2018年9月1日 3:15
敷きっぱなしの万年床に体を預け、薄くなった枕に頭を埋めた。微かに湿ったにおいがする。
嫌な夢を見た。
全身が熱くて、体の芯には悪寒が走った。掛け布団を手繰り寄せるも、まだ、寒い。
脱いだ形のジャージとか、 揉みくちゃのバスタオルとか。腕の届くあらゆるものを掴んで抱えた。屋根裏暮らしの少女が布団のない寒さを椅子の重みでごまかしたのは、バーネットの児童小説だったか。重さでもいい、少しでもこの寒さが和らぐのなら。
そうは思うもデジタル表示で体温は一時三十九度まで上昇していたから、いくら布団を被っても重みを重ねても、紛れはすれど改善するわけではないのだと理解はしている。
ひどい夏風邪。
昔からそうだった。冬場に水浴びをしたって、一晩中雪山で埋まっていたって風邪なんてどこ吹く風とピンピンしていたイチだが、毎年、夏の終わりに一度だけ寝込む。それも自覚症状から悪化までが一瞬で、プロペラの壊れたヘリコプターのように急速落下していく。そして、病院には行けない。
いつから開いていたのかわからない風邪薬を錠剤で二錠飲みはしたが、あまりの吐き気に戻してしまった。
まだ、朝は来ない。
2018年8月31日 5:30
鍵を回す音が聞こえた。
拓美が帰って来たのだ。ガチャンと一周シリンダーが動いて錠が外れる。
イチは眠い目を擦って起き上がった。床に転がっていたせいで節々が痛む。イチもほんの三十分程前、玄関で靴を脱いだばかりだった。
仕事終わりの帰り道は夕方でもなく、夜でもない。
それは、太陽が昇り、街が重たい瞼をゆっくりと開く明け方だ。目覚めの準備運動にはおよそ三時間。目覚めた街には人が溢れ──それは決して比喩ではなく実際に溢れて路上に横たわり──忙しなく休みなく動き続ける。まるで泳ぎ続けなければ死んでしまうとでも言うように。あるいは、立ち止まったらあぶれてしまうと恐れていて。
タタン、タタン。規則的なリズムが微かに近付いてくる。
高架橋にならぶマンションの四階角部屋。枕木を踏む始発電車が、この部屋の一番鶏だ。
拓美は何か食べるだろうか。それとも、シャワーを浴びて寝ると言うだろうか。居間の古びたドアガラスの向こうに拓美の影が映る。
おかえりと言おうとして、口をおの形に開いて、音にならなかった言葉は朝日に溶けた。
亡霊のように揺れた拓美。
いかついリングをはめた拳が飛んできて、イチの頬を殴った。
(あ…………、今日、ダメな日)
脳みそがぐわんと回って、一瞬目の前が真っ暗になる。拓美の指に光るリングを見た次には、フローリングの床に突っ伏していた。
頬を触る。チリっと痛みが走り、鉄の味を感じた。口の中が切れていた。
何の予備動作もなしに、拓美の右スイングはとても鋭い。格闘技を習っていたことがあるというから、体が覚えてるのかもしれない。
左腕で半身を支えながら顔を上げ、イチは抗議の声をあげる。
「拓美、痛い」
「るっせえ」
すれ違い様、邪魔だと言わんばかりに足蹴にされる。
アルコールと汗のにおいがした。それから、饐えたようなにおいと、香水の甘いにおい。
透けるような金髪は蛍光灯に安っぽく照らされて、一筋、二筋とキラキラ光って、「仕方ないな」と、イチは目を閉じる。
***
拓美の職業を一言で表すなら、ホストだ。それ以上でもそれ以下でもない。職業欄のある書類を書くときなんかはサービス業と書いたり、飲食店勤務と書いたりしているが、日が落ちてから出勤し、真夜中を過ぎ、明け方まで働いて、日が昇るころに帰宅する。
以前はそれなりに指名を取って、高いお酒だってバンバン開けて、順調にやってきていたのだ。
ソープまがいの風俗店で肉体労働に精をだす俺よりも、ずっと順調だった。
そんな拓美の様子がおかしくなったのは半年前。
