訪問1~2

体育祭の翌日

体育祭は盛況のうちに終わった。

参加が希望制だったために2校の心配の種であった参加人数の確保も問題無く、合同チームの試合でも大いに盛り上がったそうだ。

役員一同ほっと胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。

各競技ごとにトーナメント戦であったり個人戦だったりと採点基準もバラバラで、所謂体育祭のような最終結果発表は存在しなかったが、それでも大規模なスポーツイベントとして十分だったらしい。

校長が挨拶をし、会長が閉会宣言をし、両校の生徒会役員が握手を交わす。

解散となる頃には皆和気あいあいと笑顔を咲かせていた。

唯一、保健室で起きた騒動に関わった各人を除いては。

「では、行きましょうか。」

翌日曜日の夕方、橋葉と五十嵐は保健室に集まっていた。
和泉が置いていった荷物を届ける名目で、和泉に会いに行くためである。
体育祭の後片付けに何人もの生徒が登校していたため、2人が玄関を通ることに違和感を覚える人はいなかった。

3人で連れ立って保健室を後にする。
校門の前には南条が呼んだタクシーが既に着けられていた。
南条は助手席に、橋葉と五十嵐の二人は後部座席に乗り込む。
五十嵐から聞いていたのか、南条は和泉の家の住所を淀みなく伝えた。

冷房の効いた室内から、日が傾きかけた夏の空を見上げる。
ねえ、と口を開いたのは五十嵐だった。

「あの人、俺達を入れてくれると思うかい。」
「知らないよそんなの。」
「チェーンカッターでも持ってく?駅前のホームセンターにでも寄ってさ。」
「バカか。」

おどけた調子で笑う五十嵐。こいつ、楽しんでないか?
荷物を届けるだけなのに3人で訪問して、しかも養護教諭付き。あの人、妹尾貴樹がすんなり通してくれるとは思えない。
鞄だけ受け取って門前払いということも十分あり得る。
でも、どうしても知りたい。
和泉のここ最近の不安定さは異常だ。妹尾に嫌われる、と怯えきる和泉の姿を思い出す。
一体何があったのか。
自分よりも和泉について知っているであろう南条と五十嵐でも、この点に関しては知らないらしい。
助けたいなんて差し出がましいことは考えていないが、せめて和泉が頼ってくれたら、と思う。

「お客さん、着きましたよ。」

運転手がそう告げたので、支払いは南条に任せて車を降りた。
和泉の住むマンションが目の前にある。
歩き出そうとして、足元にセミの死骸が落ちていることに気付いた。
いつも思うのだが、なぜセミは白い腹を上に転がるのか。
踏んでしまわないように避けながら、五十嵐の背を追う。
支払いを済ませた南条が小走りで追い付いた。

5階。真っ直ぐに妹尾のネームプレートを目指し、インターホンを押す。南条が学校名と役職、それから用件を伝えた。
それから数秒待って、ノイズの向こうに返事が返ってきた。完全無視という可能性も考えていただけに、その反応の早さに思わず拍子抜けしてしまう。

「さァて来るかな…?」

五十嵐の呟きと、近付く足音。
あっさりと、ドアは開いた。

「……また、…あなた達ですか。」

(!?)

ドアを少しだけ開き、中から顔を覗かせたのは、予想通り妹尾貴樹だ。ただ、疲弊の度合いが尋常じゃない。
酷いクマとボサボサの髪型。声には全く覇気がない。
泣いたのだろうか、目は微かに充血していた。
拒絶の雰囲気は依然として感じるものの、これまでの攻撃的な敵意は感じられない。いや、妹尾の方に敵意を抱く精神的余裕がない、と言った方が正確かもしれない。
昨日の様子からは想像もできない、まるで別人のような姿に、橋葉や五十嵐はもちろん南条でさえ言葉を失った。

(…一体、何が……!?)

