「誰か倒れたらしいね」
体育館を出てグラウンドに向かう途中。
グラウンドの方から歩いてきた数人が、そう噂していた。
微かに嫌な予感がした。
確かに誰かが倒れてもおかしくない気温だ。
けれど実際に厚さで倒れる人なんて、身の回りにそうしょちゅう居るものじゃない。
自然と歩幅が広がる。
センサーが切られ、出入り自由になった生徒玄関を抜けた時、視界に映ったのは三人の影。
すぐに分かった。
西沢と、和泉、それから村野。
和泉は二人に抱えられるようにして歩いている。
迷わずに三人に駆け寄った。
「どうしたの、これ」
「和泉、多分熱中症。早く涼しい所連れて行かないと。保健室って、クーラーついてるよね」
そう答えたのは西沢。
運動部なだけあって、こういったことに一番敏感なのは西沢だ。
普段の雰囲気はどこかへ行ってしまう。
和泉は少し顔を上げて、消えそうな声でごめんと呟いた。
「保健室、開いてないかも。俺先に行って開けてくるよ」
確か、養護教員の南条が保健室を開ける時間があった筈だ。
各試合場を回らなければいけないらしい。
生徒会で配られた日程表を脳裏に浮かべたが、正確に思い出す事は出来なかった。
「じゃあ橋葉、お願い」
斯くして、さっき通ったばかりの玄関を再び潜ることになった。
保健室に向かう途中、ざわつく廊下で五十嵐とばったり会った。
この廊下は体育館にも繋がっているので、自他校問わず人で溢れていた。
クーラーなんて気の利いたものはないから、廊下は外に負けない位暑い。
向こうは俺を探していたらしく、目が合うとあっと声を上げた。
「先生を見てないかい。あいつが居るってメールしたんだけど、返事がない。電話も出ないし、どこいったんだろう」
「南条先生居ないのか。和泉が熱中症で倒れたんだ。今保健室に来るんだけど」
話ながら廊下の隅に寄っていった。
人通りが多いし、立ち話は通行の邪魔だ。
五十嵐はこめかみの辺りを揉む。
「タイミング悪いなあ。でも、和泉が移動しないのは良いことかもしれないね。さっき保健室行ったけど、鍵も開いてたし涼しかったよ。俺はグラウンドの方見てくるから、お前さんも先生を探してくれ」
話がややこしくなってきた。
きっと、さっき五十嵐から聞いた以上の事が、和泉と岩林とかいうやつの間にあったのだろう。
いつになく焦る五十嵐を見て漠然とそう思った。
和泉の次は南条を探せと言う。
なんだか今日は人探しばかりしている日だ。
「分かったよ。じゃあ、また、保健室で」
そう言って五十嵐と別れる。
ここで和泉達が来るのを待とうかと一瞬考えたが、往来の多さに断念した。
保健室には、意外にも誰も居なかった。
この暑さだし、何より体育祭の真っ只中た。怪我人の一人位居てもおかしくはないだろうに。
空調の効いた室内に足を踏み入れてすぐ、閉めたばかりのドアが開いた。
隙間から靴の先が覗く。
西沢と村野が、和泉を支えながら入ってきた。
西沢が足でドアを開けているので、手伝おうと近付くと、穏やかだが鋭い声が飛んできた。
「橋葉くんはベッドのカーテンを開けて。布団も開けてくれると助かります」
その声にはっとして視線をやると、三人の後ろには南条がいた。
「来る途中で偶然会ったんだよ」
疑問が顔に出ていたらしく、西沢がすかさずそう説明した。
和泉の体調は控えめに言っても悪化していた。
真っ青な顔色に、荒い呼吸。冷や汗まで浮かべていた。
急いで一番近いベッドのカーテンを開け、布団を整えた。
掛け布団をどかして、と南条の声がしたので、それに従う。
薄手の羽毛布を抱えながら、ぐったりとした和泉がベッドに横になるのを、ただ見ていた。
目を閉じたまま、呼吸に合わせて胸が微かに上下する。
南条は俺の持っていた掛け布団を畳み直し、和泉の足の下に置いた。
「熱疲労だと思いますが、軽く手当てをするので、後は任せて。橋葉くん達は戻って結構ですよ。まだ試合が残っているでしょう」
西沢や村野はともかくとして、自分の出場する試合は終わっていたが、南条の声音には有無を言わさぬ調子があった。
そこで大切な用事を思い出す。
「あっ、そうだ、五十嵐が探してます。後で保健室に来るって」
すっかり忘れる所だった。
岩林の話もしようかと思ったが、和泉の目の前なのでやめておく。
きっと五十嵐が伝えるだろうし、メールを送ったと言っていたから、もう既に知っているかもしれない。
南条は不思議そうに首を傾げ、それから頷いた。
俺と西沢、村野の三人は、殆ど追われるようにして保健室を後にした。
西沢はなおも心配そうで、村野もドアを不安そうに眺めていた。
「…俺達は戻ろうか。二人はまだ試合あるでしょ?」
「俺は次の試合までまだ時間あるけど、西沢がサッカーあるから俺もグラウンド行くわ」
村野はそう言って時計を見た。
慌てた様子で西沢を呼ぶ。
「西沢、時間、時間!もう始まってるぜ」
「嘘!うわ、やば。橋葉、という訳で行ってくるよ!また後でね」
栄養補給してない、と叫びながら、西沢は走っていった。
村野は笑いながらそれを追いかける。