ちょうど、拓美の勤める店のオーナーが変わった時期だ。
新しく仕切るようになったオーナーは拓美と折り合いが悪かったらしい。
指名を取らせて貰えなかったり、稼ぎ頭のバーターか、付き人のように扱われたり。
負けん気の強い拓美はそんな状況でも腐らずまじめに(まじめに?)ネオンの街へ出勤し、嫌がらせにも屈しまいと働き続けた。
しかし、意地と気力だけではどうにもならないことがある。お金だ。
屋根のある部屋に帰るにも、明かりをつけて水を飲むにも、生きていくにはとにかくお金が必要になる。
俺も拓美もまめに貯金なんてするような質ではなかったから、歩合制の仕事柄、困窮するのに時間はかからなかった。
春を目前に控え、未納で電気が止まった。
ポストに投函されていた督促状を手にコンビニへ行こうとする拓美に、確か俺はこう言ったのだ。「それ、俺やるよ」
家賃は折半、電気は拓美、ガスと水道が俺。そういう役割分担だったが、こんな場面では仕方がない。
一晩たっぷりサービスして、おまけまでつけてやればプラスアルファが貰える、俺がやってるのはそういうシゴト。もうひとつ店を増やしてもいいし、法外なことに手を染めたって構わない。
拓美と違って、俺にはそれができる。
そう思っての提案だったのに、その一言で拓美はキレた。
拓美が振り返ると同時に頬に衝撃が走り、座卓を巻き込んで飛ばされた。机の上のグラスやタバコが床に落ちて散乱する。ガラス製の灰皿は鈍い音を立てて床を転がり、大回りした回転が小さくなって静止した。
ゴロンゴロンと転がっていった灰皿はちょうど拓美の足元に止まり、殴られるのかなと立ったままの推定百七十センチを見上げたが、舌打ちが落とされるだけだった。
それから、イライラしているときの拓美は俺を殴るようになった。
どこにスイッチがあるかなんてわからない。踏み抜いてはいけない場所はどこにでもあって、そしてどこにも存在しないのだ。きっと。
落ち着いているときの拓美は、ちょっと驚くくらい優しい。そして可哀想になるくらい弱い。
ある時、先に帰宅した明け方、ふと目を覚ますと目の前に拓美の膝があった。正確には、目の前にあるこれは何だろうと視線を動かして、拓美の膝だと気が付いた。
「…………なぁに?」
拓美は答えない。
だんだん夜目がきいてきて、窓から差し込む電灯の光でぼんやりと輪郭が分かってきた。カーテンを閉めずに寝ていたようだった。あくびを噛み殺しながら見上げると、拓美は虚ろな瞳で俺を見下ろす。ぱたぱたと頬に水滴が落ち、彼が泣いているのだと気が付いた。
頬に触れる。
指先が濡れた。
「どうしたの拓美。嫌なことされた?言ってごらん」
「…………」
「いいよ。ぜんぶ聞いてあげる。俺バカだから、ぜんぶ忘れてあげるし」
起き上がって引き寄せると、されるがままに倒れこんだ。
黒いパンツに黒いシャツ。光沢を持ったレザーベルトに手を伸ばす。
「辞めちゃえばいいのに。あんなとこ。お金なら俺がなんとかしてあげるのに」
昨日拓美の逆鱗に触れたところが、その翌日は最も手当されたい傷になる。
眠らない街で女性たちを盛り上げ、杯をあおり、雄としてのアドバンテージを最大限着飾った拓美は、明け方泣きながら体を開く。
店や出先やラブホテル。加齢臭と整髪料のにおいが染み付いたようなオッサンに、精一杯の甘い声と媚びで好きなようにされた俺は、朝日が昇るころ泣きながら縋りつく拓美を抱きしめる。
拓美への嫌がらせは、もはや精神的なものだけではないだろう。彼の裸を見ていれば見覚えのない痣や切り傷を見つけるのは造作もない。ちょうど、拓美に殴られた頬や脇腹と同じような跡が、彼のからだにも残っているのだ。そして、フツウなら怪我をすることはおろか、人には見せられないような場所の傷が。
でも、俺は聞かない。
