高校三年の卒業式、八坂基は欠席した。
地元の公立高校。偏差値で見たら真ん中よりも下の階層にあって、清らかでお上品な校風もなければ厳格な規則もない。よく言えば生徒の自主性に任せた信頼、悪く言えば放任。その実態はマイルドな無法地帯だった。
卒業後の進路にさほどバリエーションはない。就職する者、進学する者。ごく稀に、結婚するやつだっていた。
俺と基はそんな中の下高校で、初めて同じ制服を着た。家自体は近所だったのだが、学区の境で小中と別れていたのだ。
基は当時、いわゆるクラスのはみ出しものだった。
もっとも、不登校も退学も素行不良もありふれた気風。入学から一人も欠けずに卒業まで迎えることなんて先ずもってあり得なかったから、「はみ出す」のが本流というか、なんというか。
とにかく、クラスに上手く馴染めていなかった基は、高校最後の一年間、ほとんど教室に姿を見せなかった。
誰かから嫌がらせを受けたとか、何か大きな失態を晒したとか、そういう訳ではないと当時の基は話した。どうしてか教室に足が向かなくて、オイル切れで軋む体でどうにか階段を上っても、途中で動けなくなってしまう。そんな状態がしつこく付いて回っていた。
俺と基の関係は変わらず、俺は配布物や課題をせっせと届けては、畳の上にカフェオレ色のカーペットを敷いた基の部屋で漫画を読んだり、ゲームをしたり。時には基の母さんが作った夕飯を囲んだりした。料理人をしている基母のご飯は味噌汁ひとつ取っても工夫がなされていて(或いは、そう感じて)、俺は特にしじみの味噌汁が好きだった。
調子の良いときは教室で授業を受けていたが、それと同じくらい、誰もいない廊下で肩を強張らせていたと思う。併せて、その時から基の胃腸はひ弱で、時々、生徒玄関から一番遠い教員用トイレに籠っていたことを知っている。寒いのとか、辛いものが苦手だと言っていたけど、ストレスみたいな精神的な負荷もきっとダメなんじゃないだろうか。と、俺は思っている。
年明けから自由登校が始まって、朝の出欠確認がなくなった。そうなると基の不在を意識する者は担任と、クラスに数人の友人だけになった。
その僅か数人から基の進路を聞かれた俺は、少し迷って、知らん顔で貫き通した。本当は、調理の専門学校への進学が決まっていた。
そして迎えた卒業式。
俺は、初めて基を迎えに行った。
学校に向かう道上にあって、さらにお互いのだいたい中間地点。それは大通りを跨ぐ歩道橋の前だった。
俺はいつも八時……十分とか、十五分くらいまで基を待ってみて、基の姿が見えなかったら道路を渡っていた。それ以上は遅刻してしまうし、あえて家まで呼びに行くなんてこともなかった。
だけど卒業式は、なんか違う。なぜって問われたら答えに困るけど、出ても出なくても変わらないのかもしれないけど、そういうんじゃないだろ。
「もといー、行こうぜ」
チャイムを鳴らし、インターホン越しにそう呼び掛けた。応答は存外すぐに返ってきた。切り替え音の後、基の息遣いが聞こえる。わざとらしいくらい大きな溜め息である。
「…………行くよ」
行くってばあ、と続けてぼやいた返事の途中で基はインターホンを切った。目を細めた嫌そうな顔が浮かんできて、3月の青い寒空の下、俺は一人で笑ってしまった。
***
「──よし」
晴天。
ベランダに干していた布団を取り込もうと、落ちてきた袖をもう一度腕まくりする。サンダル履きで腕を伸ばして掴むのは、洗ったシーツと天日干しの羽毛布団。両腕に抱えて、そして片足で網戸を閉めて、司はそれら寝具をベッドに下ろした。
年末。師走の三十日。
司の職場は一昨日仕事納めを迎えた。昔気質の社風ゆえ、課長の音頭で深々とお辞儀をして、拍手なんかで各々老を労った。
一方基はというと、老夫婦経営の小さな居酒屋に今日もせっせと出勤中だ。ただし居酒屋としての営業は昨日で終えている。年内最終営業日となる今日は、昼まで惣菜の販売を行い、午後からは会計締めと大掃除の予定だそうだ。