時計を見ると、12時になろうとしていた。
おそらく今の試合が、午前中のラストゲームだろう。
五十嵐を呼ぼうとして、しまった、と思う。
ポケットを探ろうとしていた右手が、行き場なく泳いだ。
携帯を教室に置きっぱなしにしていたのだ。
文明の利器、小さな箱。
面倒に思ったが、五十嵐が行き先を告げていたのは幸いだった。
今日で何往復目が分からない道のりを辿って、グラウンドに急いだ。
「和泉くん、少しだけ起き上がれますか」
冷蔵庫から取り出した経口補水液をコップに注ぎ、和泉の元へ持っていく。
薄く目を開けたが、体を起こすことは難しいらしく、辛そうに眉根を寄せた。
南条は、和泉の意識がしっかりしていることに安堵の溜め息を漏らした。
熱中症を侮ってはいけない。
意識障害を起こしていたら、命の危険さえある。
背中に手を添え、和泉を何とか支え起こす。
南条は和泉と目線を合わせた。
「辛いですね…。これ、飲めますか」
虚ろな目でコップを捉え、和泉は怠そうにそれを受け取った。
緩慢な動作で口に含むもプラスチックの容器が空になるより先に噎せかえってしまう。
気道に入ってしまった、苦しそうなそれに南条は思わず謝罪を口にする。
「ゲホッ、げほ、げほ…っ」
力なく咳き込んだが、それが吐き気を誘発したらしい。
小さくえずき、顔を背けた。
実は保健室に着く前、和泉は一度吐いていた。
嘔吐衝動は落ち着いたと思っていたから足を高く上げたのだが、この様子では布団はどかした方が良さそうだ。
「…ぅ、…っ、…」
「和泉くん、」
背を丸めてしまうので、南条は急いで洗面器を掴んだ。
和泉に差し出すと、慌てた様子で顔をつき出す。
体力が追い付かずに、少しずつしか吐き出せない。
苦しそうな表情を浮かべ音も立てずにもどし、濁った液体がばたばたと洗面器に打ち付けられた。
ひとしきり吐いて、和泉は脱力しきった。
倒れるようにベッドに横になり、浅く乱れた呼吸を繰り返す。
元々体力が十分じゃないのだろう、そう南条は思った。
和泉の体調に障らないよう、意識して声を落とす。
「和泉くん、熱を逃がすために衣服を緩めます。自分で動けそうですか」
返事はない。
半分も開いていない虚ろな目は南条を映し、長い睫毛が揺れた。
赤い唇の隙間から、白い歯が小さく覗いていた。
涼しい所で衣服を緩めるのは必須事項だ。
和泉本人が出来ないのなら、南条がやらなければならないのだが、南条は僅かに躊躇った。
普段の和泉なら絶対に抵抗を見せるのに、朦朧とした意識ではそれすらもままならない。
「…すみません」
そう謝って、南条は和泉のシャツに手を掛けた。
上から三つボタンを開ける。
覗いた鎖骨には火傷の跡が残っていた。
この暑いのに、和泉は袖のボタンも閉めていた。
少し捲っただけで、両方の腕には無数の切り傷が窺えた。
瘢痕化し、色素沈着を起こした傷となっている所もあれば、軽いケロイドとなって凹凸が顕著に分かる所もある。
あまりの生々しさに、南条は思わず目を逸らした。
こうなった傷は、手術でもしない限り消えることはない。
手術をしても、傷の外見が変わるだけで、完全に消すことは出来ないはずだ。
この子は一生、この苦痛の印と離れられないのだ。
(…あの三人を帰しておいて、正解だった)
保冷剤をタオルで包み、枕と頭の間に入れる。
和泉は辛そうに顎を引いた。
椅子を引いてきた南条は、そこに腰を下ろした。
薄いファイルを団扇代わりに和泉を扇ぐ。
眠って、目が覚めたときには快報に向かっているといいと、心から願った。
この暑さだ。もしかしたら他にも体調を崩す人がいるかもしれない。
そうなったら、他の保健室も開けておかないと。
そんな事を考えていると、備え付けの電話の呼び出し音が響いた。
南条は腰を浮かせ、静かにカーテンを抜けた。
外線だ。
「――はい、保健室の南条です」
『あ、あの、救護班なんですけど。グラウンドの救護テントで、備品が不足してるんです。消毒液とガーゼ、あと包帯も』
保健教諭はこの類の雑用を全て任されている。
内心溜め息を吐いた。
和泉達と合流する前、南条は同じ様な用件で体育館に呼ばれていた。
備品管理まで生徒にやらせろとは言わないが、旅行に行く程暇な教員がここにいれば十分だったのに。
生徒に罪は無い、そう思える自分は変わったのだろうか。
声に意識して微笑みを滲ませる。
「分かりました。今届けます」
『すいません、お願いします』
通話は切れた。
隙間からカーテンの内側を覗くと、和泉は何とか眠れたようだった。
疲れきった様子で、決して快適な眠りではないだろうが、起きているよりずっといい。
電話を机に戻すと、視界の隅にLEDの点滅が映った。
携帯の、メールの受信を知らせる青い点滅。
そういえば、今日は携帯電話を持ち歩いていなかった。
緊急の連絡なら校内放送が入るだろう。
気にはなったが、直ぐに戻ろう、そう思って南条は保健室を出た。
後悔とは、後で悔やむから「後悔」なのだと、そんな当たり前の事を痛感することとなる。