訪問1~2

体育祭の翌日

体育祭は盛況のうちに終わった。

参加が希望制だったために2校の心配の種であった参加人数の確保も問題無く、合同チームの試合でも大いに盛り上がったそうだ。

役員一同ほっと胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。

各競技ごとにトーナメント戦であったり個人戦だったりと採点基準もバラバラで、所謂体育祭のような最終結果発表は存在しなかったが、それでも大規模なスポーツイベントとして十分だったらしい。

校長が挨拶をし、会長が閉会宣言をし、両校の生徒会役員が握手を交わす。

解散となる頃には皆和気あいあいと笑顔を咲かせていた。

唯一、保健室で起きた騒動に関わった各人を除いては。

「では、行きましょうか。」

翌日曜日の夕方、橋葉と五十嵐は保健室に集まっていた。
和泉が置いていった荷物を届ける名目で、和泉に会いに行くためである。
体育祭の後片付けに何人もの生徒が登校していたため、2人が玄関を通ることに違和感を覚える人はいなかった。

3人で連れ立って保健室を後にする。
校門の前には南条が呼んだタクシーが既に着けられていた。
南条は助手席に、橋葉と五十嵐の二人は後部座席に乗り込む。
五十嵐から聞いていたのか、南条は和泉の家の住所を淀みなく伝えた。

冷房の効いた室内から、日が傾きかけた夏の空を見上げる。
ねえ、と口を開いたのは五十嵐だった。

「あの人、俺達を入れてくれると思うかい。」
「知らないよそんなの。」
「チェーンカッターでも持ってく?駅前のホームセンターにでも寄ってさ。」
「バカか。」

おどけた調子で笑う五十嵐。こいつ、楽しんでないか?
荷物を届けるだけなのに3人で訪問して、しかも養護教諭付き。あの人、妹尾貴樹がすんなり通してくれるとは思えない。
鞄だけ受け取って門前払いということも十分あり得る。
でも、どうしても知りたい。
和泉のここ最近の不安定さは異常だ。妹尾に嫌われる、と怯えきる和泉の姿を思い出す。
一体何があったのか。
自分よりも和泉について知っているであろう南条と五十嵐でも、この点に関しては知らないらしい。
助けたいなんて差し出がましいことは考えていないが、せめて和泉が頼ってくれたら、と思う。

「お客さん、着きましたよ。」

運転手がそう告げたので、支払いは南条に任せて車を降りた。
和泉の住むマンションが目の前にある。
歩き出そうとして、足元にセミの死骸が落ちていることに気付いた。
いつも思うのだが、なぜセミは白い腹を上に転がるのか。
踏んでしまわないように避けながら、五十嵐の背を追う。
支払いを済ませた南条が小走りで追い付いた。

5階。真っ直ぐに妹尾のネームプレートを目指し、インターホンを押す。南条が学校名と役職、それから用件を伝えた。
それから数秒待って、ノイズの向こうに返事が返ってきた。完全無視という可能性も考えていただけに、その反応の早さに思わず拍子抜けしてしまう。

「さァて来るかな…?」

五十嵐の呟きと、近付く足音。
あっさりと、ドアは開いた。

「……また、…あなた達ですか。」

(!?)

ドアを少しだけ開き、中から顔を覗かせたのは、予想通り妹尾貴樹だ。ただ、疲弊の度合いが尋常じゃない。
酷いクマとボサボサの髪型。声には全く覇気がない。
泣いたのだろうか、目は微かに充血していた。
拒絶の雰囲気は依然として感じるものの、これまでの攻撃的な敵意は感じられない。いや、妹尾の方に敵意を抱く精神的余裕がない、と言った方が正確かもしれない。
昨日の様子からは想像もできない、まるで別人のような姿に、橋葉や五十嵐はもちろん南条でさえ言葉を失った。

(…一体、何が……!?)

「和泉くんの、荷物を届けに参りました。昨日、鞄ごと学校に置いていったみたいなので…。」

南条が控え目にそう告げると、妹尾は視線だけ動かして確認した。ドアを開き、荷物を受けとる。
チェーンは掛かっていなかった。

夕日を浴びてもなお妹尾の顔色は真っ青だ。
まずいな、と南条は思う。何があったのかは知らないが、妹尾の精神状態もかなりギリギリの所を保っている。

「妹尾…さん、…和泉は…?」

恐る恐る、そう尋ねる。
妹尾の不安定な視線が南条の背後に立つ橋葉を捉えた。

自分はどこで間違えたのかと、和泉は呟いた。
他の誰でもない、和泉自身への問いだった。
けれど、もしかして、―――…

「…入院、している…。」

あまりに予想外の返答に、一瞬呼吸を忘れた。
ここに来れば、和泉に会えると思っていた。
妹尾に直接問い質したかった。

しかし、目の前に立つ妹尾は俯き肩を震わせている。
妹尾が、苦しそうに絞り出した声は冷たく、それでいて消えそうなほど弱々しかった。

「妹尾さんっ」

南条の鋭い声が突然飛んだ。
突然上体が傾いた妹尾を、とっさに南条が支えたのだ。

「はは……すみませ…、…立ち眩みが、」
「妹尾さん、中に入りましょう。私達も入れて頂けますか。」
「……っ」
「幸喜、私の荷物を運んで。橋葉くんは、和泉くんの鞄をお願いします。」

「はい、センセ。」
「は、はい。」

同時に返事を返しながら、五十嵐の混乱が伝わってくる。

南条に掴まりながら歩く妹尾は、思っていたよりずっと細かった。

***

「…妹尾さん、落ち着かれましたか。」

妹尾の体調を気遣ってか、南条は低く抑えた声で尋ねた。
リビングのソファまで運ばれ横になる。南条は妹尾の足を高い位置に置こうとしたが、ソファの大きさを考え断念した。
結果、肘掛けに太股を引っ掛けた奇妙な体勢となる。
きつく目を閉じ眉間を揉む妹尾は、ずいぶん具合が悪そうだ。

「……すみません…」

心配されて真っ先に謝罪が飛び出す辺り、やはりこの人は和泉の家族だ。
ローテーブルを挟んで向かいに立ち、南条がざっと妹尾の診察を行うのを、為す術もなく静観する。
「大丈夫、ただの貧血です」という南条の言葉は、むしろ自分達への言葉だろう。
五十嵐が南条の鞄を床に下ろしたのを契機に1歩歩み寄る。

「…これ、和泉の鞄です。」

ずっしりと真面目な重みのあるそれを掲げると、妹尾は薄目を開け視線を動かした。

「ここに、置いておきますね。」

テーブルの真ん中に、ソファで横になっていても分かるように置く。妹尾は無言で頷いた。

もしかして、妹尾もどこか悪いのだろうか。
ただの貧血と言っていたが、本当にそれだけなのか。
和泉は入院したと言っていた。
一体、どうして。どこの病院なのか、そもそも本当に入院なんてしているのか。

横目で五十嵐を窺うも、感情の読めない表情をしている。

「…妹尾さん、お疲れの所大変申し訳ありません。…先ほど、和泉君は入院されたと仰いましたね。それについて詳しく…教えて頂けないでしょうか。」

南条にしては珍しく、随分緊張が走った言葉選びだったと思う。
妹尾はそれを受け、腕を支えに起き上がる。
南条は慌ててそれを止めようとするも、逆に右手で制されてしまった。

「あなた達には、関係のないことです。…どうか、お引き取り願いたい。」

「なっ…」

この期に及んで、まだそんなことを言うのか。
数分前に妹尾の心配をしたのが馬鹿みたいだ。
妹尾の顔には今までの敵意とは異なり、懇願の色が滲んでいる。
しかし、ふつふつと沸き上がってきた怒りは抑えようがなかった。

「妹尾さん、あなたは和泉をどうしたいんですか…!」

橋葉、と五十嵐が呼ぶ。構わずに一歩、前 に出た。

「和泉を、どうしたいんですか。俺達の何がいけませんか」
「…僕は、直矢の保護者だ。直矢を守る、責任がある。……君達の好奇心に、…付き合う義務はない。」

好奇心、という断定に頬が引きつった。
だが同時に、明確に否定できるだけの理由も無いのだと思い知る。
自分は、なぜこんなにも和泉のことを知りたいのか。

突き放すような言葉は相変わらずで。けれど妹尾は、頭を下げた。
くぐもった声で続ける。

「お願いだから、直也に関わらないでくれ…!君たちは、なにも知らないだろう…!」

それは、悲痛な叫び。
3人は顔を見合わせた。

「……和泉は」その場が沈黙で埋まる前に、橋葉は繋げる。

「和泉は、……最初会ったときは、すごく排他的で。話しかけても無視されることもあったし、全然、反応してくれなくて。」

言葉にしながら、同時に記憶を辿る。
和泉が初めて教室に来た日。最初の、痛いくらいな拒絶の雰囲気。
あらゆるものに警戒を剥き出しにしていた。
そういえば、落としたペットボトルを拾って手を払われたこともあった。

「でも、ある時、和泉が言ったんです。『自分といると不幸になる』って」

妹尾がはっと顔を上げる。
どういうことだ、と呟いた。

「…和泉は、家族も親戚も自分のせいで不幸になったと、言っていました。」

あの時和泉と話した内容は誰にも言っていない。
五十嵐や南条も、言葉の続きを待っていた。

「だから、誰とも関わりたくないと。」

保健室の白いベッドの上で、和泉はそう言っていた。
自嘲気味に笑う和泉の姿を思い出す。
その姿に、自分は惹き付けられたのだ。
知りたいと思ったし、支えたいと思った。それがこんな感情だと、後になって認識した。

(多分、俺は和泉が好きなんだ)

五十嵐や南条にさんざん仄めかされていた意味が分かった。
きっと二人は、もうとっくに気付いていたのだろう。

「俺は和泉に信じてほしくて、友達になろうと伝えました。和泉の敵じゃないから、大丈夫だって。」
「……どうして、そこまで…」
「最初は担任から、和泉のサポートを頼まれていて…。けど今は、俺の意思です。」

妹尾は驚きと諦めとが混ざった表情のまま、視線を逸らさない。
それから、長い溜め息とともに両手で顔を覆った。
俯き、ソファにもたれて項垂れる。沈黙を保った。

「妹尾さん」ずっと黙っていた五十嵐が、のんびりとした口調で言う。

「妹尾さん、こいつはねえ、和泉と会って変わったんですよ。前はもっと冷めてて、色んなことを馬鹿らしいと思って、それなのに教室では完璧に猫被ってニコニコしてて。でも今じゃこうやって感情的にもなれるし、猫被りもやめて。和泉が絡むと、優先順位がひっくり返るんですよ、こいつ。」

外から自分を分析されるのは奇妙な気分だった。
よりによって五十嵐がこんな風に感じていたなんて、少しも気付いていなかった。
五十嵐がニッと狐のような笑みを浮かべてこちらを見る。

「俺は何だかんだこいつとつるんでますけどねえ、前はもっとイヤなやつでしたよ。ねえ橋葉?」
「うるさいよ」
「あはは」

全く呑気なものだ。
けれど、五十嵐の言葉はどれも的を射ていた。

妹尾は項垂れたまま、けれど顔を覆っていた両手を下ろした。
目的を失った両腕は、力なくソファに垂れる。

「…僕は……」

掠れた小さい声で、妹尾が呟いた。
誰かに、というより、自分自身への確認を。

「……僕はどこで、間違えていたんだろう。…いつから、どうして、……」

自分自身への、問いかけを。

やっぱりこの人は和泉の“家族”だ。
どこで何を間違えたのか。体育祭のあの日、和泉は震えながらそう絞り出した。
もしかしたら、それは妹尾の気持ちでもあるのではないかと、やつれた妹尾の姿を見た時に直感した。

二人は似ている。
あまりに似すぎていて、共感はできても支えることは出来なかったのだろう。

「それ、和泉も言っていました。…『貴樹に嫌われたら、どこにも行けない』…これも、和泉の言葉です。」

ああ、と妹尾は呻いた。「何てことだ」苦虫を噛み潰したような顔で呟く。
脱力した掌ををじっと見つめ、決意を示すようきつく握る。
俯いていた顔を上げ、3人を順番に見やり、そして深く頭を下げた。

「すまなかった。…結局僕は、自分のことでいっぱいいっぱいだったみたいだ。あなた達を疑っていた。直也を追い詰めていたのは僕だったのに、それに気付かないふりを、していた。…座ったままで失礼するが、これまでの、非礼を詫びたい。申し訳なかった。」

この人がどんなに和泉を大切にしているのか、痛いほど伝わってきた。
途中で間違えてしまったのかもしれないが、間違えたらそこに戻ってやり直せばいいと和泉に言ったのは自分だ。
「俺も手伝うから」と和泉に伝えた。

「妹尾さん、頭を上げてください。家族の心配をするのは、家族として当然です。」

事の成り行きを静観していた南条が、遂に口を開いた。
南条が居て助かった。自分も五十嵐も、妹尾に対して「頭を上げて」なんて言えない。

「最初の質問を、もう一度しても宜しいですか。…和泉君が入院されたというのは、一体、どういうことですか。」

妹尾はゆっくりと顔を上げたが、今度は目を合わせなかった。
床に視線を落としながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「…自殺未遂だ」

予想外のフレーズに、3人は言葉を失った。

南条も息を飲み、何も言えないでいる。
予想外の展開ではあったが、和泉の自殺未遂は全く予想外の可能性ではなかった。
どこかに「やっぱり」という思いもあり、だからこそ返すべき言葉が見つからなかったのだ。

「昨日、家に帰っても直也はパニックが収まらなくて…、頓服を飲ませて休ませたんだ。夜になって起きてきて、風呂に入って。なかなか出てこないから気になって様子を見に行ったら…風呂場で手首を切っていた。…しかも、服を着たまま、湯船の中で。」

その時の事を思い出したのか、苦しそうに眉間に皺を寄せる妹尾。

「……直也は一時期、自傷行為が酷くて。だからこの家に、直也の目のつく所には刃物は置いていない。台所の包丁も、戸棚の中にケースに仕舞って置いてある。直也もそれを納得していて、ここ最近は落ち着いていたんだ。……だから、油断していた。」

南条だけが控え目に相槌を打ち、五十嵐は目を細め、橋葉は絶句していた。
妹尾は堰を切ったように吐き出す。

「直也の自傷行為は、殆どが現実逃避の手段だった。手首を切ってもそう簡単には死ねないと本人も分かってる。けどそれは、出血の勢いより修復が早かった場合だ。湯船の中なら話は違う。……血が、固まらないからね。直也はそれを知っていた。……直也は、…死のうとしていた。」

僕のせいで、と妹尾は髪の毛をぐしゃぐしゃに掴む。
「待ってください」南条が慌てた様子駆け寄り、その手を押さえた。

「なにも、妹尾さんのせいだけじゃないはずです。あの日は、…体育祭は近隣校と合同で行われていて、…相手校に、岩林がいた。和泉君は岩林洋一と会って、一番不安定になっていた。」

色々と謎めいた所が多いこの人も養護教員なのだと改めて思う。
カウンセリングマインドとでもいうのだろうか。
保健室の先生らしい姿に、ぼんやりとした頭はただ感心しただけだった。

けれど、五十嵐は、違った。
南条が妹尾をフォローすると同時に、「先生」と小さく声を上げた。
思わず口をついて出てきた、といった様子で、本人も予期せぬ自分の声に驚いた顔をした。

驚いていたのは妹尾も同じだった。さっと青ざめ、目を見開く。
南条はそこで初めて、「しまった」とでも言いたげに表情を歪ませた。

(…何だ?)

