと足踏みを続ける基は、両手で太股を大きく撫でた。ゆるく目を閉じて、震える息を吐く。

下腹がきつい。ほんとうに、さっき気付いたばかりだったのに。
寒さとアルコールのせいで、なんとなくトイレに行きたくなった。司が言うから思い出したくらいの、ささやかな欲求。だから、少しも急いでいなかったし、気に留めてもいなかった。寄り道しないで家に帰ろう、それだけの意識だったのに。
おしっこを溜めた膀胱は、全然膨らんでくれなかった。たちまちいっぱいになって、もう満タンですと信号を出す。けろっとしている司が恨めしい。こんなに我慢の効かないことは初めてだった。

「……あとどれくらい持ちそう?」

躊躇いながら、司は尋ねた。さっきから基は酷い顔色をしていて、司の心拍数を跳ね上げていた。
家まで我慢できるか、とは聞けなかった。

「…………列、外れたいな」

基は不安そうに揺れる瞳で辺りを見渡した。進むも戻るも容易くない。列を抜けて人混みから離れることも、また難しそうだった。

突然基の肩がびくりと跳ねた。ひくっと息を飲んだのが分かる。背中を折った基が両手で前を押さえていて、司は思わず目を逸らした。なぜだか、見てはいけないものを見てしまった気持ちになったから。

「あっ、……あ、ごめん、ごめん司」

それをどう捉えたのか、基はぱっと手を離して司の肩を叩く。不意にぶわりと尿意が膨らんで、喉の奥から変な声が零れた。その場にしゃがんでしまいそうになる基を前に、司は慌てる。

「ち、違う基。そうだこれ、これ肩からかけてな。長いから、その、押さえてても見えないから」

基のジャケットは暖かいが、丈が短いのが唯一難点だ。その点司の着ていたコートは尻まですっぽり隠れるロング丈で、上から引っかけておけば基の不自然な動きが目立たない。

全身でおしっこを我慢している姿があまりにやらしくて、他の目に触れさせたくなかったんだと知ったら基は怒るだろうか。
上着がなくなり寒くないと言ったら嘘になる。けれどこれ一枚で基の尊厳が守られるなら安いものだった。

「ママぁ、おしっこー」

数人分前方で、小学校低学年くらいの男の子がそう言って母親の腕を引いた。「もう少し我慢しなさい」母親は唇に人差し指をあてる。男の子は帰る帰るとしばらく駄々をこねたが、やがておとなしく前を向いた。

「……つかさぁ、おしっこ……」基が男の子の口調を真似て呟く。
「我慢しなくていいけどな」
「するよ、そりゃ」

無理は感じるが、まだ軽口を叩く余裕はあるらしい。そのことに司は安堵して、基の肩を引き寄せる。前屈みに俯いた基は、明らかに具合が悪そうだった。だったらいっそ、具合が悪いということにしておこう。
小刻みに震える基は苛立ちから地面を蹴る。コートの下で何度も太股を擦らせて、腰が落ち着かない。司は下半身にべつの熱が集まってきた気がして慌てて頭を振った。自分だってトイレに行きたかったことを、ここで、ついでのように思い出した。

「司」
「どうした?」

ゆっくりゆっくり列は進み、もうすぐ道を抜けるという時。基は小さく名前を呼んだ。基は真っ直ぐ立っていることも難しくて、顔を上げられなくて、両肩を支える司に押されてなんとか前進できていた。

「……ちびりそう、ちょっと……ちょっと、出た」

腰を屈めて耳を基に寄せると、とんでもない爆弾が落とされた。「うっそ、マジ?」馬鹿みたいな返し言葉しか出てこない。それでも基はこくこくと頷いて、司の頭は真っ白になった。

「い、嫌だ、やだ、どうしよう、嫌だ」
「落ち着けって、基、」

一度溢れてしまったらもう、堪えることが出来なくて、押さえても押さえても少しずつ、確実に下着を濡らしていく。歯の根が合わずガチガチと音を立てる。きゅっと刺すように膀胱が痛んだ。待って。嘘だ。外で。人がたくさんいて。

「基!」

強い力で腕を引かれた。いつの間にかアスファルトの地面になっていて、境内を出たのだと気がつく。

「あ、あ……あぁ、……っ」

坂を下る人混みとは反対に、つんのめるようにして一歩、二歩。足を動かすと同時に熱いものが尿道を通って、絶望感で目眩がする。基は、司にしがみついたまま放尿した。ズボンを履いたまま。間に合わなかった。間に合う算段なんてなかったけど、とにかく、間に合わなかった。