基の提案で始まったという惣菜販売は、食材の在庫廃棄を減らしたいオーナー夫婦と、年末の食卓に猫の手も借りたい主婦層両方にたいそう評判らしい。
そんな二人で過ごす、もう何度めかの大晦日。
一日気ままに過ごすため、司は昨日から家中の大掃除に精を出している。風呂場、トイレ、台所。加えて大きな洗濯は午前のうちに済ませた。さて、午後は、床と窓。換気扇なんかも洗えたら良いのだが。
雑巾を探しに玄関へ向かう。雑巾や工具など、使用頻度の低い日用品が詰め込まれた袋戸を開けた時、微かな着信に気付いた。
振動が長く続くので、メールではなく着信なのだと分かる。慌てて壁に掛けたコートのポケットをまさぐって、入れっぱなしの社用機に触る。沈黙していた。違う。これじゃない。そもそも社用機は音が出るじゃないか。
スマホ、どこに置いたかな。思案しつつも足は動き、テレビ台の足元にぶーんと震える端末を見つけた。まったくどうして、こんなところに。
「はい。一係の柚原です」
口にしてしまってから、しまった、と思う。つい、会社用の言葉付きになってしまった。しかも、画面を確認しなかった。どこからの電話だろう。
一呼吸の間に浮かんだ思考が水切りのように巡った。どこからの電話だろうかと思い当たった時には先方の言葉が返ってきたので、水面を弾んだ石はポチャンと沈んだ。
『ああどうも、”わか葉”の谷口です。柚原さんでしたか』
少ししわがれていたが、それでいて芯のある聞きやすい声。
“小料理屋わか葉”は基が働く居酒屋だ。店主のお爺ちゃんのことを、基は”タニさん”と呼んでいたから、電話口で”谷口”と名乗った男性がその”タニさん”なのだと気付くのに瞬きの間が必要だった。
「あ、谷口さん。タニさん、ですよね。基の……」
「そうだ、そうだ。君が柚原さんですか」
「そうです」
「いや実はね、基くんがちょっと、熱があるようで」
「え?」
「店の座敷で休んでもらっとるから、迎えに来てもらえると助かるんだが、どうだね」
探るように「来られるかい」と問われて、二つ返事で引き受けた。返ってきたのは、ああ良かったという安堵の溜め息だ。
店の場所は分かるかと質問が続き、大丈夫だと答えて電話を切った。”タニさん”が商売人らしい暢達さで、折り目正しくあいさつするもんだから、司も思わず姿勢を直していた。
熱?熱だって?
思いがけない方向から飛んできた小石は波紋を広げた。心配そうではあったが、のんびりとしたタニさんの口調からは焦燥は伝わってこなかった。まあでも、とにかく、迎えに行ってやらないとな。
“わか葉”は地下鉄の駅で三つ先にある。
地下鉄の最寄りまでは少し歩かなきゃいけない。司は上着を引っ掴んで、そのまま外に飛び出した。マフラーを巻けば良かったと気づくのは、公道を渡る横断歩道に立ち止まった時だった。
***
今朝の基は、どんな様子だっただろうか。
地下ホームから電車に乗り込み、袖仕切りに凭れて記憶を辿る。
毎年正月料理に精を出す基だったが、今年俺達の台所は休業だ。基母の料亭も今年は店を閉めるそうで、年末年始にお呼ばれしてしまったのだ。
家族で過ごせよ、と一度は遠慮した司だったが、途端にむっとした基に押しきられる形で予定は決まった。まったく、あいつの不機嫌は、どこにスイッチが埋まっているのか分かったもんじゃない。
乗客まばらな車内。流行りの感染症に備えて、軒並み皆マスクで顔半分を覆っている。
車体は継ぎ目を踏んで規則的に揺れる。行き先表示の隣、液晶ディスプレイでは関東の天気予報が流れていた。笑顔の太陽マークが並ぶ。三が日は晴天が続くそうだ。
朝起きて、隣に基はいなかった。俺は枕カバーやシーツを剥ぎ取って、顔を洗いがてら洗濯機に突っ込んだ。顔を拭いたタオルもそのまま入れる。歯を磨きながら機械を回し、動き始めた音を聞きながらリビングに向かって……
停車した。目的の駅に着いたのだ。
“わか葉”は駅徒歩五分の飲食街にある。
「おじゃましまー……す」