橋葉は一人、混乱する。

「どうして、あなたたちが岩林を知っている?」

妹尾は南条を食い入るように見詰める。
顔色は蒼白で、また倒れるのではないかと一瞬だけ心配が走る。

──自分が知らないことをこの二人は知っていて、それはやはり公式な情報ではなかったのだ。

おそらく、南条のツテか、もしかしたら五十嵐も情報収集に一枚噛んでいるのかもしれない。
少なくとも、妹尾が隠していた和泉に関する話を、二人は知っていた。

何か思い当たったらしい妹尾は、はっと南条の腕を掴んだ。
その表情に、余裕は少しもない。

「まさか、あの動画を」
「妹尾さん、違います。この二人は何も。私は養護教員ですが、理事から学校の情報管理を任されています。これは非公式ですが、それには生徒や教員の個人情報も含まれています。和泉君の話は…前校長、…山辺校長から、聞いていて…」
「先生、あなたは、見ましたか」
「…一応、確認しています。ですがこの二人は何も知りません」

南条の話が、どこまで本当なのかは分からない。
ただ一つだけ言えるのは、なんの動画かは分からないが妹尾の言う「動画」を、五十嵐も見ているだろうということだ。
横目で様子を伺うも、感情の読めない顔で状況を見守っている。
必要な嘘も、あるのだろう。

妹尾は力無く俯く。
「それでも」聞こえない位の小さな声で呟いた。

「……だとしても、僕のせいだ」

身震いをして、両腕で身体を抱える。

「……僕は直矢を殴ったんだ」

不意打ちを食らった気分だった。
言葉の意味がうまく飲み込めない。

「……殴った?」

バカの一つ覚えのように、妹尾の言葉を復唱した。

妹尾が唸るような声を漏らす。 頭を抱える。
その右手は固く握られ、微かに震えていた。

>>訪問:END

体育祭 当日 4

「南条先生、ありがとうございました」

保健委員の女子生徒が、立ち上がってぺこりと頭を下げる。
南条は微笑んで首を振った。

「とんでもない。予備はまだたくさんあるので、足りなくなったらまた連絡してください」
「はい」
「もっとも、これ以上怪我人が出ないことが、一番望ましいですけどね」

女子生徒はもう一度はいと言った。
救護テントの備品は、南条の予想を上回るスピードで消耗していた。
体調不良を訴えたのは12人。その殆どが少しの休息で回復していた。

和泉の弱さを理解した気がした。
元々の体力や耐性など、フィジカルな面ももちろんあるだろう。
けれどそれ以上に、彼は自分の体調に余りに無関心だ。
自分を労るとか、疲労を防ぐために休むとか、そういった考えは浮かばないらしい。
根源的な奇死念慮なのか、そうでなくとも最近の和泉は何かを恐れ注意力散漫だ。

そんな事を考えながら、南条はテントを抜ける。
背後であっと声が上がったのは、そのすぐ後だった。

振り返ると五十嵐が自分を指差していた。

「やーっと見つけた。もう、俺、この暑い中グラウンドと校舎、何往復したの思います?」

なるほど確かに息を切らせつつ、五十嵐は軽く体当たりをしてきた。
南条は苦笑して受け流す。

「そんなに急ぎの用事でも?」

そう言うと、五十嵐は意外そうな顔をした。
まさか、と口が動く。

「先生、メール見てないんですか」

実体の掴めない悪い予感が胸をよぎる。
五十嵐が余りに深刻な表情を浮かべていたから。

「忙しくて確認していませんでした。何かあったんですか?」

露骨に眉根を寄せる五十嵐。
こういう時の悪い予感は、高確率で当たるもので、南条は聞く前から暗澹たる思いとなった。

「…東諒に、あいつ、岩林がいる。今日の体育祭にも、参加してるんだ」

*
「南条先生?どうしてここに…」

橋葉は見慣れた長身と、薄い白衣の背中を見つけて駆け寄った。
南条は保健室に居ると思っていたので、だからグラウンドで二人を見るとは思っていなかった。

振り返った二人の表情には緊張と混乱が混ざっていた。
南条が口を開く。

「あの後呼び出しがありまして。もう戻ります。和泉くんの様子を見に。」

「早く行こう、嫌な予感がする」

辺りを見渡していた五十嵐が焦りの滲んだ声で急かす。
五十嵐のそんな姿は南条でも意外なようで、南条は片眉を上げて嫌な予感?と呟いた。
五十嵐はそれには答えず、橋葉を見る。

「“森田”が一人で歩いてる。岩林と一緒じゃない。」

森田、確か午前中に体育館への道を聞いてきた東椋の生徒だ。
その時は岩林と一緒にいた。
二人の出る競技が違っているという可能性もあるだろう。
でも嫌な予感は、そんな現実的な推測とは関係なく浮かんでくるものだ。

五十嵐の言わんとしていることを理解した。

「どうせ保健室に戻ろうと思っていたんです。急いだ方がいいなら、急ぎましょう」

南条がそう言い、3人はグラウンドを後にした。
今日一日で何往復もした同じ道。
一番急いで歩いているのに、一番遠く感じられた。

そして、五十嵐の嫌な予感は、現実のものとなる。

蝉の合唱に包まれながら校舎に入り、南条が保健室のドアに手をかけた時だった。
部屋の中から、何かが倒れるような大きな音が響いた。

「何でお前が、ここにいるんだ!!!」

その音に被さるようにして聞こえたのは、叫び声。

「…!」

息を飲む。
誰の声なのか判断もつかないまま、3人は保健室になだれ込んだ。

「何事ですか!」

南条がそう言い、カーテンに駆け寄った。

何が起きているのか、一瞬で理解することは出来なかった。

五十嵐の杞憂は杞憂に終わらず、そこには岩林が居た。
岩林の様子を一言で表すなら動揺。
ぶつかって倒したのだろう、包帯や絆創膏の入ったカラーボックスが足元に散らばり、突然現れた俺達に混乱を隠せないでいた。

叫び声を上げたのは和泉だった。
和泉のこんなに大きな声は聞いたことが無かった。和泉の声だとはまず思わなかった。

和泉はパニックを起こしていた。

南条に体を押さえられてもなお何かを叫んでいる。
五十嵐と俺は、為す術もなく呆然と立ち尽くした。

「和泉くん、落ち着いて…!大丈夫ですから!」

気がついたら、岩林の胸ぐらを掴んでいた。

そのまま引き摺るようにして和泉の視界から外す。保健室の壁に背中を押し付けた。

「お前、和泉に何をした?」

橋葉、と、五十嵐が制止の声を上げる。
岩林は今にも泣き出しそうだった。

「違うんです…本当に、知らなかった。本当です。和泉が、居るなんて、全然、思ってもいなかった…」

「何をしたって聞いてるんだよ」

吊り上げる手に力を込める。見下ろされ、岩林は萎縮しきっていた。
癖の強い前髪の隙間から視線を泳がせる。

「…なあ、」

「橋葉!」

五十嵐に腕を掴まれ、はっとする。
岩林は身を捻るようにして抜けていった。
逃げるのかと睨んだが、本人は茫然とした様子で突っ立っている。

五十嵐の視線が、カーテンに向けられる。
その隙間から出てきたのは、南条だった。

「和泉くんですが…帰した方がいいかもしれません。これ以上“ここ”にいるのは、しんどいんじゃないかと。」

言い回しに違和感を覚えるも、ここにいても落ち着かないだろうとは思う。
迎えを呼ぶとしたら、妹尾貴樹が来るのだろう。あの人に会うのはどうも気が引ける。

カーテンを開けて、和泉の様子を知りたかった。けれど、形容詞しがたい不安に躊躇い、手を伸ばすことはできなかった。
和泉が今求めているのは自分ではないと、目の当たりにするのが怖かったのかもしれない。
決定的な態度を避けている。

南条には養護教諭としての義務がある。机の上で生徒の住所録を開き、受話器を手にした。
放心状態だった岩林は、突如はっとしたように顔を上げた。
その足は閉じたカーテンに向かっていて、けれど南条は離れていて、まずいと思い腕を掴む。
岩林は気にするそぶりも見せず、クリーム色の布の向こうへ、叫んだ。

「和泉、ごめん…本当に、ごめん!謝って済む問題じゃないってわかってる。でも、ごめん、和泉、ごめんなさい…!」

最期の方は涙の滲んだその叫びに、呆気に取られたのは自分だけじゃないようだった。
南条は番号を押す手を止めているし、五十嵐も目を丸くしている。

「ごめん和泉、思い出したくないだろうけど、ずっと言いたかったんだよ、お願いだから聞いてくれ。ずっと謝らなきゃって思ってたんだ!」

「ちょっと君、落ち着いてください。彼は今体調が悪いんです。休ませてあげてください。」

堰を切ったように話し始めた岩林を、南条が制した。
岩林は躊躇わない。
硬質なくせ毛の隙間、眼鏡の奥で浮かんだ涙が光った。

「和泉ごめん、ごめん…!どうかしてたんだ。なあ、俺、……和泉…!」

「幸喜!妹尾さんに電話を。…君、和泉君と話がしたいなら落ち着いて。つまみ出しますよ。」

「…っ」

南条の一言に、五十嵐は受話器を取り、岩林はようやく口を閉ざした。
陰気そうな顔は俯き、所在無げに立ち尽くした。
その肩は南条に押さえられている。

「…保健委員の五十嵐です。…ええ、…はい…。」

電話は繋がったらしい。電話口で、抑えた声で五十嵐が説明している。
南条の視線がカーテンの方をさっと見る。
目線で促され、はっとして岩林の腕を放した。

やや日に焼けたポリエステルの布を、恐る恐るめくる。

和泉はベッドの上で丸まっていた。
両手で耳をきつく覆っている。

「和泉」

ベッドの横に丸椅子を引き、腰を下ろす。
和泉の歯が、ガチガチと音を立てていた。

和泉と岩林。
五十嵐は、岩林がかつて和泉を壮絶に虐めていたグループにいたと言っていた。
けれど先ほどまでの岩林の様子を見ると、どうも違うように感じる。
だが、和泉のこの怯えようは何だろう。

「……れ、」

しばらくの沈黙の後、和泉が何かを呟いた。
え?と耳を寄せる。

「…おれ、どこで…、間違ったのかな」

対象のない独り言。
和泉は一層体を縮こまらせた。

「…どこで、何を…間違えたんだろ…」

「いず、」

「貴樹に嫌われたら……おれ、どこにもいけない…っ」

(……えっ)

―――妹尾貴樹が、和泉を嫌う?

妹尾には、和泉に近づいた自分たちを牽制してきたくらい、和泉に対して庇護的な印象しかない。
それに、随分前に和泉を迎えに来た時の優しい目。
和泉だって妹尾を見て心から安堵した表情を見せていたはずだ。

和泉は何も間違えてない。しっかりとそう言い切れないほど、和泉の事を知らないのだと思い知る。
何を言っても無責任な想像の域を出ないのだ。

「…間違えてたら、さ、そこからやり直そうよ、和泉」

耳を閉ざしている和泉に聞こえるように、顔を近づけてそう言う。
和泉はシーツに押し付けていた顔を少しだけ離した。
両耳を塞ぐ手の緊張が和らぐのが見て取れた。

「間違えてたら、間違えた所に戻って…もう一度やり直せばいいんだよ。…俺も、手伝うから」

ベッドの上に丸まった体勢のまま、ゆっくりと和泉が顔を上げた。
長い睫毛に縁どられた大きな瞳と、視線が合わさる。
驚いたような、泣き出しそうな、そんな表情。
和泉が何かを言おうと口を開いた―――その時だった。

叩き付けるように、保健室のドアが開けられた。

「直矢!!」

その声を聞いて、和泉の顔色が変わった。
さっと青ざめ、よろよろと体を起こす。

勢いよくカーテンが開いた。乱暴に引っ張られたせいで、レールの留め具が一つ弾け飛んだ。
和泉はびくりと肩を震わせる。
息を切らして駆け込んできた妹尾は、恐らくこの場にいる誰よりも混乱し、取り乱していた。

「体育祭なんて聞いてない。まさか直矢、競技に出たの?」

和泉の腕が掴まれる。脱力しきった手がだらりと垂れた。

「でっ…出てない、出てない…得点、やってて…」
「得点係?外で?」

掴まれた右腕は高く上げられたまま、和泉はがたがたと震えていた。
疑いようもなく、妹尾への怯えがそこにはあった。
妹尾が視線を動かす。目が合う。
「また君達か」そう言いたげに眉が顰められた。

「直矢、帰ろうか。今日は休もう」

優しげな声音が、かえって不気味だった。
和泉は言われるままに頷いた。
穏やかな物言いとは裏腹に、強引に和泉の腕を引く。
慌てて起き上がった和泉は、内履きに足を通すこともままならないまま妹尾を追いかけた。
けれどつい数分前まで臥せっていた体で、そんな急な動きが出来る訳も無い。
ベッドの足に躓き、和泉は顔から床に打ち付けられた。

「和泉!」「和泉君」

妹尾は振り返り、はっと我に返る。
落ち着きを取り戻すにつれ、湧き上がってくるものは焦りと、―――自己嫌悪。

「…っ直矢、ごめん早かったね。立てる?」

視線を合わせた妹尾に、和泉は縋るようにしがみついた。
髪の毛に隠れて表情は見えない。
妹尾を掴む両手は微かに震えている。

結局、和泉は妹尾に抱えられるようにして保健室を出ていった。
妹尾の服を掴んだまま離さなかったことだけが、印象に強く残っている。

保健室は嵐の後のようだった。
レールが壊れたせいで不均等に揺れるカーテンに、床に広がる救急セットの類。
誰も何かを言い出せないまま、動けないままで、沈黙を破ったのはグラウンドから響いた閉会の号砲だった。

南条が、岩林の肩を押さえたまま言う。

「岩林君。君には何点か聞きたい話があります。今日はもう解散になるので、また後日。連絡先を伺ってよろしいですか」

静かな命令に、岩林は素直に従った。

「橋葉、お前さん、閉会の挨拶あるんじゃないか」
「…あ、…そうだ、忘れてた。…行かないと」

目まぐるしく展開した出来事に、五十嵐もまだぼんやりとした様子である。
橋葉もそれは同じで、行かないとと言ったきり椅子から立ち上がろうともしなかった。

「ここは片付けておきますから、二人は閉会式に行ってください。岩林君も、これを書いてもらってからすぐ向かわせます」

それから、と続ける。

「和泉君、荷物も全て置きっぱなしでしょう。明日、届けに行きます。橋葉君も、幸喜も、一緒に行きましょう」

南条にしては珍しいほど、強い視線だった。
それに一番驚いたのは五十嵐だろう。目を細め、じっと南条を見据えている。

和泉の事を知りたい。
和泉は間違っていないと伝えたい。

「行きます」

>>体育祭 当日:END

体育祭 当日 3

甲高いホイッスルが鳴り響く。
頬に鈍い痛みを感じるのと、体が床に落ちるのは同時だった。
バレーボールが床を転がる。
駆け足で審判が寄ってきた。

「君、大丈夫か」

平気です、そう言おうとしたが、口から漏れたのは何とも情けない呻き声だった。
足をおかしな方向に捻ったらしい。
まともにボールを受けたので、口の中で血の味がした。

同じコートに居た人は、迷惑そうな目で静観していた。
あの目をずっと前から知っていた。
「こんな奴居たっけ」と、無言で伝える瞳。

「動けないだろう。誰か、保健室に…」

審判が周囲を見渡したので、慌ててそれを遮った。
その続きも知っていたからだ。
誰もそんな面倒なことをしたくない。
付き添いの押し付け合いが始まる前に、一人で行けますと告げた方がいい。
そうかと審判は頷いて、定位置に戻る。
試合再開のホイッスルが鳴らされた。
同じ笛のはずなのに、どこか浮いて聞こえたのは気のせいではないはずだ。

一人で体育館を後にする。
知らない校舎の行ったこともない保健室へ向かって。
誰の視線も感じないのも、もう慣れた光景だった。

それから途中で二人に行き方を訪ね、痛む足を引き摺ってようやく保健室に辿り着いた。

ドアを開けると、クリーム色のカーテンが揺れていた。
空調が効いている。薄手のレースの向こうから、柔らかい光が差し込む。
外とはまるで別世界にいるようだった。

(誰も…居ないのか…)

戸棚のガラスの向こう側、包帯や湿布が重なっているのが見えた。
勝手に取り出していいものか。
少し悩んで、別に急ぐ理由なんてないのだと思い知る。
ずっとここに居られれば、競技に参加して誰かの迷惑になることもない。

そう考えた時だった。
がさりと物音がして、激しく咳き込む声が聞こえた。
はっと顔を上げると、ベッドのカーテンは一つだけ閉じられていた。
誰もいないと思っていただけに、苦し気なその声はやけに響いて聞こえた。

この部屋には、自分しか居ない。
慌ててカーテンを掴んだ。
そして勢いよく腕を引く。

「ねえっ、大丈夫?」

華奢な背中が不規則に上下していた。
シーツには濁った吐瀉物が広がっている。
駆け寄ってその背を擦った時には、何の根拠もなく年下だと思っていた。

不意に顔を上げた目の前の生徒と、目が合う。
ただ驚いた様子の顔に、何かが滲む。

記憶の底で直感した。

滲んだ怯えは、瞬く間に彼の全身を侵食していった。
目を見開く。
色素の薄い綺麗な瞳が、目一杯に自分を捉えた。

逃げ出したいのはこっちだった。
自分は本物の、臆病者だ。

「……岩林…」

音を遮断する。
時間が逆流する。

彼の唇から零れたのは、自分の名前。

体育祭 当日 2

「誰か倒れたらしいね」

体育館を出てグラウンドに向かう途中。
グラウンドの方から歩いてきた数人が、そう噂していた。

微かに嫌な予感がした。

確かに誰かが倒れてもおかしくない気温だ。
けれど実際に厚さで倒れる人なんて、身の回りにそうしょちゅう居るものじゃない。

自然と歩幅が広がる。

センサーが切られ、出入り自由になった生徒玄関を抜けた時、視界に映ったのは三人の影。
すぐに分かった。
西沢と、和泉、それから村野。

和泉は二人に抱えられるようにして歩いている。
迷わずに三人に駆け寄った。

「どうしたの、これ」
「和泉、多分熱中症。早く涼しい所連れて行かないと。保健室って、クーラーついてるよね」

そう答えたのは西沢。
運動部なだけあって、こういったことに一番敏感なのは西沢だ。
普段の雰囲気はどこかへ行ってしまう。

和泉は少し顔を上げて、消えそうな声でごめんと呟いた。

「保健室、開いてないかも。俺先に行って開けてくるよ」

確か、養護教員の南条が保健室を開ける時間があった筈だ。
各試合場を回らなければいけないらしい。
生徒会で配られた日程表を脳裏に浮かべたが、正確に思い出す事は出来なかった。

「じゃあ橋葉、お願い」

斯くして、さっき通ったばかりの玄関を再び潜ることになった。

保健室に向かう途中、ざわつく廊下で五十嵐とばったり会った。
この廊下は体育館にも繋がっているので、自他校問わず人で溢れていた。
クーラーなんて気の利いたものはないから、廊下は外に負けない位暑い。
向こうは俺を探していたらしく、目が合うとあっと声を上げた。

