しあわせな朝

2018年9月1日 3:15

敷きっぱなしの万年床に体を預け、薄くなった枕に頭を埋めた。微かに湿ったにおいがする。
嫌な夢を見た。
全身が熱くて、体の芯には悪寒が走った。掛け布団を手繰り寄せるも、まだ、寒い。
脱いだ形のジャージとか、 揉みくちゃのバスタオルとか。腕の届くあらゆるものを掴んで抱えた。屋根裏暮らしの少女が布団のない寒さを椅子の重みでごまかしたのは、バーネットの児童小説だったか。重さでもいい、少しでもこの寒さが和らぐのなら。
そうは思うもデジタル表示で体温は一時三十九度まで上昇していたから、いくら布団を被っても重みを重ねても、紛れはすれど改善するわけではないのだと理解はしている。

ひどい夏風邪。

昔からそうだった。冬場に水浴びをしたって、一晩中雪山で埋まっていたって風邪なんてどこ吹く風とピンピンしていたイチだが、毎年、夏の終わりに一度だけ寝込む。それも自覚症状から悪化までが一瞬で、プロペラの壊れたヘリコプターのように急速落下していく。そして、病院には行けない。
いつから開いていたのかわからない風邪薬を錠剤で二錠飲みはしたが、あまりの吐き気に戻してしまった。

まだ、朝は来ない。

 

2018年8月31日 5:30

鍵を回す音が聞こえた。
拓美が帰って来たのだ。ガチャンと一周シリンダーが動いて錠が外れる。
イチは眠い目を擦って起き上がった。床に転がっていたせいで節々が痛む。イチもほんの三十分程前、玄関で靴を脱いだばかりだった。

仕事終わりの帰り道は夕方でもなく、夜でもない。
それは、太陽が昇り、街が重たい瞼をゆっくりと開く明け方だ。目覚めの準備運動にはおよそ三時間。目覚めた街には人が溢れ──それは決して比喩ではなく実際に溢れて路上に横たわり──忙しなく休みなく動き続ける。まるで泳ぎ続けなければ死んでしまうとでも言うように。あるいは、立ち止まったらあぶれてしまうと恐れていて。

タタン、タタン。規則的なリズムが微かに近付いてくる。
高架橋にならぶマンションの四階角部屋。枕木を踏む始発電車が、この部屋の一番鶏だ。

拓美は何か食べるだろうか。それとも、シャワーを浴びて寝ると言うだろうか。居間の古びたドアガラスの向こうに拓美の影が映る。
おかえりと言おうとして、口をおの形に開いて、音にならなかった言葉は朝日に溶けた。

亡霊のように揺れた拓美。
いかついリングをはめた拳が飛んできて、イチの頬を殴った。

(あ…………、今日、ダメな日)

脳みそがぐわんと回って、一瞬目の前が真っ暗になる。拓美の指に光るリングを見た次には、フローリングの床に突っ伏していた。
頬を触る。チリっと痛みが走り、鉄の味を感じた。口の中が切れていた。
何の予備動作もなしに、拓美の右スイングはとても鋭い。格闘技を習っていたことがあるというから、体が覚えてるのかもしれない。
左腕で半身を支えながら顔を上げ、イチは抗議の声をあげる。

「拓美、痛い」
「るっせえ」

すれ違い様、邪魔だと言わんばかりに足蹴にされる。
アルコールと汗のにおいがした。それから、饐えたようなにおいと、香水の甘いにおい。
透けるような金髪は蛍光灯に安っぽく照らされて、一筋、二筋とキラキラ光って、「仕方ないな」と、イチは目を閉じる。

***

拓美の職業を一言で表すなら、ホストだ。それ以上でもそれ以下でもない。職業欄のある書類を書くときなんかはサービス業と書いたり、飲食店勤務と書いたりしているが、日が落ちてから出勤し、真夜中を過ぎ、明け方まで働いて、日が昇るころに帰宅する。
以前はそれなりに指名を取って、高いお酒だってバンバン開けて、順調にやってきていたのだ。
ソープまがいの風俗店で肉体労働に精をだす俺よりも、ずっと順調だった。

そんな拓美の様子がおかしくなったのは半年前。
ちょうど、拓美の勤める店のオーナーが変わった時期だ。
新しく仕切るようになったオーナーは拓美と折り合いが悪かったらしい。
指名を取らせて貰えなかったり、稼ぎ頭のバーターか、付き人のように扱われたり。
負けん気の強い拓美はそんな状況でも腐らずまじめに(まじめに?)ネオンの街へ出勤し、嫌がらせにも屈しまいと働き続けた。
しかし、意地と気力だけではどうにもならないことがある。お金だ。
屋根のある部屋に帰るにも、明かりをつけて水を飲むにも、生きていくにはとにかくお金が必要になる。
俺も拓美もまめに貯金なんてするような質ではなかったから、歩合制の仕事柄、困窮するのに時間はかからなかった。

春を目前に控え、未納で電気が止まった。
ポストに投函されていた督促状を手にコンビニへ行こうとする拓美に、確か俺はこう言ったのだ。「それ、俺やるよ」
家賃は折半、電気は拓美、ガスと水道が俺。そういう役割分担だったが、こんな場面では仕方がない。
一晩たっぷりサービスして、おまけまでつけてやればプラスアルファが貰える、俺がやってるのはそういうシゴト。もうひとつ店を増やしてもいいし、法外なことに手を染めたって構わない。
拓美と違って、俺にはそれができる。
そう思っての提案だったのに、その一言で拓美はキレた。
拓美が振り返ると同時に頬に衝撃が走り、座卓を巻き込んで飛ばされた。机の上のグラスやタバコが床に落ちて散乱する。ガラス製の灰皿は鈍い音を立てて床を転がり、大回りした回転が小さくなって静止した。
ゴロンゴロンと転がっていった灰皿はちょうど拓美の足元に止まり、殴られるのかなと立ったままの推定百七十センチを見上げたが、舌打ちが落とされるだけだった。

それから、イライラしているときの拓美は俺を殴るようになった。
どこにスイッチがあるかなんてわからない。踏み抜いてはいけない場所はどこにでもあって、そしてどこにも存在しないのだ。きっと。

落ち着いているときの拓美は、ちょっと驚くくらい優しい。そして可哀想になるくらい弱い。
ある時、先に帰宅した明け方、ふと目を覚ますと目の前に拓美の膝があった。正確には、目の前にあるこれは何だろうと視線を動かして、拓美の膝だと気が付いた。

「…………なぁに?」

拓美は答えない。
だんだん夜目がきいてきて、窓から差し込む電灯の光でぼんやりと輪郭が分かってきた。カーテンを閉めずに寝ていたようだった。あくびを噛み殺しながら見上げると、拓美は虚ろな瞳で俺を見下ろす。ぱたぱたと頬に水滴が落ち、彼が泣いているのだと気が付いた。
頬に触れる。
指先が濡れた。

「どうしたの拓美。嫌なことされた?言ってごらん」
「…………」
「いいよ。ぜんぶ聞いてあげる。俺バカだから、ぜんぶ忘れてあげるし」

起き上がって引き寄せると、されるがままに倒れこんだ。
黒いパンツに黒いシャツ。光沢を持ったレザーベルトに手を伸ばす。

「辞めちゃえばいいのに。あんなとこ。お金なら俺がなんとかしてあげるのに」

昨日拓美の逆鱗に触れたところが、その翌日は最も手当されたい傷になる。
眠らない街で女性たちを盛り上げ、杯をあおり、雄としてのアドバンテージを最大限着飾った拓美は、明け方泣きながら体を開く。
店や出先やラブホテル。加齢臭と整髪料のにおいが染み付いたようなオッサンに、精一杯の甘い声と媚びで好きなようにされた俺は、朝日が昇るころ泣きながら縋りつく拓美を抱きしめる。

拓美への嫌がらせは、もはや精神的なものだけではないだろう。彼の裸を見ていれば見覚えのない痣や切り傷を見つけるのは造作もない。ちょうど、拓美に殴られた頬や脇腹と同じような跡が、彼のからだにも残っているのだ。そして、フツウなら怪我をすることはおろか、人には見せられないような場所の傷が。
でも、俺は聞かない。
拓美が店を辞めない理由も、おおよその予想はつけどあえて問い質したりしない。どんな弱味を握られているかなんて、聞いても仕方がないから。

ふたりの関係は、それで良かった。

***

 

2018年9月1日 1:30

「っ!ゲホッゲホ、げほ、オエッ!」

喉の奥から迸ったゲロは液体に近く、なんとか便器に収まった。勢いで水が跳ね返る。イチは肺いっぱいで息を整えながらそれを拭った。

「…………あ、ぶねー……」

膝立ちになってレバーを引く。立ち上がったらそのまま顔を突っ込んでしまいそうで、揺れる頭を抱えた。流れる水の音を聞きながら壁に寄りかかる。体温が発熱と呼べる域まで着実にのぼっていく。

出勤しようとして、なにかがヘンなな感じがした。
違和感の正体がわからないまま部屋を出て、空の郵便受けを覗いて、鉄階段を降りて。最後のステップを踏もうとした時、胃がひっくり返った。

「う」

咄嗟に両手で口を塞ぐ。格子模様の鋼板の上でたたらを踏み、足音が鳴った。心臓がバクバクと危険信号を点滅させる。食道が無理矢理にこじ開けられて、口の中に生温かい苦味が押し寄せた。
イチは降りてきた階段を駆け上った。

鍵を開けて部屋に飛び込み、廊下を三歩でトイレのドアを握る。口から堪えきれずに溢れるのと、便座の蓋を開けるのは同時だった。

膝に顔を埋める。
背中に走るのは悪寒だ。胃と、くちが不味い。酸っぱくて苦いにおい。嫌な感じだ。
ああ、風邪かも。
電気回路がショートして、中枢に向かって瞬く間にエンジンが落ちていく。待っているのは急速落下だ。
這うようにトイレを抜け出して、ワンルームの一部屋に文字通り倒れこんだ。居間であり寝床でもある一室だ。ハサミやボールペンを無造作に突っ込んだ引き出しから記憶を頼りに体温計を掴む。何かの時──そうだ、拓美が店で倒れて。それは前のオーナーの時で、連れられて帰ってきた拓美は店で挟まれた体温計を持ち帰ってしまったんだ。まだ電源は入るだろうか。緑色ゴム製のボタンを押すと、ピッと割れた音がして液晶画面が点った。

(なんも言わないで休むの、店長にどやされるかなぁ)

客が来なけりゃずっと控え待機だし、まあ、あの店じゃなきゃダメってわけでもないし。まあ、いいかな。いいよね。
お金も住むところも身分証も、何一つ持っていなくたって、この街はあまりに生きやすい。

意識は徐々に手綱を手放し、暗い深みにずぶずぶ沈んでいく。酷い悪寒に襲われ目が覚めるのはそれから一時間後。充電が三十%を切ったスマホで時計を確認した。同じく引き出しに転がっていた風邪薬を一度は飲み込み嘔吐したのは、その十分後のことだった。

 

2018年9月1日 5:00

そう、ロック画面に表示された。充電残量は赤い警告色になっている。着信を知らせるアイコンが見えたが、イチは構わずにスマホを伏せた。カバーをつけていない剥き身の紺色。拓美の名義で契約している型落ち機種だ。

ごろりと寝返りをうった。いつのまにか“落ちて”いたらしい。目を閉じる前に見たままの部屋が、同じ角度で視界に映る。
熱はピークを越えたのか、恐ろしいほどの悪寒と焦燥感は遠のいていた。計らなくても熱が下がっているのは体が分かる。元が頑丈にできているから、だいたいのものは寝れば治ってしまうのだ。
高熱と悪寒が引いた代わりに、むかついてくるのは体の真ん中だった。起き上がろうとするイチを罰するように強い吐き気が突き上げる。

「うっ……、うぐ、……っ」

胃液の酸性が喉元まで寄せる。息を吐こうとして、ぬるい中身が駆け上る。あっと口を塞ぐ間もなく、目の前の床にぶちまけていた。吐いた。吐いた。部屋で吐いた。

「ひっ、」

咄嗟に跳ね起きて、その動きでまた吐いて。シャツの袖で口元を拭って視線を落とすと、床にはひどい惨状が広がっていた。
どうしよう。片付けないと。ゲロ掃除ってどうやるんだっけ。
店で吐いてもホテルを汚しても、自分で片付けたことがないからわからない。
雑巾で拭いても広がってしまう気がするし、何よりも数秒前まで自分の体内にあったモノが汚物になって生活空間に存在している事実に打ちのめされる。血の気の引いた顔で瞬きを繰り返した。

しばらく……といっても時間的には一、二分……イチはそうやって呆然としていた。
胃のあたりが再び不快感を訴え、焦りはじめたちょうどその時、カンカンとステップを踏む音を拾った。コンクリートの充填されていない安いプレート階段なので足音が響くのだ。
足音はだんだん近づいて、止まる。続くのは鍵を回す音。うまく鍵が入らなかったようで、ガチャガチャと乱暴な手つきは見なくても分かる。

(…………ヤバイ)

ひやりと冷たい汗が流れた。
吐き気はじわじわと這い上がる。内臓が侵食されていく感覚だ。

(今日、ダメな、)

壊れんばかりの勢いで玄関が開いた。ドアが壁を打つ音も、床下まで響く苛立った足音も、苦情が来るレベルの騒音だ。

「おいイチ、居んだろ」

狭い古いワンルームだ。冷たい拓美の視線はすぐにイチを捉えた。丸まった布団と、寒がったイチが色んなもの引っ張ってきたせいで散らかった部屋も。

「…………ぁに寝てんだよ」

すごい音がした。
反射的にイチは目をつむる。
拓美が開けっ放しのドアを拳で殴り、ガラスが割れて飛び散ったのだということは、そっと目を開けてすぐに把握できた。
ずかずかと大股で拓美が部屋に入る。

「ま、って。待って。今、ちょっと、気持ち悪、」
「死ねこのクソビッチ」
「……っく」

静止の頼みを聞くはずもなく、血の滲んだ左手がイチの襟元を捻りあげた。右から飛んできた衝撃に、イチの体は床に転がる。頭がガンガンと割れそうに痛む。風邪の成す技なのか、物理衝撃のせいなのかは分からない。

「死ねっ!クソ!」

汚い言葉を撒き散らしながら、拓美は座卓上のものを思いつくままに払い落とし、掴んだと思えばイチに投げつけた。
イチはそれらの些細な痛みより、内側からのぼってきた波を必死になって抑えていた。床に体を丸めて口を塞ぐ。涙で視界が揺れる。鼻からなんとか息を吸って、喘ぐように背中が波打つ。

真横に拓美の気配を感じた。

「たく………、まっ、て、いま……」

途切れ途切れの懇願も、当然聞き入れるわけがない。
こうなった時の拓美は都合の悪い言葉をなにも受け付けないのだと、イチは分かっていた。

「うっ」

拓美の足が、イチの腹部に入った。
柔らかくて無防備な、大切な臓器がたくさん詰まった体の真ん中。

「っ、ゲホ、ゲホッゲホッ……げえ………っ」

堪えていたものが口から溢れた。拓美に蹴られて吐いたことなんてこれまで無かったから少しは躊躇を見せるかと淡い期待を抱いたが、拓美は臆することなく二発目を入れる。今度は背中側だった。堪らずに仰け反る。食いしばった歯の隙間から悲鳴が逃げていく。

「ッ!げほっ、……っぐ、ぅ、」
「…………は……っ、はぁ、……っひ」
「……たく、み………」

殺されるかな、と、頭の冷静な部分が俯瞰する。
乱れた呼吸を整える間、微かに聞こえたのは拓美の嗚咽だった。
首を動かしてみると、まったく信じられない、まったく酷いことに、拓美がぼろぼろと涙を落としながら立ち尽くしていたのだ。散々好き勝手暴れて、力任せに手足を出して、処理できなくなったら泣きだすのだ。いやだいやだと駄々をこねる様はさながら園児のようだ。いや、三歳児の方がずっとまともでマシだろう。

本当にしょうがない奴だ。ほんとうに、泣きたいのはこっちの方だっていうのに。

「…………拓美、」
「…………」
「たくみ。……怒ってないよ、おいで」

黙ったままの虚ろな拓美に、イチは言葉を続ける。吐き気は依然くすぶっていて、酸っぱい唾液を何度も何度も飲み干しながら。

「………今日、具合悪くて、珍しいでしょ。俺が。店、休んでたのに……まったく、暴れんだもん」

息が続かなくて言葉が途切れる。思い出したように眩暈までしてきて、イチはきつく目を閉じた。

「俺が病院行けないの知ってるでしょ。たくみ」

イチは病院に行けない。
保険証はおろか、身分を証明できるものをひとつも持っていない。
ものだけならまだ良いが、そもそも、イチには戸籍がないのだ。この国に存在しているという証明が何一つない。戸籍上、イチはカウントされない存在なのである。十割の医療費なんて払える余裕はないし、住登どころか戸籍すらないと追及されたら面倒だ。
雪深い東北の方でイチを産んだ母親は、子育てよりも遊びに忙しい女性だった。父親の顔は見たことないし、母親だって孕んだ子の父親が誰かなんてわからなかったかもしれない。
とにかく、そんな奔放無責任な母親のために、イチがこの世に産まれたという届出は出されなかった。だからイチは小学校にだって通っていない。同年代の子供と話したこともない。
せめて顔が良くてよかったなと、何度自分の顔に感謝したか分からない。そうして流れるように上京して、なし崩し的にこのワンルームに居ついてしまった。

ピタリと唇に何かが触れた。
顎を掴まれる。
目を開けると、キスでも出来そうな近距離に拓美の顔があった。ただし、今触れているのはシャンパングラスで、拓美の唇ではない。

「………なに、たくみ……」

グラスの底には、人工的なシアンブルーの錠剤が沈んでいる。
混乱のうちにグラスが傾けられ、液体だけが先に流れ込んできた。拒もうとすると溢れた液体は行き場をなくして顎を伝っていく。舌先で舐めてみた。
水。ただの、水だ。

「飲んで。飲んでイチ」
「たくみ、だから、なに………」

はっとした。
涙すら浮かべる拓美の唇にも、その人工的な着色料が色を残していた。きっと舌を覗いたら真っ青になっているかもしれない。

イチは拓美の手に両手を重ねた。グラスを受け取る。クッと傾けて一息に喉に流してみせる。自分で言ったことなのに、拓美は驚いた顔をしていた。

いいよ、わかったよ。何も聞かないでいてあげる。どうせ俺、バカだから。聞いてもきっとわからないし。

始発電車が、今日も正確に近づいてくる。

拓美は放り投げていた鞄をひっくり返した。
中からバラバラと注射器が落ちてきた。細くて、中指くらいの長さの、透明なビニールで一つずつ閉じられた注射器。

もともとがゼロなのだ。こんな終わりで十分なのかもしれない。
プラスでもマイナスでもなく、存在しない存在。
ゼロという概念の登場は、数学の世界に議論を巻き起こしたらしい。ゼロ以前の数学体系が崩壊してしまうという理由で、なにも存在しないという意の「ゼロ」の存在が否定された。
もちろんそんな大層な存在と自分を重ねるつもりはないけれど、俺の世界はこれがすべてだった。

「おはよう、拓美」

朝日の眩しい夜が来る。
着信を知らせるスマホの振動がふたつ分鳴っていることに、今初めて気がついた。
あたたかく柔らかく霞んでいく意識。この安寧は恐ろしく強烈なトリップを経てのことで、床には吐いたもの、それから失禁した跡が愉快に広がっている。
そう、もうすぐ、しあわせな朝がくる。

 

2018年9月1日 8:00

スチール製の玄関扉が叩かれる。叩いて分かるくらい薄い作りなので、音は空気に拡散していく。チャイムなんて気の利いたものはついていないから、中の住人を呼びたかったら扉を叩くしかない。

「野瀬さーん。野瀬拓美さん。いらっしゃいますかあー」

もう一度叩く。
応答はない。

「野瀬拓美さーん。××警察です。野瀬さーん」

 

> >「しあわせな朝」:END

研究室旅行(下見)

夜中。たぶん、てっぺんから一時の間くらい。
唐突にやってきた吐き気に叩き起こされて、慌ててトイレに駆け込んだ。

便座の蓋を開けるが早いか、今の今まで息を吸ってていた口からは、逆流してきた胃の中身が飛び出した。たいして力も入れていないのに、一度、二度、続けて溢れる。まるでそうなるのが自然なことのように、なんの抵抗もなくあがってくる。

吐いたものがバシャバシャと水面を叩いた。寝る前に飲んだミネラルウォーターが少し濁ったような、ほとんど固形物のないそれを見下ろして、俺はすっかり面食らってしまった。

なにがなんだか分からない。意識はまだ半分夢の中にいる。
口もとを拭って、もう片方の手で水洗レバーを回す。吐物はぐるぐると渦巻いて流れていき、混乱だけが薄暗い個室に残された。そういえば、電気もつけていなかった。

すっかり吐ききってしまえば、飛び起きた時の吐き気は何事もなかったようになりを潜めた。洗面台で口をゆすいで、皆の寝ている部屋に戻る。足音で起こさなかっただろうか。そんな懸念が浮かんだが、隣に眠る同期の高らかないびきが都合よくかき消してくれた。

なんだったんだろう。暖房の効いた暗闇で、布団にもぐって考える。どこも痛くない、痒くもない。酒だってたいして飲んでいないし、風邪のような倦怠感もない。もうまったくいつも通りだし、さっき吐いたなんて嘘みたいだ。
そっと胃のあたりを撫でる。そ知らぬ顔で沈黙。
あれこれ思案しているうちに再び眠気に包まれて、寝返りひとつ、俺はもう一度眠りに落ちた。

***

高島の目が覚めたとき、同じ部屋で夜を明かした先輩も同期も、みんな夢の中にいた。
和室の四隅に敷かれた布団がそれぞれゆっくりと上下して、各々思い思いの体勢で寝ていることが分かる。頭の向きもてんでバラバラだ。

窓側の奥に仰向けで寝るのは三間先輩。背が高いのと寝相が悪いので両足がはみ出している。昨晩早々にいびきをかいていたけど、今はすっかり静かだ。

窓側手前には高島の同期、前田がいた。敷布団から外れて寝ているけど、これは寝相のためでなく初期設定。昨夜、布団に潜った時にはすでに半分眠っていた。「そこ畳だよ」と何度伝えても起きなかったから、高島は諦めて見過ごすこととしていた。

壁側奥は瓜生先輩だ。枕はどこにいったのか、敷布団に直接頭が乗っている。長い髪が横顔に広がってかかっていた。

壁側手前、出入口に一番近い布団を高島は使った。後輩だからと遠慮したわけではなく、順当に埋まっていったから。出入りする誰かに眼鏡を踏まれないか心配だけど、まあ、大丈夫だろう。

