大晦日は似たものどうしで

夕方になって、郊外のショッピングセンターへ車を走らせた。
昼と夜の入れ替わる時間。冬の夕暮れは短く、太陽はあっという間に建物の背後に沈んでいく。ほんのりと夕焼けの名残を留めていた空も、車を降りる頃にはすっかり夜の色になっていた。

「きんとん買っただろ。黒豆はあるし、あとなんだっけ」

食品売り場でカートを押しながら、柚原司は首をすこしだけ捻った。左隣、半歩後ろを歩くのは恋人の八坂基だ。オリーブ色のモッズコートに身を包み、少し俯いて襟元に顎を埋めている。ポケットに手を突っ込んで歩くから、「危ないぞ」と窘めるも無視された。

「……三つ葉。雑煮作るんだろ」
「ああ、そっか」

基はたいへんな寒がりだ。裏地にダウンの入ったこのコートは基のお気に入りで、今年の冬はこればかり着ていた。去年、散々吟味してようやく納得のいくものを見つけたと得意げな顔を思い出す。
それはコート一枚に支払う金額としては、司には到底理解できない価格だった。しかしながら、年中指先の冷たい彼曰く「コートは鎧」。どんな格好でも生きていけるが、冬の装備だけは最大限のクオリティに仕上げておかないと死活問題になるらしい。実際、コート以外の衣類に対して基の関心は薄い。
そんな基だが、今朝からどうも機嫌が悪い。機嫌が悪い時と眠い時、黙ってしまうのは学生時代から変わらない。
午前中の大掃除だって殆ど口をきかなかったし、何か話しかけても「うん」かNOを意味する「ううん」しか返ってこない。ちなみに、後者は首を振るだけで声すら出さない。
いったい何に怒っているんだろう。俺、何かしたか?
司は考えるも、それらしい答えは出てこなかった。

「なあ、怒ってんの」

自分の頭で分からないことなら、直接聞くしかない。ましてや人の気持ちのことなんて、なおさら。
白菜を手に取りながら司は尋ねた。今年の冬は葉ものが飛び抜けて高い。値段を見て直ちにためらい、いやいや三が日は鍋にするんだと思い直してカゴに入れた。そのままの動きで振り返る。基はようやく顔を上げたが、そこには驚いたような、心外そうな、なんとも言えない表情が待っていた。
目が合ったかどうかも定かでないうちにふいっと顔を背ける基。ちょっと不貞腐れたように唇を尖らせている。色素の薄い猫っ毛には、枕の形で寝癖がついていた。

「……別に、怒ってない」

基はカゴから白菜を取り出して、「こっちのほうがいいよ」陳列棚に積まれた別の一株と入れ換えた。
司にはさっぱり分からない目利きだが、基がそう言うからそうなのだろう。
高卒で調理の専門学校に進んだ基は、個人経営の居酒屋で働いている。部屋は散らかり放題、洗濯機の使い方さえあやしい奴だけれども、料理の腕だけは確かなのだ。基の母親も小さな料亭を切り盛りしており、最近になって彼はそっちの店も手伝いはじめた。酒のつまみから手の込んだ和食、繊細な見た目のフランス料理……の触りまで、スキルは上達するばかりである。司はそんな基に、すっかり胃袋を掴まれている。

「あっそう」

じゃあ何でそんなに不機嫌なんだよ————という言葉は飲み込んだ。
お互いにそっぽを向いたまま、司は季節モノでびっくりする程高い三つ葉を掴む。
多くの若者がそうであるように、正月料理がとりわけ好物な訳ではない。「縁起物」の意味するところさえ曖昧だ。けれどもなんとなく、それは例えば神社で手を合わせるように、通過しなければ落ち着かないものだった。こういう時、自分はやっぱりニホンジンだなーと、ひっそり孤愁するのだ。

海老焼きや煮物は基母からお裾分けを貰う。基が作れないものは買った。出来合いのきんとんと、足りない材料は今日揃える。司は頭のなかで買い物リストをチェックして、不備や買い忘れがないかを確認した。
人の流れに従ってカートを押す。店内には、謹賀新年らしい琴奏のBGM。鮮魚を売りさばく店員の掛け声。目の前を子供が横切って行った。母親らしき女性が、それを追いかける。
周りを見回しても、男の二人連れは珍しい。

「あ、ユズ」

ふと、基が口開く。棚からはずれ、入荷のままの段ボールには柚子が積まれていた。
司の名字が柚原ということで、基は頻繁に「柚子」を見つけて買ってくる。柚子コショウ味のスナック菓子、柚子味ののど飴。外食のメニューに柚子の二文字を見るたびに、ほらほらと指先がつつく。そういう時の基はやっぱり得意げで、その表情に司は弱かった。