「先生を見てないかい。あいつが居るってメールしたんだけど、返事がない。電話も出ないし、どこいったんだろう」

「南条先生居ないのか。和泉が熱中症で倒れたんだ。今保健室に来るんだけど」

話ながら廊下の隅に寄っていった。
人通りが多いし、立ち話は通行の邪魔だ。
五十嵐はこめかみの辺りを揉む。

「タイミング悪いなあ。でも、和泉が移動しないのは良いことかもしれないね。さっき保健室行ったけど、鍵も開いてたし涼しかったよ。俺はグラウンドの方見てくるから、お前さんも先生を探してくれ」

話がややこしくなってきた。
きっと、さっき五十嵐から聞いた以上の事が、和泉と岩林とかいうやつの間にあったのだろう。
いつになく焦る五十嵐を見て漠然とそう思った。
和泉の次は南条を探せと言う。
なんだか今日は人探しばかりしている日だ。

「分かったよ。じゃあ、また、保健室で」

そう言って五十嵐と別れる。
ここで和泉達が来るのを待とうかと一瞬考えたが、往来の多さに断念した。

保健室には、意外にも誰も居なかった。
この暑さだし、何より体育祭の真っ只中た。怪我人の一人位居てもおかしくはないだろうに。

空調の効いた室内に足を踏み入れてすぐ、閉めたばかりのドアが開いた。
隙間から靴の先が覗く。
西沢と村野が、和泉を支えながら入ってきた。
西沢が足でドアを開けているので、手伝おうと近付くと、穏やかだが鋭い声が飛んできた。

「橋葉くんはベッドのカーテンを開けて。布団も開けてくれると助かります」

その声にはっとして視線をやると、三人の後ろには南条がいた。

「来る途中で偶然会ったんだよ」

疑問が顔に出ていたらしく、西沢がすかさずそう説明した。

和泉の体調は控えめに言っても悪化していた。
真っ青な顔色に、荒い呼吸。冷や汗まで浮かべていた。

急いで一番近いベッドのカーテンを開け、布団を整えた。
掛け布団をどかして、と南条の声がしたので、それに従う。

薄手の羽毛布を抱えながら、ぐったりとした和泉がベッドに横になるのを、ただ見ていた。
目を閉じたまま、呼吸に合わせて胸が微かに上下する。
南条は俺の持っていた掛け布団を畳み直し、和泉の足の下に置いた。

「熱疲労だと思いますが、軽く手当てをするので、後は任せて。橋葉くん達は戻って結構ですよ。まだ試合が残っているでしょう」

西沢や村野はともかくとして、自分の出場する試合は終わっていたが、南条の声音には有無を言わさぬ調子があった。
そこで大切な用事を思い出す。

「あっ、そうだ、五十嵐が探してます。後で保健室に来るって」

すっかり忘れる所だった。
岩林の話もしようかと思ったが、和泉の目の前なのでやめておく。
きっと五十嵐が伝えるだろうし、メールを送ったと言っていたから、もう既に知っているかもしれない。

南条は不思議そうに首を傾げ、それから頷いた。

俺と西沢、村野の三人は、殆ど追われるようにして保健室を後にした。
西沢はなおも心配そうで、村野もドアを不安そうに眺めていた。

「…俺達は戻ろうか。二人はまだ試合あるでしょ?」
「俺は次の試合までまだ時間あるけど、西沢がサッカーあるから俺もグラウンド行くわ」

村野はそう言って時計を見た。
慌てた様子で西沢を呼ぶ。

「西沢、時間、時間!もう始まってるぜ」
「嘘!うわ、やば。橋葉、という訳で行ってくるよ!また後でね」

栄養補給してない、と叫びながら、西沢は走っていった。
村野は笑いながらそれを追いかける。
時計を見ると、12時になろうとしていた。
おそらく今の試合が、午前中のラストゲームだろう。

五十嵐を呼ぼうとして、しまった、と思う。
ポケットを探ろうとしていた右手が、行き場なく泳いだ。
携帯を教室に置きっぱなしにしていたのだ。

文明の利器、小さな箱。
面倒に思ったが、五十嵐が行き先を告げていたのは幸いだった。
今日で何往復目が分からない道のりを辿って、グラウンドに急いだ。

「和泉くん、少しだけ起き上がれますか」

冷蔵庫から取り出した経口補水液をコップに注ぎ、和泉の元へ持っていく。
薄く目を開けたが、体を起こすことは難しいらしく、辛そうに眉根を寄せた。
南条は、和泉の意識がしっかりしていることに安堵の溜め息を漏らした。
熱中症を侮ってはいけない。
意識障害を起こしていたら、命の危険さえある。

背中に手を添え、和泉を何とか支え起こす。
南条は和泉と目線を合わせた。

「辛いですね…。これ、飲めますか」

虚ろな目でコップを捉え、和泉は怠そうにそれを受け取った。
緩慢な動作で口に含むもプラスチックの容器が空になるより先に噎せかえってしまう。
気道に入ってしまった、苦しそうなそれに南条は思わず謝罪を口にする。

「ゲホッ、げほ、げほ…っ」

力なく咳き込んだが、それが吐き気を誘発したらしい。
小さくえずき、顔を背けた。
実は保健室に着く前、和泉は一度吐いていた。
嘔吐衝動は落ち着いたと思っていたから足を高く上げたのだが、この様子では布団はどかした方が良さそうだ。

「…ぅ、…っ、…」

「和泉くん、」

背を丸めてしまうので、南条は急いで洗面器を掴んだ。
和泉に差し出すと、慌てた様子で顔をつき出す。
体力が追い付かずに、少しずつしか吐き出せない。
苦しそうな表情を浮かべ音も立てずにもどし、濁った液体がばたばたと洗面器に打ち付けられた。

ひとしきり吐いて、和泉は脱力しきった。
倒れるようにベッドに横になり、浅く乱れた呼吸を繰り返す。
元々体力が十分じゃないのだろう、そう南条は思った。
和泉の体調に障らないよう、意識して声を落とす。

「和泉くん、熱を逃がすために衣服を緩めます。自分で動けそうですか」

返事はない。
半分も開いていない虚ろな目は南条を映し、長い睫毛が揺れた。
赤い唇の隙間から、白い歯が小さく覗いていた。

涼しい所で衣服を緩めるのは必須事項だ。
和泉本人が出来ないのなら、南条がやらなければならないのだが、南条は僅かに躊躇った。
普段の和泉なら絶対に抵抗を見せるのに、朦朧とした意識ではそれすらもままならない。

「…すみません」

そう謝って、南条は和泉のシャツに手を掛けた。

上から三つボタンを開ける。
覗いた鎖骨には火傷の跡が残っていた。
この暑いのに、和泉は袖のボタンも閉めていた。
少し捲っただけで、両方の腕には無数の切り傷が窺えた。
瘢痕化し、色素沈着を起こした傷となっている所もあれば、軽いケロイドとなって凹凸が顕著に分かる所もある。
あまりの生々しさに、南条は思わず目を逸らした。
こうなった傷は、手術でもしない限り消えることはない。
手術をしても、傷の外見が変わるだけで、完全に消すことは出来ないはずだ。
この子は一生、この苦痛の印と離れられないのだ。

(…あの三人を帰しておいて、正解だった)

保冷剤をタオルで包み、枕と頭の間に入れる。
和泉は辛そうに顎を引いた。

椅子を引いてきた南条は、そこに腰を下ろした。
薄いファイルを団扇代わりに和泉を扇ぐ。
眠って、目が覚めたときには快報に向かっているといいと、心から願った。

この暑さだ。もしかしたら他にも体調を崩す人がいるかもしれない。
そうなったら、他の保健室も開けておかないと。

そんな事を考えていると、備え付けの電話の呼び出し音が響いた。
南条は腰を浮かせ、静かにカーテンを抜けた。

外線だ。

「――はい、保健室の南条です」
『あ、あの、救護班なんですけど。グラウンドの救護テントで、備品が不足してるんです。消毒液とガーゼ、あと包帯も』

保健教諭はこの類の雑用を全て任されている。
内心溜め息を吐いた。
和泉達と合流する前、南条は同じ様な用件で体育館に呼ばれていた。
備品管理まで生徒にやらせろとは言わないが、旅行に行く程暇な教員がここにいれば十分だったのに。
生徒に罪は無い、そう思える自分は変わったのだろうか。
声に意識して微笑みを滲ませる。

「分かりました。今届けます」

『すいません、お願いします』

通話は切れた。
隙間からカーテンの内側を覗くと、和泉は何とか眠れたようだった。
疲れきった様子で、決して快適な眠りではないだろうが、起きているよりずっといい。

電話を机に戻すと、視界の隅にLEDの点滅が映った。
携帯の、メールの受信を知らせる青い点滅。
そういえば、今日は携帯電話を持ち歩いていなかった。

緊急の連絡なら校内放送が入るだろう。
気にはなったが、直ぐに戻ろう、そう思って南条は保健室を出た。

後悔とは、後で悔やむから「後悔」なのだと、そんな当たり前の事を痛感することとなる。

体育祭 当日 1

「それでは、各校の垣根を越え、存分にスポーツを楽しんでください!解散!」

会長が声高に開催宣言をする。
合同で体育祭を開催するに至った経緯を延々と述べる教頭の挨拶に、うんざりしていた空気も一斉に華やいだ。

その経緯というのも前任の校長と相手校の校長が親しい友人同士であったから、という至極単純なものであるのに、どうしたらあんな風に紆余曲折できるのか不思議に感じてしまう程。

橋葉は話し終えた会長を呼び止める。

「お疲れさまでした」
「ああ、橋葉。お疲れさま」
「結局、スポ特以外で参加するの、三年ばかりでしたね。三年の希望調査まとめていたら殆ど参加だったんで、全校で闘うかと思ってました」

まさか!と会長は吹き出した。
器用にマイクを片付けていく。

「そんな訳ないだろ。一年が三年と闘えると思うか?肉体的には問題なくても、こんな縦社会じゃいくら祭って言ったって無礼講にはならないよ」

それもそうかと合点する。
どこの高校でもそれは同じようで、相手校である東椋の生徒も殆どが三年だった。

「俺も早く行かないと競技に遅れる。橋葉も急げよ」
「はい」

グラウンドではサッカーの試合が始まろうとしていた。
後から作ったグラウンドなため、ここから校舎と繋がる体育館までは少し離れている。
橋葉も足早に体育館に向かった。

バスケの試合は勝ちに終わり、午後の決勝を残すのみとなった。

生徒会役員は各競技場を見回らなければならない。
自分に任されているのは第一、第二体育館だ。

(和泉、どこの審判してるんだろ)

「はーしば」

突然、背中に衝撃を受ける。

「五十嵐、」

五十嵐がスポーツタオル片手にひょろりとやってきた。
先ほどまでのバスケの余韻が残っている。
軽く上がった息で、おつかれさんと橋葉の肩を叩いた。

「お疲れ。もう終わり?」
「いーや。午後にテニス。橋葉は?」
「生徒会の仕事で巡回」
「楽しそうだねえ。…手伝わないけど」

軽口を叩き合っていると、背後から遠慮がちに声が上がる。
振り返ると、東椋の生徒だった。
タオルで汗を拭きながら、勢い余って縁の太い眼鏡を大きくずらし、それを直しながら近付いてくる。

「あのー、第二体育館ってどこですか」

どうやら迷ってしまったらしい。
橋葉は廊下を指差す。
建て替えの際旧校舎の一部を残し、そこに含まれていた体育館を第二体育館として使用しているため、新校舎からは少しややこしい作りになっている。

「ここを出てすぐの渡り廊下を進んで下さい。一階に更衣室やシャワールームが並んでるんで、そこを突っ切った先の階段を上ればあります」
「藤ヶ谷って広いっすねー。もう三回迷子になりました」

いくらなんでもそれは、と、危うく言いかけてしまった。
橋葉は曖昧に笑みを浮かべる。

「何度か建て替えてるんですけど、その都度一部を残して改築したらしくて…だからこんなにややこしいみたいです」

東椋の生徒…指定ジャージに「森田」とある…は、ふうんといった表情を浮かべ、納得したように頷いた。
そして遠くに友人を見つけて呼ぶ。

「おーい岩林!行き方聞いたぞ、行こうぜ」

岩林と呼ばれた男ははっと振り返り、森田を視界に留めて頷く。
岩林も眼鏡を掛けているが、どちらかというとしっかりとした体躯の森田とは対照的にガリガリといっていい程細かった。

そこで、他校の生徒に全く関心を示さなかった五十嵐が、初めて何かに反応した。

「…岩林?」

小さくそう呟く。
二人が去り、橋葉は知り合いかと尋ねたが、五十嵐の視線は対照的な2人の背中を追っていた。

「おい五十嵐、さっきの2人がどうかしたのか」

語気を強めると、漸く五十嵐は向き直った。
少しだけ顔色が悪い。
困惑に近い、こんな表情を見るのは初めてだった。

「橋葉、向こうの高校の参加者名簿とか、持ってるかい」
「…そりゃ、持ってるけど、…一体どうしたんだよ」

五十嵐はそれには答えず、今すぐ見せてくれ、と真剣な顔で視線を合わせた。

「…教室に置きっぱなしだよ」
「じゃあ取りに行こう」

生徒会の仕事もあるのだが、そんなことを言い出せる雰囲気では無かった。
半ば急かされるように体育館を後にする。
教室に戻る途中も、五十嵐は何も言わなかった。

体育祭の喧騒から離れ、すっかり人気の無い校舎は静まり返っていた。
あんなに賑やかだったのに、2人だけが空間から切り離されたかのように感じた。

遠くから歓声が聞こえた。

橋葉は鞄の中から名簿を取り出して五十嵐に手渡した。
五十嵐はそれをざっと眺め、2枚目で動きが止まった。

「…2-3、岩林、洋一」

聞こえるか聞こえないかの声で、名前を読み上げる。
橋葉に聞き覚えは無かった。
考えの読めない五十嵐の言動に、橋葉は苛立ちさえ感じていた。

「誰だよ、それ」

橋葉、と、五十嵐は言う。
顔を上げたが、その視界は橋葉を捉えてはいなかった。

「だから、何」

ついきつい物言いになってしまうも、五十嵐はそれから何も言わない。

岩林洋一。
一体、誰なのか。

***

「橋葉、」

五十嵐が呼ぶ。もう何度目か分からない。
躊躇いを感じさせる沈黙が流れた。

「まずいことになったかもしれない」

小さな声だった。
意味が分からず首を傾げる。
五十嵐は、いつになく慎重に口を開いた。

「橋葉、端的に話すから聞いてくれ。和泉は中学の時虐められていた。しかも生半可なレベルじゃない。かなりキツイ。俺だって無理。高校を丸一年休んだのも、一部はそれが原因だ。その加害者側に居た奴が、向こうの高校にいる。さっきのメガネだよ、ガリガリの方。名前は岩林洋一」

五十嵐は一息にそう言う。
いつもののらりくらりとした調子とは天と地ほどの差だ。

五十嵐は、岩林が完全に加害サイドに属していた訳ではないと知っていたが、説明が長くなるのでやめた。
橋葉の眉間には深い皺が刻まれていく。

「何だ、それ」
「おまえさんの言うバランスを崩して悪かったね。でもちょっとまずいと思わないかい」
「ちょっとどころじゃないだろ。その問題って、当人たちは解決してるのか」
「してたら一年も引き摺らないだろうねえ」

新たに入ってきた情報は余りに明後日の方向性で、思考回路はフリーズした。
五十嵐が知り、自分の知らない和泉のこと。
和泉の言葉を思い出す。
『俺のせいで家族が死んだ』みたいなことを言っていたから、和泉の不安定さは家庭内の問題かと思っていた。

(あるいは、それも一部か…)

いずれにせよそれは推測の域を出ないもので、和泉が知られたくないと思っているなら知りたくない事だった。
和泉の口から聞きたい。
五十嵐もそれを分かっているからか、それ以上は何も言わなかった。
最低限の状況説明。

「それで、どうすればいい?そいつ…岩林?だっけ。五十嵐はそいつがまた和泉に妙な動きをしなか心配してるのか?」

名簿に目を落としたまま緩く首を振る。

「妙な動きをして…、万が一、…いや、何でもない」
「万が一、何」
「…もし、あいつがおかしな事をして、和泉がまた一年外に出られなくなったらどうだい…って話」

一瞬だけ脳が固まった。
五十嵐は五十嵐で和泉を心配していたのだ。
少しの意外性。
溜め息を吐く。
窓の向こうの快晴は、真夏の空気を生んでいた。

五十嵐は自分の鞄から携帯を取り出して電源を入れる。

「ちょっと先生の所に行ってくる。おまえさんは生徒会の仕事がてら和泉を探しておいてくれ。和泉だって役員の仕事してるだろうし、連れてこいなんて言わないけど、どこに居るか分かってた方が橋葉も安心だろ」

にやりと笑う五十嵐。こんな狐顔で甘党という意外性の男。
じゃあ、と言って立ち去ろうとする背中を呼び止める。

「お前、テニスはどうすんだ」

五十嵐は携帯を耳に当てながら首だけで振り返った。

「サボるさ」

音を立ててドアを閉める。
足音が遠ざかると、完全な静寂となった。

動きたくないな、そう思って、そんな自分の考えに驚く。

名簿を仕舞った。
岩林洋一。細身の眼鏡と、痩せた体を思い出す。
顔の印象は特に無く、ぼんやりとしていた。

空は憎らしい程晴れていた。

飛行機の音が、歓声の隙間から聞こえた。
時々ホイッスルが響き渡る。
炎天下のグラウンドには音が溢れていた。

「…君、和泉君、」

肩を控え目に叩かれ、心臓が縮む。
横を見ると、同じ得点係の女の子が不思議そうに見ていた。
制服の上だけTシャツに代えた彼女は、得点表を指差す。
確か、サオリと言っていた。

「和泉君、そっち、点入った」

慌てて得点を捲る。
サオリは興味無さそうに視線を戻し、コートの中でサッカーをする選手達に声援を送った。
誰かがゴールに向かってボールを蹴り、それをキーパーが弾いた。

歓声が一際大きくなる。

額から流れた汗が頬を伝った。

暑さで思考が霞む。
蝉の輪唱に焼かれていく気がした。
太陽光はじわじわと体力を奪う。

(この人、大丈夫?)