布団を抜け出し、顔を洗って戻ってきても、三人はまだ眠っている。しょうがないなあと苦笑して、高島は昨夜の宴会の名残を片付けはじめることにした。

研究室旅行(下見)、二日目の朝の話だ。

***

年に一度教員と学生が揃って旅行に出掛けるのは、都市環境学部、地球科学科、佐波島研究室の恒例行事だ。僕らの師事する佐波島先生は、よく日焼けした快活なおじさん准教授で、年は聞いたことないけれど、おそらく父親と同じくらい、あるいはそれよりもう少し歳上なんじゃないかと思っている。

学生からは佐波島旅行と呼ばれるこの旅行。行き先の計画や宿の手配など、一から十まで学生がやらなきゃいけない一方で、旅費はすべて佐波島先生持ち。お金のない学生にとって申し分ない娯楽だった。もちろん、参加は自由で希望制だ。

今年の旅行の話が持ち上がった時、旅行好きの瓜生先輩が真っ先に参加を表明して、三間先輩がそれに続いた。僕と前田だってもちろん参加希望だったから、学部の参加メンバーはすぐに決まった。
僕ら四人と、院生三人、それから先生。今年は計八人の旅行になりそうだ。

幹事は瓜生先輩が買って出てくれた。
こういう時、ちょっと手間のかかることをいつも進んで引き受けてくれるのは瓜生先輩だ。企画ごとや授業の課題だけでなく、例えば研究室にデカめの虫が出たときだって、先輩は笑いながら外に放つ。出会ったはじめこそ会うたびにこにこしていて掴み所のない人だと思っていたけど、今はそんなのんきなところも、それゆえのおおらかさも、瓜生先輩のキャラクターとしてすごく好ましいなあと思う。

行き先は、東北方面の温泉宿に決まった。湖を見よう、鍾乳洞を見に行こう、海鮮を食べよう。そういう案がぽんぽん飛び出すのは前田で、瓜生先輩は「いいねえ、それ」なんて言いながら計画に加えていった。

「四人で下見行かない?」

皆でわいわいと工程表を考えているうち、ふと思いついた顔で瓜生先輩が言った。

「下見ですか?」僕は繰り返して聞いた。
「だってほら、どう頑張っても行きたいところ全部制覇できないじゃん。だから、四人で下見として、トータルで踏破する」

それは下見とは言わないのでは。
同じ突っ込みを入れてくれたのは三間先輩だ。

「それ、下見ではないだろ」
「番外編ともいうね」

けらけら笑う先輩達に、「行きたい行きたい!」と前田は前のめりで食いついた。

「めっちゃ良いじゃないっすか!行きましょーよ!」
「はい、前田は参加ねー。えらいぞー」
「誰も行かないなんて言ってないだろ」
「僕も賛成です。行きましょう」

そういう流れで、下見と称した気楽な温泉旅行は決まった。佐波島旅行では新幹線を使う予定だが、安くおさえるために交通手段はレンタカーだ。ますます、下見とは名ばかりの計画になっている。申し訳程度に、宿は同じ旅館をとった。

高速使って片道五時間超。休憩しながら向かったから、実際には六、七時間かかっていたかもしれない。

宿につく頃にはすっかり日が暮れていて、長旅の疲れを癒すべく、荷物を置いたらすぐに温泉へ向かった。狭い賃貸マンション暮らしだから、足を伸ばして湯船に浸かるのは久しぶりだった。

長めの髪を高い位置でクリップでまとめた瓜生先輩は一見男湯には場違いに見えて、近くをすれ違ったおじさんが二度見すること数回。それに気付いた僕と前田は、こっそり顔を見合わせて笑いをこらえなきゃいけなかった。

宿の大広間で夕飯を済ませたあとは宴会だ。
主役は道中立ち寄った酒蔵で仕入れた日本酒と梅酒。コンビニで買ったビールやチューハイも冷蔵庫に控えている。つまみを忘れたことに気がついて、閉店間際の売店であわててアテになりそうなものを買い込みに行った。なんてことない普通の水が一本二百円で売られていたけど、そういえば水も持ってきていないことに気付いて皆で買った。

「近くにコンビニないから手前で水買っとくこと、だね。三間、メモしといて」
「おー」
「下見らしくなってきたじゃないの」

予約した和室は奥が一段の小上がりになっていて、布団が四組敷かれている。手前にテーブルの置かれたスペースがあり、隅には和座椅子と座布団が積まれていて、僕らはめいめいに居敷をこしらえた。

乾杯もしないままするっと飲み会は始まっていて、授業の話から誰々が付き合っているなんていう下世話な話、近々開幕予定のアイドルライブツアーの話まで、酒の肴は尽きることがない。

「あー!先輩、それつまみじゃないから!」

前田の慌てた声。見ると、眠そうな目をした瓜生先輩が、備え付けの煎茶を開けようとしていた。ティーバッグを破かれてしまったら片付けが大変だ。三間先輩はゲラゲラ笑うばかりでなんにも助太刀してくれない。おかしくなって、僕も吹き出してしまった。

「高島!これ、どっか片しとこ!」

酔っぱらいから煎茶を取り上げ、代わりにせんべいを押し付けた前田が声を張る。

「洗面台でいいかな」
「どこでもオッケー!」

お着きの茶菓子と煎茶セットの乗ったお盆をとりあえず避難させて、ついでになんとなく手を洗って居室に戻る。明日も予定があるし、そろそろお開きになりそうだ。

予想通り、それから間もなく酒も尽き、誰が言い出すでもなく散会となった。朝までずるずると飲み交わすのもいいけれど、旅先や締め切りのある時には自然と一区切りつけられるところも、僕がこの研究室のメンバーを好きだなあと思う理由のひとつだ。どんなに追い込まれたシチュエーションであっても長夜の飲となだれ込む研究室も少なくない。

「じゃ、明日は十一時チェックアウトだよー。ちゃんと起きよーねー」
「お前がな」
「りょうかいっすよ~」
「はーい。じゃあ、電気消しますよー」

暗い和室でふとスマホを見ると、まもなく日付が変わろうとしていた。風呂と夕飯が早かったから、まだこんな時間だったのかと驚いた。とはいえ、瞼はものすごい睡魔に落ちていく。
その日は夢も見ずに熟睡だった。

そうして迎えた二日目である。

「…………瓜生先輩、大丈夫だと思う?」

荷物をまとめた前田がそっと顔を寄せてくる。
朝食を終え、荷物を片付け、チェックアウトの時間まで前田の持ち寄ったカードゲームを広げている時だ。窓の外は、昨日に引き続いて抜けるような快晴だった。

「どうだろう。……二日酔いかな」
「いつももっと飲むじゃん、あの人」
「確かに」

僕らが案じているのは、二つ折りに畳んだ敷布団の上に臥せるように横になる瓜生先輩のことだ。
「これやりましょーよ」と前田がカードゲームを取り出した時は起きていた。「前田ナイスー」なんて返していた。それがいつの間にか離脱して、気付いた時には布団にうつ伏せになっていたのだ。

「三間先輩、三間先輩」

迷った僕は、もう一人の先輩に聞くことにした。

「お」
「瓜生先輩、大丈夫ですかね」

言いながら、奥の布団を指差す。

「眠いだけじゃねーのかなあ。後で聞いてみるかな」
「お願いします」

寝不足なだけだといい。きっとそうだ。そうは思いつつ、ゲームに興じる僕らの声は心なしか控えめになった。先輩、朝ごはん食べてたっけ。

手札が回って親が三巡したころ、奥の布団が動く気配がした。三人示し合わせたようにはっと見やると、瓜生先輩が肘を支えに上体を起こすのが見える。のっそりと体を起こした瓜生先輩は、僕らの視線に気付いて「ええ?」と苦笑いを浮かべた。

「急に静かになったから、こいつら心配してたぞ」

言いそびれてしまうことはみんな三間先輩が言ってくれる。ガサツだし鈍感な先輩だけど、だからこそ真っ直ぐ一直線な人だと知っていた。

「ごめんごめん」

瓜生先輩がこちらを見て片手で謝る。そんな風に、謝ってほしいわけじゃないのに。

「別にいいっすよお。それより、先輩、大丈夫ですか?」

前田の素直な問いにつられたのか、瓜生先輩も素直に首を捻る。

「うーん。なんか、調子悪い」

答えながら、脱力したようにまた布団の上に臥せてしまう。

「えっ、ちょっと、そんなヤバいんすか!?」
「嘘、嘘。だめではないけど、さっきちょっとヤバかった」

こういう時、僕は「大丈夫ですか」以外の言葉を知らない。うつ伏せになった先輩の顔が見えないから、どれくらい「ヤバい」のかも分からない。かけるべき言葉が見つからなくて、僕は空気を飲み込んだ。

「今日、鍾乳洞やめとくか?」

そうだなあ、と、なんでもない風に三間先輩が聞く。今日は旅館を出たあと、県内の鍾乳洞を見に行く予定になっていた。

「どーだろ……。たぶん、いけると思う。行きたいし」
「とりあえず精算だけ済ませようぜ。その後考えよう」
「え、いま何時……うわっ、もうこんな時間」
「瓜生お前、下に座れるとこあったろ。ちょっとくらい寝てたって文句言われねーよ」

気付けばチェックアウトの時間が迫っていた。
ご当地キャラクターのキーホルダーがぶら下がったルームキーを持って、三間先輩がコートを羽織る。前田はそっと瓜生先輩の肩をつつき、「大丈夫すか?」なんて声をかける。僕は先輩の荷物を持った。

「三間先輩、僕らで瓜生先輩の荷物も持ってくんで、先精算行っちゃってください。会計混むと思うんで」

四人の中で僕だけ荷物を背負えたから、瓜生先輩の旅行鞄を持っても片手があく。「おー。悪いな。先行ってる」三間先輩はそう言って部屋を出ていった。

「ほんと、ごめんね」

言いながら起き上がった瓜生先輩に、いそいそと上着を運ぶのは前田で、先輩がのろのろと袖を通すのを見守っている。
なんか、相当しんどいんじゃないだろうか、この人。僕と前田はたぶん同じ気持ちで目を見合わせた。

狭い廊下だったから、前田と僕で先輩を挟んで縦一列になって移動する。僕らの適当な会話に時折相槌を挟んでいた瓜生先輩だったが、口数が徐々に減っていく。エレベーターに乗り込んだ後は俯いて、ついに口を閉ざしてしまった。

手の甲で一度、口もとを拭う。その手は開いた上着の前を握った。

古いエレベーター。内臓がウワッと浮く感じ。
体調悪い時にこれ、嫌ですよね。でも、六階から階段使って降りるんだったら、こっちの方がいいと思ったんです。

半分、弁解するような思いで、猫背になっていく先輩の横顔を見た。結ばれないままの髪の毛が無造作に流れている。僕の方が少しだけ身長が低いはずだけど、今は目線がほとんど同じ高さにある。視線の行き場を失って、僕の目は上着のフードに絡まる先輩の毛先を見ていた。

「……ふ、…………っ……………」
「…………」
「…………」

このまま、戻してしまうんじゃないかとひやひやする。
吐いてしまったって、僕らはべつになんとも思わないけど、本人の受けるダメージの方が何十倍も大きいと思ったから。

僕も前田も何も言えなくて、耳は瓜生先輩の堪えるような息遣いだけを拾ってしまって、先輩が気の毒で仕方がない。

そうしているうちに一階についた。床に視線を落としていた瓜生先輩が微かに顔を上げる。前髪が被さってしまって顔の下半分しか見えなかったけど、真っ白に血の気が引いているのははっきりと見てとれる。

エレベーターを降りた足で、先輩は吸い込まれるようにトイレに入っていった。エレベーターのすぐ近くにあって良かったと思う。なにも言わずに離れて行ったのは、たぶんそんな余裕がなかったから。

僕らはその背中を追うことなく、トイレの外で待つことにした。誰かが使おうと入ってお互い気まずい思いをしないよう、見張っていようと思ったのだ。

幸い、使おうとする人はおろか、受付と反対側にあるこのトイレに近付く利用客もおらず、会計を終えた三間先輩は僕らを見つけやすかったようだ。真っ直ぐにこちらに向かってくる。

「瓜生は?」
「トイレです」僕はすぐ後ろを指差して言った。「たぶん、吐いてるかも……」
「あちゃー」

三間先輩がガシガシと頭をかいた。僕を越えてトイレの出入口の方を見る。申し訳なさそうに眉根を寄せて。

「昨日運転させすぎたかな。疲れてんのかもしんねーな」
「運転疲れ?」高島は怪訝そうに首をかしげる。
「疲れっつーか、集中切れっつーか。あいつ、瓜生、集中し過ぎたあと、たまーにすんげえ調子崩すんだよ」

確かに昨日の道程は、下道を三間先輩が、高速を瓜生先輩が担っていて、つまるところ、概ね瓜生先輩の運転でここまで来た。助手席兼ナビ係は前田で、僕は後部座席で前の二人にお菓子を渡したり、飲み物を渡したり。徹夜明けだという三間先輩は三列目のシートで熟睡していたんだった。荷物もあるからと、四人で七人乗りミニバンを借りていた。

とはいえ、前田のふざけた話に笑ってアクセルを踏みすぎてしまってまた大笑いしたり、でっかいサービスエリアに停まった時はすごくはしゃいでいるようにも見えた。そんなに疲れが溜まっていたなんて、少しも気付かなかった。

「えー、じゃあ、三間センパイのせいじゃないっすかー」

前田が冗談みたいな調子で三間先輩を肘でつつく。

「センパイがぐーすか寝てるから~」

三間先輩はというと、「げっ」とか「うっ」とか言いながら、大げさにのけ反った。

「ごめん、お待たせ」

二人の応酬に紛れるように瓜生先輩が戻ってきて、僕らはちょっとだけ慌てた。誰のせいとか、本気で話してたわけじゃないんだけど、誤解しなかったかな。

「先輩すみません。今の話、本気じゃないですよ」

玄関ホールのソファに座らせようと腕を引っ張る僕の弁明に、瓜生先輩は「分かってるよー」と、眉を下げるような、いつもの調子で笑った。

「先輩、大丈夫ですか?」

大丈夫ですか。僕はようやくそれを聞けた。
顔色は悪いものの先輩の声や目に覇気が戻ってきて、足取りもずいぶんしっかりしていることが分かったから。
大丈夫と判らないと、臆病な自分は大丈夫かなんて聞けない。

「気ぃ遣わせてごめんねえ。二人ともありがと」
「ぜんぜん。僕は何も」

首を振ったところで、僕らの間に何かがぬっと割り込んできた。水のペットボトルだ。
いつの間にかこの場を離れていた三間先輩が、四本のペットボトルを抱えて戻ってきた。ラインナップは水と麦茶、コーラ、リンゴジュース。

瓜生先輩は受け取った水を一口飲んで、ほぐすように体を伸ばす。

「もー大丈夫。水ありがと」
「おー」
「まっさか吐くとは思わなかった。自分でも」
「笑い事じゃないっすよ!」

いつも通りのからっとした笑顔。髪の毛はおろしたままだったけど、もう大丈夫そうだな、と見て分かる。

───先輩、夜、吐いてましたよね。

だから、浮かんだ言葉は麦茶と一緒に飲み込むことにした。

昨日の夜。微かな物音で目を覚ました。寝入って間もなくだったから、意識は浅い微睡みの中にいた。暗がりの中、奥の布団が捲れてあがっているのがぼんやりと見てとれる。確か、瓜生先輩の布団だったと記憶を辿る。

トイレかな──そう思って再び目を閉じた時、ガタンと大きな固い音、それにカエルの潰れたような声が続き、僕は文字通り飛び起きた。

低くくぐもった、声というより喉から直接響くような、不自然な音。それから、水っぽい嫌な音。

(───え、うそ。まさか吐いてる?)

びっくりした。

瓜生先輩、そんなに酒強くないけど、そのくせけっこう飲むんだけど、でも、酒で吐いた姿なんて見たことない。

瞬きも忘れて先輩の消えた引き戸の向こうを見た。

枕元の眼鏡を掴む。
様子、見に行った方がいいかな。行かない方がいいのかな。気付かれないように出ていったんだとしたら、誰かに、しかも後輩なんかに来られたら嫌かもしれないし。

躊躇っているうちに水の流れる音がして、あわてて布団に潜り込む。心臓がバクバクと盛大に脈打つ。手の中で眼鏡がカチリと鳴った。

ややあって扉がそうっと開くのが分かって、追わなくて良かったと一層身を縮める。瓜生先輩は足音も立てずにもとの布団に収まった。何度か寝返りをうって、寝心地のいい場所を探っている気配。

(───びっくりした。………良かった、………大丈夫そう)

静かな寝息が聞こえてきて、僕の心臓はようやく落ち着きを取り戻した。

眠くなってきた。もう一回寝よう。

それからすぐに眠りに落ちて、夢も見ずにぐっすりだった。けれど、昨夜の真っ暗な数分間が頭から離れることはなかったし、普段と変わらなく見える先輩が、言ってしまえば心配で、ずっと気になって仕方がない。畳んだ布団に臥せる姿を見て、「やっぱり、夢じゃなかったんだ」と、一人で答え合わせをしている感覚だった。

「───でさ、ごめん。今日、このまま帰りたい」

瓜生先輩の声にはっとする。ぼんやりしていた。三人、今日の予定を話していたみたいだ。

「思ってたより疲れたみたい」「おかしいなあ、歳かなあ」と、本当に不思議そうな調子の呟きが続く。この人、自分が疲れてるとか、なんか調子が悪いとか、もしかして物凄く無頓着なんじゃないだろうか。

「当たり前だろ。とっくにそのつもりだよ」
「三間、悪いんだけど運転お願い」
「おう。……ただ、俺、教習所以来の高速だから、覚悟してくれ……」
「ウソ。怖すぎ」
「ちなみに、先月擦った」
「いっ、いざとなったら俺も免許ありますよ!」
「え、前田免許持ってた?いつ取ったの?」
「…………9月っす」

高島は?と三人の目が僕を向いた。みんな、目も、口も、顔全部で笑っているんだから敵わない。僕があれこれ考えてるのがバカみたいじゃないか。

「僕免許持ってないんですよ。助手席頑張ります」

意図せず無茶しちゃう先輩と、先月にはホイールを擦るような運転をしている先輩と、免許取り立て初心者マークの友人と。僕も免許、取った方がいいのかもしれない。
この危なっかしい顔ぶれと、来年も旅行に行きたいから。

海岸道路に乗って

「おめでとうございまーす!」

赤いはっぴを着た女性がハンドベルを鳴らす。手を頭上の高さまで上げて、もう片方の手をメガホンにして。

「お兄さん方、一等でーす!」

女性が声高らかにそう張りあげると、どよめきが低いうねりとなって湧き上がる。すげえ、一等だってよ、そんな囁きが口々に飛び交った。カランカラン。ベルの音は後方まで飛んでいく。女性は景品を取りに後ろへ下がっていった。長く並ぶ列の先頭で、松倉一は目を瞬かせた。

「ど、どうしよう市瀬。五等取れなかった」

一気に華やいだ空気に乗り遅れ、松倉は隣に立つ市瀬成海に救いを求める。市瀬はさすが、落ち着いたもので、少しも動じていなかった。「一等ならいいじゃねえか」どんな時でもふてぶてしいまでに冷静な、市瀬の冷ややかな視線が突き刺さる。
この視線に、いったい何人の女性が虜になるのだろう。

市瀬の職業はモデルだ。
すらりと伸びた長身に、絶妙なバランスで引き締まった体躯。肉の薄いシャープな輪郭はまるでミリ単位に計算されたかのようで、切れ長の瞳は一度見たら忘れられない、絶対的な引力を持った魅力がある――らしい。

らしい、というのは、松倉にとって市瀬の容姿は市瀬を構成する要素のただひとつにすぎなかったから。雑誌でそう評されているのを見つけ、そうして市瀬のことを改めて眺めてみると、なるほど美しい男だと分かったのだ。
市瀬は市瀬であって、それ以下でもそれ以上でもない。もちろん松倉の目には、市瀬は飛びぬけて輝いて見える。集団で歩いていても、バランスの整った市瀬は後ろ姿でも普通の人とは違っている。けれどそれは、市瀬が松倉の特別だからであって、つまり他人にとやかく言われなくても、そんなことは自力で、自分ひとりでも気付けた事実なのだ。いくら自分がバカだって、誰よりも先に正解に辿り着ける自身があった。もしかしたら自分は、市瀬のファンと張り合っているのかもしれない。松倉はそんな風に俯瞰する。

(でも、これは俺のだから)

ファンであって、ファンではない。市瀬と松倉は大学入学直後に知り合って、三年の時に付き合った。その間には、松倉の気味が悪いくらいの猛アタックがある。恋愛に嫌な思い出のある市瀬は手強かった。四年で一度は別れ、けれど卒業の日、二人は元の鞘に収まる。卒業と同時に同棲を始めて、今年で二年目。大学時代からモデルをしていた市瀬はその世界に本腰を入れ、最近では俳優の仕事も始めるようになった。松倉は高校教師となり、近くの公立高校で国語を教えている。

はっぴの女性が封筒を持って戻ってきた。年の瀬の近づいた商店街では、福引大会が行われていたのだ。

一時間ほど前のこと。トイレットペーパーと卵の特売を目当てに商店街にやってきて、賑やかな人だかりを見つけた。テントの真ん中にはあのガラガラと回す抽選機が設けられており、多くの人は粗品を貰って帰っていく。まあ、こんなもんだよな、と少し心惜しそうに。ちょうど手元には、精肉店で豚肉を買った時に貰った抽選券を一枚持っていた。五等の棚にトイレットペーパーが並んでいるのを見つけたのは市瀬だ。

「丁度いいじゃん。やってこうぜ」

市瀬はそう言って、ずんずん行列に向かっていく。普段は人混みが大嫌いで、パーソナルスペースを侵されるような所には、絶対に進んで行ったりしないのに。こういう現金さも市瀬のおもしろく、魅力的なところだった。

「こちら、一等の旅行券になりまーす!」

それが、まさか本当に、それも一等を当ててしまうなんて。差し出された封筒には、大きく「一等賞」の文字。一等、旅行券?五等目当てで並び始めて、そういえば他の景品をひとつも確認していなかった。松倉は封筒と、女性と、交互に見比べる。

「えっ!旅行券なんですか」
「はい。一等は、二泊三日、熱海若松亭ペアチケットです」

まさかトイレットペーパーが欲しくて並んでいたなんて、想像だにしないのだろう。一等の景品を歓喜とは違った驚きで受け取る松倉に、女性は困惑顔を浮かべている。呆れた市瀬が封筒を奪い取り、にっこりと余所行きのスマイル。
ダメ押しのようにハンドベルが鳴り響き、拍手に背中を押されて会場を後にした。

結局、トイレットペーパーも卵も買わず、二人で暮らす1LDKに戻ってきた。折角買い物に出たというのに、持ち帰ってきたのは豚肉二百グラムだけだ。リビングのテーブルに封筒を置き、向かい合って腰を下ろした。

「市瀬、熱海だって。どうする」
「まさか一等当たるとは思わなかったよなあ」
「トイレットペーパーが欲しかったのになー。あっ、そういえば、買ってない」
「卵もな。お前、何気に強運だよな」