「何に使うの」
「何って……雑煮に入れよう。皮、細く切って」
「中身はどうすんだよ、食えんの」
「食って悪くはないけど。絞って冷凍したら、他につかえる」
「へええ」

基がそう言うなら————と、司はまたしてもカゴに放った。
話かけてきたということは、今朝からの不機嫌を少しは自覚していたということか。
けんかをしても、基はぜったいに謝らない。その代わり、ちょっとでも悪いな、と思っている時は、様子を伺うように当たり障りのない会話を向ける。そうすれば、司は許すと知っているから。素直じゃないのだ、まったく。
面倒くさい奴だが、司だって同じくらいひねくれている。
細い手触りの頭をくしゃりと撫でる。

「わっ」

一瞬身を離した基だったが、横目で司を見て、肩にぴったりとくっついた。ひねくれた二人の交差する地点は、きっとこういう瞬間だ。

基は怒っている訳ではないらしい。
しかし長蛇の列で会計を済ませ、売り場を後にしてもなお、ひたすらに黙り込んでいる。

「こっち、持って」
「ん」

……と、まあ、一事が万事、この調子。
菓子をまとめた一袋を手渡しても、顔すら上げずにポケットから手を抜いただけだった。
司は首をひねる。
人混みの流れは足早で、流されてずんずん歩きながら考える。
怒ってない、眠くもない。なのに貝みたいに黙りこくる。

あっ、と思った。
同時にぐいっと上着が引かれる。

「……ちょっ、と、待って……」

足を止め、「まさかお前さあ」振り返ろうとして─足下から、基の声がした。

「お前さ、具合が!悪いなら!最初から言えって!」

基は、背中を丸めてしゃがみ込んでいた。菓子の袋が床につかないよう上に掲げて。司はその袋を、ひったくるように奪う。何事かと周囲の視線がちらちら刺さる。
もともと口数の少ない基が、さらに静かに黙る時。それは不機嫌な時と睡魔が勝る時、それから、具合が悪い時だった。
両手で腹を抱えて踞った基は、少し呻いてよろよろと立ち上がった。司の肩にポンと手をやり、「トイレ」。ついて行こうとすると、食品持って入る気、と睨まれた。コートの上から痛いところを庇うように押さえる仕草。司はこの姿を、これまで幾度となく見ていた。基は、本人もとっくの昔に自覚してしまうくらい、胃腸が弱い。
不安定な足取りで角に消えた基を、司はヒヤヒヤしながら待っていた。
暫くして戻ってきた基は、司の座るベンチに影のように腰をおろした。腹をゆっくり擦りながら、長い溜め息。
あまりにげっそりとしたその様子に、司は思わず肩をすくめた。

「おいおい、大丈夫かよ」
「あんまり……」

猫背の背中をさらに丸くして俯く基。血の色が透ける唇からは、また深い息が溢れた。

「いつから調子悪いの」
「…………朝」
「……お~ま~え~な~……」

司は天井を仰いだ。
ショッピングセンターの天井なんて、初めて見たよ。なんて、思いながら。

***

朝目が覚めて、ベッドを抜けた時から違和感はあった。胃もたれに似た不快感は、徐々に痛みの形になる。それはちょうど、大掃除をしようと張り切る司に掃除機を渡された時だった。風呂場のカビ取りを終えてきたという司からは塩素のにおいが流れてきた。
司が窓拭きに精を出している間に床掃除を任された基だったが、時間とともに増す鈍痛がそれを許さなかった。
掃除機を支えに何度も動きを止め、息を止め、痛みが和らぐことだけをただ願う。今日は午後に買い物に行って、夜は重箱にお節を詰めて、そばを食べながら年を越すのだ。年末特番を流しておくのも良い。そしてその後は二人で初詣に行こうと決めていた。言葉で約束したわけではなく、毎年の恒例だったから。
居酒屋で働く基と、保険会社で働くサラリーマンの司。ただでさえ生活時間が合わないのに、せっかく休みの揃った大晦日をこんなことでふいにしたくない。

「なんか食ったかなぁー…………」

基はフローリングの床にへたり込んで、情けなく胃の辺りを掴んだ。

「もとい~終わったかあ」

のんびり戻ってきた司は雑巾をぶら下げて、まくっていた袖を戻していた。基は掃除機のコンセントを引き抜いて手繰り寄せる。やっとのことで一面終えたところだった。狭いマンションで助かった。

「……ん」
「買い物行くけど、行く?」
「うん」
「じゃ、行こうぜ」

コードを巻き取りながら、司に気付かれないようそっと腹を庇う。
痛みはさしたり引いたりしていて、不快感が常に付きまとう。それでも、我慢できる範囲だと、基は判断した。
じきに治まる。大したことない。自分に言い聞かせるように暖かなコートに袖を通したのが、二時間ほど前のこと。
祈りの甲斐あってか収まりかけていた腹痛は、食品売り場の冷気にあてられて再びぶり返してきた。痛みもだんだん、平静を装うのが難しいほどに、性質を変えていく。ジクジクとさし込んでいた痛みは、締め付けるような激しいものに変わっていった。