得点表をいじりながら、サオリは横目で様子を窺う。
初めて会った和泉直矢は、想像よりずっと線が細かった。
それに、いくら得点係だからって、長袖シャツのまま来るなんて、ちょっとズレてる。
サッカーなんて興味無いんだろうな、と思った。

ぼんやりとコートを眺めているが、サッカーを見ているのかどうかは分からない。

突然、ガシャンと音がした。
はっとして横を向くと、和泉が得点表に体重を預けていた。
倒れそうになって、慌てて掴んだ、という感じ。

「ちょっと、大丈夫?!」

和泉は何とか体勢を整える。
けれど、まだ足がふらついていた。
俯いた頬を見てぎょっとした。
この炎天下、和泉の顔色は蒼白だった。
血管が透けて見える。

「ねえ、休んでた方がいいんじゃない。顔色やばいよ」

和泉はちらりとこっちを見たが、何も言わなかった。

(何、こいつ)

少し、むっとした。
口下手とか、人見知りの話ではない。
大丈夫かどうか位、何とか言ったらどうなのか。

横から窺える睫毛の長さに目が留まる。
作り物みたいな横顔から目を逸らせないでいると、いきなり和泉は口を開いた。

「ごめん、」

消えそうなくらい掠れた声だった。

初めて向けられた言葉は謝罪。
彼はほんの少し顔を動かしただけだったのに、視線が一直線に繋がる。
ずっと見ていたのが気付かれたかもしれないな、とか、頭の隅で浮かんできた。
申し訳なさそうに私を見て、俯く。

「少し休んで、いい?」

きっと、
神様が物凄く時間をかけて、丁寧に慎重に作った顔なのだろう。
でなかったら、こんな風に――

強い日差しを受けて、和泉は空気に溶け込みそうだった。

なんでそんな事、いちいち私に聞くんだろう。
得点表に体重を預けたままの和泉は、今にも倒れてしまいそうで、首が痛くなるほど頷いた。
和泉はほっと息を吐き、その場に腰を下ろした。
驚いたのは言うまでもない。

(…え。休むって、ここで?)

だとしたら、和泉はこの場に座る許を私に求めていたことになる。
わざわざ私に聞かなくても、辛いなら休めばいいのに。
そんなに威圧的な態度、取っていたつもりは無いんだけど。

「ね、ねえ、こんな所じゃなくて。救護テントとか、日陰でもいいじゃん。涼しい所で休みなよ」

和泉は体育座りをした膝に顔を埋めたまま、顔を上げない。

ようやく、彼の異変に気付いた。

「ねえ、大丈夫!?」

得点そっちのけで和泉に近寄る。
何かがおかしい、と思った。

やけに早くなった呼吸。
真っ青な顔色。

傍らに膝をついて軽く肩を揺すると、彼は呆気なくバランスを失った。
熱い体がもたれかかってくる。

「ねえ、どうしたの。聞こえる?」

返事は無い。
その代わりに、浅い息。
ぐったりとした手足は殆ど力なんて入ってなかった。
制服のズボンは土まみれになっている。

どうしよう。
どうしたらいいの。
半ばパニックになり、夢中で辺りを見渡した。
和泉が死んでしまうと思った。
それほど目の前で蹲る薄い背中は弱々しかったのだ。

「和泉!」

誰かがそう叫ぶのと、和泉の肩が強張るのはほぼ同時。

「…っ、う、」

喉の奥で何かを堪えるように息を詰める。
小さく嘔吐いた。
背中をさらに丸め、細い指で口元を押さえた。

誰かが駆け寄って来る。
ビブスを着用しているから、サッカーに出場する生徒なのだろう。
スターティングメンバーではなかったらしく、テントの方からやってきた。
違うクラスだけど、見たことある。
確か、西沢だ。

「和泉!大丈夫!?…ねえ、どうしたの」

最後の言葉は私に向けられた言葉ものだった。
馬鹿みたいに首を振る。
何だか泣きそうだった。
試合をしていた人たちも、一時中断してこっちを見てる。

「分かんない…!具合悪そうだったから、休んでなよって言って、急に、」

西沢は真剣な顔で何度か頷いて、私に体重を預けたままの和泉を引き寄せた。
夏の日差しも暑かったが、和泉の体温はもっと高かった。

「和泉、立てる?」

背中をさすりながら西沢が尋ねる。
何人かが私たちを囲んでいた。
心配そうな顔と、興味本位の顔に二分できる。

口元を覆った和泉の左手は小刻みに震えていた。
それを抑えるようにもう片方の手で左手を掴む。

相変わらず呼吸は酷く乱れていた。

西沢も小柄だと思っていたが、和泉はそれよりもずっと細い。
変に慌てた頭はそんな事ばかり捉えてしまう。

和泉が怠そうに首を振った。
自力で立ち上がる事すら困難らしい。
その事に気付いた時、もう一人が見物人を抜けて和泉の横に膝をついた。

(私、邪魔になる)

そう思い、慌ててその場から離れた。
さっき来たのは、隣のクラスの村野だった。

「村野、和泉に肩貸すの手伝って」
「勿論そのつもりできたんだよ」

真面目な顔で、そんなやり取りをする2人。
後ろの方から「熱中症じゃない?」と、誰かが囁く声が聞こえた。

和泉に対して謝りたい気持ちでいっぱいだった。
何でかと問われるとうまく答えられないのだが、とにかく凄く悪い事をしてしまった気がしたから。

ぐったりと脱力した和泉を何とか立たせ、半ば引き摺るようにして二人は和泉を連れて行った。

何度か和泉がしゃがみ込んでしまい、炎天下のグラウンドを抜けるまで、気の遠くなるくらい時間がかかった。

誰が言い出したのか、試合は再会した。
結果は2対4で青色ビブスの勝ち。
トーナメント表に記入するのも得点係の仕事だった。

得点係なんて、一人で十分じゃないか。
そう、思った。

体育祭 前日

それぞれの前日。

#橋葉

いよいよ体育祭が目前に迫り、全ての授業はその準備に当てられた。
何の役割も担っていない教員の中には海外旅行に出掛けた人もいるらしい。
俺は生徒会の仕事が倍増したし、和泉は補助役員として呼び出される事も多くなった。
生徒会長と一緒になって体育館を回った時、和泉が他の審判補助の中体育教師の指示を聞いているのを見た。
長袖のままぼんやりと話を聞く和泉と、空調の効かない蒸し暑さはどこか不釣り合いだった。

(…そういえば、和泉はいつも長袖だ)

「午後、東椋高校の実行委員が来るから、そこで最終打ち合わせだな、橋葉」
「あ、ああ、はい」

和泉に気を取られ上の空だった。
会長が不思議そうに俺を見る。

「何か気になる事あったか?」
「いや、…体育館、少し暑くないですか?」
「ああ確かにそうかもな。でもテニスやらバドやらここだろ?風が入るとまずいからこれ以上窓開けられないんだよ」

第二体育館はどうだったか、と呟く会長を尻目に、視線は和泉を追う。
俯いて、少しだるそうだ。
単に面倒くさいのか、それとも具合が悪いのかは分からなかったが、和泉の真面目さを思うと前者な気がして余計目で追ってしまう。

「じゃあ、次は倉庫確認に行くから」
「はい」

体育館に背を向ける。
和泉の伏した目を思い浮かべていた。

#和泉

ガコン、と音がして、床にテニスボールが広がった。
爪先にプラスチックのバスケットがぶつかる。
和泉は壁に体を預けた。

(…補助役員って…雑用…)

信じられない位多忙だった。
体よく雑用を押し付けられている気さえする。
軽い貧血で、視界が揺れた。

「和泉!早く拾ってこい!」

体育教師の怒声が響く。
良く思われていないのは知っていた。

「…今、行きます」

急いでボールを片付ける。
足元が歪む嫌な感じは消えない。

待ちかねた体育教師は、もう説明を始めていた。

重力に、負けそうだ。

蒸し暑い体育館では周りの空気も熱を持つ。
ぬるい室内でじっとりと汗ばむのが不快だった。

ボールを拾うためにしゃがみ込んだら、もう立ち上がるのが億劫になってしまった。
眩暈のような感覚も引かず、背中を丸めて壁に寄せる。

全ての音が薄い膜の向こうに感じた。

(だる…)

毎日こんな雑用を渡されたらとても体力が持たない。
もう、限界だ、と思う。
でも学校を休んだら、貴樹に心配されてしまう。

体育教師の話は終わったらしい。
すぐそばを何人もが通り過ぎていく。
怪訝そうな声が聞こえた気がしたが、何を言っているのかは分からなかった。

影が立ち止まった。

「おい和泉」

体育教師の声だ。

顔を上げると、大きな体が見下ろしていた。
天井の照明が眩しくて頭痛がした。

「お前俺の話聞いてたのか」

低い声。反射的に背筋が伸びた。

「…ごめんなさい」

「聞こえないぞ」そう言って胸ぐらを掴まれる。
息がかかる程近い距離で凄まれ、心臓がどきりとした。
背筋に冷たいものが走る。

「1人でもこういう奴が居ると全体に響くんだ。全体の士気が下がるんだよ」

「っ…ごめん、なさ…」

手を、離して欲しかった。

体育教師を押し返そうと腕を掴むと、ふん、と鼻を鳴らし、汚いものでも払うように手を外した。

心臓が嫌に脈打った。
息を吐きたいのに、うまくできない。

教師がそのまま立ち去り、通り過ぎようとした誰かに顔を覗き込まれた。

「なあ、大丈夫か」

そう言って肩に手を置かれる。
無意識に、その手を払っていた。
その人は何も言わずに戻っていった。

(もう、嫌だ…!)

両手で髪の毛をぐしゃぐしゃに掴む。
指に絡んで細い痛みが走った。

苦しいと叫びたい。辛いと訴えたい。
でもそれを、誰に伝えればいいのか。

自分は、どうすればいいのだろう。何をすれば、誰の迷惑にもならずに生きていけるのだろう。

#西沢と村野

「和泉君ってさあ、どうなの?得点係の名簿に名前あったけど、学校来てるっけ」
「和泉?あー、外国語のクラス一緒だけど、あんまり見ないかも。サオリも得点係やるんだ?」
「そ。サッカーで同じ回だったから、怖い人だったらやだと思って」
「どうだろうね。見た目は怖くないけどね…」

教室の窓際、そんな風に噂する女子2人を、西沢は不満そうに見やった。

「勝手な事言ってる。柴田のほうがよっぽど怖いよーだ」

その声の音量に、村野は慌てて西沢の口を塞いだ。

「ばか、聞こえたらどーすんだ」

だって、と西沢は未だ不満そうである。
ふと遠くに視線をやる。

「…ねえ、最近避けてるでしょ。橋葉のこと」

そのまま村野とは目を合わせず、村野の机に顎を乗せたまま、西沢は切り出した。

一瞬言葉を詰まらせた村野も、あーとかんーとか呻きながら、否定はしない。
意外にもあっさりと肯定を示した。

「避けてるっていうか…や、避けてることになんのか…」

「良いか悪いか分かんないけど、橋葉は気付いてないみたいだよ。…この前村野から聞いた、和泉と柴田の話あったじゃん。その話を橋葉にして、村野から聞いたって言ったら、えって顔してた。ちょっとショックそうだったけど。…僕、2人がそんな感じなの嫌なんだけど」

小動物で例えるなら子犬のような目をつり上げて、西沢は真っ直ぐ村野を見る。

村野は何か言いたそうに口を動かし、しかし黙ったままだった。

「あー、…いや、…うーん」
「唸ってないで答えてよ。…まさか、聞いたらまずい話?村野に限ってそれは…」
「酷!…あー、でも、うー…」

額を机につけ、俯いたまましばらく唸る。
それから「引くなよ」と小さく念を押した。
半ばふざけていた西沢も、そこで初めて緊張を感じた。
真面目な空気が流れ、少し戸惑う。

「引かない」

そう答えると、村野は表情を見せないまま、俺さあ、と呟いた。

「和泉のこと好きかも」

数秒の沈黙。
教室のざわめきが急に大きく聞こえた。

「…え?」

村野は言葉にならない音を叫びながら頭を抱える。

「あー!ほら!引くなって言ったのに!あーしぬ。うわー」

足をばたつかせ、机がガタガタと音を立てる。
こいつ幾つだ、と西沢は思った。

「引いてない引いてない!あと村野うるさい」

村野はやっぱり呻く。時々壊れたおもちゃみたいに動いて。

「そっかあー、それは困ったね…」

西沢は首を傾げて頬を掻いた。
衝撃的なカミングアウトだが、騒がしい教室は平和だ。
がばっと顔を上げた村野は、もう開き直ったようだった。

「和泉ってさ、橋葉以外に心開いてないじゃん。それ考えたらさあ…別に橋葉に対抗意識持ってる訳じゃないけど、何か…」

口ごもり、それから俯く。

「…僕は村野も橋葉も好きだから、どっちがどうとか言わないし、そんなの分かんないけど、でも2人の空気がこのままだったら嫌だ」

「…お前の素直さっていいよなー」
「何、いきなり」

西沢は笑いながら村野の背中を殴った。
村野も笑う。
でも、と西沢は呟くように続けた。

「でも和泉今、体調悪いよね」

村野の笑顔は一瞬で引っ込み、真剣な表情を浮かべて頷く。
ふざけた空気は底の方に沈んだ。
「すげー心配」と村野は言った。
身を乗り出して西沢に向かう。

「マジで、和泉が学校休んでたのって何だったの?病気とかじゃ無いんだろ。誰も知らないって、そんなのおかしくねえ?聞いたら、教えてくれるかな」

その勢いに、西沢は少しだけ気圧された。

「…僕には、分からない。…でも、誰も知らないって事は、和泉が誰にも言いたくないって事もあるかもしれない。そうだったら、それを村野が無理に聞こうとするのは、だめだよ。きっと」

村野は黙って頷く。
そう言うと思った、という感じに。
自棄になったのか、村野は饒舌になった。

「好きかもとか言ったけどさ」

「うん」

「その、和泉とセックスしたいとか、そういうのじゃないんだ。一番最初に頼ってくれたらなーって思うだけなんだ」

きもいなー俺、と自嘲気味に続けるので、西沢は少し背筋を伸ばした。

「いいと思う」

西沢もむきになっていた。教室は相変わらず平和に賑やか。お祭り前の興奮と斜めの緊張が一緒になって動いている。

「全然、悪いことじゃない」

村野は、この話を始めてから初めて西沢と目を合わせた。
この視線に色を付けるとしたら、きっと夏の木々の色に似ているはずだ。

「どーも」

村野は照れくさくなって笑う。

静かに、少しずつ、動き出す。

>>体育祭―前日:END

体育祭 準備期間

体育祭の準備が始まった。

するべき事は山ほどあった。
そもそも体育祭の開催自体、今回で二回目なのだ。
近隣の高校から合同体育祭の提案をされなければ今も行われていないだろう。
兼ねてから開催を希望していたスポーツ特待組はかなりの喜び様だった。
出席日数にはカウントされるが、殆どの競技で希望参加制となっている。
室内競技や個人競技、球技までも含まれており、体育祭というよりスポーツゲーム祭というイメージだ。
そんな風にゆるい行事で、しかしだからこそ決めなければならない規定は多く、したがって仕事量は膨大なものだった。
ルールが堅い方が統率側としては楽なのだが、とぼやいた所で仕事は減らない。

授業外で和泉と話す機会も、減り続けていた。
和泉の体調は、輪をかけて不安定になった気がする。
ちゃんと寝ているのか、と問い質したくなる程の顔色。
既に何度か貧血を起こし、保健室のお世話になっている。

徐々に体育祭の準備が進む中。
各自希望種目のアンケートを記入したり、雑談をしたり、そんな適度な喧騒が、妙なざわめきに包まれた。
俺は当日のプログラム構成を練っていて、周囲の注目の先、教室の後ろに視線をやり驚いた。

柴田が和泉を押していた。
無言のまま、右手で和泉の肩を掴み、和泉に迫っていく柴田。
為す術も無く後退した和泉は壁に背中をぶつけ、柴田を見上げた。

二人とも、無言。
何があってこうなったのか、周囲から推察することは出来なかった。

「お前、死ねよ」
柴田が、舌打ちと共に、吐き捨てる様にそう言った。
強く和泉の肩を押す。
和泉はあっさりと尻餅をついた。
そして、柴田は無防備な和泉の手を踏みつけた。
どこかで「うわ、」という声。

「いっ…」

体重を載せた踵でもう一踏みされ、和泉は痛みに背を反らせた。

そして柴田は、足下に座り込んだ和泉の、無防備に柔らかい腹部を、思い切り蹴った。

ここで、漸く我に返る。
呆然と出来事を目で追っていて、頭では全く処理をしていなかった。

「和泉!」

もっと早く、飛び出すべきだった。
そう思っても、最早どうしようもない。

咳き込む和泉の肩を支えながら、教室を去ろうとする柴田を呼び止める。
ちらりと此方を一瞥したが、彼はそのまま教室を後にした。

「和泉、」

投げ出された和泉の手を掴む。
白い指先に、はっきりと靴の跡が付いていた。

和泉が苦しそうに喘ぐ。
酸素を求め、口を開くも、乱れた呼吸リズムの所為で叶わず、ただ悲鳴の様な息が漏れた。
蹴られた腹部を抱え体を折り、咳き込みと共に吐瀉物がぱたぱたと落ちた。

「和泉、落ち着いて、大丈夫だよ。ねえ、和泉…っ、」

背中をさすると、浮いた骨の形がはっきりと分かった。

こんなに、痩せていただろうか…?