微妙に噛みあっていない会話が封筒の上を飛び交う。市瀬の長い指がそれを摘まみ、中からチケットを取り出した。中身は本当に旅館の宿泊券で、「うわ、マジだ」思わずそんな呟きがこぼれる。

「市瀬これ、一月末までだって」

向かいから裏側を見ていた松倉が言う。ひっくり返して見ると、確かに有効期限が一月三十一日と明記されていた。景品だというのに随分と差し迫った期限である。小さな商店街の福引大会だ。景品の経路に事情が隠れていても頷ける。

「俺、今週オフだ」

市瀬はスマホのスケジュール画面を開く。土日がちょうど、狙ったように、空いている。振り返ってみれば付き合い始めてから、これといって旅行や観光なんてしたことはなかった。市瀬の気持ちは今週末に定まっていた。勿論、運転は松倉である。市瀬は「行くだろ?」と、顎を引いて目の前の恋人を見る。にっと口角を上げて。いつになくテンションの高い市瀬に、松倉はすっかり有頂天になっていた。

「行こう!行こう熱海!うわ~楽しみだなあ」
「運転お前だからな」
「当たり前じゃん。市瀬の運転なんて怖くて乗れないよ」
「おい、どういう意味だよ」

こうして、週末二泊三日の熱海旅行が決まった。水曜日の夕方のことである。

次の日から、松倉は毎日天気予報を気にしていていた。晴れマークが続いていたが、再確認の意味も込めて毎朝の天気予報をチェックする。迎えた当日は予報を裏切ることなく、澄んだ青空で絶好の観光日和となった。
男二人の旅行、荷物なんてたかが知れている。二人分の荷物を入れたボストンバッグと、手持ち鞄を後部座席に積み込んで、愛車のコンパクトカーは駐車場から滑り出した。メタリックブルーの国産車は、二年前に松倉が中古で買ったものだ。勤務先の高校は、マンションから離れている。

国道から西湘バイパスに乗り込んで、湘南方面に車は走る。途中で道の駅に立ち寄りながら、正味二時間で観光地までやってきた。市瀬は途中でうつらうつらと船を漕いだが、海沿いのビーチラインは絶景で、相模湾の向こうに伊豆大島が浮かぶほどに快晴である。十二月も末、海岸は閉鎖されていたが、散歩中の観光客をそこかしこに確認できる。チェックインを済ませて荷物を置いた二人は、また車に戻って出発した。

初めての旅行に浮かれた松倉は、近場の二泊三日にもかかわらず、しっかりとガイドブックを用意していた。帰るまでが遠足、帰るまでが旅行。それなら、事前の準備からも旅行は始まっている。楽しみの延長こそ、旅行の醍醐味だと、松倉は思っている。

もちろん市瀬だって上機嫌だ。珍しく顔にも表れるくらい、久しぶりのオフを楽しんでいた。雑誌の撮影でこの辺りまで来たことはあったが、こうやって自由に観光するのは初めてだった。

山側の観光地を車で巡り、熱海駅隣の駐車場に車を停めて海の方へ下っていく。車で走って来た(市瀬はうたた寝していたが)海岸をふらりと歩き、見つけた食堂で遅い昼食を済ませた。味のある木造の小さな店だったが、壁には著明な芸能人のサインがいくつも飾られていた。「市瀬も書いたら」とからかうと、氷柱の視線で睨まれた。

中途半端な時間なためか、店内に客は自分たち二人しかいない。松倉は海鮮丼、市瀬は刺身定食を注文した。久しく目にしていなかったブラウン管のテレビが置かれていて、何を話すでもなくぼんやりと眺めているうちに御膳が運ばれてきた。

「おい、これやる」

市瀬は盛り合わせのイカを箸で掴み、松倉の丼にのせる。

「市瀬、イカ苦手だっけ?」
「昔あたったんだよ。生は食わないようにしてる」
「いいよ、食べらんないやつのせて」
「もう無い」

会計の時、市瀬が「市瀬成海」だと気が付いた若い店員が奥から出てきて、市瀬はサインを頼まれた。現在放送中のドリンクのCMで見て、ファンになったのだという。誰よりも驚いたのは市瀬本人だ。モデルの活動は長いが、テレビに出るようになったのは本当に最近だ。「応援してくれてありがとう」と、完璧に整った微笑みで彼女の私物にサインを残していた。色紙を差し出されたのだが、さすがにそれは、と頭を振って辞退。市瀬の俺様な振る舞いも、傍若無人な態度も、それは松倉だけのもので。いつもとは違うオフィシャルモードの市瀬を見て、優越感に浸る瞬間も松倉だけの特権だ。

帰りは急勾配の坂道で、日も落ちてきたこともありバスで駅近くまで移動した。駅までは商店街を散歩したり、買い物をしたり、あっという間に時間は過ぎていった。

ホテルに帰り、直行したのはホテル内の温泉だった。団体客とタイミング良く入れ違い、殆ど独占状態で湯船に浸かることができた。「やっぱりお前、強運」呆れた口調の市瀬も笑っていた。程よく温まり、後でまた入ろうと話しながら部屋に戻る。ボストンバッグから荷物を仕分けていると、仲居が夕食を運んできてくれた。夕食のメニューは、カキフライの懐石料理だ。

その後は、もう一度温泉に浸かって露天風呂も満喫し、戻った時にはすでに布団が敷かれていて。一日歩き回って疲れきっていた二人は、並んだ布団に潜り込み、溶けるように眠りに落ちた。

市瀬が体調の異変を訴えたのは、翌朝朝食を済ませ、寝間着のまま二日目の観光計画を練っている時だった。
松倉の広げるガイドブックを覗き込んでいた市瀬だったが、相槌が消え、突然、机に伏せってしまった。
松倉は慌てて机の反対側へ回る。

「市瀬?どうしたの」
「……なんか、急に、目が」

貧血だろうか、ぐらぐらと視界が揺れ、胃の辺りに不快感を憶える。眉間を揉みながら治まるのを待ったが、一向に良くならない。それどころか、徐々に目を開けていられないくらいの、酷い眩暈に変わっていった。

急激な体調の悪化に、市瀬は混乱していた。松倉は市瀬を半ば抱えながら移動して、布団に横たえさせた。市瀬は崩れるように倒れ込む。どうしてこんな、急に。それに、今は旅行中なのに。
松倉の大きな手が、ゆったりと背中を擦ってくれる。
敷きっぱなしにしている布団で松倉のにおいに包まれて、ほっとしたのもつかの間。今度は捩れるような腹痛が襲い、市瀬は悲鳴を上げそうになった。背中を丸め、両腕で腹を庇う。あまりの痛みに呼吸を忘れていた。

混乱しているのは松倉も同様だった。

「市瀬、大丈夫じゃないよね。ちょっと、フロントで薬か何か、」

そう言って腰を浮かせるのを、市瀬は腕を伸ばして引き留めた。松倉の服を掴む。

「……それ、いい、から……」
「でも、」
「後で、それ……。置いてくな」

ぐいっともう一度、服の裾を引っ張った。一人にしないでくれ。それをそのまま言葉にできるほど、市瀬は素直な性格ではなかった。
でも、今、この部屋にひとり残されることだけは、どうしても嫌だった。
言わんとしていることも松倉には伝わったようで、頷いてもとの場所に落ち着いた。
その時下腹部に激痛が差し込み、市瀬は歯を食いしばった。

市瀬が突然体調を崩してから、十五分。この短い間に、市瀬の具合は転げるように悪化していった。
布団の下で腹を抱えて蹲っていたが、数分前からは下ってきてしまったようで、もう何回も、ふらつきながらトイレへ駆け込んでいる。酷く下している音が部屋にも聞こえ、松倉は焦りを隠しきれない。トイレから出てきた市瀬の顔色は蒼白で、片手で腹を押さえて壁伝いに戻ってくる。松倉は、その薄い背を支えた。

さっき市瀬がトイレに籠っている間に、布団を移動していた。机をよけて、座椅子を壁に寄せ、敷布団をトイレの近くに。寒い寒いと訴えるので、掛布団は二枚だ。市瀬は二枚の布団にくるまって、苦しそうな呼吸を繰り返す。こんなに寒がっているのに市瀬は大量の汗をかいていて、額から汗がぽたぽたと床に滴った。

「いっ……た、痛い、」
「市瀬、何か、心当たりある。思いつくもの、何でもいいから」
「……なに、……」

最初腹痛を感じた時は、冷えたのかとも考えた。けれどこんな風に下ってきて、明らかに冷えとは性質が違う。

朝食の時は、何ともなかった。もともと朝はそんなに食べないから、ビュッフェ形式のレストランでコーヒーと果物をいくつかつまんだだけだったけれど、特に違和感もなかった。いつも通りだった。だとすると、その前、夕食——。

ぎゅるる、低い唸りが腹から響く。耐えがたい痛みが同時に市瀬を襲った。もう腸の中身は、きっと出し切っていて、なのにさらにと押し寄せる感覚に、頭が真っ白になる。このままじゃ、まずい。

「ふ、……ぁ、……っく」
「市瀬、起きられる?トイレ、一緒に入るから」

そんなの、やめてくれという思いと、一人にしないでくれという願いと。原因の分からないものほど怖いものはない。もとより、床がスポンジのように歪んで感じられて、一人ではトイレはおろか、立ち上がることもできなかった。
朦朧とした様子の市瀬をトイレまで連れていき、なんとか便座に座らせる。市瀬の腹は、水っぽい音をひっきりなしに立てていた。ぶしゃっと下痢便が爆ぜる。綺麗な顔は苦悶の表情に歪んでいた。

「……カキ、かも」

暫く治まらなかった下痢がようやく落ち着いてきて、一呼吸ついた後、市瀬がそう呟いた。動けるだけの体力の回復とまではいかず、便座に腰かけ松倉にしがみついたままの体勢で。市瀬の声を久しぶりに聞いた気がして、松倉は耳を寄せた。

「カキ?」
「昨日の、夕飯の、」

 言わんとしていることが、松倉にも伝わった。

「……まさか、当たった?」

カキに限らず二枚貝は、食当たりの危険と常に隣りあわせだ。昨晩の夕飯のカキフライ。あれに、当たってしまったというのだろうか。でも、同じものを食べた松倉には、何の異常もない。そういえば市瀬は昔、イカの刺身に当たったと言っていた。もしかしたら魚介類と相性が悪いのかもしれない。

「分かんねえ、けど。それくらいしか……」

何とか腹具合が落ち着いてきたら、今度は横になりたかった。松倉の袖を引く。松倉は承知済みで、脇から支えて立ち上がらせてくれる。そのまま体重を預け、布団まで運ばれる。横向きで丸まっていると、松倉に肩を叩かれた。

「市瀬、脱水しちゃう。水、飲んで」

その手には、ペットボトルが握られている。「熱海の天然軟水」と、パッケージにある。きっと旅館の冷蔵庫にあったものだろう。

「……いらん」
「いらなくない。必要です」
「…………んん、」

こういう時の松倉はてこでも動かない。やっとのことで起き上がり、ペットボトルを受け取った。自分の手が震えていることに、市瀬はショックを受けた。しっかり掴むことができなくて、松倉の大きな手が重なる。
傾けて喉を潤すも、水を一口含んだ瞬間に吐き気が突き上げ、そのまま吐き出してしまった。

「ウッ、……う˝えっ、おえっ」
「市瀬っ」

水だけじゃなく、今朝のコーヒーが、果物が、繊維だけの残骸となって口から溢れた。どろっとした粘性の水分が布団に広がった。差し出された松倉の両手にも。鼻につくのは独特のにおい。さあっと血の気が引く。やってしまった。汚して、しまった。

「だいじょうぶ、俺から、ちゃんと説明するから。無理に飲ませた、ごめん市瀬」
「ま、つ、……まつくら、」

市瀬の体が、おかしいくらい熱い。滴る汗も異常なほどだ。掴めそうなほど小さな頭を枕に埋めて、朦朧と松倉の名前を繰り返す。何とかまともに動けるまでに回復したのは、十二時を過ぎてからだった。

当然二日目以降の予定なんて全て返上して、安全運転で無事に帰宅することが最大の目的となった。松倉は旅館の仲居に事情を説明し、汚したもののクリーニングを申し出た。しかしその提案はあっさりやんわりと却下され、お大事に、安静に、と、ペットボトルの温かいお茶や貸し出し用のブランケットなど、是非使ってくれと次々に渡された。実は仲居のうちの何人かは、市瀬が「市瀬成海」だと気付いていたというのだ。

一足先に後部座席で休んでいた市瀬に、貰ったものをいくつか手渡す。市瀬はお茶で指先を温めた。

「気分悪くなったら、すぐ言ってね。すぐだよ」
「わかったって」

昼過ぎ、上りの道路は来た時よりも空いていた。ビーチラインは変わらずに絶景で、市瀬は「これ、行きと同じ道?」と首を傾げた。

「そりゃ、市瀬寝てたもん」

松倉は運転席から後ろに返す。窓の外を見やる市瀬の顔色はほんの少し血の気が戻っていて、松倉はほっとバックミラーを戻した。

海岸道路に乗って:END

ジョハリの窓に、羊がふたり

『教室で自習!』

黒板の真ん中、担任の字が走っていた。クラス委員の西和田が教壇上で手を叩く。雑談でざわついた教室は、なかなか静かにならなかった。くだらない話が、噂が、室内に飛び交っていた。「かったるい」と誰かがぼやく。

「静かに、静かに!先生から自習課題を預かっている。今から配るから、終わった人から——」

悪い奴では無いのだが、真面目すぎるのがタマに傷。空回りしがちなクラス委員は、細いフレームの眼鏡を神経質そうに押し上げた。前列にプリントをまとめて手渡していく。後ろに回せと指示を出した。

「まーた西和田ちゃんだよ。大声出せば良いってもんじゃないのに。ねえ、芦原? 」

隣に座る三浦が、にっと笑みを浮かべ囁いた。同意を求められた芦原高弥は、曖昧に頷き返す。

(うるっせえな、面倒くさい……)

心の中では、そう毒づきながら。
悪いやつではないが、好ましいやつでもない西和田を疎ましく思う人は、きっと一定数以上いる。この三浦だって、何かと口うるさい西和田をやや穿ち過ぎた見方で捉える一人だ。そうは思うも、芦原にはそれを肯定するつもりも訂正するつもりも無かった。面倒なことには首を突っ込みたくないというのは、人間の性だろう。芦原と三浦の座る最後列までプリントが回ってきた。三浦はひらりと用紙をつまむ。

「クラス委員、芦原がなるべきだったんだよ」
「……え?」
「なんたって、入試以来常に首席なんだからさ」

プリントを息でゆらゆらと揺らしながら、「常に」を強調して三浦はそう言う。感情の読めない目だけを芦原に向けた。顔には笑顔が張り付いている。

「そんなことないよ」

芦原は視線を落として微笑んだ。この教室には、敵しかいない。無意識のうちに、胃を押さえていた。
芦原は、朝から胃の辺りの不快感に苛まれていた。意識しなければ気にならない程度のチクチクとした痛み。そういえば、何となく体も怠いような、気がする。机に肘をつき、俯いて眉間を揉む。気付かれないように小さく溜め息。

「どっかプリント余ってねえー?」

誰かがそう声を上げる。はっと手元を見ると、重なった二枚が目に写る。重複の皺寄せは最後列が被るものだった。。

「あ、ここに一枚あるよ」

そう言いながら、片手を上げるクラスメイトの元へ届けようと立ち上がった時だった。
ぐらりと歪む視界。床に沈んでしまいそうな、突然の暗転。
あっと思った時には、膝から床に崩れ落ちていた。一瞬遅れて、半身に鈍い痛みが走る。大袈裟なくらい派手な音を立てて椅子が倒れた。

「芦原?」「芦原くん!」

途端沸き起こる周囲のざわめきと肩の痛みが、どこか他人事のように感じる。頬に伝わるタイルの冷たさだけがやたら現実的で、全身が恐ろしく重たかった。目が回る。起き上がろうとして、肘に体重を掛けるのが限界だった。

「芦原、大丈夫か」

駆け寄って来たのは、西和田。膝をついて顔を覗き込む。西和田は無遠慮に芦原の額に触れた。彼はうわっと声を上げて、その左手を首筋に移す。

「芦原!すごい熱、高いぞ」
「……ええ?」
「起きられるか、保健室行った方が」

頼むから大声で騒がないでくれ。西和田の正義感がうっとうしくて、無理に体を起こす。ぐらぐらと視界が揺れた。堪らずに片手で目を覆う。教室の後ろで倒れた芦原に、心配や好奇のあらゆる視線が集まっていたのだと、そこで気がついた。

「……大丈夫だよ、椅子に引っ掛かっただけだから」
「いや、熱がある。自習の間くらい休んでろ」

熱だなんて言われたら、途端に力が抜けてしまう。「だから、大丈夫だって」そう言おうとして、口を動かすのも億劫になってしまった。忘れていた胃の痛みを思い出す。
もういい、どうせ自習なら、休んでしまおう。面倒なことが大嫌いな、芦原の本質が頭をもたげる。……ああでも、保健室はちょっとなあ。
そんなことを考えていると、あれよあれよという間に西和田に肩を回されていた。倦怠感に包まれ、されるがままに立ち上がる。

「芦原くん、大丈夫ー?」

入り口近くで、女の子がそう言う。それに片手をひらひらさせて応じながら、怠さに任せて教室を出た。廊下の方が、数段新鮮な空気が流れている。芦原は深く息を吐いた。見上げた窓の向こうは快晴だ。
頭の芯の鈍痛や、この目眩は貧血のせいかと思っていたが、これも熱かと思うと何となく面白い。西和田は律儀に背中を支えてくれる。

いいや、一時間くらい。全うな理由でサボってやろう。足を引き摺るようにして廊下を進む。時々、「大丈夫か」と西和田。無言で頷く。

誰かに付き添われて保健室に行ったことなんてなかったから、この様子を見たら、あの口の悪い養護教諭は何て言うだろう。「またサボりか」って、笑うかな。
中庭に抜けられるよう、一面ガラス戸になっている渡り廊下を抜けて、静まり返った校舎を歩く。そうだ、今授業中だもんなあ、そんな当たり前のことを改めて実感した。

床が揺れるような感覚は抜けない。刺すような腹部の痛みに、気づかない振りをする。

「失礼します」

西和田が、白い扉をノックする。円形の磨りガラスの向こう、影が動くのが見えた。

***

始業のチャイムが鳴り響く。相澤は大きく伸びをした。窓の外をちらりと伺い、人気の無いのを目視で確認。クリーム色のカーテンがかかる窓に寄りかかり、胸ポケットからタバコを取り出す。引き出しに手を伸ばし、ライターを掴んだ。

「失礼します」

だから、突然飛び込んできたノックとドアの向こうの声には、ぎくりと背筋を冷やされた。同時に開く扉と二つの人影。ネクタイの色を確認して、学年を把握する癖がついていた。慌ててタバコの火を指で揉み消す。チリリとした痛みが親指に走った。

「お、おう、どうした」
「先生、ここ学校ですよ、しかも保健室!」
「あー、まあ、そうだな」
「信じられない」

生真面目を絵に描いたような細縁眼鏡の彼は、相澤の喫煙を咎めながら、俯くもう一人に「大丈夫か」と声をかけた。後ろから猫背気味に入ってきたそいつを見て、一気に脱力する。

「ええっと、どうしたんだ?そいつは?貧血か?」

半ば笑いを堪えながら、一応、形式としてそう尋ねる。細縁眼鏡は芦原をソファに腰かけさせた。

「ちょっと先生、真面目にやってるんですか。芦原君は病人ですよ」

顔に浮かんだ笑みが気取られたのか、物凄い形相で睨まれる。校長のワンマン経営が顕著なこの私立校、こいつが権力者の息子なり孫なりなら大変だ。この職に特に思い入れがあるわけではないが、クビになったら路頭に迷うのは目に見えている。面倒な世界だ、と相澤は肩を竦めた。
口を開いたのは、芦原だった。

「えー……と、大丈夫。もう、戻っていいよ、西和田。ありがとう」

そう言って、やんわりと微笑む。相澤には、芦原のその笑顔がよそ行きの作り物だとすぐに分かった。なるほど、こいつはこうやって笑っているのか。西和田と呼ばれた細縁眼鏡の彼は「そうか」とか、「お大事に」とか呟いて、保健室を出ていった。神経質で頭は固そうだが、良いやつじゃないか。
足音が遠ざかって、静寂が訪れる。ややあって相澤は吹き出した。

「おっ前、名演技だなあ!西和田?だっけ、今時あんな熱いやついるんだな」

ケラケラと笑い声を上げる相澤。当たり前のようにスムーズにタバコを取り出した。新しい一本に火を付け、煙を吐き出す。芦原は、嘆息してソファに凭れた。

そう、これなのだ。だから保健室は気が進まなかったのだ。
成績良し、人当たり良し、運動神経良しと三拍子そろった芦原は、その実、とんでもないサボり魔だった。それも出席を取らない自習や課外活動などを狙って、計画的に休んでいる。芦原の普段の行動や、生来の線の細さを認めるクラスメート達は、誰もその不正に気付かない。
そして芦原がサボり場所に決めたのは保健室で、退屈しのぎに選んだのは、養護教諭である相澤だった。理由なんて特にない。ただ、全てが面倒で、全てから、逃げ出したかっただけだ。
普段の態度を知られている相澤には、弱った姿を見せたくなかった。それは殆ど意地のようなもので、自分のプライドなのだと芦原は自覚していた。不正を看過して貰う以上のことを、求めてはいけない。芦原は怠い体に鞭打って、ソファから立ち上がる。

「……そーです、いつものサボりです。センセ、ベッド、借りますね」
「おい、ちょっと待て」

相澤は、しかしそれでも養護教諭で、芦原の様子がいつもとは違うことにようやく気が付く。すいっと横を通りすぎようとした芦原の腕を掴んだ。咥えタバコの煙が細く揺れる。

「顔色悪ぃな、まさか本当に具合……」言いながら、相澤の手は芦原の頬に触れていた。その手が冷たくてあまりに気持ちが良いので、芦原は振り払うことも忘れて目を閉じた。相澤はぎょっとした声を上げる。
「熱っつ!熱!お前よくこれで学校来たな。さっさと布団入ってろ。早退だ、早退」
「……」

ばたばたと急に職務を思い出したような相澤は、壊れんばかりの勢いでカーテンを引き、ベッドを整えた。一瞬だけ名残惜しそうにタバコを見て、携帯灰皿に捩じ込む。バレてしまったのならと、芦原は観念してジャケットを脱いだ。悪寒がして、全身が総毛立った。
濃紺の名簿のファイルを片手に体温計を差し出す相澤。芦原は、黙ってそれを受け取った。というより、強がって悪態をつく体力も気力も、芦原にはもう無かったのだ。