木製の引き戸をおそるおそる開けて首を伸ばす。暖簾は下げられていたし、太いマジックで書かれた正月休みの張り紙は堂々と貼られていた。遠目で見ても鍵が開いているように見えなかったというのもあるし、店舗に自信がなかったのもある。日が出ているうちに来たのは初めてだったから。
店内は閑散としていた。当然だ。閉店中なのだから。椅子も机に揃えて上げられていて、きれいに磨かれた床には窓枠の形で光が落ちている。
「ああ、どうもどうも」
奥から足音が近付いてきて、小上がりの襖が開いた。中から出てきたのは、おそらくタニさんなのだろう。小柄だが締まった体つきの男性が、雑巾片手に顔を出す。
「こんにちは。すみません、柚原です。基の迎えに来ました」
「良かった良かった。待ってましたよ」
手招きされてタニさんの後に従った。個室になるはずの和室の襖は全て開け放たれていて、大きな一部屋のようである。
左右を見渡して、その部屋の隅で横になる背中をすぐに見つけた。えんじ色の座布団を枕に、見覚えのあるコートを布団にして、薄い肩を僅かに上下させている。
司はその塊にそっと近付いて肩を揺する。
「基。もといー。帰っぞ」
むずかるように顔をしかめ、ぎゅっと閉じた後の薄目を開く。下になっていた片目から、涙が浮かんで落ちる。虚ろな視界に司の姿を認め、基の口からは「え?」という間抜けな声が漏れた。
「………何で、つかさ………?」
「お前が熱出したって聞いたんだよ。おい、大丈夫か。………あーーほら、急に起きんなって」
「タニさん、奥さん、すみません」
起き上がった基の目は司を越えて後ろに向けられていて、つられて司も振り返る。服の膝で手を拭くタニさんと、いつの間にか「奥さん」も和室の外に揃っていた。奥さんはこれまた見覚えのある鞄を畳の上に置いたところで、おそらくバックヤードから基の荷物を持ってきてくれたのだろうと想像がついた。
「気にしないの。荷物これね、全部かしら。午前のお弁当二つ取っといたから、後で食べなさいね」
奥さんが、売り物と同じプラスチックの弁当箱を紙袋に入れてくれていた。二つ、と言われて司も慌てて居ずまいを正す。
「うわ、スミマセン。俺まで」
「やだわ。いいのよ」
「残り物で悪いが、持って帰んなさい」
そのまま世間話でも始まりそうな雰囲気だったのだが、司は会釈だけして会話を絶った。背中側、シャツの裾がくっと引かれたのだ。「帰ろう」の、基のサイン。
横目で見える基の顔はしれっといつも通りで、酷く具合が悪そうには見えない。けどそれも、タニさん夫妻に気を遣ってのことなのかもしれなかった。
「よし、じゃあほら、帰るぞ」
「ん」
「………立てるか。手?」
「平気。トイレ行ってくる」
思いの外しっかりとした足取りで立ち上がって、和室を抜けてトイレに消えた。夫妻に頭を下げるのも忘れない。なんだ、案外大丈夫そうじゃないか。
「基がすみません。忙しい日に」
基が離席したのをいいことに、改めてお礼とお詫びを告げる。夫妻はとんでもないと首を振った。
「午前はいつもと変わらなかったのよ。午後になって、外片付けてる時に、ねえ。急に気分悪いって」
「床掃除だけでもするっつうんだが、横に寝かしといた。どうも良くならないもんだから一回起こして……。一人で帰すのも気の毒だろう。車出そうかと聞いたらね、そしたら、君が家にいるって言うもんだから」
「そうだったんですね。呼んでいただけて助かりました」
「あの子、ちょっと無理する気質でしょう。風邪も流行ってるし、司くんも気をつけて」
「すんません。お気遣い、ありがとうございます」
ちょうど会話の途切れたところで、基が戻ってきた。もう靴は脱がない。司も立ち上がって三和土で靴を履き直した。
基の荷物も掴んで、挨拶もそこそこに店を出る。トイレから戻ってきた基の顔が、紙のように真っ白だったから。様子が変だ。「良いお年を」お決まりの文句で別れたが、基は軽く頭を下げるだけで口を開かなかった。きっと、夫妻も気付いていただろう。