一向に落ち着く様子を見せない和泉に、あの形容し難い違和感と、不安感が一度に押し寄せた。
息が苦しい。

「誰か、…っ誰か、水と、タオル!誰でもいいから…!」

異様な光景を呆然と静観していた周囲が、はっとした様に動き出した。

ざわざわと一気に騒がしくなり、何人かが教員を呼ぶためか、教室を出た。

「お前さんがそんなに取り乱してどうする」

人の影がかかりふと顔を上げると、不機嫌そうな表情の五十嵐が居た。

突然現れた五十嵐に、思わず面食らい、言葉を失った。

五十嵐はペットボトルの水と大きめのハンドタオルを掲げながら膝を突き、俺と視線を合わせた。

「廊下通ったら何やら妙な雰囲気だし、和泉は倒れてるし、急いで教室に戻ってこれら持ってきたんだから、感謝してくれよ」

そう言いながらペットボトルの蓋を取り、一瞬も躊躇わずにハンドタオルに注いだ。
吸収しきれなかった水が床に溜まったが、お構いなしだ。

それを軽く絞り、和泉の口元にあてがう。

和泉はタオルを押さえ、その様子を見て初めて和泉が震えている事に気付いた。

「ほら、お前さんも和泉を保健室に連れて行くの手伝って。…和泉が死ぬわけでもなし、取り乱してどうする」

尖りを持った五十嵐の口調に、何とか冷静さを取り戻す。
しかし不安感は依然重く残っていた。

「…は、…しば、」

遠慮がちに肩を叩かれ、文字通りどきりとした。

五十嵐と俺に挟まれた和泉が、タオルから顔を上げていた。

「…ごめん…、も…大丈夫。ごめん、」

俯き、点々と落ちている自分が吐いたものに気付き、少しでも隠そうと慌てた様子で手が泳ぎ、しかしどうしようもなく申し訳なさそうにタオルに再び顔を埋めた。

「いいよ、それで拭きなよ」

それを悟った五十嵐がタオルを指差す。
当然和泉は躊躇った。

「でも、…」
「いいって。貸して」

五十嵐はやや強引に濡れたタオルを引き、床をひと拭きした。

和泉の小さな謝罪は空間に溶けた。

「和泉、立てる?もう落ち着いたかもしれないけど、保健室で休んでても良いんじゃないかねえ」

そう言いながら五十嵐は先に腰を浮かせ、それは和泉を促しているようにも思えた。

立ち上がろうとしてふらつき、俺は慌ててその細い体を支えた。
どこか痺れたままの自分の頭に苛々していた。

周囲の視線を一身に集めながら、和泉は俯きながら危なげな足取りで教室を出た。
転びかけた拍子に和泉が俺のシャツを掴み、無意識だとは思うが、保健室に着くまでその手が離れる事は無かった。

あれはいつだったか。
和泉を保健室まで連れて行く時、ふらついた和泉はその都度壁に体を預けていた。

「先生、」

五十嵐がドアを開け南条を呼ぶ。
始業のチャイムが響くのは同時だった。

どうしましたか、と近付く南条も、俺の背後に青い顔をした和泉に気付き眉根を寄せた。

「ちょっと、色々ありまして。俺達は戻るんで、先生、頼みました」

和泉に付き添う気で居たため、正直驚き、それもそうかと納得した。

「橋葉。行こう」
「あ、ああ」

突然五十嵐から話を振られ、ぼんやりした頭が少しだけ醒めた、気がした。

保健室を出る。
五十嵐、と声を掛けようとした時、それを阻止するかのように彼は「橋葉」と俺を呼んだ。

一瞬の沈黙。

「しっかりしろよ」

恐ろしく低い声だった。

「何、」

「お前は無責任すぎる」

そこで始めて、五十嵐は俺を見た。
いつもの張り付いたような笑顔でなく、切れ長な2つの瞳が俺を捉えていた。

「…どういう意味だ」
「あのまま教室でまごついてたら今頃誰かが呼んできた担任の質問攻めだろうね。大方相手は柴田だろ?あいつが居なければお前か和泉が何かしらの状況説明が迫られる。俺は途中からしか知らない訳だけど、それでもおまえさんのおかしさ位十分に理解できたね」

自覚していた点を指摘され言葉に詰まる。
溜まっていた不安を、ずっと吐き出してしまいたかったのだ。

「…最近の和泉は変なんだ。具体的に説明出来ないのがもどかしいけど、何か、…」

「橋葉が不安なのも分かってる。…南条先生だって、俺だって、気になってる。でもそれだけを考えて他が疎かになるのが問題なんだよ。正直、橋葉が人間らしくなったのは喜んでる。けど今のおまえさんは全く¨橋葉¨らしくない。分かってるのか、今和泉が頼れるのは、きっとお前しかいない」

「…それ、どういう、」

五十嵐は、ふ、と視線を逸らした。
暫く逡巡する姿を見せ、そして口を開いた。

「この前和泉の家まで行っただろう。それを先生に報告した。先生は開口一番『誰かに会いましたか』って言ったんだ。変な質問だと思わないか?」

肯定の意味を込めて頷く。

『誰かに会いましたか』なんて、和泉に会いに行った事は明白なのに。
要するに和泉以外の誰か、つまりあの人、妹尾に会ったかどうかを聞いたのだろう。

「和泉と妹尾貴樹に会いました。って言ったよ。そしたら先生は黙って険しい顔をした。…先生は妹尾貴樹に不信感を持っている。先生の予想が正しければ、和泉と妹尾貴樹の間に何かがあったはずだ。和泉は俺達が訪問してから、俺達が妹尾に会ってから、酷く体調を崩してる。メンタル面の影響も大きいと思うけど」

「…何だ、…それ」

和泉は妹尾に『あんな奴らとは付き合うな』とでも言われたというのか。
確かに妹尾とは半ば口論だったし、印象だって良いものでは無かっただろう。
けれどそこで妹尾が深い干渉をしてくる意味が分からなかったし、そこで和泉が体調を崩すまでに神経を使う理由は―――

「そういえば…」

以前感じた違和感を思い出した。
間髪入れずに五十嵐の視線は続きを促した。

「前、和泉を家まで送ったって言っただろ。その時の和泉の様子が変だったんだ」
「変って?」
「妹尾には登校を止められていたのに、自分の判断で登校して、しかも結局電車の中で体調崩して、『貴樹の言ったことを守らなかった』『帰らないと』って、パニックになって…。痛々しかったよ」

五十嵐は、深く息を吐いた。
天井を見上げて独り言のように呟いた。

「…ますます、不可解だねえ」

沈黙が訪れた。

「…教室に戻ろう。俺達は自習だからいいけど、五十嵐は授業入ってただろ」
「そうだね。…その冷静さが¨橋葉¨らしいよ。頼むからおまえさんまで情緒不安定にならないでくれよ」

五十嵐がにやりと笑みを浮かべる。

これだからこいつには適わない。

***

どこかで蝉が鳴いていた。
校舎を囲う広葉樹も夏めいた光を反射している。

「着いたよ」

そう言いながら、貴樹はドアのロックを外した。

「うん」

外気の熱気に少しだけうんざりする。
湿度の高い空気と倦怠感が一度に襲い、思わず眉根を寄せた。

無意識にシャツの袖口に手を伸ばしてしまい、慌てて指を離した。

やっぱり、残っている傷痕は、怖い。

思い出したくない所為か冷静に考えられない。
白く霞む、曖昧な思考放棄。

運転席に座る貴樹の顔色を窺う。
どうしたの、と見返された。

「いってきます」

「はーい。暑いから、気をつけて」

濃紺のメタリックなドアがゆるやかに閉じた。

今は、貴樹を怖いとは思わない。
以前通りの貴樹だ。

しかし、何かしらの変化があったことは確かだ。
時々雰囲気が一変する、ような気がする。
怖くて、緊張で、どうにかなりそうだった。

(…嫌われたていたら…?)

蝉の輪唱が一層大きく聞こえた。
足元に伸びる自分の影が揺らぐ。
鳴き声に囲まれながら、どこまでも続く道に一人きりで立っている、そんな錯覚がした。

玄関に着き、学生証を読み込ませているとチャイムが響いた。
あと五分で、授業が始まる。
そう思って階段を上るも、足が重く、うまく進めない。
そして教室まであと少し、という所で、一歩も動けなくなってしまった。

「…っ」

どうしようと焦る思考回路と裏腹に、強張った体は動く事を忘れ、ただ立ち竦んだ。
爪先に視線を落とす。

緊張にも似たこの感覚。
怖いのだ、と漸く気付いた。

その対象は、良く分からない。

「橋葉!」

名前が呼ばれ、はっと顔を上げると西沢が小走りにやってくる所だった。

「おはよ」

「あ、おはよ~…じゃなくて!和泉は?」
少し抑えられた西沢の声。
時計を見ると予鈴5分前を指していた。

いつも始業ぎりぎりに来る和泉の事だから、特に珍しいことではない。

「まだ来てないね。用事?」
「居ないならいいの。橋葉に用事だから」
「俺に?」

西沢は頷き、空いている和泉の席に腰を下ろした。

「昨日の話聞いた。和泉、大丈夫?」
「…もうそっちのクラスまで広がったんだ?何が発端かは分からないけど、…蹴られてたからね、腹。心配だったけど保健室には残れなかったし、放課後行ったらもう帰ってた。あ、でも早退はしなかったらしいから、大丈夫なのかもね」
「僕原因も聞いた。和泉がプリント落として、それを椅子に座って話してた柴田が踏んだんだってさ。それに対して和泉何て言ったと思う?」

俺は首を横に振った。

「『足、邪魔』って一言。和泉ってあんな見た目だし、線も細そうだし、だからちょっとイメージ違った」

あ、と思った。
復学初日の和泉を思い出す。
痛い位なあの拒絶の雰囲気を忘れていた。
周囲は和泉をどう思っているのだろう。

「それでキレた訳か。なる程ねー。随分詳しい奴が居たんだな」

そう言うと西沢は不思議そうな表情を浮かべた。

「ってか、僕が聞いたの村野だよ。橋葉、話してないの?」

「…村野?」

その時、チャイムが鳴った。

西沢は怪訝そうに俺を見る。

「なに、どうしたの橋葉」

「いや…なんでもない。教えてくれてありがとう」

村野。
そう言えば最近話していない。

「そ?じゃあ僕戻るよ。後で和泉の様子見にくる」
「あっ、そうだ。そっちのクラスのアンケート用紙まだ貰ってない。一緒に行くよ。それで回収してくる」
「ええ、今からー?間に合うの?それ」と、苦笑する西沢。

そう話しつつも席を立ち、時計を一瞥しながら廊下に出た。
その時背後から聞こえて来たのは、あの気怠げな担任の声だった。

「そんな所に立って何やってるんだ。ホームルーム始まるぞ…教室に戻れ」

反射的に振り返り、声の方へ目をやると、廊下の角から担任と、和泉が出てきた。

担任の細めた目と視線がぶつかる。

「ああ、橋葉か。ホームルーム始まるぞ」

そう言われたら、戻るしかない。
不安そうに視線を泳がせる和泉の様子も気になった。

「和泉、おはよ」

「…、おはよう」

和泉には、酷い隈が出来ていた。

***

「南条先生、」

廊下の向こう、白い背中を見かけて呼び止める。
南条は振り返り、こんにちは、と口を動かした。

「あの…、和泉って、」

これだけで、南条には伝わったらしい。
彼は目を伏せて頷いた。

「保健室にいますよ」

その声には、同情の色が滲んでいた。

和泉は、教室に来れなくなってしまった。

*

南条は階段の踊場で、また玄関で立ち竦む和泉を2日続けて見かけたらしい。

3日目、さすがに不安を感じた南条は、和泉を強制的に保健室に連れて行った。

「教室に、足が動かない」

消えそうな声で和泉はそう言ったそうだ。

それが、昨日の話。

「今日、様子見に行ってもいいですか」
「私にそれを拒否する権利はありません。…昨日の様子だと、問題無いと思いますが…。」
「…何してましたか」
「ずっと勉強していましたね」

どこか、歯切れの悪い、すっきりとしない返事。

和泉の所に行ってみようか。
けれど、行って、どう声を掛けるべきだろう――…

「当面は、和泉君が落ち着くまで、保健室登校という扱いにしようと思います。心配しなくても大丈夫ですよ」

南条は困った様に微笑んだ。

今、和泉は¨落ち着いて¨いないのだろうか。
酷い隈の出来た、白い肌を思い出す。

では、と言って、南条は去った。

和泉の様子は、確かに少しおかしかった。
俺と五十嵐で、和泉の家に行ってからだ。

チャイムが鳴った。
同時に今まで全く聞こえていなかった周囲の音が一度に鼓膜を揺らし、一瞬、どこかに取り残された錯覚を覚えた。

和泉は、何を思っているのだろう。

「せーんせ」

放課後、人気の無くなった廊下で五十嵐は扉の向こうの南条を呼んだ。

どうぞ、と南条の声。
疲れているな、と五十嵐は思った。

五十嵐が今日このドアを開けたのには、2つ理由がある。
1つは聞かなければいけない事項があったこと。
もう1つは、今日は南条と一緒に、南条の家に、帰る日だからだ。

机に向かって眉間を揉む南条の隣に、椅子を持ってきて腰を下ろす。

「先生、大丈夫ですか」
「…心労が増えました」

五十嵐には心当たりがあった。
ここに来た理由の1つ目だ。

「和泉、ですか」

髪の隙間からちらりと五十嵐に一瞥を与えた南条は、わざとらしく感じる程に大きな溜め息を吐いた。
そこに肯定を読んだ五十嵐は続ける。

「橋葉から聞きました。保健室登校なんて、そんなシステム許されるんですか」
「はっきり言って、先例が無いので何とも言えません。まあ昔誰かさんも似たようなことしてましたけどね」

誰かさん、と強調して、流し目で不敵な笑みを浮かべる南条。
それでもその表情には疲労の色が滲んでいた。

「さあ?誰のことですかね。…確かに、そうなる時は休学か転校。保健室に登校するなんて選択肢はないですよね」
「そんな誰かさんと違うのは、出席はカウントされるってことですね。試験で不備が無ければ、取り立てて問題にする必要も無いと思います。…あくまで私の判断ですが」

南条がそう判断したのなら、問題になることは無いのだろう。
ではなぜ、南条はこうも頭を抱えているのか。

少しの沈黙の後、潜めた声で呟いた。

「問題は、和泉君自身です」

「どういう意味です?」

南条は背もたれに深く身を預けた。
ぎっ、と音を立てて椅子が軋む。

「和泉君と妹尾貴樹の雰囲気、思い出せますか」

どこか、含みのある言い方だった。

五十嵐は2人の様子を脳裏に浮かべる。

「私、和泉君がこう、周りに対して閉鎖的なのは、妹尾さんが居るからだと思っていたんです。妹尾さんが和泉君を引き取るまでに、どのような過程があったのかが分からないので、断定は出来ませんが…。2人の雰囲気は、少し異質に感じました」

南条がそう感じている事は、薄々気付いていた。
妹尾に対し、不信感を抱いているのだ。
五十嵐はそんな色眼鏡を通して2人を見ていたが、しかし一般的に見たらただ仲が良いだけに思えるだろう。

「まあ、それでもお互いが幸せなら、お互いが大切なら、別段問題はないんです」
「幸せじゃ、無くなったんですか」

橋葉の言葉を思い出す。
「和泉の様子が最近少しおかしい」と。

「…和泉君が、辛そうに見えます。今日、保健室で計ったら微熱があったので、早退させようと思ったんです。そこで、『妹尾さんに連絡しましょうか』と尋ねたら、和泉君は、拒否しました」

少し、意外だった。

「ごめんなさい、止めてください。この一点張り。…和泉君がこうもはっきりと意思表示するのを、初めて見ました」

あまりに悲痛な面持ちなので、自分が残忍な悪人に思えた、と南条は言う。

「でも、何で?和泉って、妹尾だけは絶対的に信頼してるように見えるんですけど」

「分かりません。ただ、和泉君は妹尾さんに迷惑がかかることを、極端に恐れているような気がします。」

確信の無い、憶測だけが飛び交う。

南条は卓上の一冊のファイルに手を伸ばした。

いつかの、調査報告書だ。

「本当は、妹尾さんに直接聞こうと思ったのですが、幸喜の話を聞いて止めました。幸喜と橋葉君が和泉君の家に言った時の様子を考えると、妹尾さんからは正確な情報が聞き出せない」