「これが保健室の正しい使い方なんだよ、分かったか」
「……はーい」
「今家に連絡してやっから。迎え来てもらえ。んで、とっとと帰れ」

名簿を見ながら、デスクの電話を引き寄せる。相澤は保護者連絡先の欄を見ながら数字を押した。

「……ムリだと思うけどなぁ……」
「ああ?何だって?」

コール音がして、数秒後。保健室に着信を知らせるメロディが響いた。
ちょうど、芦原の上着のポケットから。
怪訝な表情を浮かべた相澤が受話器を置く。それに対応して、メロディも止まった。嫌な予感が走った相澤は、芦原が枕元に丸めたジャケットを引っ掴み、ポケットの中からスマホを取り出した。「着信一件」という、ディスプレイの表示。青いランプが点滅する。

「お前まさか……」
「うん、それ、俺の番号」
「親の番号は」
「知らない。全員海外だし、連絡なんて取らない」

呆れて物も言えないとは、まさにこのこと。タイミングよく、ピピ、と電子音が沈黙を埋める。芦原はごそごそと体温計を取り出した。
腕を動かす些細な動作でさえ、怠くて仕方がない。体温の残る体温計を受け取った相澤は、表示を見てがりがりと頭を掻いた。

「八度五分……やっぱ高ぇな。お前、じゃあ、一人暮らしか」
「手伝いの人が、週に三回来るけど……基本的には」

両親が今どこにいるかなんて、芦原にとっては気にしても仕方のないことだった。それはもう、小さい頃から、そういうものだったからだ。
父親は今アジア圏のどこかに居るらしいが、母親に至っては皆目検討もつかない。三つ上の兄はワシントンの田舎に住んで大学に通っているらしい。 芦原は彼ら〝家族〟の所在に少しの関心も無かったし、それはきっと、向こうだって同じはずだ。

「俺みたいな落ちこぼれには、興味無いんだ、うち」

相澤は絶句した。この学校は、内部体制に若干の問題はあるものの、近隣では決して低いレベルではない。それに、教科に携わらない相澤でも、芦原が入学以来常に首席を維持していることは知っていた。

「金持ちのエリートも大変なんだな」溜息とともにそう呟く。中流階級で育った庶民の正直な感想だ。

芦原はそれには答えず、枕に顔を埋めた。発熱による倦怠感に加え、刺すような腹部の痛みがさっきからじわじわと増しつつあった。何となく、気持ち悪いような気もして、それらを忘れるために早く寝てしまいたかったのだ。

「……ちょっと休んだら、自分で帰ります。次の時間になったら、起こして……」

言い終わらないうちに、髪の毛をぐしゃくゃに揉まれる。相澤の大きくて冷たい手は、火照った体にとても気持ち良かった。

「言っとくが、俺が冷たいんじゃなくてお前が熱いんだからな。分かったから、さっさと寝ろ」
「……はい、」

くぐもった返事。意識は、微睡みに溶けていった。

浅い眠りから強制的に起こされたのは、突き上げるような激しい吐き気のせいだった。

「……っ!」

ぼんやりとした意識は一気に現実に引き戻され、芦原は布団の中で背中を丸めた。これは、やばい。焦りで心拍数が跳ね上がる。生唾を何度も飲み込み、落ち着け、落ち着け、と頭の中で繰り返す。
そんな努力も虚しく、徐々に危機感は迫った。刃こぼれしたナイフのような、鈍く鋭利な相反する感覚。胃の辺りが掴めそうなほどはっきりとムカムカして、喉に確実な
圧迫感を感じた。

(あー、まずい、これ……)

えずきそうになるのを何とか堪え、のそりと起き上がる。胃の中身が食道を逆流してくる不快感は、耐えがたいものだった。緩慢な動作で毛布をよけ、よろよろとベッドから降りた。酷く、目が回る。

「相、澤……」

カーテンを掴み、その向こうに座る背中を呼ぶ。書類整理をしていた相澤は、掠れた声にはっと振り返った。カーテンの隙間から覗く真っ青な顔を見て、瞬時に状況を理解する。

「だーっ!ちょっと待て、ちょっと待て。今袋、いや洗面器……」
「う……」

目眩と、吐き気と、とにかく全身の怠さに立っていることも叶わず、ずるずるとしゃがみ込んでしまう。口元を押さえ、ひくっとしゃくり上げる。
相澤がとっさにゴミ箱を取る。それを受け取るやいなや、芦原は激しく嘔吐した。相澤が上下に擦る薄い背中が、びくりと不規則に上下する。

「オエッ、うっ……、うう……」
「ああ、もう、ほら大丈夫か、よしよし」
「げほっげほ、ゲホ……ッ、っは、」

吐き気が、収まらない。いくら吐いても胃のムカつきは消えず、吐瀉物がゴミ箱のビニールに叩きつけられる。酸の臭いが鼻に付き、余計に吐き気を助長する。床に跳ね、ああ、消毒、と妙に潔癖な意識が働く。

「……ゲホッ、っあー、気持ち悪ぃ……」

ぐったりと脱力する芦原。相澤は手早く袋を閉じた。手の甲を芦原の額に当てる。

「あー、なかなか酷いな。お前、次の時間も休んどけ。ってか、誰か迎え頼めねえのか、その、お手伝いさんとやらに」

芦原は俯いたまま曖昧に唸る。そして、別の違和感にも、そこで気が付く。
忘れていた腹部の不快感。それが突如、腸を捻るような痛みとなって芦原を襲った。
「~~~っ」思わず両手で腹を抱える。じわりと嫌な汗が噴き出した。皮膚の下、臓器が不穏に蠕動するのを感じて血の気が引く。これはやばい、本当に、やばい。反射的
に肛門を締めるも、水っぽいそれはじわじわと芦原を追い詰める。

「……おい、芦原?腹か」
「……ちょっと、トイレ……」

腰を折って、いかにも「漏れそうです」という体勢で。でも、そんなことを気にしている余裕もないほど芦原の欲求は切迫していた。隣に設けられたトイレに駆け込み、溢れそうだったものを吐き出す。
明らかに下しているその音に、後を追った相澤は痛ましげにドアを見つめた。
何度か水を流す音がして、ようやく芦原は個室から出てきた。ふらつきながら壁に手を付くその様子は、一回りも二回りもやつれて見える。

「かなり酷いな。ほら、保健室戻るぞ。横になってろ」
「……ふ、相澤が優しい、へんなの」
「頭緩んだか。気持ち悪いな。相澤〝先生〟だろ、センセイ」

一音一音区切るように「先生」を強調して、相澤は芦原の両肩を支える。発熱に続く吐き下しで、芦原は一人では真っ直ぐ歩くこともできないほど弱りきっていた。
再びベッドに収まるも、強烈な吐き気と腹痛、下痢が容赦なく芦原の体力を削った。保健室とトイレを往復し、その合間に倒れるように眠る。
このままだと脱水症状を引き起こしてしまう。そう危惧した相澤が経口補水液を飲ませたが、それもすぐに吐いてしまった。ベッドの横にはビニールに包まれた洗面器が常備された。
もう吐いたもののなかに固形物は殆どなくて、相澤が半ば強制的に摂らせた水分と苦い胃液だけをひたすら吐き続けた。吐き気が一瞬治まったと思えば、ぎゅる、と腹が警鐘を鳴らす。同様に水のようなそれを下し続けて、お尻の穴がヒリヒリした。あまりの苦しさに、芦原は生理的な涙が止まらなかった。唇の端を噛みすぎて、血の味がした。
腹部を庇うように抱えて、布団の下で背を丸める。相澤は熱い息を吐く芦原を気の毒そうに見下ろしながら、毛布の位置を直した。

「……っ……ふ、……」
「お前……この様子だと、十中八九ノロウイルスだな。三組で流行ってるの、聞いてないのか?」
「……なにそれ、……初耳」
「さっきお前のクラスの三浦?が、荷物持ってきてくれたぞ。お前、友達居るんじゃん」
「……あれは、……」

三浦の父親は、芦原の父親が経営する会社の、子会社の社長だ。そこにあるビジネスパートナーとしての主従関係は火を見るより明らかで、三浦もきっと、父親の背中を見ている。芦原の父親に頭を下げ、献身的な接待を続ける、父親の姿を。
今はクラスメイトである芦原との関係は将来的には対等なものではなく、その分別があるからこそ、三浦の態度は読めないのだ。
クラス委員の西和田は、芦原達のような中等部からの持ち上がりではなく外部組で、その辺の事情がひしめく教室をいまいち把握しきれていないのだろう。
そう説明したかったが、言葉を一言発するのも辛くてやめた。目を閉じて枕に顔を伏せる。何かを察したのか、相澤はもう一度「金持ちのエリートも大変なんだな」と哀れみを込めて呟いた。

「……さて、もう昼休みだけど、ちったあ良くなったか」
「どうだろう……気持ち悪いし、腹は痛い、けど……」
「それは悪化してんだよ、バカ。もう一度聞くが、誰か迎え頼めねえのか、お手伝いさんとやらには」

その突き放したような言い方に、芦原は沈黙した。感染力の強いウイルス保菌者には、学校に居て欲しくないということか。
いつもふらりとサボりに行って、最初こそ叱責されたものの、今では「またお前か」「うるさいなあ、いいでしょ」と軽口を交わせるようになった。過干渉してこないその関係が心地よくて、知らず知らずのうちに甘えていた。けれど今、相澤の言葉は全て〝帰れ〟と暗に意味している気がして、何だかもう色んなしんどさがごちゃ混ぜになって、ボロボロと涙が溢れてきた。体調が悪いと涙腺が馬鹿になって困る。
突然泣き出した芦原に、驚き慌てたのは相澤だった。

「あーもう、何で泣いた?泣くほどしんどいか?あ?」
「……って、……相澤、帰れって……」
「はぁ?そんなこと一言も言ってねーだろうが。分かった。誰も来れねえんだな。よし、じゃあちょっと辛いかもしんねぇが、起きろ」
「……え……?」
「病院行くんだよ、ビョーイン」

俺が連れてってやる、と、相澤は白衣の上着を脱いでコートを羽織った。芦原は状況が飲み込めないまま、体を起こした。とりあえず、セーターの上に枕元のジャケットを着る。ベッドから下りようとして、床が歪むあの感覚。窓に頭から激突してしまう。
その音を聞いて、カーテンの隙間から相澤がひょこっと顔を出した。

「あー、悪い悪い。歩くのしんどいよな」

また両肩を支えるようにして芦原を連れる。相澤が優しいなんて、やっぱりへんだ。そんなことを考えていると、急に動いて刺激されたのか、芦原の腹は何度目か分からない悲鳴を上げた。

眉間に皺が寄る。無意識のうちに、猫背になる。「車で行くから、出る前にもっかいトイレ行っとくか」芦原の様子を見て、相澤は声を落としてそう言った。それも芦原のプライドを気遣ってのことで、やっぱりこんなに優しい相澤はおかしかった。
トイレに向かう途中吐き気までぶり返して来て、堪えきれず手荒い場で吐いた。むせ返って、喉が痛む。職員玄関から駐車場に抜け、相澤の車に乗り込む頃には満身創痍といった様子だった。後部座席に荷物を置き、助手席に座る芦原。早退の手続きは、相澤が全てやってくれた。

「じゃ、行くか。坂の下の市民病院でいいよな。あとほら、これ、持ってろ」
「ん」

手渡されたのは紙袋とビニール袋を組み合わせた、いわゆるエチケット袋。保険証持ってるか、と尋ねるので、頷いて応じる。確か学生証と一緒に持ってきているはずだ。
ゆるやかに車は滑り出す。病院までの道のりは片道十分。その間に、もし吐き気の波がきたら。もし、トイレに、行きたくなったら。そう考えるとそれだけで動悸がする。

案の定、半分も過ぎないうちに口の中に酸っぱいものが込み上げてきた。車酔いもあるのかもしれない。芦原はもともと乗り物に強くない。
胸の辺りがもやもやする。芦原はエチケット袋を握りしめた。「吐くか?」芦原の異変に気付いた相澤が、信号待ちの間に尋ねる。カーラジオの音量を下げたが、芦原は車内に流れていた音声や音楽に、そこで初めて気が付いた。

「……吐かない」
「別に、無理すんな」

もう吐くもんもないのに、吐きたくない。というか、これ以上何を吐かせようとしてんだ、この体は……って、ウイルスか、そうだよな。支離滅裂な思考回路と、治まらない胃の収縮。生唾を飲み下す。
さらに最悪なことに、また、下しそうな予感がしてきた。もぞ、とシートの上で体勢を変える。嫌な予感で、全身に鳥肌が立った。捻れるような腹の痛みが、じわじわと強さを増していく。背中を丸めたいけど、そうしたらきっと吐いてしまう。

「……あ、相澤……っ、あと、どれくらい」
「もうすぐだから、角曲がったら。辛いな、もうすぐ停まるから」

吐きそうで、それだけでなく漏らしてしまいそうで、芦原は殆どパニックだった。切羽詰まった声で相澤を呼ぶ。病院の広い駐車場に入るやいなや、施錠もそこそこに相澤は助手席から芦原を連れ出した。

芦原がトイレに籠っている間に、受付手続きをこなしておく。さすがに平日の昼間、待合室は空いていた。設置されたテレビは通販番組を宛てもなく流していたが、気に留めている人はいない。中央のソファに腰をおろして問診票を眺めていると、トイレから出た芦原がよろよろと向かってきた。少しは、落ち着いたのだろうか。顔色は漂白したように真っ白で、普段から色の白い奴だと思ってはいたものの、さすがに不安になる。
真っ直ぐにこちらへ来て、すとんと真横に座った。「はー」と深い溜め息。
カーディガンを脱いで、その薄い肩に掛けてやる。一瞬ちらりと視線を向けたが、すぐに怠そうに目を伏せた。長い睫毛が、頬に影を落とす。

(……素直にしてりゃあ、可愛げもあるのに)

吐き下した疲労からか、芦原がうとうとと船を漕ぎ始めたころ、ようやく名前が呼ばれた。まだ若い医者はいくつかの質問を投げ掛け、簡易なベッドに横になった芦原の胸や背中に聴診器を当てた。芦原は身じろぎもせず、きつく目を閉じる。渋る腹に冷たい金属を滑らされ、かわいそうなくらいである。
診察の最中にも、芦原は一度戻した。看護婦が慣れた手付きで膿盆を取り出すのを、相澤は為す術もなくただ眺めていた。保健室の先生なんて、無力なものである。下された診断は、やはりノロウイルスだろうという所見だった。

「えー、午前中から嘔吐と下痢があるということで、脱水症の恐れもありますから、点滴しておきましょうか。吐き気止めと、下痢止め……あと、解熱剤ですね、出しておきます。」
「……はあ」
「とりあえず脱水が治まれば、ちょっとは楽になると思うのでね。後は安静第一にして、ウイルスが外に排出されるのを待ちましょう。お大事にしてください」

比較的短い方だった待ち時間の、さらに三分の一程度の早さで診察は終わった。点滴室に移され、細い腕には管が通される。低いパイプベッドに体を預け、芦原は頭上で揺れる生理食塩水をぼんやりと見上げた。貧血だろうか、目がチカチカする。ああ、もう、情けない。

「……お前、コレ、終わったらどーすんだ」

これ、と点滴のパックを指で弾く。どこからか持ってきた丸椅子にどかっと腰掛けた。細い音を立てて、その脚がきしむ。

「あー、どーしましょうか……ね……」
「家、誰も居ねえんだろ」
「………」

確かに、小康状態に落ち着いた体調で、考えるべきは病院を出た後のことだった。今家に帰っても、当然誰もいない。けれどそれは仕方のないことで。

あれは小学校のころだったか。
登校してすぐに高熱で倒れた出した芦原は、保健室で休んでいた。パステルカラーの内装が特徴的だったその部屋で、早退の迎えを待つ。保健室の先生から、「今お母さんが迎えに来てくれるって、良かったねえ」と伝えられて、驚いたのを覚えている。
両親が仕事を抜けて自分を迎えに来てくれるなんて、思ってもいなかったからだ。朝起きたときには両親は既に仕事に出ていて、お手伝いさんしかいなかった。驚いたと同時に、いつも忙しい両親の関心を引けたことが、すごく嬉しかった。布団の中でも、体は熱くて怠いのに、なぜかわくわくして眠れなかった。

けれど、迎えに現れたのは父親でも母親でも、お手伝いさんでもなく、一度も会ったことのないスーツ姿の女性だった。その人は、「遅くなってすみません、アシハラタカミの母です」と言って頭を下げる。呼ばれた名前が自分のものだと気付くのに、少しだけ時間が必要だった。       
これまでの経験から、芦原は幼心に分かっていた。〝大人同士の嘘には合わせた方がいい〟と。だから小さかった芦原はその一面識もない女性を「お母さん」と呼んだし、その人に連れられて帰宅した。家には相変わらず、お手伝いさんだけがいた。
あの女性は父の秘書で、父から「母親の振りをして迎えに行ってやってくれ」と頼まれていたのだと知ったのは、その後の話。防犯上の都合から、両親或いはそれに順当する保護者以外の迎えが認められていなかったためである。

その時、芦原は両親にとっての自分と仕事の優先順位を肌で悟った。勉強を頑張ったら、と一時期は思ったけれど、出来の良い兄と比べられるだけだった。
小さい頃から、そういうものだった。期待してはいけない。期待する価値のない子どもである自分が。
誰もいない家に帰るのは、慣れている。

「ウチ来るか」

突然降ってきた予想も期待もしていなかった提案に、芦原は文字通り目を見開いた。少しも変わらない声のトーンで、ぶっきらぼうに投げられたその言葉に、なぜだか泣けてきてしまった。気付かれないように何度も瞬きをする。

「え……?」
「だから、俺んちに泊めてやる。お前、この体調で一人でどうする気だよ。学校にバレたら色々厄介だから、うまく誤魔化せよ」
「い、いいの。あんたの家に行っても」
「言っとくけど庶民の狭い賃貸だからな。文句言うなよ」

言わない、言わない、と慌てて首を振る。人がいる部屋に帰る。家に帰ったら、人がいる。

——きっと自分は、ずっと寂しかったのだ。

斯くして点滴を終えた芦原は、再び相澤の車に戻った。その頃には、体は随分楽になっていた。車に揺られて三十分、停まったのは木造三階建てのマンションの前だった。学生向けに貸し出している物件らしいが、不動産関係に勤める友人のツテで安く入れてもらったのだとか。
芦原を先に下ろし、相澤は契約している駐車場まで車を動かす。相澤が小走りで戻ってきたので、芦原は思わず笑ってしまった。
部屋は八畳ほどの縦長なワンルーム。男の一人暮らしにしては片付いているのと、オリエンタル調の家具類の背が低く統一されているお陰で、少しも狭さを感じない。正面のベランダから夕日が赤く差し込んでいる。もうそんな時間か、と芦原は思った。

「ベッド使ってろ。嫌じゃなければな」

相澤が、部屋の暖房にスイッチを入れながらながらそう言う。多少回復したとはいえ、怠さの残る芦原には有り難かった。腹の痛みも、まだくすぶっている。そろりと布団に潜ると、相澤のにおいがした。気休めに腹部を抱えて横になる。いつの間にか、ぬるま湯のような眠りに落ちていた。

どれくらい眠っていたのか。物音がして、目が覚める。「起きたか」覗き込むようにして相澤が言った。照明が染みて、目を擦る。

「ん」
「卵粥とすりリンゴがある。食えそうだったら食え」

そう言ってパッと離れてしまう。寝惚けた頭で言葉を反芻して、芦原は吹き出した。すりリンゴ!目の前でノートパソコンに向かうこの男がリンゴをすりおろす姿はどう
頑張っても想像できない。って言うか、この人、料理なんてするんだ。考えが顔に出ていたらしく、すぐに相澤に睨まれた。

「うるせえ、俺は姪っ子の看病しかしたことねぇんだよ!」

一方相澤は枝豆やチーズを摘まんでいて、完全にお酒のつまみだというのに、ミネラルウォーターのペットボトルが置かれている。学校でも人目を盗んで喫煙するほどのヘビースモーカーなのに、灰皿に使われた形跡はない。今、自分は彼の日常に割り込んでいるのだと、唐突に自覚した。

「……相澤、先生、」
「……何だ」
「俺、寂しいって知らなかったんだ」
「……」
「そういうもんだと思ってた。ずっと。……けど、寂しくない時を知らないと、寂しいって分からないもんだね。やっと、分かった。俺、寂しかったんだ、たぶん」

相澤は否定も肯定もしなかった。そして無言で立ち上がった相澤に、ぐいと引かれて起こされる。差し出された底の深いガラス皿にあるのは、食べやすくすりおろされたリンゴ。プラスチック製のスプーンが添えられている。驚いて、目を丸くして容器と相澤を交互に見やる。

「食え」
「……何か食べたら、……吐くかも」
「そしたら寝ろ。……何のためにウチに来たんだ」
「え?……休むため……?」
「看病されに来たんだろ、アホ」

ああ、と思う。一人じゃないって、こういうことか。緩んだ涙腺でやっぱり鼻がツンとしたが、今度はもう隠さなかった。相澤が頭をぐしゃぐしゃと撫でる。相澤のベッドに座って食べたリンゴは少し酸っぱくて、卵粥は大雑把な、とても優しい味がした

ジョハリの窓に、羊がふたり

なおしてきなさい

「オイ嵯上。オメーその頭何色だ」

夏休みが終わって一週間。暑さを忘れない九月の頭、放課後。蒸されそうな湿度の相談室で、二人は顔を突き合わせていた。天井に設置された扇風機が、かたかたと首を回す。生徒指導担当の志間は、「頭だよ、あーたーま」自分の髪の毛を引っ張った。
休み中に調子に乗って羽目を外し、そのまま戻り方を忘れたような生徒が大量発生するのもこの時期だ。志間の下には連日、各学年主任が指導対象の生徒を引っ張ってきていた。
やれ体罰だ、暴力だとうるさい御時世である。生徒に触れるようなことは極力避けるようにと、頭髪の薄い校長から厳重に仰せつかっている。
向かい合った嵯上は学ランを盛大に着崩し、しかし悪びれる様子を微塵も見せず、男にしては長い髪をつまんだ。男にしては、なんて、それこそナンセンスな基準かもしれない。とにかく、光に溶ける毛先を揺らして、ええと、と記憶を手繰り寄せるように視線を動かす。

「アッシュグレーかな」
「……金髪じゃねえのか」

授業中以上に真面目な表情で、うんうん、と頷く嵯上。
金と白の中間のような、透けた灰色のような、とにかく志間のボキャブラリーでは形容できないその髪色も、はだけた学ランとその下に覗く色モノTシャツも、耳たぶで光るピアスも、何もかもが校則違反だ。

「ほらこれ、ちょっと緑も入ってんだよ」
「るっせえタコ。お前らみたいなちゃらんぽらんのせいで俺は連日残業なんだよ。せめて休み明けは染め直してこい」
「え~でもさあ、これ一昨日染めたばっかなの。もったいないから落ちるまで待ってよ、志間せんせ」