玄関を閉めて店に背を向けた途端、基に袖を引かれた。足を止める。基は、ふらふらとガードパイプに向かっていき、その場でしゃがみこんでしまった。
「おい、基。大丈夫かよ」
やっぱり、さっきはトイレで吐いていたんじゃないか。思わずさすった背中は分厚いコートで体温までは分からず、手の甲で色を失った頬に触れてみた。熱い。こんなの、高熱じゃないか。汗ばんだ額に動かす。額はもっと熱かった。
眩暈を逃がすように踞っていたが、突然「うっ」と肩を強張らせた。
「…………ごめん、つかさ、ちょっと……。ちょっと吐いていい……」
「おい待て、今?吐きそう?」
問いかけにはこくりと頷く。そうしている間に喉仏が何度も上下して、唾液を飲み込んでいるんだと分かる。堪えるようにいっそう背中を丸くする。亀みたいに小さくなる。
「店戻ろう。トイレ貸してもらおう」
もう口元を両手で押さえながら、それでも基は頷かなかった。タニさん夫妻に遠慮しているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。違う、とゆっくり首を振る。ちがう、そうじゃなくて。
「店のトイレ、タニさん掃除してた。使うの、悪いから……」
遠慮はしていたが、方向性が違ったようだ。さっき手洗いに立った時、掃除中の便座を見て使えずに戻っていたのだろう。吐けなくて、それで、落ち着きを失っていたんだろう。
「わかった。しんどいな。吐いて良いから、ちょっと待て。袋、あ、弁当の袋……」
「ある、袋、……っ……オエッ……!げええっ」
司が慌てて袋を出そうとしている間に、基は体を折っていた。思わず息を飲む。バシャバシャと吐いたものが叩きつけられるのは、グレーのビニール袋。なんだ、袋持ってたのか。
「おええっ…………げえ…………っ」
まばらに、人の往来もある。車通りも少なくない。
地面にへたりこんで袋を宛がう基は、年末の昼下がりに明らかに異質で、怪訝な視線が無遠慮に刺さる。司はそんな視線に背を向けて、基を隠した。
基が弱ってしまうと、正直、腹の底から怖い。
目の前にいたはずの基がパチンと弾けていなくなってしまいそうな気がして身震いする。
けどそれじゃ、そろそろだめだ。司は自らを叱咤する。
ひとしきり戻して、出すものがなくなってもしばらく空嘔吐が治まらなかった。基の下唇の端からは唾液が糸をひいて落ちていく。
「はーーーっ………はあ………」
乱れた呼吸を言い聞かせるように整える。
落ち着いたかと問おうとして、基の上体が傾いだ。その手から慌ててビニール袋を奪う。質量のある、白っ茶けた吐瀉物が中で揺れた。胃の中にこんな未消化のものを抱え込んで、よく平然といられたものだ。
色素の薄い猫っ毛が寄りかかってきた。目をきつく閉じたまま俯いて、浅い呼吸を繰り返す。
司はそのビニールの口を縛りながら、どうしたらいいかと顔を上げた。真っ直ぐ歩いて、もうすぐそこに地下鉄の出入り口がある。吐くほど具合が悪いと思わなかったから、電車で帰ることしか考えていなかったのだ。
眩暈が治まったのだろう。凭れていた体温がそっと離れて、自分の力で体を支える。
「………ごめん、つかさ。ごめんね」
「何で謝んだ。タクシー呼ぶから待ってろ。体冷やしたら余計しんどいだろ」
「………帰りたいですねえ」
「帰るから、心配すんな」
そんなやり取りをしながら、司は配車アプリでタクシーを呼んだ。便利になったものである。黒い車体は10分と待たずに横についた。
マンション近くの歯科医院を目印に伝え、静かに滑り出して数分。基は再び落ち着きを無くしはじめた。
実は車に乗り込んだ時から、ヤバイかな、とは思っていたのだ。タクシー特有のにおいが鼻について、基の眉間に皺が寄ったことに気付いていたから。
マスクの位置をしきりに直し、その上から唇を摘まむ。窓側に座った基が寄りかかれるよう、司は真ん中に腰を下ろしていた。すぐ近くで熱っぽい呼吸が次第に乱れて、背中が徐々に丸まってくる。