「和泉くんの、荷物を届けに参りました。昨日、鞄ごと学校に置いていったみたいなので…。」

南条が控え目にそう告げると、妹尾は視線だけ動かして確認した。ドアを開き、荷物を受けとる。
チェーンは掛かっていなかった。

夕日を浴びてもなお妹尾の顔色は真っ青だ。
まずいな、と南条は思う。何があったのかは知らないが、妹尾の精神状態もかなりギリギリの所を保っている。

「妹尾…さん、…和泉は…?」

恐る恐る、そう尋ねる。
妹尾の不安定な視線が南条の背後に立つ橋葉を捉えた。

自分はどこで間違えたのかと、和泉は呟いた。
他の誰でもない、和泉自身への問いだった。
けれど、もしかして、―――…

「…入院、している…。」

あまりに予想外の返答に、一瞬呼吸を忘れた。
ここに来れば、和泉に会えると思っていた。
妹尾に直接問い質したかった。

しかし、目の前に立つ妹尾は俯き肩を震わせている。
妹尾が、苦しそうに絞り出した声は冷たく、それでいて消えそうなほど弱々しかった。

「妹尾さんっ」

南条の鋭い声が突然飛んだ。
突然上体が傾いた妹尾を、とっさに南条が支えたのだ。

「はは……すみませ…、…立ち眩みが、」
「妹尾さん、中に入りましょう。私達も入れて頂けますか。」
「……っ」
「幸喜、私の荷物を運んで。橋葉くんは、和泉くんの鞄をお願いします。」

「はい、センセ。」
「は、はい。」

同時に返事を返しながら、五十嵐の混乱が伝わってくる。

南条に掴まりながら歩く妹尾は、思っていたよりずっと細かった。

***

「…妹尾さん、落ち着かれましたか。」

妹尾の体調を気遣ってか、南条は低く抑えた声で尋ねた。
リビングのソファまで運ばれ横になる。南条は妹尾の足を高い位置に置こうとしたが、ソファの大きさを考え断念した。
結果、肘掛けに太股を引っ掛けた奇妙な体勢となる。
きつく目を閉じ眉間を揉む妹尾は、ずいぶん具合が悪そうだ。

「……すみません…」

心配されて真っ先に謝罪が飛び出す辺り、やはりこの人は和泉の家族だ。
ローテーブルを挟んで向かいに立ち、南条がざっと妹尾の診察を行うのを、為す術もなく静観する。
「大丈夫、ただの貧血です」という南条の言葉は、むしろ自分達への言葉だろう。
五十嵐が南条の鞄を床に下ろしたのを契機に1歩歩み寄る。

「…これ、和泉の鞄です。」

ずっしりと真面目な重みのあるそれを掲げると、妹尾は薄目を開け視線を動かした。

「ここに、置いておきますね。」

テーブルの真ん中に、ソファで横になっていても分かるように置く。妹尾は無言で頷いた。

もしかして、妹尾もどこか悪いのだろうか。
ただの貧血と言っていたが、本当にそれだけなのか。
和泉は入院したと言っていた。
一体、どうして。どこの病院なのか、そもそも本当に入院なんてしているのか。

横目で五十嵐を窺うも、感情の読めない表情をしている。

「…妹尾さん、お疲れの所大変申し訳ありません。…先ほど、和泉君は入院されたと仰いましたね。それについて詳しく…教えて頂けないでしょうか。」

南条にしては珍しく、随分緊張が走った言葉選びだったと思う。
妹尾はそれを受け、腕を支えに起き上がる。
南条は慌ててそれを止めようとするも、逆に右手で制されてしまった。

「あなた達には、関係のないことです。…どうか、お引き取り願いたい。」

「なっ…」

この期に及んで、まだそんなことを言うのか。
数分前に妹尾の心配をしたのが馬鹿みたいだ。
妹尾の顔には今までの敵意とは異なり、懇願の色が滲んでいる。
しかし、ふつふつと沸き上がってきた怒りは抑えようがなかった。

「妹尾さん、あなたは和泉をどうしたいんですか…!」

橋葉、と五十嵐が呼ぶ。構わずに一歩、前 に出た。

「和泉を、どうしたいんですか。俺達の何がいけませんか」
「…僕は、直矢の保護者だ。直矢を守る、責任がある。……君達の好奇心に、…付き合う義務はない。」

好奇心、という断定に頬が引きつった。
だが同時に、明確に否定できるだけの理由も無いのだと思い知る。
自分は、なぜこんなにも和泉のことを知りたいのか。

突き放すような言葉は相変わらずで。けれど妹尾は、頭を下げた。
くぐもった声で続ける。

「お願いだから、直也に関わらないでくれ…!君たちは、なにも知らないだろう…!」

それは、悲痛な叫び。
3人は顔を見合わせた。

「……和泉は」その場が沈黙で埋まる前に、橋葉は繋げる。

「和泉は、……最初会ったときは、すごく排他的で。話しかけても無視されることもあったし、全然、反応してくれなくて。」

言葉にしながら、同時に記憶を辿る。
和泉が初めて教室に来た日。最初の、痛いくらいな拒絶の雰囲気。
あらゆるものに警戒を剥き出しにしていた。
そういえば、落としたペットボトルを拾って手を払われたこともあった。