なぜ夏休み終了二日前に髪の毛を染めるのか。きっとそんな質問なんて、なんの意味も成さないのだろう。呆れも一周回って感心だ。うわ、なんだかすげえ、疲れてきた。

「とにかく」と、志間は指導を切り上げることにした。重力に逆らって整えられた頭をぱんと叩く。
「髪の毛。日本人の色にしてこい」
「わ、それヘンケン」
「あとピアス。明日つけてたらもぎ取るからな。制服の前は閉じろ。それから―」

すっと腕が延び、志間の耳をかすった。襟足をすくように、嵯上の指が動く。

「先生も染めようよ。ぜったい似合うよ、俺が染めたげよっか」

ダメだ。日本語通じない。ニッとえくぼのできる笑顔を向ける嵯上に、志間は宇宙人を見ている気分だった。
……呆れて、物も言えないとは、まさにこのこと。

嵯上が志間に対してあんなに気楽な態度を取れるのも、志間が嵯上をこんな風に雑に扱えるのにも理由があった。

二人は、いわゆるご近所さん。嵯上が小さい頃、よく面倒を見てくれた〝近所のお兄さん〟が志間だったのである。

嵯上が中学に上がる頃までその関係は続いた。少し離れた公立高校に採用が決まった志間が引っ越す時、嵯上は目に涙を浮かべて「行くなよ」なんて、可愛らしいことを言っていた。
実際、あの時の嵯上は可愛かったと志間は思い返す。髪の毛だって生まれ持った色だったし、耳に穴も空いてなかった。制服は少し、乱れてたけど。

それがどうだ。赴任先の高校に嵯上が入学してきて、久しぶりの再会を果たした時には、嵯上はすっかり変わってしまっていた。主に外見が。今年で四年目だし、俺もそろそろ移動かなと思っていた矢先に舞い込んできた生徒指導の役職。
嵯上はその指導の網に、これでもか言うほどばっちり引っ掛かっていた。
名前が書ければ誰でも受かる、地元で有名なアホ高校。嵯上以外にも、嵯上以上に指導の必要がある生徒はごろごろしている。
しかし高校ではある以上、どんなにアホ高であっても教育機関であり、したがって受験、なんて話も当然出てくる。

志間の担当は三年生。嵯上のいるクラスではないが、高三の夏といったらそりゃあ、進路指導も重い腰を上げる時である。
山のような生徒指導、受け持ちクラスの進路指導。その他諸々の事務作業と、志間の仕事は山積していた。その結果―

「ぶえっくしょい」

ボロいアパート全体に響くくらいの、盛大なくしゃみ。風邪だ。間違いなく風邪を引いた。睡眠不足が祟り、栄養不足が牙を剥いた。

「あ~くそっ、頭痛てぇ」

寝間着のままがしがしと頭を掻き、鍋に入れっぱなしだった昨日の味噌汁に火をつける。冷蔵庫から牛乳を取りだし、クッと一杯飲み干した。
玄関の真横に取り付けられた鏡を見る。酷い寝癖だ。三六〇度どこから見ても、三十路寸前の男の姿だった。

いっそこのまま出勤してしまおうか。体育教員なんて常にジャージで校内を闊歩している訳だし、ジャージも寝間着も大差ないだろう。
そう考えた所で、はっと今日の日付を思い出す。そして、イカンイカンと首を振る。今日は年に数回の研究授業の日。校長教頭のみならず、近隣校の教員ら、大学の教授、教育委員会のお偉いさん数名までもが揃い踏みなのである。

そんな面々を前にして、志間は〝いつも通り〟の授業をしなくてはならない。志間の担当は社会科だ。どうか生徒たちが空気を読んで、おとなしくしてくれますように。祈るのはそればかりである。

「っが、ゲホッゲホッ、」

沸騰した味噌汁の湯気に噎せる。喉の奥に嫌な気配。ざらついた感覚に、悪い予感しか浮かばない。

「さ、最悪だ……」

志間はシンクに手をかけ、がっくりと肩を落とす。ああ、なんだか目が回ってきた。
クローゼットから夏用のスーツを引っ張りだし、クリーニングのタグを切り、袖を通す。あまりにも風を通さなかったせいで、裾にはぽつぽつとカビが生えていた。応急処置として濡れタオルで拭き取って、見なかったことにする。

遠回りに車を走らせ、朝早くからやっているドラッグストアで咳止めを購入。風邪で一番厄介なのは、熱でも頭痛でもなく咳ではないかと志間は思う。気合いではどうにもならないからだ。
教員用の駐車場に入り、「効いてくれよ」と神仏に祈りながら錠剤を飲み込んだ。苦しいときのなんとやら。志間は車を降りた。渇を入れようと自分の頬を平手打ちしたら、勢いをつけすぎてくらくらした。間抜けだ、と嵯上の笑う顔が浮かぶようである。

「なーにしてんの志間せんせ。まぬけ~」

ははあ、幻聴まで降ってきた。どんだけ悩みの種なんだ、あの問題児。

(……って、)

ぐいっと顔を上げる。二階の窓から身を乗り出し、ひらひらと手を振る顔が見えた。幻聴じゃない。アッシュグレーとか言う髪の毛をきらきらさせて、志間を見下ろす。

「お前、髪の毛!ピアス!制服!放課後相談室に来い!」

左手でメガホンを作り、二階に向かって叫ぶ。突然の大声に駐車場にいた数人の教員や、廊下を歩いていた生徒達が一斉に志間を見た。目を丸くして「何事ですか?」という視線。すみませんね、問題児が見えたもので。志間は愛想笑いで会釈する。
当の嵯上はと言うと、ひえっと怖がるようなポーズだけ見せ、窓の向こうに引っ込んだ。ああもう、余計な体力を使ってしまった。頼むからオッサンを労ってくれ。

「ゲホ、げほっ」

乾燥しきった喉の痛みに顔をしかめながら、玄関をくぐった。

一番の山場は、なんとかやり過ごせたのではないか、と思う。朝買った咳止めは、無計画に選んだ割にはいい仕事をしてくれたようだ。授業中に何度か咳が込み上げてきたが、「いやあ、はは、チョークの粉がね」と誤魔化した。

嵯上のクラスで授業をした時も、うまくやれていたはずだったのだ。だからチャイムが鳴り、今日はここまでと廊下に出た時に腕を掴まれたのには驚いた。

「何か今日変だよ」

ムッとした表情の嵯上は言う。その手を払ってデコピンをお見舞い。つい、昔の癖が出てしまった。

「変なのはお前の頭だ。アッシなんたら?ブラックにしてから出直して来い」
「アッシュグレーだよ!」

不満そうな嵯上を残して、職員室へ足を運ぶ。自分の机にどかっと腰を下ろした時には、全身をはっきりとした倦怠感が包んでいた。

大健闘だった市販薬も、午後には効き目が切れていた。昼にも規定量を服薬したが、朝ほどの改善は見られない。
だんだん咳も抑えられなくなってきて、「志間先生、風邪ですか?」と同僚。それはもう、間違いなく。自覚してしまうと、どんどん病人のようになってくる。生徒にうつしてはいけないと、教育者としての立場を思い出す。
幸い、午前中で担当授業はすべて終わった。あとは今日のまとめとして提出する報告書を作成し、放課後の各種指導に備えるのみ。今日はさっさと切り上げて、早く帰って寝よう。飯を食うのも面倒くさい。

いつもより遅く感じる時間の流れに気が遠くなりながら、なんとか終業の夕方を迎えた。あまりにも咳と怠さが酷かったため、ホームルームは副担任に丸投げ。滅多に見せない弱った姿に、多方面から「お大事に」と声が飛び、いやあどうも、すみません、ありがとうございます、をローテーションで返していった。
しかし、どんなに心配を貰っても、仕事はいつも通り待っているのが大人である。取り分け今日の報告書だけは、今日中に仕上げなければまずいことになる。研究授業の実施報告。提出は今週中だが、それまで今日の内容を覚えていられる自信なんてなかった。かと言って他の教員もたくさん残っている職員室で、ゴホゴホと風邪菌を撒き散らす訳にもいかない。これも大人の責任だ。
迷った末、志間は書類とパソコンを相談室に移した。今日は生徒指導もお休みである。たった今決めた。

「ゴホッ、げほ、ゲホッ……あ~くそっ……」

咳をしてもひとり。悪態を吐いてもひとり。熱が上がって霞む視界に、パソコン画面の光は痛いほどしみた。
椅子を引いて机に伏せる。少しだけ……と体重を預けると、ひんやりとした机が心地良く、動く気力を削いでいった。ガンガンと内側から響く頭痛。咳のしすぎで肺が痛い。

(と、歳だ……)

肉体の衰えは弱った時にこそ痛感する。何度目か分からない溜め息を吐いた時、勢い良くドアが開いた。驚いて顔を向けると、校則を徹底的に無視した、見慣れた姿が立っていた。

「……何してんだ、お前」

カスカスのしゃがれ声は、間違いなく自分の口から溢れたものだった。
後ろ手でドアを閉め、ぺたぺたと内履きを引きずるようにして歩く嵯上。二つ隣の椅子に腰を下ろした。

「生徒指導、受けに来たんだよ」
「あー、それなら今日はナシだ。本日閉店。見てわかんねぇのか、仕事だ仕事」
「見るからに風邪引いてぶっ倒れてるようだけど」
「……」

ごもっとも。一ミリも否定できない。と、思い出したように咳が出てきて、反射的に背中を丸めた。
ぺたっと額に何かが触れる。気持ちいい程に冷たく感じるそれは、嵯上の手のひらだった。うーん?と首を捻りながら、自分の額と触り比べる嵯上。授業中でも見ないような真剣な顔で、額から首へ、骨の細い手のひらが移動する。しばらくそうしていて、突然「高熱!」と結論付けた。くわっと口を開いて叫ぶ。うん、知ってる。高熱だ。

「わーったらさっさと帰れ。俺も帰りたいんだよ」
「え、じゃあさ」

ウチに来ればいいじゃん。
名案とでも言いたそうに、満足そうににやりと笑う。やっぱりえくぼは刻まれる。

「はぁ?」
「母さんもひさびさに志間せんせに会いたがってたし。先生帰ってもどうせ一人っしょ?うち来ればご飯もあるし。決まりじゃん」

悔しいが、とてつもなく魅力的な提案だった。かつてよく通っていた、嵯上の家が脳裏に浮かぶ。共働きだった嵯上の両親が、留守中の息子を任せたのが志間だった。両親が迎えに来ても、まだ遊ぶと駄々をこねる嵯上を宥めながら、家まで送るのも志間の役割。そういう日は決まって夕食も一緒に過ごした。懐かしい記憶が、断片的な景色が、ぽつぽつと浮かび上がる。
きらきら光る頭と耳元、足首のアクセサリー。すっかり変わった外見で、けれど全く変わらないえくぼを見せながら、嵯上は立ち上がって志間の腕を引く。

「ほら決まり!帰ろ。うちの場所覚えてるでしょ?」

思考力の鈍った頭は誘われるがままに頷いてしまう。

「ちょ、ちょっと待て。荷物がな、」

パソコンを閉じる。書類を掴む。

「車だよね?ラッキー、俺今日荷物多くて」
「お前、車で帰りたいだけだろ」
「あはは」

笑いながら廊下を歩く、光る背中を追いかける。
懐かしい玄関にあいさつをする、少し前の話。

なおしてきなさい:END

指定席東へ車窓から

窓の外を見ると、どうやら雲行きがあやしい。
傘があったかと考えて、折り畳みを持ってきていたことを思い出す。キャリーケースから出した記憶はないから、きっとどこかに紛れて入っているのだろう。

一昨日、突然言い渡された関西への出張。超がつくほどのお得意先が、新商品の広告案を突然白紙に戻すと言い出したのだ。ラフからデザインまでほぼ決定していたうちとしては、何としてでも白紙化の撤廃に漕ぎ着けなくてはいけない。三橋一真は二時間の残業の後、大慌てで荷物を詰めた。
もっとも、男ひとりの一泊二日。たいした荷物なんてあるわけもなく、黒のイノベーターには替えのワイシャツと髭剃りと、思い付くものを適当に放り込んだ。取引書類だけは、一番最後、無意味に丁寧にそっと置いた。
そうして、三橋は翌朝地下鉄で東京駅に向かった。ラッシュ前の地下通路には、ぬるい空気が流れ込む。

果たして契約は、無事に成立した。
そもそも白紙化というのも、社長が新しい広告代理店を探してコンタクトを取っているという噂がまことしやかに囁かれたからであり、つまるところ単なる思いつきであった。それを、三橋の勤めるビオ広告が過剰反応しただけ。権力者の気まぐれで西へ東へ奔走させられる一兵卒の身にもなって欲しい。

望まれている報告を出せる安堵感とともに取引先を後にする。地下鉄に乗り込んですぐ、スマートフォンの充電器を忘れたことに気がついて、モバイルバッテリーを求めて駅のコンビニに立ち寄った。
経費だからとささやかな思い切りで指定席を取った三橋は、発車時間のギリギリに新幹線に乗り込んだ。三橋は新幹線や飛行機といった、頑丈な座席が詰まった乗り物がどうも苦手で、なんとなく腰が重かったのだ。満員電車で通勤しているのだから、圧迫感や人の体温には慣れているはずなのだが。
向かいから歩いてくる大荷物の旅行客に、通路を譲ってすれ違う。スミマセン、と会釈の三連続。いえいえ、と三橋も顎を引いた。

思うに、微妙な等間隔はエンリョというものを生み出すのだろう。それも、この空間だけに通じる、特殊で過敏な遠慮だ。だってそうだろう、普通に道ですれ違って、こんな風にペコペコお辞儀の応酬が見られるか?そんな世の中なら、殺伐とした満員電車は存在しない。
過敏な遠慮が生まれるということは、常に緊張を強いられるということだ。三橋はとりわけ、この緊張が嫌いで。したがって、極力滞在時間を減らそうと、地味で微かな抵抗をしているのだった。

座席は12列のCだった。指定は窓側から埋まっていくが、通路側が好きな三橋にとってはありがたいことだった。
A席とB席には、既に先客が座っていた。
窓側に座るのはヤンキー風な少年。ブリーチを繰り返したような明るい髪を、パーカーのフードから覗かせて眠っている。
真ん中には、自分と同い年くらいの男がいた。青年と呼べるほど瑞々しくはなく、中年と呼ぶには若すぎる、ラベルを持たない成人男性の世代。疲れたような横顔に、三橋は親近感さえ覚えた。彼は前座席の背中にあるラックから、土産物情報誌や車内販売の案内を抜き取って、さして興味もなさそうに眺めている。
発車のアナウンスが流れた。行先と停車駅の確認、自由席の案内を聞いて、三橋は腰をおろす。キャリーケースを膝と前座席で挟むように置き、売店で買ったお茶で喉を潤した。

新幹線は、空気抵抗を減らしたそのなめらかな車体の計算通り、揺れもせずにゆったりと滑り出した。四角く縁取られた景色は、矢のように後ろに流れていく。
発車から数分。横の男は早くも飽きてきたようで、情報誌をラックに戻して無遠慮にあくびをした。

一体この男は、普段何をしている人なんだろうと、三橋は考える。

平日の夕方に乗っているわりには、観光帰りの雰囲気ではない。かといって自分のような、仕事帰りの雰囲気とはますます違う。第一服装がとんちんかんなのだ。モスグリーンのチノパンに、上はくたびれたジャージで、さっきまで羽織っていたらしいコートは荷台に丸めて放られていた。
実家が関西にあるとか。なんとなく、バックパッカーの雰囲気がないこともない。いや、そんな生命力はないか。
奥の少年も謎である。友達同士で旅行に行くような年代だろうが、周囲にそれらしき連れはいない。独り旅行か、あるいは直前の指定で友人と座席が離れたか……。ああ、遠距離の彼女に会いにいくとか、そういう可能性もあるのかもしれない。

そこまで考えたところで、カーブで車体が大きく傾き、キャリーケースが通路に流れてしまった。三橋ははっとして取っ手を掴む。
元の位置に収めると同時に、さっきまでの妄想を頭から振り払った。人の素性をあれこれ勝手に想像してしまうのは、三橋の悪い癖だった。つまり、それほどまでに暇だったということなのだが。
通路側に動くことがないように、三橋は左足をストッパーにした。大学時代に買ったキャリーはさすがのイノベーターで、わりとぞんざいな扱いでも目立った傷はない。機内持ち込みのできるサイズであり、これひとつで海外旅行に行ったこともあった。ファスナーのロックが鈍くなっているからそろそろ引退時なのかもしれないが、愛着もあってしばらくは手放せそうにない。

新幹線は、あと二時間で東京に着く。
流線形になだらかな車体は京都を通り、そうしてまた進んでいた。
三橋は凝り固まった肩を回し、シートのリクライニングを倒した。持て余した時間は寝るに限る。
明日のゴミはプラスチックだったか。そういえば、コンポの電源を入れっぱなしだった気がする。昨日は雨だったらしいから、自転車を雨ざらしにしてしまったなあ。
目を閉じて、部屋の中の様子をぼんやりと回想する。冷蔵庫の中身を思い出して、緩やかに眠りに落ちていった。

肩を揺すられて目を覚ます。
あれ、もう着いたのか。いやまさか。車体はまだ走行中だ。意識が浮かんでくるにはもう少し時間が必要だった。思いの外熟睡していたらしい。

「お休みのところすみません」

そう謝るのは、B席の男だった。どうやら自分を揺すり起こしたのは彼らしい。ちぐはぐで気だるそうな格好に反して、まともに落ち着いた言葉だった。腰を浮かせた様子にピンとくる。

「ああ、いえ。あっ、前通りますか」
「はい。あ、こっちが」

そう言いながら体をずらし、奥の少年が立ち上がる。なるほど、一番奥の彼が抜けたいのだろう。電話か、トイレか。
三橋は「ちょっと待ってくださいね」と立ち上がり、キャリーを片手で固定しながら座席を空けた。次いでC席の男が抜けて、ようやくA席の少年が通路に出た。ぺこりと頭を下げてデッキに向かっていく。
着崩していて気づかなかったが、少年は制服姿だった。耳にはピアスが光り、きっとあらゆる校則を素通りしているはずだが、校章入りのジャケットにスラックスといった出で立ちは間違いなく制服と呼べる代物だろう。

戻ってくるまで立っているのもおかしいので、男が座席に戻るのに従って三橋も元のシートに腰を沈めた。微妙な緊張(実際はそんなものはなくて、勝手に感じているだけなのだろう)から、なんとなく気まずくなって、三橋はイヤホンを耳に突っ込んだ。iPodからは一昔前の邦ロックが流れ出す。
少年がA席に戻ってきたのは、三曲めの途中だった。

再び肩を揺すられて、呼び掛けられて、自分がうたた寝していたことに気がつく。耳元ではちょうど、お気に入りの8ビートが夢を歌っていた。片耳だけ抜いて、三橋は横を向く。真ん中B席の男の顔を、もうすっかり覚えてしまった。

「はい」
「すみません何度も。また前良いですか」
「はい、はい」

今度も抜けるのは奥の学生だった。
さっきは気が付かなかったが、この二人は連れらしい。男は「ほら行ってこい」と少年の背を叩いたし、少年は「分かってるよ」とそれを払った。その気安さから、二人は兄弟だろうか?なんて、また想像を広げてしまう。
彼が戻ってきたのはそれから十分後だったのだが、丸めた背中と引けた腰に、三橋は直感した。気の毒に、腹を下してしまったのかもしれない。席に座った少年はしんどそうに腹を擦っている。
一度言葉を交わしてしまうと、すぐに音楽に戻るのも感じが悪い気がして、三橋は両耳からイヤホンを外した。ろくに巻き取りもせずポケットに突っ込む。絡まると面倒なのに、いつも適当にまとめてしまう。
隣二席では、抑えた声でぼそぼそと会話が続いていた。

「おい嵯上。治まんねえか」
「…………薬も効かないし……さいっあく……」
「まったく、お前、腹でも出して寝てたんじゃねぇだろうな」
「出してない!」
「わーったから。ほら、これ掛けとけ」

名字で呼んでいるところを見ると、どうやら二人は兄弟ではないらしい。素性を詮索する癖は昔からで、いつもは結構良い線を突くのだが、今日はことごとく想像が外れている。
B席の男は、嵯上という少年にコートを被せてやる。ぞんざいな口調とは裏腹な優しさに、二人の距離の近さが垣間見える。
嵯上はシートに体重を預けて横を向く。今時の若者らしい、薄い背中がこちらを向いた。彼は靴を脱ぎ、シートの上で体育座りになっていた。
気になって横目で様子を窺うと、膝掛けになったコートの下、嵯上の手が何往復も行き来しているのが分かった。かなり、辛そうだ。かわいそうになあ、と、他人事の気安さで同情してしまう。
男は彼を相当案じているようだった。背もたれには一ミリも触れていない。
新幹線は東へと上っていく。

それからまた十分くらいして、三橋は退屈さから船を漕いでいたのだが、隣の座席が動くのがわかった。見ようとしなくとも視界に映る、それくらいの間隔だ。

「……せん、せ」

窓枠に額を押し付けるように丸まっていた嵯上が体を起こし、真ん中の男の袖を引く。何よりも先に、その呼称に耳を疑う。野次馬精神といったらそれまでだが、だって仕方
ないだろう。聞こうとしなくても、耳に入ってくるのだから。横でこんな風に話が進んだら、関心を持つなと言われる方が難しい。

(せ、先生?!この男、教員?)