拓美が店を辞めない理由も、おおよその予想はつけどあえて問い質したりしない。どんな弱味を握られているかなんて、聞いても仕方がないから。
ふたりの関係は、それで良かった。
***
2018年9月1日 1:30
「っ!ゲホッゲホ、げほ、オエッ!」
喉の奥から迸ったゲロは液体に近く、なんとか便器に収まった。勢いで水が跳ね返る。イチは肺いっぱいで息を整えながらそれを拭った。
「…………あ、ぶねー……」
膝立ちになってレバーを引く。立ち上がったらそのまま顔を突っ込んでしまいそうで、揺れる頭を抱えた。流れる水の音を聞きながら壁に寄りかかる。体温が発熱と呼べる域まで着実にのぼっていく。
出勤しようとして、なにかがヘンなな感じがした。
違和感の正体がわからないまま部屋を出て、空の郵便受けを覗いて、鉄階段を降りて。最後のステップを踏もうとした時、胃がひっくり返った。
「う」
咄嗟に両手で口を塞ぐ。格子模様の鋼板の上でたたらを踏み、足音が鳴った。心臓がバクバクと危険信号を点滅させる。食道が無理矢理にこじ開けられて、口の中に生温かい苦味が押し寄せた。
イチは降りてきた階段を駆け上った。
鍵を開けて部屋に飛び込み、廊下を三歩でトイレのドアを握る。口から堪えきれずに溢れるのと、便座の蓋を開けるのは同時だった。
膝に顔を埋める。
背中に走るのは悪寒だ。胃と、くちが不味い。酸っぱくて苦いにおい。嫌な感じだ。
ああ、風邪かも。
電気回路がショートして、中枢に向かって瞬く間にエンジンが落ちていく。待っているのは急速落下だ。
這うようにトイレを抜け出して、ワンルームの一部屋に文字通り倒れこんだ。居間であり寝床でもある一室だ。ハサミやボールペンを無造作に突っ込んだ引き出しから記憶を頼りに体温計を掴む。何かの時──そうだ、拓美が店で倒れて。それは前のオーナーの時で、連れられて帰ってきた拓美は店で挟まれた体温計を持ち帰ってしまったんだ。まだ電源は入るだろうか。緑色ゴム製のボタンを押すと、ピッと割れた音がして液晶画面が点った。
(なんも言わないで休むの、店長にどやされるかなぁ)
客が来なけりゃずっと控え待機だし、まあ、あの店じゃなきゃダメってわけでもないし。まあ、いいかな。いいよね。
お金も住むところも身分証も、何一つ持っていなくたって、この街はあまりに生きやすい。
意識は徐々に手綱を手放し、暗い深みにずぶずぶ沈んでいく。酷い悪寒に襲われ目が覚めるのはそれから一時間後。充電が三十%を切ったスマホで時計を確認した。同じく引き出しに転がっていた風邪薬を一度は飲み込み嘔吐したのは、その十分後のことだった。
2018年9月1日 5:00
そう、ロック画面に表示された。充電残量は赤い警告色になっている。着信を知らせるアイコンが見えたが、イチは構わずにスマホを伏せた。カバーをつけていない剥き身の紺色。拓美の名義で契約している型落ち機種だ。
ごろりと寝返りをうった。いつのまにか“落ちて”いたらしい。目を閉じる前に見たままの部屋が、同じ角度で視界に映る。
熱はピークを越えたのか、恐ろしいほどの悪寒と焦燥感は遠のいていた。計らなくても熱が下がっているのは体が分かる。元が頑丈にできているから、だいたいのものは寝れば治ってしまうのだ。
高熱と悪寒が引いた代わりに、むかついてくるのは体の真ん中だった。起き上がろうとするイチを罰するように強い吐き気が突き上げる。
「うっ……、うぐ、……っ」
胃液の酸性が喉元まで寄せる。息を吐こうとして、ぬるい中身が駆け上る。あっと口を塞ぐ間もなく、目の前の床にぶちまけていた。吐いた。吐いた。部屋で吐いた。
「ひっ、」
咄嗟に跳ね起きて、その動きでまた吐いて。シャツの袖で口元を拭って視線を落とすと、床にはひどい惨状が広がっていた。