「うっ、……っ……ひ、」
「基、大丈夫だから、こっち」

正面から抱えられて、道路の端に引き寄せられる。息が苦しくて司の胸に顔を埋めた。誰かに見られているのだろうか。知らない誰かに。いい年した男が、堪えきらずに漏らしている姿を。あの小さな子供だって我慢できたのに。
好奇の視線に晒されているのか、確認するのが怖くて後ろを見れなかった。怖くて、恥ずかしくて、死んでしまいそうだ。ごめん。司、ごめん。申し訳ないと思うのに、セーターを掴む手を離せない。謝罪は嗚咽に溶けていった。

硬直した基がくっついて離れないので、司はそのまま地面に腰を下ろした。基の履いていたベージュのスキニーは、その前から太股にかけて変色している。座るのは気持ちが悪いだろうが、座らせないことには倒れてしまうんじゃないかと思ったのだ。基は冷たい地面にへたり込んだ。

固まって震える基の手に、司は自分の手のひらを重ねた。あまりの冷たさにぎょっとする。手袋させれば良かったかな。

基はきっと、恥ずかしいとか、申し訳ないとか、死んでしまいたいとか。そんなことを考えて思考停止している。こんな風に落ちた基を引っ張りあげるのは、すごく大変なのだ。

「もとい、誰も見てない。大丈夫。暗いし、何も見えない。俺しか知らない。大丈夫だからな」
「顔上げて。家帰ろう」
「ほら、俺のこと見ろって」
「このままじゃ冷えるぜ。腹冷やしたら、やだろ」

背中や手の甲を撫でながら、思い付く限りの「大丈夫」を繰り返した。何が大丈夫なのか分からなかったが、基にとって何が大丈夫じゃないのかも司には分からない。司の頭には、基への心配しか入っていないからだ。基のことを守らなきゃいけない、なんて、庇護欲じみた使命感が浮かんでくる。

鼻を啜って、基がようやく顔を上げた。真っ赤な目と鼻が街灯に照らされる。目尻から涙が零れた。

こくりと頷く基を見て、司は心底安堵した。基が何も言わないので、生きた心地がしなかったのだ。

「…………寒い」

基の声は掠れていた。司は立ち上がり、基に両手を差し出す。「俺のが寒い」苦笑しながらそう言うと、基はあっと声を上げた。

「ごめん!ごめん、司のコート!今、脱……あ、汚し、」
「ごめん禁止!だから、寒いから、早く帰ろう」
「汚して……」
「基の高級コートじゃなくて良かったです。立てる?通りでタクシー掴まえよう。具合平気?」

司に引っ張り上げられて、基はなんとか体を起こした。足元をふらつかせた基の体が冷えないように、司はコートのボタンを閉めてやる。まるまると着ぶくれして雪だるまみたいだ。上着を二枚着ているのだから。でも、これで、もう何も見えない。

家に帰ったら、すぐにシャワーを浴びよう。同時にお風呂を沸かしながら。狭いけど二人で湯船に浸かって温まる。眠くなってくるだろうから、そしたらベッドに潜ろう。元旦は寝て過ごしたっていい。基はきっと黙ったままで、なかなか浮上してこないだろうから、基が復活するまで存分に甘やかすのだ。

夜明け前の坂道を並んで歩いた。燃えたというテントは骨組みだけ横になっている。人影はまばらで、さっきまでの喧騒が嘘みたいだ。何があったのか知らない参拝客は、人の少なさを怪訝に思っていることだろう。酒屋のおじさんから貰った甘酒の味を思い出した。誰も悪くないとは言えないが、少なくとも基は悪くない。そうだろ。

お互いに言葉は交わさなかった。司は通りで右手を上げて、タクシーは信号機の手前で停まった。

「明けましておめでとうございます」

気の良さそうな運転手がミラー越しに軽く頭を下げた。司も同じ挨拶を返し、頭を下げる。そういえば、基に明けましておめでとうと言っただろうか。家に帰ってからやることが増えたようだ。
俯いて目尻を拭う基の手を握りながら、司は運転手に目的地を告げた。

初詣も似たものどうしで:END

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です