とすれば、嵯上少年は男の教え子ということになる。先生と生徒、二人で新幹線に乗る状況にはなかなか思い当たらない。
それに三橋の周りには、こんな風にぞんざいな物言いをする「先生」はいなかった。先生というより兄貴と呼ばれた方が違和感のない、そんな雰囲気がある。

——なんだか今日は本当に、予想が外れてばかりだ。

押し殺した声から、彼の訴えるものが何かは想像に易かった。
ああ、これはまた退いた方がいいだろうな。でも自分から「どきましょうか」なんて割り込む度胸というか、勇気というか。あと一息が三橋には難しい境界線だった。
都会の人は冷たいなんて言われるけれど、他人に踏み込むハードルの高さがなすものだと、三橋は思う。人間の本質なんて本当は大差なくて、環境が壁を高く高く積み上げるのだ、きっと。
先生と呼ばれた男は三橋の方を振り返り、申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「どうもすみません、」
「はい、いえ」

三橋はいそいそと席を立った。近くの座席から、何事かと視線が飛んでくるのを感じる。
前の座席に掴まり、揺れる車体に足元をふらつかせながら、嵯上はもう一度通路に出た。一回りも二回りも大きな、先生のコートを肩に引っかけて、丸まった背中が離れていく。先生も付いていってやりたいだろうに、荷物を残しては出られないのだろう。

「…………席、変わりましょうか」

座席に戻ったタイミングで、三橋は男に話しかけた。
えっという顔で目が開かれた後、「よろしいでしょうか。申し訳ない」男は膝に手を乗せ頭を下げた。その言葉の抑揚とか、細かな動きはなるほど先生といった印象で。そういえばこういう先生もいたかもなあ、なんて、遠い高校時代を思い出す。

かくして三連席は入れ替わり、A席に三橋、通路側C席に嵯上少年、真ん中は変わらずに先生が座る運びとなった。浮かない表情で戻ってきた少年が驚きの色を見せたのも当然のことだった。彼が顔をあげたので初めて視線が合ったのだが、小さな顔にくっきりとした二重瞼の、まさに今時の若者らしい風貌が推測できた。推測というのは、今その顔色は真っ白で決して健康的なものではなく、双眸はしんどそうに眇められているためである。

ため息に近い投げやりな息遣いが、窓側まで聞こえてきた。
車体が揺れて、ぐったりと体重を預けていた少年の頭がガクンとシートから外れる。先生はその肩を引き寄せて、自分の方に凭れさせた。ぐいっと引かれた嵯上少年は、先生の肩に頭を押し付けるようにして寄り掛かった。

終点まで、あと一時間。
一度言葉を交わしただけなのに、どうにも気になって仕方がない。
一向に回復しない嵯上少年の容態が気がかりだった。
座りが悪そうに何度も体勢を変えて、さっきまでは背面テーブルに突っ伏していた。眠っているのかと思うほど静かだったが、数分前むくりと顔を上げ、何も言わずにフラフラと出ていってしまった。
薄い背中を見送った先生が大きく伸びをして、その肘が少しぶつかって。スミマセンと 目を合わせたのを契機に、三橋は話しかけた。

「あの、彼、大丈夫ですか。ずいぶん辛そうですね」
「いやあ、かわいそうですが参ったもんです。すみません落ち着かなくて」
「いえ、それは全然、気にしないでください」

先生は浅く頭を下げて、突然あっと声を上げた。至近距離の、存外に良く通る声に面食らってしまう。広い会議室でも、マイクなしで十分通用する声だ。

「申し遅れました。私、志間といいます。高校の教員をしていまして、こいつは嵯上です」

こいつ、と言いながら隣の空席を叩く。三橋も慌てて居住まいを正した。

「こちらこそご挨拶もせずに。不躾にすみません。三橋一真と申します。会社員をしております」

名前のつかないお辞儀をしあって、暫しの沈黙。

「ということは、彼は志間先生の教え子?」三橋は興味本位で聞いてみた。
「まあ、一応、そういうことになりますね」
「ずいぶん仲が良さそうだったんで、兄弟かと思っていたんですよ。盗み聞きしていたみたいで、何だかすみません」
「あー、いやあ、そうですよねえ。いえ実は、あいつのことは、あいつがチビの時から知っていて。昔近所に住んでいたことがあって、家族ぐるみで付き合ってたんですよ」
「はあはあ、なるほど。そういう訳だったんですねえ」
「一昨日から修学旅行だったんですが、あのアホは昨日からあの調子で。気の毒ですが、先に帰すことになったんです。外来にも行ったんですが、まあ抗生物質が出るくらいですよね。まったく、バカは風邪もひかないくせに、気の毒だ」

バカだのアホだのずいぶんな物言いに、そうですねえと頷くわけには勿論いかず、三橋は曖昧に笑って返した。

「かわいそうに」

それでも思わず同情の言葉がこぼれ、志間は眉間に皺を寄せて頷いた。「先生」の顔をしてちらちらとデッキを気にしている。手洗いが混んでいるのか、それともまだ出てこれる状態まで落ち着かないのか、嵯上少年はなかなか戻ってこない。何度か扉が開いたが、すべて席を探す乗客だった。
新幹線は新横浜を通過した。

「おっ」と志間が声をあげ、嵯上少年がいつの間にか座席の隣に立っていた。家族連れに紛れて戻ってきたので、気が付かなかったのだ。
「吐いた」

よろけながら座った嵯上は、開口一番そう言った。語尾が微かに揺れて消える。明るい髪色が俯いて鼻をすすった。
志間はそうかと一言答えて、それきり言葉が続かない。どういう対応をするのが最善か、きっと考えを巡らせているのかもしれない。
大袈裟に心配するのも、かえって不安にさせてしまうし。大丈夫かと問われれば、大丈夫と頷くに決まってる。途中で降りても帰宅が遅くなるだけだ。ツアー券だとしたら、途中下車も難しいだろう。

「まだ気分悪ぃか。腹はどうだ」
「…………わかんない、」
「また吐きそうになったら言え。袋くらい持ってるから」
「も、やだ、せんせえ、疲れたぁ……」
「分かった、分かった。もう少し頑張れ。できるか」

弱音をぽつぽつ落とす様子が、まるで駄々をこねる子供みたいで。二人はきっと、ずっと前からこの関係なのだろう。それこそ、チビだったという小さな頃から。嵯上少年は甘えかたを知っていたし、志間もよく心得ていた。
三橋はこういう繋がりを知っている。
またあれこれと妄想してしまいそうになって、三橋ははっとしてブレーキをかけた。こんな風に思考が拡散してしまうのは、当事者ではないからだ。

『まもなく、終点、東京です——』

アナウンスが聞こえて、三橋と志間は同時に顔を上げた。
二人で顔を見合わせ、ほっと胸を撫で下ろす。少し前から俯く嵯上の顔色が目に見えて真っ青で、もたないかもしれないとヒヤヒヤしていたのだ。二人の間には奇妙な連帯感が生まれていた。
永遠に停まらないんじゃないかとさえ思えた新幹線はようやく終点に到着し、動き出しと同じくゆるやかに停車した。 志間は伏せる嵯上の腕を引く。

「ほら、着いたぞ。よくがんばった。もう少し頑張れるか」
「志間先生、荷物持ちますよ。生徒さんのも」
「いいんですか」
「どうせ、帰るだけですから。気にしないでください」
「申し訳ない。助かります。……おい立てるか」

問いかけに、嵯上少年は顎を引いて頷いた。
近くの乗客もさすがに状況を察していたらしく、どうぞと先を譲られた。無言の親切と、同情と心配の半々になった視線に頭を下げながら、三人連なって新幹線を降りる。冷えた外の空気が懐かしく思えるほど、長い時間だった。彼らにとってはもっとだろう。対照的な二つの背中を追いながら、三人ぶんの荷物を運ぶ。

「ご、めん、待って……」

改札を抜け、乗り場の階段を降りたとき、嵯上少年がそう言って立ち止まった。えっと振り向く志間の腕を掴んだまま、彼はその場にしゃがみ込んだ。

「おい、どうした。しんどいか」

電車を降りてから、わりとしっかりとした足取りだと思っていたのに、突然動けなくなった嵯上にぞっとした。両手で覆って表情が見えないのも、また怖い。志間の声も焦っていた。三橋も思わず「大丈夫ですか」声をかけた。

「や、……ちょっと、目が、……待って、」

くぐもった声で、目が回るのだと告げる。
そういえば、彼はあんなに吐き下していたのに、水分を取っていただろうか。恐らくもどってくるのが怖くて、少しも取っていなかったのではないか。脱水か、貧血か。気にしてやれればよかったと、もはや他人事ではなくなった距離感で後悔する。
幸い広告柱の前だったので、柱に荷物を寄せて脇に立った。志間は蹲る嵯上を隠すように、一歩ずれる。

「……志間先生、志間先生」三橋は呼びかけた。
「はい?」
「ここからどのように帰られるんですか」
「うーん……タクシー捕まえますよ。うちの方が近いんで、俺……いえ、私の家に一旦……」

こんなに具合の悪そうな生徒を連れて、これからさらに動くことなんてできるのか。そもそも、嵯上がこれ以上の電車移動に耐えられるとは思えない。そう思って尋ねたのだが、志間は突然あっと声をあげて話を止めた。ポケットからスマートフォンを取り出して、「しまった」という顔。

「ど、どうしましたか」
「職場から着信が。しかも4件」

志間は画面を睨み、足元の嵯上に視線を落とし、最後に三橋をちらりと見て、難しい顔で画面に戻った。
三橋は胸ポケットから名刺を抜き取った。

「彼、僕が見てますんで、電話してきてください。これ、僕の名刺です」
「えっ。そんな、いいんですか、ご迷惑をおかけして」
「大丈夫ですよ。荷物も見てますんで」
「申し訳ない。そしたら少し、電話出てきます。こいつの親と、あと学年主任にも連絡してきますんで」

そう言いながら、志間はスマホを耳に当てつつ離れていく。邪魔にならないような通路の壁沿い、駅弁屋の隣で話している様子が窺える。荷物を靴の指先ですこしいじって、爪先を見た。昨夜磨いた革靴は、もうずいぶんくたびれて見えた。

学生の時は、行き交う大人の履いている革靴がやけにかっこよく見えた。大人の世界の通行証のようにも思えていた。これを履けば、自分もかっこよく働く大人になって、颯爽と街を歩けるのだと。
実際には、スーツも靴もワイシャツも、自分にとってはただの入れ物で。三橋はもう学生靴を履いていない。ただそれだけ。これもまた、想像をあっさりと裏切っていた。

俯く嵯上少年のうなじが学生服から伸びている。
丸まった背中。線の細い、無駄のない肉付き。

「…………」
「……君っ、大丈夫?」

その肩が微かに跳ねた気がして、三橋は腰を屈めた。少し迷って背中を擦りながら、横顔を覗き込む。頬が膨らみ、必死で口元を押さえていた。床にくっついてしまいそうなほどに背中が丸まっていくので、三橋は膝をつき慌てて鞄を開く。何か、袋。何か。

「……う、……うぇ、…………ぅぅ」
「君、これっ」

コンビニでバッテリーを買ったときのビニール袋が、無造作に内ポケットに突っ込まれていた。三橋がそれを広げると、嵯上は奪うように掴みとる。手の甲に爪がかする。前髪の隙間から、涙の絡んだ睫毛が見えた。

「オエッ、っう、………ぐ、」

空えずきを幾度か繰り返してようやく、水気の足りない粘性の塊がバタバタとビニールに落とされる。重みが袋の内側から透けた。何か、何か飲ませた方がいい。彼は飲み物を持っていないのだろうか。三橋の鞄にはホテルで買ったミネラルウォーターが入っていたが、口が開いているので突然ためらった。 

吐いている。

喉の奥から押し出される淡黄色。

自然にあり得ないその有り様に、胃の辺りがぐっと重くなる。
手を震わせ苦しげに喉を締める嵯上を見て、三橋は成す術なく固まっていた。雑踏が素通りしていく。ヒールの爪先が、革靴の光が、泳ぐようにすれ違う。

「嵯上!」

三橋が声をかけるのも忘れて呆然としていると、電話を終えた志間が駆け寄ってきた。

「三橋さんすみません。お待たせしました。……おい嵯上、おい」

嵯上、嵯上と呼び掛けながら、志間は手提げ鞄からペットボトルを抜き取った。麦茶のロゴラベルが見える。

「飲みかけだが我慢して飲め。そんで吐いて、口ゆすげ」
「うぇ、気持ちわりぃ、」
「だから水飲めって言ってんだろ」
「……んん」

嵯上の口調は掠れつつもはっきりと聞き取れて、そのことに三橋は安堵した。通りすがりの男性が立ち止まり、「駅の人呼びましょうか」と声をかけてきた。嵯上が首を横に振ったので、志間は丁寧にお礼を述べて断った。男は会釈して立ち去り、志間も頭を下げる。そのまま、志間は「三橋さん」と顔を向けた。

「本当に申し訳ないんですが、売店か自販機で水と、ジュースか何か買ってきてくれませんか。冷たいやつ。こいつに。」
「はっ、はい。ええと、スポーツドリンクとかの方がいいですかね」
「ああ、そうですね。お願いします」
「はい」

立ち上がろうとして、膝がすこし、震えていた。
志間が一瞬、怪訝な顔をする。
その視線から隠れたくて、足早に売店を目指した。

***

兄のように思えた先生。そういえば、こういう先生もいた。

高校二年生の五月、三橋のクラスに教育実習にやってきた大学生がいた。
その人は浪人と留学をしていたとかで、二十五歳の教育実習生というイレギュラーなイベントはたちまち話題となった。当時の自分にとって、その人はすごく大人に見えて。すごく大きくて。憧れとも妬みとも、あるいは劣等感とも呼べる苦い感情を持て余し、三橋はみんなが囲むその人にひとり距離を取っていた。

実習期間中、圏外のエネルギー施設を見学する課外研修があった。道中は大型バスには向かない悪路で、運転手の運転の粗さもあり、大勢が乗り物酔いを訴えた。三橋は乗り物には強く、少しも酔った感覚はなかったが、別の理由で冷や汗が止まらなかった。

人が吐いている姿を見るのが、ものすごく怖かったのだ。

担任の申し出により、予定になかったサービスエリアに立ち寄ることになった。飲み物やお菓子を買いに行く人、気分転換に外の空気を吸いにいく人、トイレに駆け込む人。目的は異なれど皆バスの一時停車に安堵していた。

三橋の隣に座る同級生は、バスに乗ってすぐ体調を崩していたのだが、何人かに心配されながら車を降りたその場で大きく体を折った。白いラインの引かれたアスファルトに、胃からせりあがってきた未消化の内容物がドバっと広がる。低い呻きとともに口から溢れるその中身が目に飛び込んだ瞬間、三橋の全身に鳥肌が立った。
彼を心配する「大丈夫」の問いかけを背に、気の利いた言葉をかけることもなく、三橋はその場を離れていた。

逃げるように向かった喫煙所近くのベンチに腰を下し、両手で口元を押さえる。
深い深い呼吸をして、激しい動悸を何とか落ち着かせようと、きつく目を閉じた。
震えは少しも治まらなくて、あまつさえ腹の底、喉の奥に不穏な違和感までくすぶり始め、三橋は俄かに焦りに包まれた。

どうしよう。どうしよう。

袋もない。

立ち上がれない。

五件目のどうしようが頭を巡った時、肩にポンと手が置かれた。どきりとして顔を上げると、あの教育実習生がいた。よいしょ、と呟いて体が動き、ベンチが軋む。

「三橋くんだっけ。大丈夫?」

教育実習生——仁見和彦は、そう言いながら三橋の顔を覗き込んだ。
仁見自身も、顔色を青くしながら。

「酔った?それとも、もらっちゃった?実は、オレ、乗り物全般ダメでさあ。ひどい道だったね、今の」

宥めるように背中を擦られ、諭されている気分になってくる。そして、仁見の穏やかな口調に、張り巡らされていた緊張が一度に解けた。

「……俺、昔から、誰かが吐いてるの見んの怖くて。さっきのバス、気が気じゃなかった。……おかしくなるかと思いました」
「そっかそっか。おんなじだ。オレも、誰も吐くんじゃねえぞって思ってたもんな」

しばらく一緒に座ってようか。そう誘われて、吐き気も鳥肌も恐怖も全て、膜に覆われて小さくなっていくような、そんな気がした。

***

売店で水とスポーツドリンク、それから志間にとカフェオレを買い、三橋は人混みの中ふたたび広告柱のもとへ戻った。
嵯上の体調は、顔を上げられるくらいには回復していて、血の気の引いた顔でペットボトルを受け取った。膝に顔を埋めるようにお辞儀をする。いえいえ、と三橋は返した。

お役御免だと感じたので、またそれはおそらく事実であり、三橋は帰路につくことにした。彼ら二人がどうやって帰るのかはわからない。
丁寧にお礼を繰り返し、志間は何度も頭を下げた。ずっと黙っていた嵯上も立ち上がってお辞儀をしようとしたので、志間と二人で同時に制する。叱られた小さな子供みたいな表情で大人二人を見上げる嵯上に、三橋は思わず笑ってしまう。
お大事にしてくださいと言い残して、三橋は14番ホームへ足を動かした。愛用のイノベーターはカラカラと滑らかについてくる。

電車に揺られること十五分。住宅地を歩くこと十分。三橋は自宅の賃貸マンションに戻り着いた。エレベータ―に乗り込み、三階へ。三〇三号室には明かりがついていた。鍵を差し込んで百八十度回転させる。施錠音に気が付いたのか、中から足音が聞こえた。

「おかえり、三橋」

もう見慣れた穏やかな笑い皺。

「ただいま、センセイ」

ジャケットを脱ぎ、鞄を下しながらそう言うと、奇妙なものでも見るように視線が眇められた。「何、急に」と、ふたつの目が疑問を投げかけてくる。

「……なんか顔色悪いね。酔っ払いのゲロでも見た?」
「別に、そんなことはないでしょ。ただ疲れただけ。仁見センセイ、帰ってたんだね」
「うん。昼の飛行機で。まだ時差ボケしてるよ。……それで何、先生って。何かあったの」
「なんとなく、そう呼びたくなっただけ。おかえり、お疲れ様」
「そう呼ばれると、なんだか懐かしい気がするね。三橋も出張お疲れ」
「……うん。そうだね」

東京行き新幹線、指定席十二列。
隣に座った二人のことを少しだけ、頭の端のほうで思い出しながら、長い出張が終った。

指定席東へ車窓から:END

研修車窓の帰り道

「仁見和彦っていいます。よろしくお願いします」

そう挨拶した瞬間を、下げられた頭のつむじを、俺は今でもはっきりと覚えている。
青空、快晴、クリーム色のカーテン。

五月。例年より少し早い時期の実習生の登場に、教室の温度はふわりと上がった。
大学の附属校であったため、実習生の受け入れには慣れている。というか、若干のマンネリすら感じるくらいの日常だった。短い期間とはいえ、それほど年の離れていない大学生が教鞭を執ることに抵抗を抱くクラスメイトだっていた。「またか」と作業のように流されてしまいそうな空気の中、仁見は自己紹介をはじめる。

「オレの担当する授業は英語になります。去年まで二年間、カナダに行っていたので、年はいつもの実習生より少し上になるかな。教科以外では、このクラスに入れてもらうことになりました。二週間、よろしくお願いします」

簡潔にのんびりと話して、今度は十五度のお辞儀。地毛らしい、色素の薄い髪の毛が頭の動きに合わせて揺れる。今回の実習生は、これまで来た学生とはまるきり違っていた。少なくとも、俺にとっては。
肩の力が抜けた、飄々とした口調と立ち振舞い。それに加えて柔らかな外見はたちまち女子生徒の注目を呼び、休み時間には担当外のクラスからも華やかな学生服が顔を見せるほどの賑わいとなった。

「先生、二年も留学してたってホント?」
「嘘ついてどうするの。本当だよ」
「じゃあ……えーと、先生、いくつなのー?」
「大学入る前、実は一年浪人してるからね。今二十五歳」

話し声は自然に耳に入ってくる。隣ではいくつもの問いかけが飛び交っていた。
脳みそがその往来の多くをいらない情報だと切り捨てられる中、二十五歳と答えた仁見先生の声だけが、いつまでも残って離れない。

二十五歳。

三十歳四十歳だと途方もなく、かといっていつも実習にくるような、自分と一、二歳しか変わらないような近さではない。
年齢の感覚はものすごく近眼で、近付くほど刻まれて遠ざかるほど粗くなる。
早く大人になりたくて、いつまでも子供でいたくて。少し先の未来が永遠に感じて、それでいて、いつの間にか巡る一週間。酸素はじゅうぶんにある。自由に動ける余白も。なのに時々息苦しくて、いつだって窮屈な毎日を、何でもないふりをしてやり過ごすのだ。
二十五歳というステージは、そんな不確かな十七歳の線上に飛び込んできた異分子だった。現実感をもってピントが結ばれる。
笑い声を上げた仁見先生の足が、俺の机にぶつかった。あっと声が出る。赤色のボールペンがカラカラと床に転がった。

「ごめん、ごめん。はい」

自分で手を伸ばすより早く、仁見先生はそれを拾い上げる。屈んで伸びた長い腕は、それだけでスマートに見えた。

「えーと、君は、」仁見の視線がぶつかった。
「三橋です」簡単に答えて目を逸らす。
「三橋君ね。よろしく。オレね、仁見和彦」
「……この前聞きました」
「あは、そうだよねぇ」

屈託なく笑うその人からペンを受け取る。ありがとうございますと一言言おうとして、なぜか言葉が詰まって、ガラリと空いたドアの音に遮られた。

「おーい、いつまで騒いでるんだ。予礼鳴っただろう。仁見先生も、実習中という自覚を持ってください」
「あっ、はい!すみません。戻ります」

教壇に立ったのは物理担当の江幡だった。

「えー残念」「先生またねぇ」

名残惜しそうな笑い声に見送られて、仁見先生は去っていった。江幡に会釈することも忘れない。頭を下げられた江幡はわざとらしくため息をついて、早く出ろと顎をしゃくった。
江幡は四月に赴任してきたばかりの教員で、確か仁見先生と同じ年か、ひとつ上。学生時代はサッカーをしていたという健康的に焼けた肌と、気さくな人柄。親しみ安い若々しさで生徒からの人気も高く―要するに少し、格好良かった。
それがものの一ヶ月で話題を奪われ、しかも実習に来た学生が自分と変わらない年だというのは、それはそれはやり辛いのだろう。時折見下したような話ぶりになる所には気付いていたし、人当たりの良い顔の裏、そびえ立つプライドを飼い慣らしているのかも――

「じゃあ、日直!三橋……えーと、三橋一真。号令」

名前を呼ばれて、走りかけていた思考は一時停止。他人のことをあれこれ詮索してしまうのは、俺の悪いくせだった。時々とんでもない方向に暴走してしまうから、もしかしたら妄想癖でも拗らせているのかもしれない。
俺は型通りの挨拶を揃え、大嫌いな物理の教科書を開いた。 

二週間は長いようであっという間で、仁見先生の実習期間は残すところ後二日となった。

今日は三限から、昼を跨いで県境のエネルギー施設に向かっていた。エネルギー研修という名目で、年に数回ある課外活動のひとつだ。山間部の広大な土地を生かした大規模なグリーンエネルギー機関で、そこで生まれた電力を利用した植物プラントが併設されている。
プラントは工場と言うより近未来的なラボラトリーに見え、白く直線的な空間は、例えば病院を彷彿とさせた。あるいは良く似た、それでいて大きく異なる親しい空間を、ずっと前から知っている。
瑞々しい若葉が人工的なLEDの光を浴びて薬品のように整列している。俺たちは横並びになって、分厚いガラス越しにそれを眺める。 どこまでもどこまでも清潔な空間だった。

昼食は施設内の社食で済ませる行程となり、学生たちにはプラントで栽培されたというイチゴが配られた。色も形もよく知るイチゴだ。トレーに並んだ赤い果物を、三橋はじっと見つめた。

「三橋、イチゴ嫌いだっけ」
「いや、めっちゃ好き」

「食べないのか」と問われて、俺はようやく一粒つまんでみた。眉をあげ不思議そうな顔で首をかしげるのは友人の遠見だ。弓道部のエースで、道着映えするしなやかな手足と身のこなしは学年を越えて有名だった。