なので、と言いながら、紙を一枚取り出す。

「妹尾早百合のカウンセラー、この人から始めようと思います」

南条本人が動くのは珍しい。
明らかな越権行為だった。
『正確な情報管理』の大義名分なしに、これは完全に南条の意思である。

「本当は妹尾佳宏を訪ねようかと思ったんですが、医療関係者の方が繋がりもありますしね」

「でも、先生は¨先生¨ですよね。一般人がいきなり訪問して、答えてくれますかねえ」

南条は、五十嵐に向けて口角を上げた。
五十嵐はこの表情が好きだった。

「いざとなったら、奥の手です」

五十嵐は、その奥の手に心当たりがあった。
しかし、なにもそこまで、といった感じだ。
どうやら南条は本気らしい。

南条が、日の落ちた窓の外に視線をやる。
窓ガラスの闇に、2人が映っていた。

「体育祭ですね。幸喜、何か出ますか?」

南条は思い出したように呟く。

「バスケットボールとテニス」
「二つも?」
「勝手に決められてたんですよ…。先生、応援に来てくださいね」

気が向いたら、と南条。
彼が来てくれるのを、五十嵐は確信した。

***

「和泉、」

蝉の歌う昼下がり。
冷房の効いた保健室の机で向き合って、のどかな時間が流れていた。
橋葉は生徒会の仕事を広げながら、おれの名前を呼ぶ。

「和泉は体育祭どうしたい?殆ど自由参加みたいなもんだけど、今の所全員参加しそう」

教室に行けなくなってから、橋葉は朝、昼、放課後と、時間が出来る毎に保健室に来てくれている。

「ん、…」

それは、有り難くもあり、苦痛でもあった。

「審判とかどう?人手足りてないから、結構助かる」
「…じゃあ、それ」
「助かるよ~」

橋葉と話していても、思考の大半は別の事に奪われている。

…貴樹。

「じゃあ、そろそろ行くね」
「あ…うん」

橋葉が書類をまとめるのを手伝って、見送った直後、チャイムが響いた。

窓の外を見る。
ガラスの向こうは、目を背けたくなるほど眩しかった。

今日は南条先生はいない。
朝会った時には、もう出掛ける準備をしていた。
放課後には保健委員か代理の教員が来るはずだ。

机の上にノートと問題集を広げ、ぼんやりと眺める。
自分は、何をしているのだろう。

心の奥から湧き出る空虚が全身に浸透していく。

昨日の事を思い出していた。

学校の帰り、普段は何ともない貴樹の車に酔ってしまった。
吐く程では無かったが、帰宅して、ソファーに体を預けても、眩暈に似たあの感覚は引かなかった。

「直矢、具合どう?もうすぐ夕飯にするけど…」

貴樹が心配そうな顔で覗き込む。
食欲は無かった。
ここ最近、食べ物を受け付けなくなっていた。
まただ、と思う。
味覚が麻痺しているのか、何を食べても同じような味しかしない。

それでも、それを貴樹に言うことは出来ない。
貴樹の負担になることは、嫌だ。

「…大丈夫。今日の夕飯なに?」

そう言うと、貴樹はほっとしたように微笑んだ。
その事に何よりの安心を感じる。

「春巻きだよ。椎茸抜いてあるからね」

香ばしい良い匂いが漂ってきたのはそれから数分後で、手伝いに行こうと立ち上がったら、貴樹にやんわり制された。
困ったような微笑。

「僕がやるから、いいよ。座ってて」
「うん」

穏やかな貴樹の、豹変に怯えながら、箸を進める。毎日を過ごす。
スイッチが分からない。

春巻きを箸で掴みながら、貴樹があっと声を上げた。

「そうだ。明日、仕事遅くなりそうなんだ。だから、迎え遅くなるかもしれない」

ごめんね、と、申し訳無さそうに言われるので、とんでもないと首を振った。

「あ、それなら、電車で帰る」

駅までの道のりが少し曖昧だが、電車通学をしているのは1人じゃないし、何とかなるだろう。
確か、西沢と村上も電車通学だったはず。
その方が貴樹の負担にならないし、幾ら何でも電車くらい1人で乗れる。

本当に、そう思って言ったのに。

貴樹の箸が止まった。
怒ったような、それでいて悲しそうな表情を滲ませて。

―――間違えた、

「電車なんて危ない。迎えに行くから、待ってて」

…怖い。

「…うん」

漠然とした恐怖と焦燥が末端まで駆ける。

貴樹の目を、見ることは出来なかった。

強い吐き気で目を覚ます。
いつの間にか寝てしまったらしい。
机に臥した、変な体勢で寝ていたせいで、腕が痛かった。

「…っ、」

吐く、と直感的に思った。
立ち上がろうとして、机からノートを落とした。
意図せず小さくえずく。
胃液のせり上がる不快感。視界が揺れた。

前屈みになって、よろよろとドアに向かう。

口を押さえる左手が震えていた。

保健室を出る事に、今更ながら違和感を覚えた。
ずっとこのままなのだろうか。
貴樹には、言えない。

「和泉?」

呼び止められ、振り返る前に肩を支えられていた。
強い力で抱き寄せられる。

「…にし、」

西沢だった。

「和泉、どうしたの?」

一緒に移動していたらしい数名が、少し遠くで西沢を呼んだ。

「先行ってるぞー」
「遅れるなよ」

「うん、先行っててー!」

ごめんなさい、と思う。
声に出したらそのまま戻してしまいそうで、意味も無く首を横に振った。

「ね、大丈夫?気分悪いの?」

「…大丈夫、…大丈夫だから、…」

背中をさする手を押し返す。
一人にして欲しかった。

「…、…っ」
「トイレ行ってきたら?待ってるよ」
「平気だから…、」

待たなくていい、そう言うことも出来ず、トイレに駆け込み嘔吐した。
食道が無理に広がる、あの瞬間が大嫌いだ。

「…う、っ、…ぇえ…」

落ちてくる髪が邪魔で耳にかける。
酸のにおいでまた催し、何度となく咽せた。
目が回って腕に顔を埋める。
立ち上がると、本格的に眩暈がした。

水道で口を濯ぎ、トイレから出ると西沢が駆け寄ってきた。
もうとっくにチャイムは鳴っている。

「具合どう?」
「…ん、…平気、」
「今日南条先生いないんだっけ?…迎え呼んだら?誰か他の先生に頼んで、電話…」

はっとして、西沢の腕を掴んでいた。

「いい。やめて…。本当に、平気だから」

西沢は、驚いた表情を浮かべる。
目が瞬いた。

「う、うん、分かったって。大丈夫なら良かった」

西沢のぎこちない、不自然な反応にも気付かなかった。

左手は、まだ震えている。

貴樹。
おれには、貴樹しかいないのに。

***

「小牧芳子さんですね」

その声に反応して、駅ビルのウィンドウに寄りかかっていた女性は顔を上げた。
軽く首を傾げ、訝しげに視線を合わす。

「そうですけれど…。失礼ですが、あなたは…?」

「南条聡と申します」

南条が学校名を告げ一礼すると、小牧はああと合点した。

「はじめまして、小牧と申します」

「では、いきましょうか」

人の良い微笑みを貼り付けて、南条は小牧と連れ立って歩く。

小牧は、妹尾小百合のカウンセラーだ。

時計の針は、午後2時を指していた。

駅近くのデパートの七階、見晴らしの良いガラス張りの店内に2人は入った。

コーヒーを運んできた店員が去った頃合いで、小牧が遠慮がちに口を開いた。

「あの…お電話でもお話しましたように、私からお教えできることはあまり…」

「構いません。些細なことでもいいんです」

「はあ…」

今一つ納得出来ない、といった表情だ。
無理もない。
南条にも、緊張が走っていた。

「それで…、ええと、不登校の生徒のカウンセリングでしたっけ?私の担当している患者さんはみんな学生ではありませんので、正直的確な助言が出来るかどうか…」

小牧はコーヒーを一口含む。
南条は、上唇を舐めた。

『不登校の生徒が酷く悩んでいるようだから、カウンセリングの手法を少しでもいいから学びたい』

これが、南条が小牧に電話で伝えた用件だ。
苦しい口実だったが、いきなり『妹尾家で何があったのか知りたい』なんて言ったら怪しまれること必至。

知り合いの医療関係者の中から何とか小牧の勤めるクリニックと縁のある人を探し出し、紹介役になって貰った。

「そのことなんですが」

南条は姿勢を正した。
相手は年上の女性。おまけに心を扱う仕事だ。

「なんでしょう?」

「…申し訳ありません。お聞きしたいのは、その事ではないんです」

覗き込むように微笑む小牧に、南条は深く頭を下げた。
伸びてきた髪の毛がテーブルに届く。
小牧の顔には、困惑の色が浮かんだ。

正直に、誠実に。

「な、南条さん?どういう意味です?顔を上げてくださいな」

「…」

ゆっくりと背を伸ばし、南条は小牧の目を見た。
不信に思われないように、あくまでも誠実な視線を纏って。

「お伺いしたいのは、妹尾さんの話なんです。騙してしまい申し訳ありません。でも、どうしてもお聞きしたい話なんです」

小牧はコーヒーを飲む事も忘れ、驚きから目を瞬かせる。

「妹尾さん…って、あなた、妹尾さんのお知り合いだったんですか」

「…知り合い、というなら、そうなります。…和泉直也をご存知ですか」

沈黙が訪れた。
小牧の表情には困惑しかない。
考える時間を与えないように、南条は続ける。

「私の勤めている学校の生徒です。…彼の精神がぎりぎりなんです。何とかしてあげたいのに、私は彼の個人的な事を一切知らない。話しているうちにどうやら彼の家庭で起きたことが関わっていると分かりました」

微妙なずれはあるが、全くの嘘は吐いていない。
小牧は頬に手を当て、眉間に皺を寄せた。

「…でも、だからってどうして私が妹尾さんのカウンセリングをしているとご存知なんです?」

「…以前、妹尾さんの自宅の前で、男子生徒を2人見かけたことはありませんか。うちの生徒なんです」

暫くの逡巡の後、ああ、と溜め息のような肯定が漏れた。

「ええ、覚えておりますわ」
「彼らから聞いて…後は、すいません、調べさせて頂きました」
「調べたですって?」

小牧の声が固くなる。
慌てて南条は付け足した。

「調べたといいますか、あなたに私の事を紹介した男が居たでしょう。小牧さんと同じクリニックで働いている…。彼と、飲んでいる時に、…世間話として、ついこんなことで困っているとぼやいてしまったんです。そしたら聞き覚えがある、と言われまして、それで小牧さんの話をしていただいたんです」

完全に、嘘だ。
微笑みを崩さないように、焦りを悟られないように、これは事実であると自分自身にも言い聞かせた。

「そうでしたか…。随分熱心なのですね、今時珍しいほどに」

小牧の雰囲気が緩んだ。
南条は「実を言うと、」と声を潜め、神妙そうな表情を作った。

「和泉くんが学校に提出した住所と、実際に住んでいる所が違うんです。うちの学校は…こういった情報管理に厳しくて、住所が変わる時は確実に申告するよう言われている筈なんです。これも、何か関係があるのかと思って」

小牧は迷い、そして頷いた。

「…患者さんのお話は、守秘義務がありますから、私だけが知りうるお話はできません。ですが、¨世間話¨の範囲でなら…。宜しいでしょうか?」

「勿論です」

ぱっと上げた南条の顔には笑顔が浮かんでいた。
本心の安堵と喜びからだ。

久しぶりに口にしたコーヒーは、もうすっかり冷めていた。
小牧もそれに気づき、微笑みながら店員を呼んで、おかわりを注文した。

「…直矢くん、どうしています?」

悲しそうな、心配そうな表情で小牧が尋ねる。
その横で、店員はコーヒーを二杯分注いでいた。

「かなり、メンタルバランスを崩しています。…最近は、教室にも、あまり、」

「あの子は、本当に可哀想…」

小牧は目を閉じた。
なにを思い浮かべているのか、南条には分からなかった。

「直矢くんの学校でのお話、ご近所でも噂は立ってましたから、ご存知かしら」

知っていたが、少し迷っていいえと告げた。

「噂なので定かではないのですけれど、あの子、ずっと虐められていたって。急に両親を亡くして、引っ越した先でもこんな目に合って、あんまりだわ」

「噂って、例えば…?」

「ふらふらになって帰宅する姿は何人もの人が見ていたようでした。あと…小百合さんが、直矢くんを叱っていたり、叩いていたりする姿も」

あっ、と、思わず声を上げていた。
南条は話を遮った事を詫び、それから意味も無く指を組んだ。

「妹尾小百合さんも、和泉くんに…?」
「フルネームは避けましょう。…小百合さんも、精神のバランスを崩していたんです。だから、私が雇われたのですから」

意志の通った視線が南条に刺さる。
南条は、和泉が中学生の時の副担任だったという、長谷川の話を思い出していた。

『和泉君が家族から暴力を受けていたことを知っていた』そう告白した長谷川。
その時はあの動画の話、ひいては山辺の話を聞き出す事に集中していて、あまり気に留めていなかった。
あの動画で確認した痣や傷痕は、山辺がしたものと納得していたが、妹尾小百合が加えたものもあったというのか。

「直矢くんの学校の方なら、直矢くんが入院していた事もご存知でしょう?あの子、どれだけの期間入院していたの?」

「復学したのは、今年の5月です」

小牧の表情が、悲痛そうに歪んだ。
俯いて、呟くように続ける。

「…これは、きっと私だけが知り得る話ね。…一度お見舞いに行った事があるの。酷かったわ。ずっと泣いて、時々叫んで、そうでないときは眠っていた。私は、直矢くんの元々の性格も何も知らないけれど、貴樹くんが来てくれなかったらと思うと…言葉にできないわ」

思いがけず貴樹というワードが出てきて、南条は驚いた。
同時に、全てが繋がる感覚を覚えた。

不自然な家庭状況。
妹尾貴樹への依存。
大量の傷痕。

「…今、和泉くんは貴樹さんと暮らしてますよね」

「ええ。直矢くんが入院したのは…自殺を図ったからだもの。…貴樹くんが直矢くんを引き取ってくれていなかったら、あの子に安心出来る居場所を与えていなかったら、きっと今、あの子は居なかったと思うわ。大袈裟でなく、本当にそう思うんです」

「…以上です。…どう思います、幸喜」

南条の作ったココアを一口啜り、苦いと呟いていた五十嵐は、いつの間にか南条の話に聞き入っていた。
南条は小牧と別れてから自宅に直行した。
五十嵐は昨日から泊まっている。

「どうもこうもないですよ」
「でしょうね」

あの和泉が、泣いたり、ましてや叫んでいる姿なんて想像も出来ない。
それに加えて、自殺未遂。
線の細い、ふらっとどこかへ消えてしまいそうな危うさを思い浮かべていた。

「妹尾貴樹に関しては、『本当に良くできた優しい子』『あんなに優しい子は居ない』そうですよ」

貴樹くんは一番直矢くんの事を考えている。そう小牧は言っていた。
南条は目を伏せ溜め息を吐いた。

「…共依存だ」
「え?」

ぽつりと呟いた五十嵐に、南条は視線だけ動かした。

「和泉はきっと、妹尾貴樹の事しか頭にない。妹尾の行動だって、過保護にも程がある」

無理もないことだ、と南条は考えていた。
ふと、背筋が寒くなる。

「…和泉くんからしたら、妹尾さんは唯一、居場所をくれた存在です」
「でも、」
「…そうなるのが普通ですよ。保護してくれる人が誰も居なかったんだ」

やや語気が強まる。
対象の分からない苛立ちが湧いた。

分かっている。無理もない話だ。
自分だって、同じ目にあってそんな時に救いの手を差し伸べられたら、その手にしがみつく。
でももう、和泉には選択肢があるじゃないか。
妹尾への依存は、和泉の意思じゃない。

南条は腕を伸ばし机に伏せる。
酷く、疲れていた。
五十嵐は眉を潜め、じゃあ、と南条に向き直った。

「橋葉はどうなるんです。今の和泉に、橋葉の事を考える余裕なんてない。大方妹尾に釘を刺されたんだ。その所為で和泉が体調を崩してるんだったら、」
「…橋葉くんの事は、正直優先順位は低いですよ。何より和泉くんがこのままではいけない。無理に教室に行く必要は無いと思いますが、…彼、食事を取れてない」
「…やっぱり。橋葉もそう言ってました」

南条と意見がずれ、五十嵐は少しぞんざいな物言いになった。
南条程割り切って考えられない。

「教室に行けないのは、柴田くんでしたっけ、彼が原因でしょう。和泉くん本人は気付いてないみたいですけど、きっと潜在的に暴力が怖いんですよ。無理もない」

「…橋葉に伝えないと」

「幸喜は…、橋葉くんのことを随分気に掛けますけど、和泉くんの事は薄情なまでに考慮しないんですね」

言葉には棘があり、五十嵐は改めて南条を見た。
外で雨が降っていることにそこで初めて気付く。
カーテンの向こう、雨粒が分厚いガラスを打つのが見えた気がした。
南条は視線を逸らしたままだ。
人差し指がテーブルを二度鳴らした。

「…何をするべきなのか、分からなくなりました」

部屋が乾燥している。
加湿器を点けることも忘れていた。

「そんなの、元々そうじゃないですか。最初は興味の方が勝ってたんでしょう、先生?言うなら何もするべきじゃ無かったんだ。『正確な情報管理』の範囲を越えてるって、気付いてるんでしょう」

南条がむっとした表情で五十嵐を睨む。
子供みたいだ、と五十嵐は思った。
南条はしかし大人で、直ぐに視線を緩めた。

「そうですね。…幸喜の言う通りだ」
「でしょう?」

得意げに五十嵐は口角を上げる。
降参だと言わんばかりに南条は笑みを零した。
そして、直ぐに表情を引き締める。

するべきことは山ほどある。
考えを整理しようと、南条は手帳とボールペンを取り出した。

長い夜の気配がした。

既視感

「電話とパージ」の裏

*

何が起こったのか、分からなかった。
熱でぼんやりしていた所為もあるだろうが、それにしてもこの短時間で起きた出来事は目まぐるしく展開した。

見たことの無い表情を浮かべた貴樹が居た。

「ここに居るんだよ」

口調こそ荒くは無かったが、その態度は明らかに平生のそれと違った。

怒ったような、悲しそうな、呆れたような、そんな気配が漂う。

「…はい」

思わず敬語になってしまう程の威圧感。
心臓が、狂ったように脈打つ。

(…怖い…っ)

貴樹に対して、初めて抱く感情だった。

おれの返事を確認して、貴樹は頷き、そして部屋を出た。

下には、橋葉達が居る。

どうして橋葉が来たのか。
おれが電話をしたから、と言っていた。
電話を、いつ?