どうしよう。片付けないと。ゲロ掃除ってどうやるんだっけ。
店で吐いてもホテルを汚しても、自分で片付けたことがないからわからない。
雑巾で拭いても広がってしまう気がするし、何よりも数秒前まで自分の体内にあったモノが汚物になって生活空間に存在している事実に打ちのめされる。血の気の引いた顔で瞬きを繰り返した。
しばらく……といっても時間的には一、二分……イチはそうやって呆然としていた。
胃のあたりが再び不快感を訴え、焦りはじめたちょうどその時、カンカンとステップを踏む音を拾った。コンクリートの充填されていない安いプレート階段なので足音が響くのだ。
足音はだんだん近づいて、止まる。続くのは鍵を回す音。うまく鍵が入らなかったようで、ガチャガチャと乱暴な手つきは見なくても分かる。
(…………ヤバイ)
ひやりと冷たい汗が流れた。
吐き気はじわじわと這い上がる。内臓が侵食されていく感覚だ。
(今日、ダメな、)
壊れんばかりの勢いで玄関が開いた。ドアが壁を打つ音も、床下まで響く苛立った足音も、苦情が来るレベルの騒音だ。
「おいイチ、居んだろ」
狭い古いワンルームだ。冷たい拓美の視線はすぐにイチを捉えた。丸まった布団と、寒がったイチが色んなもの引っ張ってきたせいで散らかった部屋も。
「…………ぁに寝てんだよ」
すごい音がした。
反射的にイチは目をつむる。
拓美が開けっ放しのドアを拳で殴り、ガラスが割れて飛び散ったのだということは、そっと目を開けてすぐに把握できた。
ずかずかと大股で拓美が部屋に入る。
「ま、って。待って。今、ちょっと、気持ち悪、」
「死ねこのクソビッチ」
「……っく」
静止の頼みを聞くはずもなく、血の滲んだ左手がイチの襟元を捻りあげた。右から飛んできた衝撃に、イチの体は床に転がる。頭がガンガンと割れそうに痛む。風邪の成す技なのか、物理衝撃のせいなのかは分からない。
「死ねっ!クソ!」
汚い言葉を撒き散らしながら、拓美は座卓上のものを思いつくままに払い落とし、掴んだと思えばイチに投げつけた。
イチはそれらの些細な痛みより、内側からのぼってきた波を必死になって抑えていた。床に体を丸めて口を塞ぐ。涙で視界が揺れる。鼻からなんとか息を吸って、喘ぐように背中が波打つ。
真横に拓美の気配を感じた。
「たく………、まっ、て、いま……」
途切れ途切れの懇願も、当然聞き入れるわけがない。
こうなった時の拓美は都合の悪い言葉をなにも受け付けないのだと、イチは分かっていた。
「うっ」
拓美の足が、イチの腹部に入った。
柔らかくて無防備な、大切な臓器がたくさん詰まった体の真ん中。
「っ、ゲホ、ゲホッゲホッ……げえ………っ」
堪えていたものが口から溢れた。拓美に蹴られて吐いたことなんてこれまで無かったから少しは躊躇を見せるかと淡い期待を抱いたが、拓美は臆することなく二発目を入れる。今度は背中側だった。堪らずに仰け反る。食いしばった歯の隙間から悲鳴が逃げていく。
「ッ!げほっ、……っぐ、ぅ、」
「…………は……っ、はぁ、……っひ」
「……たく、み………」
殺されるかな、と、頭の冷静な部分が俯瞰する。
乱れた呼吸を整える間、微かに聞こえたのは拓美の嗚咽だった。
首を動かしてみると、まったく信じられない、まったく酷いことに、拓美がぼろぼろと涙を落としながら立ち尽くしていたのだ。散々好き勝手暴れて、力任せに手足を出して、処理できなくなったら泣きだすのだ。いやだいやだと駄々をこねる様はさながら園児のようだ。いや、三歳児の方がずっとまともでマシだろう。
本当にしょうがない奴だ。ほんとうに、泣きたいのはこっちの方だっていうのに。
「…………拓美、」
「…………」
「たくみ。……怒ってないよ、おいで」