後から考えればなぜあんなに躊躇っていたのか分からないが、そのときは何となく、怖いと思っていた。きっと、未知を恐れていたんだと思う。事実、味もよく知る普通のイチゴだった。土と太陽と、自然の水で育ったそれと、凡人には到底区別もつかない。
仁見先生は相変わらず大人気で、大勢の笑顔の中心でにこにこと座っていた。
眠たい午後を迎え、三橋達はぞろぞろと施設内を移動した。一般公開部分から中央の管理部へ、staff onlyと書かれた無機質な扉を押す。管理室では意外にも全員私服社員で(研究所のイメージで、白衣を想像していたのだ)、発電量や電力供給量がモニターでリアルタイムに追われていた。お行儀よく館内を一周し、最初の植物プラントに戻る。広報担当だという案内役の女性にお礼を言って全行程は終了した。
時計を見ると、時刻は午後三時半過ぎ。帰りのバスが停まっている駐車場に向かう途中、たくさんのため息が聞こえてきた。もちろん、俺も大きく重たい息を吐く。

「早く帰りてえけど、あの道がな~」
「最悪だよね」
「ここの人毎日使ってんのかな。ヤバ」

県境、山奥の施設。

広い県道に出るためには、道幅も狭く急勾配の坂道を、延々下らなければいけなかった。辛うじて舗装はされているものの、まばらな工事で一見して分かるほどにつぎはぎの道。古いアスファルトは白っぽく、新しく修繕されたところは黒っぽく。山を周回するようにぐるぐると曲がりくねるその道は、悪路と呼ぶに相応しいものだった。
行きの道では何人もの生徒が車酔いを訴え、こっちもヤバイあっちも吐きそうと車内はちょっとしたパニックになった。誰一人としてエチケット袋を使うような事態に陥らなかったのは幸いだったが、帰路も同じ道のりを辿るのだと思うと気が重くなる。

「酔いやすいやつは前座れー。酔ったら俺か仁見先生に言うように」
「はやめにね~」

バスの乗降口を背に担任と仁見先生が声を張る。仁見先生の方は手に持ったクリアファイルをフラッグのようにひらひらさせて、遅れている生徒たちの目印にした。副担任は最後尾につく。仁見先生を先頭に生徒たちは続々と車内に乗り込んで、最後に副担任、担任と続いた。生徒が揃っているか目視でざっと確認し、欠員はなく、担任は運転手に「お願いします」と告げた。畳まれていた乗車扉が開いて閉じる。

俺はちょうど真ん中辺りの座席で、隣には遠見が座った。遠見は「よっ」と右手を上げて、通路側に腰を下ろした。俺も同じように返して、すこしだけ身を避ける。空いてるから座って良いよ、と示すためだ。彼は荷台を見上げて少し迷って、荷物は結局足元に置かれた。プリントと筆箱、それから携帯電話しか入っていないようなぺらぺらのリュックだ。もちろん俺のカバンも似たようなもの。

窓の景色はゆっくりと流れ出した。大型バスはクジラの回遊みたいにぐるりと大回りして、駐車場出口から山道へ出る。雑談や笑い声で車内はたちどころに賑やかになった。

動き出してしばらくして、下り坂へさしかかってすぐのこと。
目を閉じて眠る体勢に入っていた遠見が背もたれから背中を離して、俺の肩を叩いた。

「うわ!びっくりした。寝てると思ってた」

窓の外をぼんやり眺めていた俺は驚いて振り返る。遠見はごめんごめんと両手を合わせながら困り笑顔で、「あのさぁ」と言いにくそうに口ごもる。

「何?どうした」
「ごめん、俺、ちょっと酔いそう。そっち代わってほしい」

そっち、と指先で窓を指す。窓側を代わってほしいという意味だと考えて間違いないようだ。よく見れば微かに青ざめた顔色が隣にあって、俺は自分の頬が強ばるのを感じていた。

「いいよ。大丈夫かよ」
「ごめんなぁ」
「いいって」

腰を浮かせて、狭い隙間で入れ替わる。自分の体温ではない温もりの残った座席はなんとなく居心地が悪かったが、それ以上に嫌な予感が全身を駆け巡って抜け出せない。腕に、背中に、太ももに、鳥肌の波が寄せる。

――嘔吐恐怖。

暗いところが怖いとか、高いところが怖いとか。恐怖を喚起するスイッチは色々なところに存在していて、俺は昔から、誰かが吐いているところを見るのが——もっと言うなら、誰かの吐いたグロテスクに白みがかったモノを見るのが、すごく、すごく怖かった。

道も悪けりゃ、運転も悪い。急カーブでは体が持っていかれるほど豪快にハンドルを切り、停止のブレーキも前につんのめりそうになるほどの荒っぽさだ。あちこちで花咲いていた談笑は徐々に尻すぼみし、車内には穏やかでない空気が流れ始める。
何度目かわからない曲がり道で、足元のカバンが倒れた。それを直しながら横目で遠見の様子を窺う。遠見は窓に頭を預け、若干の前傾姿勢で目を泳がせていた。俺の視線に気がついて、取り繕うように無理やり笑顔を作る。

「はは……ほんとにヤベー」

ゾワッと全身が粟立って、嫌な予感に息が苦しくなる。俺は乗り物には強い。乗り慣れない人んちの車のにおいも平気だし、コーヒーカップをぐるぐる回しても大丈夫。こんな風に荒い運転と蛇行する山道でも、小さい頃から車酔いとは無縁だった。

「……俺も、やばいかも」

俺はそう返した。遠見の顔は見れなかった。

細く下っていく山道はようやくようやく開け、車体の揺れも秩序を取り戻してきた。大きな通りに出ればすぐに高速道路の入り口だ。その頃には車内の何人もが吐き気を訴え、予定にはないサービスエリアに寄ることが決まっていた。すぐに停車しなかったのは高速に乗ればものの数キロでサービスエリアがあることと、一般道を進んでも路駐以外に大型バスの停車スペースがないことを知っている運転手の判断だった。
遠見は少し前から、ビニール袋に向かって空えずきを繰り返していた。袋は担任から渡されたなんの変哲も無い半透明のレジ袋だ。遠見が縋るようにそれを握りしめているから、座席に黒いエチケット袋がついてるよ、とは言えなかった。

「遠見。無理しないで、吐いていいんだぞ」

担任は通路に立って、即ち、三橋の横から声をかける。
冗談じゃない!三橋はそう叫びそうになった。得体の知れない恐怖が爪先から這い上がる。遠見はクラスメイトだが、友人だが、それとこれとは全く別の次元なのだ。

「三橋も、大丈夫か。袋持っておくか」

次に案じられたのは三橋の体調だった。実際、湧き上がる恐怖心で三橋のコンディションは最悪だったし、顔色は蒼白で車酔いの一人だと判断されても何ら不思議はない。三橋は担任の問いかけに無言で首を振った。前座席の窓から流れ込む風圧で前髪が乱される。ゆるやかになっていくバスの速度を窓からの景色で知る。くぐもった呻き声と共に遠見の背中がびくりと跳ねる。怖いのに、見たくないのに、どうしても焦点を合わせてしまう。彼の頬が膨らんで、白い喉が上下した。バスが止まる。

「酔った奴から先に降りろー」

後方の座席まで届くように担任は声を張った。事実、この車内で誰よりも限界が近いのは遠見だったのだと思う。中腹に座っていた遠目は一番に座席を立った。体を折って今にも嘔吐しそうな体勢で、担任に引っ張られていく。その様子を目で追うクラスメイトが「ヤバくね」「大丈夫?」と当てもなく呟く。
次に続くのは三橋だった。視線に押されるようにして通路に出る。なんとなく、遠見のリュックも掴んでしまった。三橋の後にもバスを降りる面々が立ち上がり、通路はまばらな列となった。荷物を持っている都合から三橋は遠見の背中を探す。
目的は、すぐに果たされた。
遠見は乗車口のタラップを降りてすぐ、三歩ほど横に進んで、前屈みに足を止めていた。担任が小脇に手を入れるようにして遠見の上体を支える。見ている必要はないと直感した。見ない方がいいと分かった。後ろからぞろぞろと人が流れてくる。外の空気を吸いに、用を足しに、菓子を買おうという声も聞こえた。でも、足が動かない。

「オエ゛ッ」

動けないでいるうちに、遠見は大きくえずいて体を折った。担任の慌てた声。消化の曖昧な半液体がバシャリとアスファルトに打ち付けられる。意外にも足元はしっかりしていて、崩れることなくもう一度肩が跳ねる。あ、吐いた。と半分固まった頭が記号として理解する。
吐いたものが遠見自身のスニーカーに落ちて、担任の革靴を汚すところまで、コマ送りみたいに強烈に拾っていた。

「なに、誰?」「遠見?」「大丈夫?」

遠見を心配する言葉が次々に飛び交い、三橋の背中を飛び越えていった。それに逆行するように、クラスメイトを押しのけて、三橋はバスから離れた。どさりと手から離れた遠見の荷物も置き去りにして。

***

「う゛っ……うぇっ、……っ」

低く呻いた抱えた背中が波打った。膝立ちになって便座を抱える。垂れた髪の毛が邪魔そうで、三橋は後ろから耳にかけてやる。

「流すよ、仁見さん」

微かに振り向いた頭が頷く。やや長めの髪から覗いた顔色は真っ白に血の気が引いていた。きっと今の自分も同じ顔色なのだろうと思いながら、三橋は水洗ボタンを押した。ざあっと一気に水が流れて、ぐるぐる回って一旦リセット。仁見は腕を突っ張るように伸ばし、脱力して三橋の足に背中を預ける。何度か息を吸って吐き出して、乱れた呼吸を整える。

「……ごめんねえ三橋。学校で流行ってて、もらっちゃった」
「部屋戻りましょ。なんか飲む?」
「やー……申し訳ない……」

便座の蓋に体重を乗せてなんとか立ち上がり、差し出された三橋の腕を掴む。平日水曜日の夕方五時、仁見は朝からずっとこの調子だった。三橋は会社に二時間休を出して帰ってきた。職場の同期には「恋人が風邪を引いてさ」と話している。この同期も以前、風邪でダウンした彼女から呼び出されていたのを知っていた。
仁見は三橋の恐怖心を知っている。だから、勤めている高校で胃腸にくる風邪が流行ったのを見て、決して移されるまいと予防に徹していたのだが。仁見は都内の私立高校で英語教師として働く傍ら、在籍していた大学に非常勤職員として登録し、教授の助手……もとい、雑用係として必要な時に呼ばれている。弾丸で海外にいく機会も少なくないから、もしかしたら感染元は高校ではないかもなぁと、そうだとしたらどこかなぁと、先週一泊したタイの景色を思い出す。風邪っぽいと気付いたのはいつだったか。いや、やはりタイミング的に高校からで間違いないだろう。仁見は思考だけは穏やかにベッドに伏せていた。
ガチャリとドアが開いて、グラスを持った三橋が入ってきた。

「レモン味。どーぞ」

塩レモンのシロップを水で割って、はちみつを垂らした飲み物は仁見のお気に入りだった。吐いた後で水分を摂りたい気持ちはあったから、だるい体に鞭打って起き上がり、ベッドの背に寄りかかる。三橋の手からガラスを受け取ると「はい」とストローが刺された。あまりに甲斐甲斐しいので笑ってしまうと、何だよと言いたげに睨まれる。

「……酷い顔色だ」三橋を見上げた仁見が言う。
「どっちがって話だよ。病人は仁見さんだからな」
「うん、だから、お互いにね」

誰かが吐いている姿は、未だに怖い。例えそれが仁見であっても、介抱したいはずの手は震えるし動悸がして逃げ出したくなる。ただ、この怖さを、自分が怖いと思っているその事実を了解してもらえているというのは大きな違いだと三橋は思った。恐怖と心配は並存しても良かったのだ。
吐いている姿は怖かったし、グロテスクな便器の中身を直視することは出来ない。でも、その怖さの根っこには心配がある。仁見がどうにかなってしまうんじゃないかという不安も。

「オレの経験から言うとねぇ、大丈夫。明日には治ります」

三橋の不安を知っているから、仁見はあえておどけてみせる。

「絶対だからな、仁見センセイ」

仁見の気遣いを知っているから、三橋も同じように応じる。

「……なに?先生って。何となく呼びたくなっちゃった?」ニヤリと口角が上がる。
「うん。そう」

きっと、先生と同じ顔をしている。

研修車窓の帰り道:END

19歳

どうしてこうなってしまったのか。

ケイは自分の足首を見下ろして、それからちょっと動かしてみて、最後に天井を見上げて溜め息を吐いた。部屋中の空気を飲み込むくらい、大きな大きな溜め息を。

左足を体に寄せてみても、ぐんっと抵抗されて叶わない。
そう──左の足首とベットの足が、短い紐で繋がれていた。
紐というより、リード。赤くてツヤツヤしたエナメルの、たぶんペットショップで買えるやつ。足首を固定するベルト部分には、ご丁寧に小さな鍵まで引っかけられている。犬も猫も鳥も育てたことのないケイにはよく分からなかったが、拘束されているのだと自覚することは容易だった。

ケイは迷わずスマホを手に取り、履歴から一番頭を呼び出した。
いったいどういう了見だと、昨晩をともに過ごしたジョージを問い詰めるつもりで。
スマホ、枕元に置いておいてよかった。テーブルの上にあったらきっと届かなかっただろう。

呼び出し音の反復は、むしろ静寂に近かった。ワンコール、ツーコール、回線の切り替わる音がして、音声ガイダンスが流れ出す。「Thank you for calling……」女性の声が、電話への感謝と応答できない旨を伝えた。
名前と電話番号、用件を残せと定型文が流れる前に通話終了。何もかも分かってるんだろ。ケイは留守電が嫌いだった。
出るまで掛け続けてやろうと、もう一度。ガイダンスすら聞きたくなくて、今度は切り替え音の後にすぐ終了。ワンモア、トライ。
きっと彼の画面には、恐ろしい量の着信履歴が連なっているはずだ。それを気が済むまで眺めて、満足したらようやく液晶に指を滑らせる。ジョージの怒りがデカイほど、応対までの時間が伸びる。

プツリとコール音が止まった。
出た!

「はい、譲治です」
「ハローじゃねえよ!何のつもりだジョージ。今どこにいる。帰ってこい」
「まくし立てるな。うるさい」
「今大学か?なんとかしろ。説明しろ」
「説明?」

ジョージは馬鹿にしたように、鼻で笑った。表情まで浮かんでくる。片目を細めて、唇の端が皮肉にバランスを歪めるのだ。真っ黒な虹彩の深いところ、何を考えているのか読めない色が光る。

「必要ないだろう。自分で考えろ」
「はあ?……おい、ジョージ!おい!」

それで、通話は終わった。最新型のスマートフォンはただただ沈黙を返すだけで、30秒経てば液晶画面も真っ黒になった。

「くそっ!」

ケイは思い付く限りの悪態をついた。苛立ちに任せ、応答しない精密な箱を床に投げつけようとして、しかし振り上げた右手をそっと下ろす。左足首に繋がれたリードがお情け程度の冷静さを呼んだのだ。今、外部と繋がる唯一の手段はこの足ではない。

思えば昨晩から、ジョージの機嫌は悪かった。
昨夜のケイは12時を軽く越えた時間、酔っぱらった千鳥足で帰宅した。飲んでいた相手は付き合いの長いセフレ2人。場所は、ゲイの間では有名なサムシング・バーだ。ゲイ専門なんていかがわしい風でもなく、メインストリートから外れた路地にひっそりとある。そして常連になると、マスターが地下の存在を教えてくれる。薄暗い地下にはベッドやソファが無造作に放置されており(ベッドのいくつかはスプリングが壊れている)、そこはいわゆるハッテン場の波止場。地下だが、みんなその部屋を『奥』と呼ぶ。階上のバーで意気投合した奴らがなだれ込むさまは紛うことなきカオスだ。ただし、ドラッグやハーブはご法度。

ジョージとの関係は、一応恋人ということになっている。ケイは関係性に名前をつけることに慣れなかったのだが、ジョージはその辺りをこだわるタイプだった。お国柄の違いだろうか。

ジョージはケイの通う大学に、留学生としてやってきた。18歳の、昨年の話だ。
初めて喋ったのは第1セメスターも始まって暫くして、皆が新生活に馴染みはじめたころ。友人と待ち合わせて学内のベンチに座っていたら、長身の男が隣端に腰を下ろした。レポート用紙を引っ張り出して、何かを訂正する仕草。それが、久米川譲治だった。
興味本意で首を反らし、手元を覗く。

「あ、それ、間違ってるぜ」

深い意味なんてなく、ふとしたはずみで話しかけていた。男は顔を上げ、視線を動かし、「は?」という顔をした。彼はは髪も瞳も天然の黒色で、肌の感じもアジア系のそれだった。

「国際関係論のレポートだろ。グレン・フレデリック教授、ここのスペル違う。教授の名前ミスはやべえぞ。通じる?」
「ああ。ありがとう」
「あとあの人、手書きダメじゃなかったか?突っぱねられたってやつ知ってるけど」
「……そうなのか」
「いや、大丈夫。そうだ、手書きをコピーして、そっち出せば大丈夫なんだよ、そういう時は。コピー機は図書館にあっから」

ケイは顎をしゃくって図書館を示した。ベンチからは図書館の屋根だけが確認できる。彼も了解したようで、わかったと頷いた。
流暢な英語の男は譲治と名乗った。久米川は発音しづらいだろうから、とも沿えて。日本から来た留学生だという。日本人にしては彫りの深い容貌をくしゃりと歪めて「ありがとう」と微笑んだ。サンキューではなく、ありがとうと。
そして、じゃあなと別れた一週間後、ケイと譲治は再会する。週末の待つ金曜日、浮かれた往来で。

その日は早くから飲んでいて、ひとりバーを出た時には真っ直ぐ歩くのも難しいほどに酔っぱらっていた。通りの明かりが鋭いくらいに眩しくて、行き交う人々の話し声は違う惑星の言葉みたいで。けれど、それすらも笑えてしまうような、アルコールの浮遊感。
どこにだって行けそうな気分で歩いていたら、向かいからやってきた集団とぶつかった。黒いタンクトップから入れ墨の走る彼らから浴びせられた罵声に、ケイはつい挑発の言葉を返してしまう。
空気が、不穏な色に入れ替わった。

「何だお前、調子乗ってんのか」

見下ろされ、壁に迫られ、肩を掴まれてようやくヤバいと目が覚める。けれどそう焦った時には、既にじりじりと路地裏に追いやられていた。放られたごみ袋からはみでた生ごみを踏む。靴底がぐちゃりと嫌な音を立てた。

「若造、生意気な態度取んねえほうがいいぜ」
「綺麗なカオしてんな、ちょっと遊ぶか」

逃げ場なく顎を掴まれて、雑なアルコールと生ごみのすえたにおいに誘発されるのは本能的な吐き気と恐怖。すり抜けようと身をよじるも、足を払われて転がってしまった。
咄嗟に謝罪を引っ張り出すも、時すでに遅し。
情けなく腰がひけてしまって、成す術なくコンクリに頬を擦り付けられた時、助けてくれたのが譲治だった。

「おい。何やってんだ」

よく通る声で、大通りの注目と一緒に飛び込んで来た長身が誰なのか、すぐには認識できなかった。
視線という光に晒されて、煩わしくなった集団はしらけたように舌打ちし、押さえ込んでいたケイの頭を放った。
膝をつく譲治に支えられ、起き上がった反動でケイは嘔吐した。
ほんの少し前まで飲んでいたラムコークが、アルコール成分だけを残して口から溢れる。譲治は相変わらず滑らかな英語で、大丈夫かとか、誰かを呼ぶかなどと繰り返す。大丈夫、ただの飲み過ぎだから、気にすんな。酔いの回った頭では、そんな言葉さえ見つけられない。

「どこか休める所はないのか」

とか、それに似た言葉が聞こえた。
運びの詳細は憶えていないが、その通りはちょうど、あの混沌としたバーのある路地だった。ケイは気楽な地下室の常連だ。半分眠った脳みそと筋肉を動かして、譲治の首に腕を回す。

「オレ、あんたみたいな奴に愛されたかった」

――ああ、そうだ。オレが、そう言ったんだ。

***
そうして次に目が覚めたのは真夜中だった。
素っ裸で固いダブルベッドに横たわり、目に映るのはシミだらけの天井。オレンジ色の照明にぼんやりと照らされて、意識がゆらゆら浮かび上がる。
簡易なカーテン代わりの薄布で仕切られた隣のベッドでは、まさに行為の真っただ中だ。獣のような唸り声の隙間から、階上のジャズビートが微かに聞こえてきた。
首を動かせば、譲治と目が合った。何を考えているのか全く推測できない、深い闇色の瞳がそこにある。

「お前、名前は」

そう問われて初めて、ケイは名前を名乗っていなかったことに気が付いた。

飛び級のステップを間違えたまま“付き合い”が始まっても、ケイの遊び癖が治ることはなかった。緩んだ貞操観念は、そんなに短期間で書き換えられるものではないらしい。
一方の譲治は、その辺りの感覚は今時珍しいほど頑なだ。なし崩し的に一人暮らしをしている譲治の家で半同居状態に落ち着いてからは、さすがの譲治も譲歩を見せたが、ケイがその心境を理解するためには言葉が足りない。
優先順位がついたとはいえ、不特定多数との関係は譲治の機嫌を損ねる最大要因だった。

昨晩、遅くに帰宅したケイは、靴を脱ぎ捨ててトイレに駆けこんだ。
大きな足音に驚いた譲治がリビングから顔を出し、「どうしたんだ」声をかける。
しばらくして出てきたケイはへらりと笑い、あっけらかんとして言った。

「あはは。トイレ、行かしてもらえなくて。でもホラ、ギリギリ、セーフ」
「はあ?」
「ランディがさあ、オレがトイレっつったら『奥』行こうって。仕舞いにはここでしろとか言い出すし、あいつにそういう趣味があるとは思わなかったな。ほんと、ヤバかった」
「……なんだそれ」
「店はどこも閉まってるし、オレ、財布忘れちゃって。駅のトイレも使えねえからさあ」

呂律が、若干怪しい。
譲治の眉間にみるみる皺が刻まれていくことにも気付かず、ケイは話し続ける。服を脱ぎながらバスルームに向かい、思い出したように立ち止まって、

「あ、でも。お前がいるから帰ってきたぜ」

得意げに。
無遠慮に整った笑顔を見て、譲治の苛立ちは閾値を飛び越えた。

その夜、譲治がクロゼットから引っ張り出したのは、赤いエナメルのリードと同素材の首輪。以前友人のペットを預かった時に一緒に渡され、また預けることもあるだろうとそのまま貰っていたものだ。もちろん、こんなことのために使うはずではなかった。次いで引き出しから、おもちゃのように小さなパドロックをつまむ。これは大学近くのホームセンターで工具を買った時に、一緒についてきたものだった。

「なあ、何で怒ってるんだよ、ジョージ」

風呂上り、髪の毛の水滴をがしがしと拭き取りながら、ケイは相変わらず呑気に首を傾げてきた。
何を話しかけても譲治が一切反応しないのを、本気で怪訝に思っているのだ。
その呑気さが、気楽さが、譲治の神経を逆撫でていることにも当然気付かない。