「でも、ある時、和泉が言ったんです。『自分といると不幸になる』って」

妹尾がはっと顔を上げる。
どういうことだ、と呟いた。

「…和泉は、家族も親戚も自分のせいで不幸になったと、言っていました。」

あの時和泉と話した内容は誰にも言っていない。
五十嵐や南条も、言葉の続きを待っていた。

「だから、誰とも関わりたくないと。」

保健室の白いベッドの上で、和泉はそう言っていた。
自嘲気味に笑う和泉の姿を思い出す。
その姿に、自分は惹き付けられたのだ。
知りたいと思ったし、支えたいと思った。それがこんな感情だと、後になって認識した。

(多分、俺は和泉が好きなんだ)

五十嵐や南条にさんざん仄めかされていた意味が分かった。
きっと二人は、もうとっくに気付いていたのだろう。

「俺は和泉に信じてほしくて、友達になろうと伝えました。和泉の敵じゃないから、大丈夫だって。」
「……どうして、そこまで…」
「最初は担任から、和泉のサポートを頼まれていて…。けど今は、俺の意思です。」

妹尾は驚きと諦めとが混ざった表情のまま、視線を逸らさない。
それから、長い溜め息とともに両手で顔を覆った。
俯き、ソファにもたれて項垂れる。沈黙を保った。

「妹尾さん」ずっと黙っていた五十嵐が、のんびりとした口調で言う。

「妹尾さん、こいつはねえ、和泉と会って変わったんですよ。前はもっと冷めてて、色んなことを馬鹿らしいと思って、それなのに教室では完璧に猫被ってニコニコしてて。でも今じゃこうやって感情的にもなれるし、猫被りもやめて。和泉が絡むと、優先順位がひっくり返るんですよ、こいつ。」

外から自分を分析されるのは奇妙な気分だった。
よりによって五十嵐がこんな風に感じていたなんて、少しも気付いていなかった。
五十嵐がニッと狐のような笑みを浮かべてこちらを見る。

「俺は何だかんだこいつとつるんでますけどねえ、前はもっとイヤなやつでしたよ。ねえ橋葉?」
「うるさいよ」
「あはは」

全く呑気なものだ。
けれど、五十嵐の言葉はどれも的を射ていた。

妹尾は項垂れたまま、けれど顔を覆っていた両手を下ろした。
目的を失った両腕は、力なくソファに垂れる。

「…僕は……」

掠れた小さい声で、妹尾が呟いた。
誰かに、というより、自分自身への確認を。

「……僕はどこで、間違えていたんだろう。…いつから、どうして、……」

自分自身への、問いかけを。

やっぱりこの人は和泉の“家族”だ。
どこで何を間違えたのか。体育祭のあの日、和泉は震えながらそう絞り出した。
もしかしたら、それは妹尾の気持ちでもあるのではないかと、やつれた妹尾の姿を見た時に直感した。

二人は似ている。
あまりに似すぎていて、共感はできても支えることは出来なかったのだろう。

「それ、和泉も言っていました。…『貴樹に嫌われたら、どこにも行けない』…これも、和泉の言葉です。」

ああ、と妹尾は呻いた。「何てことだ」苦虫を噛み潰したような顔で呟く。
脱力した掌ををじっと見つめ、決意を示すようきつく握る。
俯いていた顔を上げ、3人を順番に見やり、そして深く頭を下げた。

「すまなかった。…結局僕は、自分のことでいっぱいいっぱいだったみたいだ。あなた達を疑っていた。直也を追い詰めていたのは僕だったのに、それに気付かないふりを、していた。…座ったままで失礼するが、これまでの、非礼を詫びたい。申し訳なかった。」

この人がどんなに和泉を大切にしているのか、痛いほど伝わってきた。
途中で間違えてしまったのかもしれないが、間違えたらそこに戻ってやり直せばいいと和泉に言ったのは自分だ。
「俺も手伝うから」と和泉に伝えた。

「妹尾さん、頭を上げてください。家族の心配をするのは、家族として当然です。」

事の成り行きを静観していた南条が、遂に口を開いた。
南条が居て助かった。自分も五十嵐も、妹尾に対して「頭を上げて」なんて言えない。

「最初の質問を、もう一度しても宜しいですか。…和泉君が入院されたというのは、一体、どういうことですか。」

妹尾はゆっくりと顔を上げたが、今度は目を合わせなかった。
床に視線を落としながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「…自殺未遂だ」