どうして貴樹が帰って来たのか。
どうして、貴樹はあんな態度になったのか。

考える程に、混乱は深まる。

何がいけなかったのだろう。
貴樹に無断で学校を休んだこと。
貴樹に無断で人を呼んだこと。
何が、貴樹を怒らせてしまったのだろう。

ノックの音が響いた。

「直矢、」

ドアの向こうから声がした。
薄い板の向こう、貴樹はどんな表情をしているのだろう。

「ご飯になったら呼ぶから、それまで寝てなよ」

お昼はどうする?と聞かれる。
食欲は無かった。

「…いい。寝てる、ね」

異常な位、汗をかいていた。
水分が奪われ、喉の奥が痛い。

了解の返事が聞こえ、足音が遠ざかる。

「…苦し、…っ」

息が、上手く出来ない。
吸っているのに、吐いているのに、小さな箱に閉じ込められてしまったかのような息苦しさ。

その苦しさから逃れるように布団に潜り、いつの間にか眠りに落ちていた。

_______

夢を見た。

小さな自分が、崖の上に立っている。
地鳴りと供に崩れ始め、もう向こう側へ行くことは出来ない。
徐々に、足場が小さくなる。
その下の方、暗闇の中に懐かしい顔を見た気がして、落下への恐怖がすうっと消える。
目を閉じて、3、2、1。
名前が呼ばれる。
驚いて目を開けると、貴樹がおれを掴んでいた。
引き上げられ、地面に足がつく。
「お帰り」
唇が、そう動いた。

_______

「…や…、直矢、」

「!」

「…魘されてたけど、大丈夫?…ご飯できたよ」

硬い声。
相変わらず食欲は無かったが、頷かざるを得なかった。

部屋をでた途端、食べ物の匂いに包まれる。

「いいよ、座ってて」

お茶を注ぐ貴樹の背中からは、やはりいつもの穏やかな雰囲気は消えていた。

貴樹はきっと、まだ怒っている。

肉じゃがを口に押し込み、嚥下する流れ作業。
生ハムに巻かれた水菜が、色鮮やか。

あの寂しさから救い出してくれたのは、貴樹。

白米は少し軟らかかった。

箸を置く。
貴樹がちらりと目を留める。

「…ご馳走さまでした」

「直矢」

「…?」

「誰かと接するということを、良く考えなさい」

貴樹の目を、見れない。

どんな表情をしているのか、知るのが怖い。

どこか、覚えのある感覚。

「…はい」

リビングを出ると、真っ暗だった。

貴樹に嫌われたら、どうなるんだろう。
貴樹。
貴樹が居なかったら、きっと、おれは、

「…っ」

突き上げるような吐き気。
さっき無理やり流し込んだ夕飯が、逆流してくるのを感じた。

慌ててトイレに駆け込み、便器を抱えると、吐瀉物が溢れ出した。
息を吐く間もなかった。

「…っ、…っんん、」

音を立てないように、神経を尖らせる。

貴樹に、迷惑がかかる。

誰の不都合にもなりたくないのに。

水を流している間にも吐き気が込み上げ、ぐるぐると渦巻く中にもう一度嘔吐した。

指先が、冷たい。

『誰かと接するということ』

心臓が、狂ったように脈打つ。

それは、恐れと、焦りと、全てをかき混ぜて流れていった。

an omen

2日後になって、和泉は登校してきた。
いつも通り始業ぎりぎりで、鞄を少し重そうに持っている。

「おはよ、和泉」

鞄の中身を机に移す和泉に、そう話掛ける。

「…、」

躊躇うような沈黙。
違和感を感じ改めて和泉を見ると、困った表情を浮かべて俺を見ていた。

「和泉?」
「…ん、…おはよう」

窓からの風で、和泉の髪が揺れた。
色素の薄いその毛先は、光の中に溶けそうだった。

じわりと広がる違和感。

それが拭い切られる前にチャイムが響いた。
担任がやっぱり気怠そうに入って来て、出席を取り始めめる。

名前を呼ぶついでに和泉に対して無断欠席の注意をして、和泉は小さくすいません、と言った。
前の方に座る数名がちらちらと和泉を見るので、和泉は俯いてしまった。

柴田が和泉を敵視している、という話は、もう殆ど知られていた。
それだけに教室内の空気も少し違っているのだが、和泉がそれに気付いているのかは定かではない。

おそらく、この件に関してクラスを二分するとしたら、両方ともほぼ半々だろう。
担任の声を頭の隅で聞き流しながら、そんなことを考える。

片方は柴田に対して一定の怯えを持っている人達。

もう一方は、厄介事に巻き込まれないよう、静観を決めた人達。

和泉は復学して間もなく、また積極的な交流を取ることも無かったので、和泉に対して好印象を持っている人は少なかった。

とは言え和泉に対する集団的な嫌がらせが起こりそうかと考えると、そんな気配は全く無い。
おそらくは柴田も、適当にざらざらした関係を作るだけで良かったのかもしれないし、温厚派な人が多いこの学校ではこれが限界かもしれなかった。

それよりも、気になるのは和泉本人。

様子がおかしかった。
落ち着きが無く、どこか心此処に在らずだ。

「じゃあ、和泉、次の訳は?」

英語の時間。
訳を当てられた和泉は黙ったままだった。

「和泉」

二度目、呼ばれても尚気が付かない。
ぼんやりとノート、あるいは教科書を眺めている。

「…いずみ、いずみ、」

「!」

小声で呼びながら、和泉の机を人差し指でコツコツと叩くと、和泉はそこで初めて自分が当てられていることに気付いた。

「あっ、」

比較的静かな教室に響く大きな音。
慌ててノートを掴んだ和泉が、勢い余ってペンケースを落としてしまったのだ。
タイルの床に、ペンが数本、定規や消しゴムと、和泉の筆記具が広がった。

和泉はそれを、やはり慌てて拾う。
転がってきた青いペンを拾って手渡すと、ごめんなさい、と、細い声が聞こえた。

周囲の、怪訝そうな視線が刺さる。

「和泉、今日、ちょっと変だよ?大丈…」
「変?」
休み時間。思わずそう話し掛けてしまった。
全てを言い終わらないうちに、和泉は言葉を繋いだ。

「変…?」
和泉の瞳が、不安そうな光を持って揺れている。

例えるなら救助を待つ遭難者。
勿論実際に見たことがある訳では無かったが、脳裏にふと浮かんだ。

「いや、…ちょっとだけど…。何か、あった?」

和泉は俯き、沈黙が訪れる。

(…マジで、なんかおかしい…)

体調が悪い、というのとはまた違う様子の不自然さ。
妹尾はあの後、和泉に何を話したのだろう。
どんな事を、和泉に言ったのだろう。

もう一度和泉に話し掛けようとした時、遠くで俺の名前が呼ばれた。

顔を上げると、入り口の所に会長が立っている。

「今時間良いー?少し確認があるんだけど」
「…今、行きます」

会長の用件が済んだ時には休み時間は終わっていて、和泉に話し掛ける機会も失われてしまった。

それからも和泉の様子はおかしく、一貫して「心ここに在らず」という言葉が当てはまった。

決定的だったのは、昼食時。

以前食堂に誘ったら、お弁当がある、と断られてしまった。
それ以来昼食を持ち込む事にしていて、だから今日も登校途中で購入していた。

「和泉、お昼食べない?」
鞄からミネラルウォーターを取り出したばかりの和泉は、びくりと肩を震わせた。

「え、悪い、驚かす積もりじゃ無かったんだ。…どう?」

頷いてくれ、と願った。
柴田の事もあったし、何より今日の和泉を一人にするのが怖かった。

西沢が菓子パンをいくつか持って近づいて来るのが見えた
西沢は菓子パンを常備していて、食堂に行くか、それを昼食にするかはその日の気分で決めているらしい。

暫く迷った和泉は、遂に「じゃあ、」と言って頷いた。
鞄から、さらに小さめのバッグを取り出す。
お弁当はその中に丁寧に収納されていた。

「あっ、和泉も一緒に食べるんだ?僕のメロンパン、少し食べるー?」

西沢は、楽しそうに近くにあった椅子を引き寄せた。
和泉は目を伏せ曖昧に微笑む。

和泉のお弁当は、予想通り小さかった。
ネギの入った卵焼き、唐揚げ、ミニトマト…。
白米には白ゴマが振られていた。
全て丁寧。
恐らく、というより絶対に妹尾が作ったそれに、何となく複雑な気持ちになる。

話を振られない限り、少しも話さない和泉は、一つ一つの食材を丁寧に食べていた。

そう言えば、和泉が何かを食べる所を今までに見たことが無かった。
だからそれは、ついぼんやりと眺めてしまう位新鮮だった。

和泉が復学してきた当初、昼時に姿が見えず、校内を捜した事があった。
屋上に続く階段で、和泉を見つけた時、和泉はミネラルウォーターしか持って居なかった。
けれどその後、貧血を起こした和泉は階段から落ちかけ、俺は丁度和泉が座っていた辺りに錠剤が落ちているのを発見していた。
種類の違う二種類。
一つはクリーム色で丸く、もう一つは黄色い楕円形だったのを覚えている。
あの時は気を失った和泉を保健室に連れて行く事で精一杯で、詳しく見ることが出来なかったが、ずっと気になっていた。

考えを巡らせていて、西沢が話し掛けていた事に気付かなかった。

「…、橋葉ってば!」

机の下で足を蹴られ、漸く我に返る。

「わっ、何?ごめん、ぼーっとしてた」
「もう…。ねえ、和泉の様子、へん」

二人とも動かなくなったからびっくりした、そう言いながら、西沢の視線は和泉に移る。

和泉は、箸で器用にトマトを掴んだまま静止していた。
俯いた顔色は悪い。

西沢はパンを持ったまま、心配そうに和泉を見ている。

「和泉…?どうかした?」

「…っ」

カシャンと音がして箸が落ちるのと、和泉が椅子を引くのは同時だった。

トマトが床を転がる。

和泉は、ふらつく足取りで教室を飛び出した。

「和泉!」

突然のことに茫然としてしまって、体がうまく動かない。

後を追って教室を出ると、トイレに駆け込む和泉が見えた。

「和泉っ」

和泉は、流しで嘔吐していた。
トイレは並んだ手洗い場よりも少し奥にある。
床にしてしまうよりは、と考えたのかもしれない。

「はっ、あぁっ、…う、…っ、はあ…っ」

近づいて背中をさすると、吐瀉物特有の酸の匂いがした。

「ゲホッ…っ、う、えっ、げほっ、ゲホッゲホッ」

センサーで流れる水がずっと流れていて、和泉の髪の毛を濡らした。

目の前の大きな鏡に映った和泉の顔には、困惑が浮かんでいた。

吐いてしまったことに、自分で戸惑っている――…?

吐いて体力を消耗しながら、腰を屈めた不安定な体勢を維持できるはずもなく、和泉は文字通り床に崩れた。

慌てて腕を伸ばし、頭を打つのは防いだが、体を支えているのもやっとな和泉の様子に、酷く胸騒ぎがした。

「…っ、は、はあっ、はっ、…っあ、」

大きく乱れた和泉の呼吸。
唾液で濡れた唇から、悲鳴のような息が漏れる。
名前を呼ぶも、反応は無い。

と、今まで張り詰めていた糸が突然切れたように、力の抜けた和泉の体重が落ちてきた。

「和泉っ…」

苦しげに息をする和泉を見て、暫く動くことが出来なかった。

形容し難い胸騒ぎ。

和泉を、保健室に連れていかないと。

そんなことを、頭の隅で考える。

体育祭が近づいていた。

>>an omen:END

電話とパージ

橋葉章、妹尾貴樹の初対面

叩きつける雨の音に、電子音が絡んだ。

体温計に示される温度は、今朝と変わらないものだった。

せめて下がっていれば、と思いながら、ふらつく足取りで体温計を引き出しに戻す。
数値で提示されてしまうと気分の方が先に滅入ってしまう。

病は気から、とは、つくづく良く出来た言葉だと思う。

貴樹は仕事が忙しいらしく、昨夜夕食を作りに戻ってきたきりだ。

熱に気付いたのは今朝。

当然食欲も無く、歯を磨いていたら、雨が降ってきた。

(別に、大したことない、・・・大丈夫、大丈夫、・・・)

自分にそう言い聞かせてリビングのソファに蹲る。

一人で部屋に居るのは、どうしても気が進まなかった。

膝に顔を埋める。

服の袖を握り締めた。

手の平に、微かに汗が滲んでいる。

時計の秒針の音がやけに煩く感じられた。

熱の所為かやけに敏感になった耳が、雨音を執拗に拾う。

貴樹に迷惑を掛けたくない。

掛けたくないのに、どうして。

時計の音が煩い。
心臓の音も煩い。

消えてしまいたい

「青木ー、井口ー、和泉ー、・・・和泉、休みか?」

担任の視線が俺に向く。

「分かりません。でも朝から居ないんで、おそらくは」

「また無断欠席かー、お前らも休む時は連絡しろよ。えっと、じゃあ江村ー・・・」

気だるそうな声は雨音に紛れた。

チャイムの音と同時に出欠確認が終わり、一限の準備をするべく教室内は一斉に騒がしくなる。

「・・・って、」
突然背中を叩かれた。
振り返ると、五十嵐のひょろりとした姿。

「おや、おまえさんの北の方は?」
俺の隣の席を見やって言う。
「アホか」
「先生の所にも連絡無かったみたいですけどねえ」

カミングアウトした日以来、五十嵐の言葉の端々に南条との関係が匂わされる。

「そーかよ」

「最近機嫌悪いねぇ 思うんだけど、猫被りは止めたの?」

相変わらず、鋭い指摘だった。

「止めた、というか、どうでもよくなったというか」

自分でも良く分からない。

気を抜くと誰に対しても五十嵐と話す時の様な口ぶりになってしまいそうで、しかし不思議な事にそれに対する焦りは全く無いのだ。

「和泉のお陰かね」
「知るか」

この応酬のどこがツボに入ったのか、五十嵐は吹き出した。

「何笑ってるんだよ・・・。ほら、何しに来たの、何か用があるんだろ」

笑いが収まらない様子で、だから笑い混じりに五十嵐は「古語辞典」と言った。

「勝手に持ってけ」
「はいはい」

ロッカーに向かおうとした五十嵐は、何かに気がついたように足を止め振り返った。

「あれ、橋葉携帯鳴ってない?」
「え?」

鞄を探ると、確かに振動していた。

「だめだねえ、校内ではサイレントでしょう」

サイレントどころか電源まで落とすという五十嵐は笑いながらそう言った。

「あ、」

表示を見て、一瞬固まってしまった。

「和泉から電話だ」

「へえ?」

五十嵐は興味深そうに寄ってきて、画面を覗き込む。

恐る恐る、通話ボタンを押す。

和泉と電話で繋がるのは初めての事だった。

「・・・もしもし?」

五十嵐まで耳を寄せてくる。

しかし、和泉の声は聞こえなかった。

「もしもし?和泉ー?」

何かの音は聞こえるのだが、確実に音声ではない。

雑音に紛れて、呼吸音が聞こえた気がした。

五十嵐に携帯を奪われる。
暫く耳に当てていた五十嵐は首を横に振ってそれを押し返してきた。

「駄目だね、何も聞こえない」

「・・・あ、っ」

何かにぶつかる鈍い音と共に、突然通話が終了した。

「何だったんだ・・・」

「何か、まずそうだねえ」

膨張する不安感。

「学校は、」
「抜け出せないね」
「・・・知ってるよ」

学生証がICカードになっていて、玄関にはリーダーが設置されている。

それを通過しないと外には出れないのだが、イレギュラーに、規定外の時間に通過してしまうと教務室及び管理室に筒抜けとなる。
加えて通過しても校門が開く事は無く、裏門まで辿り付くのが関の山、追ってきた教員に捕まってしまう。