「…………降りるか?」
声を落としてそっと尋ねる。
基は困ったように司を見た。
「…………分かんない……。早く帰りたい」
そう言われると、こっちだって困ってしまう。
基の体の事は、基にしか分からないから。
車はメーターを数えながら進む。
分からない、とは言ったものの、基の体調が急降下していくのは目に見えて明らかだった。
本人にも分からないくらい不安定な具合なのだ。司は、些細なサインも見逃すまいと気を張っていた。
司の肩に頭を預けていた基だったが、次第に前屈みになって体温が離れ、左手は口元から離せなくなっている。
基が何か呟いた。走行音に掻き消されるくらいの小さな声で。
「ん?なに?」同じように体を倒して耳を寄せる。
「………気持ち悪い………っ」
基の白い手は、食道を塞ぐように、首の薄い皮膚を摘まんでいた。あまりにきつく押さえるので、爪のあとがついている。
「運転手さん、すみません、止めてくださいっ」
***
横断歩道の手前で車は止まり、基はつんのめるようにして外に降りた。司に腕を引かれてなんとか歩いたものの、コンビニの前で嘔吐。
拭いても拭いても涙が滲んできて、体が全然言うことを聞いてくれなかった。
司がコンビニの店員に断ってくれて、トイレを貸してもらった。心配したアルバイトが紙コップに入った水道水を持ってきてくれ、何度も口を濯ぐ。吐き気が落ち着くと、自覚するのは鉛のような倦怠感。悪寒と、熱を持った体の不自由さ。
それ以外の方法がなくて、再び呼んだタクシーに揺られてマンションに帰る。司に思い切り体重を預けてた。外が眩しくて目がチカチカする。熱が上がって曖昧になった思考回路で、基は高校の卒業式を思い出していた。
あの時、俺は学校を休みがちで、はっきりした理由も言えないまま、三年生の時なんてほとんど出席していなかったんじゃないかと思う。
今になっても、あの時どうして登校できなかったのか、説明を求められたら困ってしまう。特に大きな事件があったとか、誰かに悪意を向けられたとか、そんな類いではないのだ。
クラスメイトの話に合わせることが出来なかった。流行りの曲も、芸能人も、テレビ番組も分からない。どの先生が厳しいとか、あの先生は何が好きだとか、教師の話題で盛り上がれるのも分からなかった。どこのクラスの誰が可愛いとか、ビジンだとか、そんな話題も分からない。取り上げられている人のことは知っているけど、意見を求められても閉口するしかない。だって、判断できるようなものはなにもないから。自分にはよく分からない話題で笑いが弾けているのを見るのは、自分だけが宇宙人になってしまったようで、怖いとさえ思っていた。
冷たい言い方をすれば、自分に関係のないことに、興味がなかったのだ。
それでもなんとか頑張って、話題に合わせて笑ったし、時には意見を表明したりもしてみた。その緊張の糸が、プツリと切れてしまったのが、あの時期だったんだと思う。浮かないように、”普通”らしく、なんとかしがみついていた手を離して、あっという間に濁流に飲まれてしまった。
朝起きて、今日こそはと思うと息が詰まる。制服を着て外に出ても、途端に腹が下ってきて、玄関に駆け込むことになる。
世の中は平均的なものを正常とするし、偏ったものは異常と分類して回ってる。今振り返っても、あの時の自分は”異常”な側の人間だった。
だとしても、あの時離してしまったと思ったものが果たして一体何だったのか、濁流に飲まれて流れ着いた先が本当に異常なものだったのか。それだって本当は、誰にも分からないんじゃないかと今ならば思う。
司はそんな状態の俺の所に、足しげく通い続けてくれた。どうしたんだと言われないことが救いだった。何があったんだと追求されないことが有り難かった。変わらないトーンで喋って、ゲームをしたり、お菓子を食べたり、そういう時間にどれだけ助けられたか分からない。
そんな調子で卒業式当日を迎えた。3月。明るくて雲ひとつない晴天だった。