怒っている訳ではないのだ。
これは、ケイのだらしなさに、ふらふらといい加減なさまに、怒っているのとは違う。譲治にはかろうじてその自覚があり、その点では冷静になっているのだが、けれどどうしようもない苛立ちだった。
矛先はケイと、譲治自身に。

ケイはドライヤーを横着し、結局乾ききることのなかった髪を枕に広げて泥のように眠っている。そのもとへ、息を殺して立ち戻った。無造作に投げ出された足を掴む。形のいいくるぶしを持ち上げ、小型犬用の首輪を巻き付けてきつく締める。ベルト穴にパドロックを通して施錠。鍵はポケットにねじ込んだ。
首輪に繋がったリードの片方は、ベッドの足に括る。通すためにほんの少し浮かせたから、振動で起こしたかと寝顔を覗き込んだが、ケイは憎らしいほど無防備に眠っていた。
ケイがロングスリーパーなことも、その眠りが死んだように深いのも、そしてそれ故に、目が覚めて真っ先にトイレに向かうことも、譲治は知っていた。

――苛立ちの名前は、醜い嫉妬と独占欲。

***

どうして、こうなってしまったのか。
もう何度目か分からない自問の続きを考える。

目が覚めて、意識が明瞭になってきて、応答しないスマートフォンに散々苛立ちをぶつけた後。ふと全身に走ったのは尿意だった。はっとした。一瞬、苛立ちも腹立たしさも困惑も、全て忘れ去った。
気が付いてしまったら、もう、それだけしか考えられなくなって。気付かなかったふりをしようとしても、無視することはできなくて。

「……っ、くっそ、何のつもりだよ、クソジョージ」

舌打ちは当然届かない。
昨晩のアルコールが、寝る前に飲んだコップ一杯の水が。老廃物としてこしだされたそれらは、一晩を越えて貯蔵器官をたっぷりとふくらませていた。いつもならとっくに排泄されてるはずの水分は出口が開かず、ケイの尿道をこじ開けようとじわじわと浸潤していく。寝ぼけた筋肉はとっさに緊張し、堪らずに身を捩って堰き止めた。

「……や、ば、……待って……」

静寂の部屋に響く軋みは、貧乏ゆすりのせいだった。木製のフレームベッドは譲治が留学生仲間から譲り受けたものらしく、年季も入っている。ケイの不規則な息遣いとともに、嫌に大きく聞こえた。
一度ふたつに折った体を起こす方が難しくて、それくらい、爆発しそうな尿意で、ケイは股間を握りしめたままベッドに伏せた。窓の外の快晴を睨む。相変わらず真っ黒な液晶画面を睨む。

きつく噛みしめた唇の隙間から、なんとか細く呼吸した。
太腿を紙一枚の余裕なく寄せあって、もじもじと膝を擦り合わせる。それだけでは、もう我慢出来そうになかった。

どうしよう。どうしよう。
ベッドの上、体を揺らしながら首だけで見回す。目には涙が滲んでいた。ちくしょう、トイレ、おしっこ、出したい。

ベッドと壁の溝を埋めるように、クッション代わりの抱き枕がある。ケイは両足で、それを挟んだ。しがみついていれば、少しは我慢しやすいかと思ったのだ。思考回路にも、1ミリの余裕もない。

「っんん、……んぅ……っ」

大きな波に襲われて、ケイは堪らず呻いた。ここは自分の部屋で、憎らしいことに誰もいない。声を憚る必要はなかった。

「ん……っ、~~っ、」

ありったけの力で枕を抱き締めた。波は一向に引いてくれない。太ももは勝手にビクビク痙攣して、焦りで息遣いが乱れた。爪先をせわしなく動かす度に、足先が紐に触れた。焦りと羞恥、すぐ手前で待っている最悪の自体を想像して、顔が真っ赤になっているのが分かる。
自分の口から飛び出す声が、まるで気の乗らない相手とヤる時のリップサービスみたいで妙な気分がした。もしかしたら、ジョージとする時も、こんな声出てんのかな。こんなこと、初めて考えた。

(ああ、そうか)

原因と結果がジョージの不機嫌を結びつける。
何かはっきりとした解答に触れそうになったその時、ガチャリと扉の開く音がした。不意打ちのことでびくりと体が跳ねる。それが誰かなんて、分かりきったことだったのに。

「ただいま」
「……ジョージ」

憎々しく名前を呼ばれても、譲治は顔色一つ変えない。
ただ、静かに燃える目で、ベッドで丸まったケイを見下ろす。

お前さ、もしかして……とか、大学はどうしたんだよ、とか、オレだって授業が、とか。言いたいことはやまほどあったはずなのに。
いざ譲治を目の前にして、その静かな黒に射られると、あまりに理不尽な仕打ちに対して燻っていた怒りが再び浮かび上がる。

「……おい、クソ、これ、何とかしろよ。解け」
「……」
「ジョージ」

譲治は、一言も話さない。冷たい視線は少しも読むことができなくて、その漆黒にケイは初めて、ぞっとした。
ベッドの軋む音だけが、ケイの苦悶の息遣いだけが、沈黙を埋める。

「た、頼むから。お願いだから。もう、オレ、漏れ……」
「“『奥』、いこうぜ”」
「……は……?」
「“ここでしろ”」

片目を細め、唇の端が皮肉にバランスを歪める。
そこにいるのは間違いなく、久米川譲治という男だった。

19歳:END

メリー・ゴー・ラウンド

撮影スタジオは、雑居ビルの3階だった。

「……っ、……くぅ」

部屋の中央。撮影用に用意された柔らかなベッドから離れ、カズネはソファで体を丸くしていた。
身にまとうものはオーバーサイズのシャツ1枚。

「あと3分だから、頑張れよ」

上から労いの言葉が降ってきて、カズネは顔を上げた。スマートな首筋、丁度いいバランスに締まった体。メイクも済ませて妖しく整った微笑みを見上げ、なるほど人気のあるわけだと、妙に感心してしまう。

「んん、……これ、結構、…きつい」
「あ、カズネ、こっちの撮影初めて?」

横に腰を下ろすハヤトに、スペースを空ける。体勢を少し起こしたことで、重力に従って降りてきたものを、危うく漏らしそうになった。慌てて肛門を絞める。ぬるつく感覚が汗なのか、それとも溢してしまっているのか、確かめるのも不気味である。カズネは5分ほど前、自らのお尻に浣腸液を注入している。

2人は、ゲイビデオの男優を仕事にしていた。

それもかなりマニアックで、コアなファンに売れている。だから事務所からは、SMプレイで呼ばれることが多い。今日だって、スカトロプレイを撮るために集まっている。

「あー……、うん。……っあーー、あと、どれくらい……っ」
「1分。ファイト。そっか、そういえば、カズネいっつもおしっこだよね」

他人事だと思って。そう言い返してやりたかったが、腹痛と排泄欲に駆り立てられ、それどころではなかった。
あと1分。あと1分。足ががくがくと震えた。

中古のレコードショップでアルバイトをしていたのが数年前。そこでどういう縁だかアダルトビデオの事務所にスカウトされて、バイト感覚で始めたのが、去年の冬。年明けすぐのことだった。
しばらくはレコードショップと掛け持ちしていたが、処女作がゲイビデオ界隈で予想以上の売れ行きを叩き出し、事務所所属を進められた。
仕事あがりを待ち伏せしていた監督は、「君、絶対売れる、ぜったいだ」と、ビール片手に力説した。確か、立ち飲みの居酒屋だったと思う。カズネはつくねをかじっていた。
具体的な話をしたいからと、事務所(このビルの二階にある)に呼ばれたのは、その次の日。
正直、給料が桁違いだった。当然だが、出演できる回数が違う。セックスで稼げるならいいじゃないかと、平和な脳みそは二つ返事で頷いた。

それから様々な現場に呼ばれていたが、実は、大きい方の撮影は、今日が初めてだった。

「カズネ。オッケーだよ。出してきな。」

ハヤトがスマホの液晶を掲げる。ロック画面の時計を見れば、しっかり5分経過していた。
はあっと熱い息を吐く。額に前髪がはりついて鬱陶しい。
最低5分との説明だったが、もうこれ以上、我慢できそうになかった。
「連れて行こうか」ハヤトの提案を、首を振って断る。
慎重に立ち上がって、捩れるように痛む腹とひくつく肛門をなんとか宥めて。覚束ない足取りで部屋を出た。バスルームが、隣にある。

カズネは自らのセクシャリティをバイだと認識している。プライベートで男とする時には、マナーとしてちゃんときれいにしておく。
だから、浣腸だって慣れていると自負していたのだ。
けれど今日、現場で渡されたそれは輸入物の、まあ何というか、とっても強力なやつだった。パッケージの表記が英語で、なんとなく嫌な予感はしていた。
本当は効き目が出るまで、申し訳程度のト書きが記された台本でも読んでいようと考えていたのだが、とてもそんな余裕は無かった。
体に合わなかったのか吐き気まで誘発し、監督やスタッフ総出で心配されてしまうほど。

浣腸液といっしょに溜まっていたものを排泄し、水で流す。
灰青色の綿シャツの下、ぺたんと薄くなった腹を擦った。
まだ、痛みは引かない。

今日のスケジュールを渡されたのは一昨日。
スカトロプレイの撮影なのに、お腹の中をからっぽにするなんて変な指示だなと思っていた。
そして参考のためにこれまでの作品を確認して、なるほどそういうことかと合点した。
この会社から出すスカトロビデオでは、”ホンモノ”を映さなくてもいいらしい。寧ろどれだけ耐えているか、その苦悶の表情に時間を割いている。後に控えているのは、熱くて甘い、極めて非生産的なセックスだ。
これは誰にも、何度も一緒に撮影しているハヤトにも理解されないのだが、出来上がった映像を確認して、自分の行為を外から見る立場になると、まるでメリーゴーランドに乗っている気分になる。
ぐるぐると視点が揺れて、おまけにそこにいるのは他人のような自分なのだ。中も外も知ってしまうと、いっそ引き剥がされて乖離していきそうな、そんな感覚を覚える。

「すみません、戻りました」

部屋に戻ると、一斉に注目を浴びた。一番最後に振り返ったのはハヤトだった。

「カズネくん、入れる?いけそう?」
「はい。大丈夫っす」
「じゃあ、ハヤトくん、準備して。ホテルに入ったシーンから撮るからね」

行為に至るまでの前置きは、明日の夜に別撮りだ。
バーで知り合った男――ハヤトがスーツ姿で演じているのだが――とホテルに行ったら、男にはスカトロ趣味があって……という設定だった。
実は男は大企業の御曹司で、カズネ演じる青年を恋人兼ペットとして、自邸で飼うことになる。売り上げ次第でシリーズ化する予定らしい。
撮影用にもう一度、それもたくさん出すためにかなりの量を体内に入れるのかと思うと気が重い。気持ちいいことは好きだが、正直、カズネにとって排泄を堪えるのはただ辛く苦しいだけだった。
――いや、これは仕事だ。お金を貰っている、これが自分の仕事なのだから、そんなことを言ってはいけない。

指示通り、2人でベッドサイドに立った。カメラと証明が1人ずつ。
このカメラさんは、後で映像の編集や音声の加工まで行うというのだから驚愕だ。

監督の合図で、撮影が始まった。
ハヤトのスイッチが入る。さすが、プロだ。そう冷静に見ていたのも一瞬。
次の瞬間には、カズネは乱暴に押し倒されていた。台本通り、抵抗する。

「やっ、……何すんだよ!」
「言うこと聞けって。大人しくしてろよ、気持ちよくなるだけだからさ」
「や、いやだ、なに、それ」
「だいじょうぶ、針はないよ。ほら見て」

ハヤトの手にした冗談みたいに大きな注射器に、演技ではなくぞっと腰が引けた。
プラスチックのおもちゃみたいだ。
中身は知っていた。水の比率を多く割いたグリセリン液だ。これももちろん、輸入品。
整った顔を妖しく歪めて、ハヤトが口の端で笑う。何かを呟いた。鼓動が激しくなってきて、鼓膜はその言葉を拾い損ねた。
そこからは、きっともう、演技ではなかった。

ハヤトに強引に衣類をはぎ取られ、シャツで両手を縛られる。半分だけ下ろされたズボンは足の自由を奪い、後孔がむき出しになる。
肛門に、プラスチックの先端が侵入してきた。喉の奥から、引き攣った声が漏れる。

「……あ、……ぁっ……!……!」
「気持ちよさそうだね?まだ入るかな」

冷たい液体がゆっくりと内壁を落ちていく。先ほどの浣腸とは違う、比べ物にならないくらいの質量。きっと、中がからっぽだから。
液体はすぐに暴れ出し、腸内を抉るような痛みが引き出される。カズネは堪らずに悲鳴を上げた。
直腸の急激な体温低下に、全身がガタガタと震えた。吹き出す汗も、熱を奪っていく。

「ゃ……、やめ、やめて……も、きつ……」
「尻上げろよ。溢したら、追加だからね」
「~~~!……っ、あ、ひ……っ、」
「ほら、1000ミリリットル、全部はいった。よくできました。10分、我慢しようね」

10分!
それは永遠に思える提示だった。海外製とはいえ市販薬を5分耐えるのにも満身創痍だったのだ。
ハヤトは脱脂綿で、カズネの肛門を押さえた。ぷく、ぷく、と、入れたばかりの浣腸液が染み出す。

「溢したら、追加だからね」

耳元で、そう念押し。なけなしの意地で肛門を締めたが、上手く力が入らない。内臓をかき乱されて、全部引きずり出されてしまうのではないか。そんな危機感を抱くほどの苦しさで、嘔吐しそうだった。
涙と汗でぐちゃぐちゃになる。お腹が痛い。破裂してしまいそう。さっきの痛みだって、まだ全然収まってなかった。
下腹部を抱えて丸くなりたいけれど、冷えたそこを少しでも刺激したら、漏らしてしまう確信があった。
不自由な手でシーツを掴み、激痛に悶えるカズネを見下ろして、ハヤトは満足そうに頷く。
嗚咽で言葉が出ない。セリフ、なんだっけ。そうだ、今、撮影を。
異物感をこらえる表情を、震える睫毛を、カメラは追っていた。

「は……っ、はぁ、……!……っう」
「お腹膨らんで、孕んでるみたいだね」

顎を掴んで顔を寄せる。乱暴な行為とは反対に、深く溶け合うキスだった。サディスティックな役が多いが、ハヤトの本当は、ユーモアに富んだ優しい人なのだ。
頬を伝う涙を舐めた。小さい声で、「可愛いよ、カズネ」そう聞こえた気がした。

逼迫する排泄感と強い刺激に、目の前がチカチカ点滅する。
無理やり中に入ってきた液体は、出口を求めて暴れていた。少しでも気を緩めれば、遡って溢れてしまう。

「も、……!むり、むりです……出る、……っ」
「もう?まだ2分しか経ってない。……どうしたのかな。お腹が痛いのかな」

ハヤトの顔をした男が、そうとぼけた声を出す。ワイシャツの首元を緩めた。体を傾ける仕草も色っぽい。

「どうしたの?お腹が痛いのかい。どうしたいのか言ってごらん」

言いながら、今一番触れてほしくないところ、重たく張った下腹部を、弧を描くように撫でていく。
片手で肛門を塞ぎながら、だ。泣きながら身悶えするカズネの様子を楽しむように、時々、ぐいと強く押される。
膨れ上がる排泄欲求を、カズネは処理しきれなかった。狂ったように悲鳴を上げて、身を捩る。ぷしゃっと水っぽい、空気の抜ける音がした。

「……ぁ……!ああああっ」
「悪い子だね、漏らしちゃったの」

下の穴から、おしっこのように液体が溢れていく。太腿を伝い、シーツを汚し、どろっと粘性のそれが広がっていくのを止めることができない。
ひどい音を立てながら、お腹の中身が軽くなる。カズネは放心してしまって、荒い呼吸を繰り返した。ぐるぐる、世界が回る。

へそ、鳩尾、肋骨。ハヤトの唇が落ちてくる。仰け反った薄い胸の先に舌を這わせながら、ハヤトは微笑む。

「ねえ、指、入れていい?」

メリー・ゴー・ラウンド:END

hold back…

保健室の先生は夏になると、決まって体調を崩す。近づけない二人の話。

「あのーー……失礼します」

控えめに開けたドアの隙間から、そっと中を窺う。洞穴を覗く小動物のような動作だが、気の弱そうな笑顔を見せるのは、180センチを超える白衣の男だ。

「有江先生、どうしたんですか」

担当授業、会議、出張……各自それぞれの仕事に出払った職員室は人影まばら。呼びかけると、有江先生はすぐに気が付いた。対角線に視線を伸ばす。俺は書類の入ったファイルを戸棚に収めていた。

「ああ、良かった。長谷川先生」

有江先生は、ほっと一息安堵を溢し、猫背をさらに丸めて手招きする。
薄々感づいてはいたが、どうもこの人は職員室が苦手らしい。ドアレールを踏まないように、扉の向こうで待っていた。
入ってくればいいのに、と言ったら、「ここは僕の職場じゃない気がして」と返されたことがある。ソワソワしちゃって落ち着かないんだよね、と続けた。どうやら彼にとって、この内側は聖域らしい。

「長谷川先生、ごめんね。次、授業ありますか」
「いや、今日はもう。ホームルームまで明日の準備でもしていようかと思ってたところです」
「ああ、そうだったんだ。お疲れさま」

上背はほとんど変わらないはずなのに、猫背のせいで一回り……もしかしたら二回りくらい、小さく見える。いかにも文系らしい、筋肉量の乏しそうな体系も、そうさせているのかもしれない。
さて、職員室嫌いの彼がこうして訪ねてきたということは、何か用事があるのだろう。だいたい予想はついているが、俺は「どうしたんですか」ともう一度聞いてみた。
有江先生は情けない表情で笑いながら、人差し指で頬をかく。
血の気の引いた顔色、乾いた唇。壁に寄り掛かる仕草さえ、予想を支持するものだった。

「ちょっと、保健室、お願いしてもいいですか」

有江先生は、保健室の先生だ。

***

「いやーー、すみませんね、毎度毎度」
「はいはい、別にいいですけどね。枕一つでいいですか」
「うん。ありがとう」

謝罪と感謝を繰り返しながら、白衣を脱いで横たわり、備品のタオルで顔を覆った。照明がまぶしいのだという。
長身の有江先生に、保健室のパイプベッドは窮屈そうだ。

「こんな姿、生徒には見せられないなあ」

それを独り言と捉えた俺は、何も言わずに椅子に腰を下ろす。放置してあった日誌をパラパラとめくる。来室記録や使った消耗品を、生真面目な筆跡が追っている。昨日は絆創膏、一昨日は経皮吸収型鎮痛……貼るタイプの鎮痛剤が使われていた。
今日の分の記録はない。『有江先生:休憩』なんて書いたら怒るだろうか。
半分だけ開いたカーテンの隙間からは、有江先生の足が見える。やはり狭いのだろう、両膝を立てていた。

有江先生は夏になると、決まって体調を崩す。1週間は調子が悪く、そのうちの2日間は、保健室の業務すらままならない。
それほどハードな業務ではないし、何とかなると出勤のち、こうやってダウンしてしまうのも例年のことだった。
いつからか、俺はそんな有江先生の代打を務めるようになっていた。

分厚い窓ガラスを隔て、遠くにセミの輪唱を聞きながら、俺は課題の採点を始めた。マルとバツしかない数字の世界はシンプルで、それゆえに難解だった。
机とベッドの真ん中で、扇風機が部屋中を見まわしている。冷房は、僭越ながら弱めさせてもらった。有江先生がいつだったか、空調の風が苦手だと呟いていたことを覚えていたからだ。

去年の夏もこうやって、眠ってしまいそうに静かな時間を過ごしていた。
その時の有江先生はすこぶる不調で、ベッドの上で、何度も嘔吐した。呼ばれたのも1通のメールで、それも職員トイレだった。
水分を取らせてもすぐに戻してしまうから、俺はまったくお手上げだったのだ。確かその時もセミは騒がしく鳴いていた。

『いやあ……はは、年かなあ……見苦しくてごめんね』

そんなことを、言っていた記憶がある。
俺とそんなに変わらないじゃないですか、と言おうとして、その時からさらに1週間ほど前の会話がよみがえる。
グラウンドを縦横無尽に転げまわるサッカー部の練習を遠目に見ながら、『やー、高校生は元気でかわいいね』『かわいいですか。クソガキですよ』『まあ、僕の息子でもおかしくない年頃だから』……そういう会話をした。
自分はそれに、なんと返したのだろうか。
「有江先生っていくつなのかしらね」職員室で度々持ちあがる話だ。

とにかく、そんな去年に比べたら、今年は落ち着いているようだ。

ガタンと物音がして、はっと我に返る。
振り返れば、有江先生が体を起こしていた。ベッド脇のテーブルからスマホを落としてしまったらしい。
拾い上げようと体を傾ける有江先生を制して腰を上げた。
冷蔵庫から出して、常温にしていたペットボトルの水を掴んでカーテンを越える。

「具合どうですか」
「いや、……ちょっと、あんまり」

ペットボトルを受け取ったものの、口を開こうとはしない。
手のひらで転がして中身を揺らすだけだ。小さな水泡が、上下にいったりきたりする。
転がったスマホはメールの作成画面だった。見てはいけないだろうと、背面にして手渡す。有江先生は、やはり「ありがとう」と微笑んだ。

「……ごめんね、何でもいいから、袋貰ってもいいかな」
俺はぎょっとして彼を見下ろした。そんなに具合が悪いようには、とても見えない。誤魔化すのがうまいのか、安心のためか。
「吐きそうですか」その質問には答えない。
口をつぐんだまま、指先に視線を落としていた。子供みたいだ、とぼんやり考える。自分よりもきっと、ずっと年上の相手に対して。
俺は黒いビニール袋を引っ張り出して、ペットボトルを代わりに受け取った。

ガラガラと無遠慮に扉が開いたのはその時だった。「せんせぇー」と間延びした声。
今、ここで代打の「先生」は俺だ。反射的に、2人同時に顔をあげた。

「おう、何だなんだ」

カーテンから出てきた俺に、男子生徒は首を傾げた。そりゃそうだろう。俺は古典の担当だ。

「あれ、長谷川先生?」
「俺だって先生だろ」
「そうだけど」
「で、どうした」
「バスケしてたらアキヤマが転んで。捻ったかもって」
「まーったくお前らは元気だなあ。体育館か」

保健室の扉を後ろ手で閉めながら、俺は思い出してた。
いつかの、夏の日。会話の続きだ。

『ご結婚されているんですか』

そうだ、確か、俺はそう返したんだ。その時ちょうど、壁に立てかけていたポスターが倒れ、机の上の筆記用具も巻き込まれて転がった。
慌てて拾い集めながら、しかし、有江先生は会話を続けることはなかった。彼の手に指輪はない。

赴任してきた初日、『保健室の先生が、こんなオジサンでごめんねえ』と、軽い調子で笑う有江先生を覚えている。挨拶用のマイク片手にやっぱり頬をかいていた。。
「有江先生っていくつなのかしらね」職員室で、度々持ちあがる話だ。

hold back…:END