司、と呼びたくなる。
でもそうしたら、買い物なんてやめて帰ろうと言うだろうし、今朝からおかしかったなんて言ってしまったら、なぜもっと早く言わなかったのかと怒るだろう。司は優しいから、司自身を怒るのだ。
そんなことを考えてもいるうちにどんどん具合は酷くなり、言い出すタイミングを失ってしまった。カゴいっぱいの食材や菓子をレジに通し、袋に詰める。コートの下、基の真ん中がギュルッと不穏な音を立てた。
背筋を伸ばすことも出来なくて、人混みのなか、司の背中を追うことで必死だった。大股で歩く司に追い付くことが出来なくて、待ってと言おうとした時、鋭い痛みが基を襲った。
「っう」思わず、声が漏れる。
その場にへたり込む、その直前に司の服を掴んだ。

「……ちょっ、と、待って……」

自分の口から飛び出した情けない声に、基は頭を抱えたくなった。

***

しっとりと汗の浮かんだ額に触れる。俯いていた基の肩がびくりと跳ねた。

「熱……は、分かんねえな。ダルい?」
「……たぶん、熱はない」

あれから二回、基はトイレに消えたのだが、調子は一向に回復しない。
基の「腹痛い」には慣れているけど、こんなに弱るのは珍しい。司は自分のマフラーを巻き付けて、基の腰のあたりを撫でた。腹を抱えて丸まっているから、強張った瞬間が直に伝わる。痛みの波が寄せては唇を噛んで震える基を、ただ見ていることしかできない。刃物みたいな無力感の前で、司は焦り初めていた。

「もとい、とりあえず帰ろ。もうだいたい買い物終わったし、あとは別に、今日じゃなくてもいいから」
「……も、ちょっと待って、……もうちょっと、落ち着いたら……」

押すように腹を擦る基。前髪の隙間から司を見た。司の顔色は、具合の悪い基に負けないくらい血の気が引いていた。
言わんとしていることは伝わった。
そんなに心配しなくても大丈夫。司を安心させたくて、基は蒼白な顔色のまま、しかし唇が弧を描く。基が弱ってしまうと、ダメなのは司の方だった。
司は、基の頭をくしゃりと撫でた。
それからややあって、「帰る」突然基が口を開いた。

「だ、いじょうぶ?動ける?」
「……今なら」

基は曖昧に頷く。
ようやく小康状態まで治まったということか。司はそうであってほしいという期待を込めて解釈する。
動けるならばこんな人混みのベンチより、住み慣れた家のほうが何倍も良い。基の体調が落ち着いているうちにと、司は手早く荷物を持った。
基も猫背のまま、ふらりと立ち上がる。

「……気付かなくてごめん」

駐車場に戻って開口一番、運転席の司は呟いた。助手席でシートベルトがカチリと音を立てる。ほらきた、と基は思う。

「気付かれないようにしてたんだから、成功」
「お前なぁ……言えよ……」
「すぐ治ると思ったんだってば」
「動くぞ」
「うん」

司の運転する車は静かに滑り出した。
師も走ると書いて師走。その最後の日、大晦日。
午後七時過ぎの県道は、上りも下りも大混雑していた。二人の乗る車も、なかなか前に進まない。いや、確かに進んではいるのだが、交差点の多い道柄、すこし動いては赤信号につかまって……という流れを繰り返していた。
のろのろと進んでいるうちに、基の体調はまた下りはじめてしまった。
隣に座る基の様子が変わったことに、司はすぐに気が付いた。

「基、」
「……うん」

弱ったところを抱え込み、鳥肌の立つ腕を擦る。目を閉じると睫毛が震えた。
司は後部座席に腕を伸ばし、上着を掴んだ。「かけてろ」と、基に手渡す。基は黙って素直に頷いた。
車内に聞こえるのは、絹擦れの音と苦しそうな息遣いだけ。司の上着を握りしめて、基はただ痛みをやり過ごす。少しでも暖めようと、和らげようと、けれど刺激しないように慎重に。手のひらには、やわらかい皮膚の下の危うい動きが伝わっていた。
ハンドルを握りながら、司は横目でその様子を窺った。

「どこか止まるか」
「……まだ、そういう感じじゃ、ない」

基のその言葉は嘘ではなかったし、何よりも早く帰りたかった。どこかに立ち寄ろうにこの混雑だ。再び車線に入るのに困難を極めることは想像に易い。
大きく前屈みになった基は、ただ震える膝を見下ろした。