けれど、やっぱり体が動かない。司からメールで行くかと問われ、行くよと返していたこともあって、身支度は、ちゃんと整えていた。
リビングのアナログ時計が秒針を刻む。
家には、俺ひとり。
静かに、正確に、時刻は八時十五分を過ぎた。
今家を出れば、ギリギリHRに間に合う時間。
フローリングの床に座ったまま、ぼんやりと宙を眺めていた。
立たなきゃと思うのに、足に力が入らない。
(司に嘘、吐いちゃった)
──ピンポーン
不意にチャイムが鳴って、俺は文字通り飛び上がった。
脱力しきっていたことも忘れ、インターホンに駆け寄る。もしかして、と期待した。液晶画面に見つけたのは、司の姿だった。すぐに通話ボタンを押してしまって、ちょっとだけ気まずい。これじゃまるで、迎えに来てくれるのを待っていたみたい。
一拍開けて、今一番聞きたかった声が返ってくる。
「もといー、行こうぜ」
すぐに返事をするのも癪で、素直じゃない俺は大きく溜め息なんかついてみせた。
「行くよ」昨日メールで送った言葉。
「行くってばあー」
気恥ずかしくなって、途中で切り上げてしまった。
司の苦笑いが浮かんでくる。
その日初めて、頬が緩んだ。
大丈夫だと思った。
行ける気がしたんだ。
でも、だめだった。
遅刻確定の通学路。制服を着た学生は一人もいない。
司は俺を急かすことなく、二人でのんびりと足を進めた。大丈夫だと思ったし、それは自分に言い聞かせていた言葉。
(…………あ、)
俄に、怖い、と思った。
それは、俺がだめになるスイッチ。
校舎が近付くにつれて、司の声が耳鳴りに負けてしまった。
心臓が破れんばかりに脈打って、息の吸い方を忘れる。吐き方を忘れる。漠然とした恐怖が足に絡み付いて引っ張って、お腹の真ん中に嫌な感じが広がっていく。
「──基、」
呼ばれて、顔を上げた弾みで、目から涙が溢れた。頬を伝う感覚で、濡らしたのは自分の涙だと気付く。
司は困惑顔だ。見て分かる。そりゃあそうだろう。同級生が、幼馴染みが、突然何も言わずに泣き出したんだから。
俺、やっぱり帰る。司は行きなよ。親も来てるでしょ。卒業式なんだし。
そう言うべきだった口からは嗚咽が漏れるだけで、平気だと振って見せたかった右手は、司のコートを引いていた。
「…………帰りたい?」
頷いたら、また涙が落ちた。
頭がクラクラしてきて、その場にしゃがんでしまいたい。
「分かった。じゃ、やーめよ。俺も出ない」
ニッと歯を見せて笑う司に何と言われたのか、すぐには飲み込めなかった。
「そっ、……それは、だめだ。ごめん、俺のせいで。ごめ……」
「落ち着いて。だいじょーぶだろ。出なくても死なない」
「で……でも、」
「分かった。そしたらさ、俺、すげー良いこと考えた。来て」
今度の司は俺の返事を待たず、いつも通りの歩幅で歩き始めた。その足は学校のある方角へ向かっていたけれど、司の後を追いかけてるんだと思ったら、不思議と前に進むことができた。俺が付いてきているか、時折司は振り返る。腕を伸ばせば掴まえられるくらいの距離を保って先を進む。
果たして、司の考えた折衷案は、体育館の外にあった。
「もとい、基っ。卒業生入場。急いで」
吹きさらしの外階段に腰かけて、はやくはやくと手招きする司。俺はわけが分からなくて、だからこそ怖いなんて感覚が割り込む余白もなくて、言われるがままに小走りで司の隣に急いだ。
「え?なに……?」
「ここ。中の音バッチリ聞こえるんですよ」
なるほど確かに、音楽と、床を踏む足音がはっきりと聞こえる。俺が呆然と立ち尽くしていると、中から『着席』とマイクの声が響く。この声は確か、学年主任。社会科の、日本史の担当だったような覚えがある。居眠りしていても怒らない、優しいというよりは、史実の説明に夢中になっちゃうような先生だ。
「基。着席だって」
「あ、え?これ、どういう……」
「入んなくていいからさ。ここで俺たちも卒業式しよ」
突拍子もない提案に文字通り耳を疑う。