予想外のフレーズに、3人は言葉を失った。

南条も息を飲み、何も言えないでいる。
予想外の展開ではあったが、和泉の自殺未遂は全く予想外の可能性ではなかった。
どこかに「やっぱり」という思いもあり、だからこそ返すべき言葉が見つからなかったのだ。

「昨日、家に帰っても直也はパニックが収まらなくて…、頓服を飲ませて休ませたんだ。夜になって起きてきて、風呂に入って。なかなか出てこないから気になって様子を見に行ったら…風呂場で手首を切っていた。…しかも、服を着たまま、湯船の中で。」

その時の事を思い出したのか、苦しそうに眉間に皺を寄せる妹尾。

「……直也は一時期、自傷行為が酷くて。だからこの家に、直也の目のつく所には刃物は置いていない。台所の包丁も、戸棚の中にケースに仕舞って置いてある。直也もそれを納得していて、ここ最近は落ち着いていたんだ。……だから、油断していた。」

南条だけが控え目に相槌を打ち、五十嵐は目を細め、橋葉は絶句していた。
妹尾は堰を切ったように吐き出す。

「直也の自傷行為は、殆どが現実逃避の手段だった。手首を切ってもそう簡単には死ねないと本人も分かってる。けどそれは、出血の勢いより修復が早かった場合だ。湯船の中なら話は違う。……血が、固まらないからね。直也はそれを知っていた。……直也は、…死のうとしていた。」

僕のせいで、と妹尾は髪の毛をぐしゃぐしゃに掴む。
「待ってください」南条が慌てた様子駆け寄り、その手を押さえた。

「なにも、妹尾さんのせいだけじゃないはずです。あの日は、…体育祭は近隣校と合同で行われていて、…相手校に、岩林がいた。和泉君は岩林洋一と会って、一番不安定になっていた。」

色々と謎めいた所が多いこの人も養護教員なのだと改めて思う。
カウンセリングマインドとでもいうのだろうか。
保健室の先生らしい姿に、ぼんやりとした頭はただ感心しただけだった。

けれど、五十嵐は、違った。
南条が妹尾をフォローすると同時に、「先生」と小さく声を上げた。
思わず口をついて出てきた、といった様子で、本人も予期せぬ自分の声に驚いた顔をした。

驚いていたのは妹尾も同じだった。さっと青ざめ、目を見開く。
南条はそこで初めて、「しまった」とでも言いたげに表情を歪ませた。

(…何だ?)

橋葉は一人、混乱する。

「どうして、あなたたちが岩林を知っている?」

妹尾は南条を食い入るように見詰める。
顔色は蒼白で、また倒れるのではないかと一瞬だけ心配が走る。

──自分が知らないことをこの二人は知っていて、それはやはり公式な情報ではなかったのだ。

おそらく、南条のツテか、もしかしたら五十嵐も情報収集に一枚噛んでいるのかもしれない。
少なくとも、妹尾が隠していた和泉に関する話を、二人は知っていた。

何か思い当たったらしい妹尾は、はっと南条の腕を掴んだ。
その表情に、余裕は少しもない。

「まさか、あの動画を」
「妹尾さん、違います。この二人は何も。私は養護教員ですが、理事から学校の情報管理を任されています。これは非公式ですが、それには生徒や教員の個人情報も含まれています。和泉君の話は…前校長、…山辺校長から、聞いていて…」
「先生、あなたは、見ましたか」
「…一応、確認しています。ですがこの二人は何も知りません」

南条の話が、どこまで本当なのかは分からない。
ただ一つだけ言えるのは、なんの動画かは分からないが妹尾の言う「動画」を、五十嵐も見ているだろうということだ。
横目で様子を伺うも、感情の読めない顔で状況を見守っている。
必要な嘘も、あるのだろう。

妹尾は力無く俯く。
「それでも」聞こえない位の小さな声で呟いた。

「……だとしても、僕のせいだ」

身震いをして、両腕で身体を抱える。

「……僕は直矢を殴ったんだ」

不意打ちを食らった気分だった。
言葉の意味がうまく飲み込めない。

「……殴った?」

バカの一つ覚えのように、妹尾の言葉を復唱した。

妹尾が唸るような声を漏らす。 頭を抱える。
その右手は固く握られ、微かに震えていた。

>>訪問:END

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