だから抜け出そうなんて目論む奴が居ないし、管理が甘かったとしてもデメリットしか生まないそんな事をする奴も居ないだろう。

とはいえ、このままでは心配で、授業なんて受けられない。

「駄目元で、やってみるよ」
「教務室で先生達が青くなる姿が目に浮かぶねえ。あの橋葉君が!脱走!新聞の見出しみたいだ」
「笑ってると殴るぞ」

笑いながらも、怖っと肩をすくめる五十嵐。

「まあ落ち着いて。聞きなよ、俺は抜け出し成功例を一つだけ知っている」
「はあ?」

五十嵐は、人差し指で自分の顔を指した。

「まさか」
「そのまさかです。聞く?南条先生と俺のアバンチュール・・・痛い、橋葉、鳩尾は痛い」
「おい、お前のそれを召喚しろ、今すぐ、」
「先生をお前呼ばわりするおまえさんを始めて見たよ」
「そんな裏技反則だ」

考えてみれば当然の事だった。

教員の外出までいちいち統制する必要がないのだから。

教員のカードを使えばいつでも出入り自由だ。

斯くして、俺と五十嵐は校外へ出ることに成功した。

「体調を崩した男子生徒二名が早退する…という話にしておきましたから。直にタクシーが来ますよ。料金は…私の名前を出しておいてください」

「はいはーい。先生ナイスですねえ」

こちらは罪悪感やら緊張感やらで神経を尖らせているのにも関わらず、五十嵐は呑気なものだった。

傘をくるくると回す。
どこからどう見ても、楽しんでいる。

(五十嵐もさることながら、この人も大概謎だ…)

南条がペーパードライバーとは意外だった。
五十嵐と軽口を叩き合って居る姿を見ると、何となく複雑な心境になる。

南条は文句を言いながらも、何だかんだで学校を抜け出す全ての準備をしてくれた。

南条と、目が合う。

「手伝わせてしまって、申し訳ありません…」
「全く、教員の手引きで校外脱走なんて、前代未聞でしょうね。くれぐれも気を付けてください」

そう言う南条の顔には、悪戯好きの笑みが浮かんでいる。

ふと、南条の視線が遠くを見やる。

「ああ、タクシーが来ましたよ。…幸喜、」

黒いタクシーが、キッと音を立てて停車した。

五十嵐を呼び止めた南条が、五十嵐に何かを耳打ちしていたが、何を言っているのかは聞こえなかった。

2人して後部座席に乗り込み、行き先を伝える。

この間、多少強引ではあったが、和泉の家へ付いて行って良かった。

「お願いします」

こんな時間に、こんな場所で、制服姿の二名を乗せるなんて、めったな事では無いだろうに、運転手は何も言わなかった。

「…こんなにあっさり学校を出れるとは思わなかった」

車が走り出して暫く、信号で止まったのを契機にそう口を開くと、五十嵐は笑い出した。

「人生初のサボタージュの感想は?」
「…殴るぞ」

怖っとわざとらしく肩を竦めた五十嵐は、「ところで」とやけに勿体ぶった前置きをした。
ふざけた調子ではなく、一本筋が通ったその口調に、思わず声を潜めてしまった程だ。

「おまえさん、いつ和泉の本当の住所を知ったんだ?」

そうだった。

こいつは、〝知っている″のだ。

俺が知らない和泉の事も、こいつは知っている。

忘れていた(或いは意図的に忘れていた)そんな事を思い出し、腹の底の方に黒い重みが姿を掠めた。

「…この間、和泉を家まで送ったんだよ」

「…へえ?」

真っ直ぐに五十嵐の顔を見ることが出来なかった。

後ろめたさなんて、感じる必要がないのに。

沈黙を破ったのは五十嵐だった。

「俺はね、はっきり言って腹が立つよ」

「は、」

「どうして俺に聞かない?知りたい癖に、誰よりも多くの事を知りたいと思っているのに」
「別に、そんな事」
「現にお前は今俺に苛ついているだろ?俺だったら殺してやりたくなるね。こんな風にあからさまに優越を示されて、悔しくない訳がない」

挑発的な声に、挑発的な視線。

五十嵐の言いたいことは、十分過ぎる程伝わって来た。

「有難う。でも違う。俺はちゃんと和泉の事を知りたいと思ってるよ」

恐らく、根本的に価値観が違うのだ。

「前にも言っただろ。和泉が知られたくないと思ってる事は知りたくないの。五十嵐は全部を知りたいと思っていて、きっとあの人もそんな五十嵐を全部まとめて許容してるんだろ。バランスの取り方は一つじゃない」

「…俺には分からないね」

「だろうな。俺はあの時、保健室で、なんで五十嵐があんなに怒ったのかが今でも不明だよ。南条先生が入ってこなきゃ、マジで喧嘩ものだったよ」

五十嵐は再び声を上げて笑った。

「いやあ、だから橋葉って好きだよ。飽きないねえ」
「どーも」
「はっきりした事が一つあるよ」
「何だ」
「学校に提出した住所が偽装されていることを、和泉は知らない」
「…そうだな」

和泉がその事を知っていたなら、俺に本当の住所を知らせる訳無い。

多少強引に付いていったとはいえ、隠す必要があるなら何としてでも断っただろう。

「あの家は、特に隠すべきものでは無かったのか?」
「分からないねぇ、…本当の住所を書くと何か不都合が生じるのか、」

「お客さん、」

タクシーの運転手が、車を止めて振り返っていた。

「言われた辺りの所まで来ましたけどね、これ以上はもう少し詳しい住所が分からないと厳しいんですよ。どうされます?」

「ここまでで結構です。有難うございました」
「料金は、南条に付けといて下さい」

すかさず五十嵐が口を挟んだ。
躊躇いを感じたが、結局南条の言葉に甘えることになった。

雨は随分と小雨になっている。

見覚えのある路地だった。

和泉の家は、もうすぐだ。

「ここだ」
「間違いないかい」
「ああ」

この間は、ここで別れた。

「5階って、言ってたな」

抜かりないねえと五十嵐が揶揄するので、足を踏んでやった。

笑いながら、傘を閉じる。

「ちょっと広いねえ。…まあ、地道に探すか」

携帯でもう一度和泉に電話を掛けるが、やはり繋がらない。

そういえば、と、さも今思いついたかのように五十嵐は呟いた。

「『和泉』のプレートを探しても無いよ」
「…『妹尾』か」
「さすが、覚えてたね」

和泉の携帯には、実質俺と『妹尾貴樹』しか登録されていない。
印象は深かった。

あった。そう、独り言の様に五十嵐が呟いた。

「多分、ここじゃない?」

指さす方向を見ると、確かに「se-no-o」というプレートがあった。
その脇に小さく「妹尾」ともある。

チャイムを鳴らすが、沈黙が返ってくるだけだった。

「…思ったんだけど、」
「…なんだい」
「冷静になって考えてみたら、和泉が家に居る保証なんてないんだった」

五十嵐が吹き出したので、さすがに腹が立つ。

「なんと表現して良いやら…重症だねえ、こりゃ」
「うるさい」

半ばやけになって、もう一度チャイムを鳴らす。
学校まで抜け出して、非常事態に頭がハイになっていたのかもしれない。
強烈な自己嫌悪に襲われた。

「帰ろう。付き合わせて悪かった」

と、五十嵐がドアに耳を寄せた。

「…そうでもないかもしれないよ」

「え?」
「物音がした。呼んでみて、和泉を」

俺には全く聞こえなかったその音を、五十嵐は聞き取ったらしい。
半信半疑に思いながらも、和泉の名前を呼ぶ。

「……はしば?」

「和泉!」

ドアが、開いた。
和泉に会うことが目的だったはずなのに、ドアの隙間から実物が見えた時は嘘だろ、と、真っ先に思った。

驚いていたし、和泉も目を丸くしていて、五十嵐だけが得意げに笑っている。

「橋葉、なんで、…ええ…?」

ドアチェーンを外し、俺を見上げる和泉。
状況が理解出来ない、といった様子で。
当然だ。
俺だって、何だかもう良くわからない。
少しだけ、目が充血している。

「和泉、俺に電話したんだよ。覚えてない?」
「え…?電話…?」
「まあまあお二人さん、立ち話もなんですから」
「ちょっと、五十嵐、」

五十嵐に背中を押され、三人で玄関に収まってしまう。

「五十嵐、何、勝手に…」
「…見てわかんないの、和泉体調悪いんでしょ。あと玄関に靴が無い。多分今和泉ひとりだ」

小声で早口に情報が詰め込まれ、五十嵐の観察力の高さに驚くばかりだった。

「状況説明するから、お邪魔していい?」

和泉は、不思議そうに頷いた。

玄関に入ってまず目に映ったのは階段だった。
ロフト風の作りになっているようで、廊下の途中から天井が低い。
集合住宅には珍しい設計に、何となく興味が引かれた。

遠くで、雨の音が微かに聞こえた。

和泉はリビングのソファに腰を下ろした。
だるそうに背中を預けて、一つ息を吐く。

そのまま黙ってしまったので、話始める事にした。
少しの抵抗を感じたのは、頭が随分冷えてきたのと、予想外に(というのも変な話だが)和泉と会えて、拍子抜けしていたからだ。

「…和泉が休みだなーって思ってたんだけど、電話があって、出てみたんだけど、無言で切れちゃって。心配だったから、五十嵐に協力してもらって学校出てきた」

驚いたような、困惑したような、複雑な表情を浮かべる和泉。
和泉が責任を感じないように、慎重に微笑む。
床に膝をつき、目線が揃う。

「……朝、起きたら、熱があって、動けなくなって…、…ぼんやりして、電話しちゃったのかも…」
「熱、大丈夫?」

和泉の口から謝罪の言葉を聞きたくなくて、すかさず質問を挟んだ。

「たぶん、…少し、下がった」
「何か食べた?」
首を振る。
「食べたいもの、ある?」
また、首を振る。
「痛いところは?」
「……ちょっと、気持ち悪い、だけ」

「ソファじゃなくて、部屋で寝てた方が、良いんじゃない?」

今まで歩き回って居た五十嵐が、突如口を挟んだ。
置いてある新聞を何の気なしに眺めている。
人様の物を弄るな、と言おうとして、しかし五十嵐が口を開く方が早かった。

「ソファで寝てても疲れるだけだろうし、和泉、部屋どこ?歩ける?」
和泉の顔を覗き込む。
決して良いとは言えない顔色に、明らかな困惑が滲んだ。

「ちょっと、五十嵐…」

言葉を繋ぐ前に、五十嵐に目で制された。

「ほら、和泉、部屋行こう」

急かされるようにそう言われ、和泉は言われるがままに、戸惑いながらも腰を浮かせた。
……のだが、突如ふらりと上体が傾き、 薄い体が目の前に降ってきた。

「わ、っ、和泉、大丈夫?」

無言のまま何度も頷くが、貧血を起こしたらしい和泉の目はきつく閉じられ、俺にもたれかかったまま動けない。
確かに、体温が高い。

五十嵐がじれったそうに、珍しく焦りを滲ませた様子を見せる。
小さな舌打ちまで聞こえた。

「橋葉、和泉支えられる?見た感じ、和泉の部屋二階だと思うから、階段上らないと」
「おい、五十嵐、お前、いい加減に…」

新たな声が響いたのは、その時だった。

「直矢!!」

乱暴にドアを開ける音がして、何度も和泉の名前を呼びながら、荒々しい足音が近づいてくる。

―――視界の隅で、五十嵐がポケットから何かを取り出した。

―――それを机の上に、実に自然な具合にそっと置く。

―――白くて、飾り気のない、和泉の携帯電話だ。

「直矢!」

俺たちの居るリビングに、若い男が飛び込んできた。
息を切らせる程、明らかな動揺と焦りがそこにあった。

直感した。
『妹尾貴樹』だ。

彼はまず、俺に倒れ掛かった和泉を見て、それから俺を見て、最後に立っている五十嵐を見た。
五十嵐には見覚えがあったのか、微かに眉間に皺を寄せ二秒ほど静止した。

「君たちは誰だ。…直矢に何をしている?」

先ほどまでの動揺した姿から一変、彼の持つ雰囲気が攻撃的なものに変わるのを感じた。

「……たか、き、」

和泉が小さくそう呼んだが、妹尾貴樹には届かない。

「この男…橋葉章っていうんですけど、こいつの所に和泉から電話があって、その様子がおかしかったんで心配して来てみたんですよ。俺達に用心するより、和泉の心配した方が良いんじゃないですかね。熱もあるし、見ての通り動けない」

五十嵐が投げやりな口調でそう言う。
俺は状況が呑み込めず、ただその一連の様子を眺めていた。
妹尾が、まさに血相を変えて俺の方、正しくは和泉へ駆け寄った。

「直矢、 …立てる?部屋行こう」

五十嵐が小さな声で「だから言ったのにね」と呟く。
和泉の体温がすっと離れた。
妹尾に掴まりながら、何とか立ち上がった和泉は、そのままリビングから消えていった。
五十嵐と、二人残される。
五十嵐を問い詰めずには居られなかった。

「何を考えている?」

まるで妹尾が帰ってくる事が分かっていたかのような行動。
目的も理由も分からなかった。
それにどうして、和泉の携帯を、こいつが。

「和泉の携帯が転がっててね。光が点滅してたから、好奇心から見てみたら、なんと着信15件。お前さんからのを除けば、全部あの人からだった。その時にも帰ってくるだろうな、って思ってたよ。お前と和泉が話してる間にも断続的に着信はあったんだけど、それがさっき突然途絶えた。もしかしてここに到着したのかと思って、和泉を部屋に連れて行こうかと思ったんだ」
「人の携帯を勝手に覗くのが常識的にどうかというのは今は置いておく。あの人が帰ってくると分かったからって、どうして和泉を部屋に連れて行く必要があったんだ?動けない程具合が悪いなら、ここで寝てた方が楽じゃないかと思うけど」
「……そこは、俺の私情を挟んだんだよね…。悪い、予想外だったんだ」
「私情?」
「妹尾貴樹とちょっとでも良いから話す必要があったんだ。でもそこに、和泉が居ると少し不都合」

十中八九南条絡みだろうということは容易に想像できた。
それに、俺の知らない和泉の事情関連だということも。

「俺が居るのは?それも不都合?」
「うーん、…正直言って半々だね。だから和泉と一緒に和泉の部屋に居てもらおうかと思ってたんだ。暫くしてもあの人が帰って来なかったら、そのままお前さんと帰る予定だった。賭けだよね、ちょっとした」
「…」
「不都合、っていうのは、橋葉にとって、ってことだからね。橋葉のいうバランスの取り方を崩すかもしれない」

そこまで言った五十嵐は言葉を区切り、すっと目を細め俺の背後を見やる。
つられて振り返ると、リビングの入り口に不機嫌そうな顔の妹尾が居た。

「まだ居たのか…」

そう冷たく言い放つ。
酷く不条理な感じがした。
この人の機嫌をこうまで損ねる事をしただろうか。

「和泉、大丈夫ですか」

「…昔から疲れが溜まると熱を出すんだよ。君たちに心配して貰う程の事じゃない」

そんな言い方は無いだろう、そう思ったが口には出さなかった。

「…あの子の、直矢の心配をしてくれるのは有難いけど、必要以上に関わらないでくれないか」

妹尾は、真っ直ぐに俺たちを見た。

「君は、この前電話をしてくれた人だね。そっちの君は、その時保健室に居た怪我人。和泉と、どういう関係?」
「俺は、和泉と同じクラスで、担任から和泉のサポートを任されています。こっちは、俺の友人です」
「…色々と迷惑を掛けてるだろうね、」
「迷惑なんて、思ってないです」

少し怪訝そうな顔を浮かべ、妹尾は首を傾げた。
心なしか、疲れた顔。

「直矢は誰かに接近される事に慣れてない。関わらないでくれ」

接近される事に慣れていない。
確かに、そうだろうとは思っていた。

それは例えば教科書を覗き込んだ時だとか、名前を呼んだ時だとか、薄々とそう感じさせる事は多々あった。

でもそれは、確かに拒絶を感じる事もあるけれど、もっと根源的な所、何か、妹尾の考えと食い違っている気がした。
それを形にする前に、妹尾は突然声を上げた。

「君達、ここがどうして?」

はっとして、咄嗟に口をついて出ていた、という感じ。

妹尾は困惑していた。

その事に驚いていると、五十嵐に背中を突かれた。
説明を促されている。

けれどそれを話す為には、和泉がその日学校へ行こうとしていた事も話さなければならず、けれど確かあの時和泉は妹尾に言わずに向かっていたはずだった。
和泉は「貴樹の言った事を守らなかった」と、半ばパニックになっていた。
その様子を思い出し、微かに目の前の人物に対する不信感が燻った。
妹尾の様子に躊躇ったが、話さざるを得なかった。

「この前…和泉が、電車で登校しようとしてて、」
「電車だって?」

すかさず妹尾は食いついた。
困惑に加え、ある種の苛立ちの様な空気まで感じたが、その対象は分からなかった。

「欠席するつもりだったけれど、熱が下がったから、って、言ってました。…それで、でも途中で体調を崩して、俺が近くまで送ったんです」

何がこの人に対して触れてはいけない事なのかが分からず、我ながら酷くしどろもどろだったと思う。

妹尾の顔には焦燥も感じられる。

「…直矢が?…そんなこと、…」

そしてその焦燥や戸惑いを全て残した顔のまま、俺たちを睨んだ。

「悪いけど、帰ってくれないか」

一呼吸置いて、見据える。

そして、次に聞こえた声は懇願だった。

「帰ってくれ」

妹尾が隠している事、守りたい物、そして和泉。
その腫れた部分を、俺たちは掠めたのかもしれない。

厚い扉が閉まり、チェーンの掛けられる音も聞き、駅へ向かう途中、五十嵐とは一言も話さなかった。

>>電話とパージ:END