住宅街が近付くにつれ大通りから離れ、したがって車の動きもスムーズになる。基の体調は酷くなる一方で、不規則に鳴るいやな音は運転席にも聞こえていた。厚着している薄い体からはグルグルと低い音が響いていて、それに呼応するように浅い呼吸が乱れる。

「ごめん基、もう少しだから……」
「……っ、……ぅ」

混雑から抜けたのはいいが、住宅街には立ち寄ってトイレを借りられるような場所は少ない。コンビニに繋がる裏道を探すくらいなら、真っ直ぐ帰ったほうがずっと現実的だった。
片手でハンドルを握りながら、基の膝からずり落ちそうになっている上着を引っ張った。汗で張り付いた前髪をよけてやる。

ちょっと、ほんとうに、まずいかもしれない。

今、どの辺りだろう。車は動いているのか、止まっているのか。

基の想像に、最悪の事態が可能性として浮かぶ。考えないように頭を振るが、血圧がどんどん下がっていく不快感を気付かないふりは出来なかった。
捩れるような痛みはいつの間にか強い排泄欲に変わっていて、下ってきた緩い圧力に動悸が治まらない。
鼻をすする。そうしないと、泣けてしまいそうだったから。

「基、」

呼ばれて、はっと顔を上げた。見慣れたバーチグレーの外壁、申し訳程度に設けられた、屋根の無い駐輪場。

「先降りてて。車停めてくるから 」ロックを解除して司は言う。

無言で何度も頷いて、基は車から急ぎ降りた。はやる気持ちとは反対に、ふらつきながら階段を昇る。熱いものが今にも後ろを通りそうで、ひくっと喉が鳴った。震える手で解錠し、コートも脱がずにトイレに駆け込んだ。

裏の駐車場に車を停めた司は、大股走りで部屋に急いだ。
肩で息をして玄関を開けると、丁度基がトイレから出てくる所だった。

「……つかさぁ」

目が合うと、ほっとしたように緊張がほどける。基の声には涙が滲んでいて、司の思考は固まった。貧血らしい基は、慌てて駆け寄った司に体重を預けた。震える瞼を閉じ、深く息を吐く。未だ渋り続ける腹をそっと押さえて暖める。

司は暖房のスイッチを入れ、基のコートを脱がしてやる。代わりに部屋着のトレーナーを押し付け、毛布を放り、やや強引にソファに落ち着けた。
毛布からは基の白い顔だけが覗いている。
電気ストーブも付けて、エアコンも付けて、司は強ばった表情で買い物を仕分けていた。冷凍するものは小分けして冷凍庫へ、野菜は野菜室へ。テレビは年末の特番を低音量で流していた。
酷く下したせいで目が回って、照明が目に染みる。

「…………ねぇ今何時」

少し、眠っていたらしい。
微睡みから瞬きを数回。ソファに横になったまま、座面に寄りかかる司の耳たぶを引っ張った。司は年末恒例の歌番組をぼんやりと眺めている。日の落ちた部屋はテレビから届く光だけがぼんやりと照らしていた。

「あー、十時半」
「十時半ね」

お節作れなかったね。年越しそば、どうする?初詣行けるかな。
浮かんだ言葉は沈黙に泡となった。

(…………なんか言えよ)

べつに司が責任を感じることじゃないのに。
まだ半分眠った思考は、ろくに考えずに口に出していた。

「ねえ、司、怒ってるの」
「はあ?」

風をきる勢いで振り返る司。その反応に、基は逆に面喰らってしまった。

「なんで俺が、お前を怒るんだよ」
「や、俺をじゃなくて、ええと、」
「……は?」
「えーと、司をね、ええと……自分で怒ってるんだろうなと思ったわけです」
「……」

司の大きな手が伸びてきて、毛布に視界が遮られた。無造作に髪の毛をかき回される。おかしくなって、笑いが溢れた。

「…………何でだよ」
「あは。だって黙ってるから」

怒ってる時と寝そうな時、静かになるのは司の癖じゃん。
そう言うと、なぜか司は吹き出した。毛布の上から肩を叩かれる。それも、結構強い力で。病み上がりだというのにひどい扱いである。全くもって理不尽だ。
わけが分からずにいると、顔だけ、ばっと布団がはぎ取られた。このままキスだって出来そうな距離に、司の顔がある。眉毛の下がった笑い顔で。

「なあ、おばさん元気」
「母さん?うん」
「じゃあ、さっさと治せ。明日は挨拶に行くから」

出来なかったことをいつまでも嘆くのではなく、新しく積んでいく。その方が司らしかったし、基は司のそういう所が好きだった。

「来年もよろしくな」
「当たり前じゃん」

大晦日は似たものどうしで:END

1件のコメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です