コンクリートの階段に腰を下ろして、俺はニコニコと得意げな司を見た。信じられないものを見る思いで。
「やっぱ、卒業式ってなんつーか、今日だけじゃん。もし帰ってたらさ、これからさ、卒業式っぼい話題が出る度にさ、あー、行かなかったなーって、勝手に浮かんできちゃうと思うんだよね。そんなのちょっと、嫌じゃないかなって。だったらさ、いいじゃん。俺もここで卒業式するから」
さみぃけどな、と、また笑う。
『卒業証書、授与』教師の声が反響する。
「卒業証書、授与。八坂基」
司が、恭しく証書を持ち上げるまねをした。
「卒業証書、授与。柚原司」
俺も、そんな司のまねをして、見えない卒業証書を手渡してみる。
おかしくなってきて、一度込み上げてきた笑いはなかなか引っ込んでくれない。
体育館の中まで聞こえるんじゃないかと思うくらい、腹を抱えて笑った。
***
「………い。もとい。基~」
「!」
ハッとした。今、寝てた。ここ、どこだっけ。
司の大きな手が目の前で振られて、基の視界は徐々に焦点が合っていく。
「起こして悪い。家着いたぞ」
そうだ。タクシー。
タニさんのお店から帰る途中、コンビニで吐いて、タクシーに乗って。記憶を辿って、懐かしい夢を見ていたことに遅れて気付く。
「降りれるか」
「ん」
「良く寝てたな。道混んでたから、寝てて良かった」
「ん」
リビングに戻るやいなやほっとして、その場に寝転んでしまいたくなるのを「手洗ってこい」と司は制した。洗面台で並んで手を洗い、口をゆすぐ。
「……帰ってこれないかと思った」
「俺も。お前がもっかい吐いたら救急呼んだ」
「え。そうなの」
「いや、そうだろ」
まだ調子は悪そうだが、蒼白だった顔色は熱で上気した頬の色だけになり、そのことに司は内心安堵していた。言葉の応酬は概ねいつも通りだ。
リビングにも廊下にも、至るところにいわゆるお掃除グッズが散らかっている。やりかけて慌ただしく飛び出してしまったから。
ベッドの上に放ったシーツをとりあえず下ろし、なんとなく体裁を整えているうちに、基はソファに横になっていた。
「怠い?」干したばかりの布団をかけながら司が尋ねる。
「少し」太陽のにおいに潜り込みながら、基は返した。
ソファの上、布団の丸みがゆっくりと上下する。
手持ち無沙汰になって、司はテレビを付けた。音を消してザッピングする。年末の特番は色合いだけで賑やかだ。
落ち着いたら、腹が鳴った。
タニさん夫妻からもらった弁当を思い出し、台所に向かおうとして、基の寝返りが視界に映る。
「…………今日さ、ミヤノが来たよ」
寝言にしてははっきりとした口調で、かといって会話を投げかけるでもなく、独り言のように基が呟く。
ミヤノ?誰の話だ?
「俺覚えてなかったんだけど、『宮野だよ。覚えてる?』って言うんだよな。覚えてないって言ったら、高三の時、五組だったって」
三年五組。宮野。そう言われて、朧気に一人思い当たった。同級生じゃないか。基が学校に来なくなって、司は件の彼に基の進路を聞かれていた。懐かしい。
基は続ける。相槌は要らないようだ。
「近くに住んでるんだって。で、弁当二つ買ってった。今度彼女と来るって」
司は弁当を取り出した。輪ゴムを外し、プラスチックの蓋を外す。ラップをかけて、レンジを開けた。
「卒業式、連れてってくれてありがとう」
600Wで二分。弁当をレンジに入れた後で良かった。そうでなかったら、仰天して丸ごと床に落としていただろう。
何か言おうとして振り返る。何も言われないように、基は布団に潜り込んだ。レンジの稼働音だけが静かに響く。
──あの時、司が連れ出してくれなかったら、俺はきっと、もっとだめになっていたと思うし、永遠にあの閉塞感を”卒業”できなかったよ。
──付け足したかった言葉を胸に抱えて丸くなる。
電子音がして機械が止まった。
冷蔵庫から取り出した麦茶をグラスに注ぎ、弁当と一緒にリビングへ。
寝息を立て始めた基の向かいで、司はわか葉の弁当を食べた。
師走の三十日の話。