黙ったままの虚ろな拓美に、イチは言葉を続ける。吐き気は依然くすぶっていて、酸っぱい唾液を何度も何度も飲み干しながら。
「………今日、具合悪くて、珍しいでしょ。俺が。店、休んでたのに……まったく、暴れんだもん」
息が続かなくて言葉が途切れる。思い出したように眩暈までしてきて、イチはきつく目を閉じた。
「俺が病院行けないの知ってるでしょ。たくみ」
イチは病院に行けない。
保険証はおろか、身分を証明できるものをひとつも持っていない。
ものだけならまだ良いが、そもそも、イチには戸籍がないのだ。この国に存在しているという証明が何一つない。戸籍上、イチはカウントされない存在なのである。十割の医療費なんて払える余裕はないし、住登どころか戸籍すらないと追及されたら面倒だ。
雪深い東北の方でイチを産んだ母親は、子育てよりも遊びに忙しい女性だった。父親の顔は見たことないし、母親だって孕んだ子の父親が誰かなんてわからなかったかもしれない。
とにかく、そんな奔放無責任な母親のために、イチがこの世に産まれたという届出は出されなかった。だからイチは小学校にだって通っていない。同年代の子供と話したこともない。
せめて顔が良くてよかったなと、何度自分の顔に感謝したか分からない。そうして流れるように上京して、なし崩し的にこのワンルームに居ついてしまった。
ピタリと唇に何かが触れた。
顎を掴まれる。
目を開けると、キスでも出来そうな近距離に拓美の顔があった。ただし、今触れているのはシャンパングラスで、拓美の唇ではない。
「………なに、たくみ……」
グラスの底には、人工的なシアンブルーの錠剤が沈んでいる。
混乱のうちにグラスが傾けられ、液体だけが先に流れ込んできた。拒もうとすると溢れた液体は行き場をなくして顎を伝っていく。舌先で舐めてみた。
水。ただの、水だ。
「飲んで。飲んでイチ」
「たくみ、だから、なに………」
はっとした。
涙すら浮かべる拓美の唇にも、その人工的な着色料が色を残していた。きっと舌を覗いたら真っ青になっているかもしれない。
イチは拓美の手に両手を重ねた。グラスを受け取る。クッと傾けて一息に喉に流してみせる。自分で言ったことなのに、拓美は驚いた顔をしていた。
いいよ、わかったよ。何も聞かないでいてあげる。どうせ俺、バカだから。聞いてもきっとわからないし。
始発電車が、今日も正確に近づいてくる。
拓美は放り投げていた鞄をひっくり返した。
中からバラバラと注射器が落ちてきた。細くて、中指くらいの長さの、透明なビニールで一つずつ閉じられた注射器。
もともとがゼロなのだ。こんな終わりで十分なのかもしれない。
プラスでもマイナスでもなく、存在しない存在。
ゼロという概念の登場は、数学の世界に議論を巻き起こしたらしい。ゼロ以前の数学体系が崩壊してしまうという理由で、なにも存在しないという意の「ゼロ」の存在が否定された。
もちろんそんな大層な存在と自分を重ねるつもりはないけれど、俺の世界はこれがすべてだった。
「おはよう、拓美」
朝日の眩しい夜が来る。
着信を知らせるスマホの振動がふたつ分鳴っていることに、今初めて気がついた。
あたたかく柔らかく霞んでいく意識。この安寧は恐ろしく強烈なトリップを経てのことで、床には吐いたもの、それから失禁した跡が愉快に広がっている。
そう、もうすぐ、しあわせな朝がくる。
2018年9月1日 8:00
スチール製の玄関扉が叩かれる。叩いて分かるくらい薄い作りなので、音は空気に拡散していく。チャイムなんて気の利いたものはついていないから、中の住人を呼びたかったら扉を叩くしかない。
「野瀬さーん。野瀬拓美さん。いらっしゃいますかあー」
もう一度叩く。
応答はない。
「野瀬拓美さーん。××警察です。野瀬さーん」
> >「しあわせな朝」:END