「南条先生、ありがとうございました」
保健委員の女子生徒が、立ち上がってぺこりと頭を下げる。
南条は微笑んで首を振った。
「とんでもない。予備はまだたくさんあるので、足りなくなったらまた連絡してください」
「はい」
「もっとも、これ以上怪我人が出ないことが、一番望ましいですけどね」
女子生徒はもう一度はいと言った。
救護テントの備品は、南条の予想を上回るスピードで消耗していた。
体調不良を訴えたのは12人。その殆どが少しの休息で回復していた。
和泉の弱さを理解した気がした。
元々の体力や耐性など、フィジカルな面ももちろんあるだろう。
けれどそれ以上に、彼は自分の体調に余りに無関心だ。
自分を労るとか、疲労を防ぐために休むとか、そういった考えは浮かばないらしい。
根源的な奇死念慮なのか、そうでなくとも最近の和泉は何かを恐れ注意力散漫だ。
そんな事を考えながら、南条はテントを抜ける。
背後であっと声が上がったのは、そのすぐ後だった。
振り返ると五十嵐が自分を指差していた。
「やーっと見つけた。もう、俺、この暑い中グラウンドと校舎、何往復したの思います?」
なるほど確かに息を切らせつつ、五十嵐は軽く体当たりをしてきた。
南条は苦笑して受け流す。
「そんなに急ぎの用事でも?」
そう言うと、五十嵐は意外そうな顔をした。
まさか、と口が動く。
「先生、メール見てないんですか」
実体の掴めない悪い予感が胸をよぎる。
五十嵐が余りに深刻な表情を浮かべていたから。
「忙しくて確認していませんでした。何かあったんですか?」
露骨に眉根を寄せる五十嵐。
こういう時の悪い予感は、高確率で当たるもので、南条は聞く前から暗澹たる思いとなった。
「…東諒に、あいつ、岩林がいる。今日の体育祭にも、参加してるんだ」
*
「南条先生?どうしてここに…」
橋葉は見慣れた長身と、薄い白衣の背中を見つけて駆け寄った。
南条は保健室に居ると思っていたので、だからグラウンドで二人を見るとは思っていなかった。
振り返った二人の表情には緊張と混乱が混ざっていた。
南条が口を開く。
「あの後呼び出しがありまして。もう戻ります。和泉くんの様子を見に。」
「早く行こう、嫌な予感がする」
辺りを見渡していた五十嵐が焦りの滲んだ声で急かす。
五十嵐のそんな姿は南条でも意外なようで、南条は片眉を上げて嫌な予感?と呟いた。
五十嵐はそれには答えず、橋葉を見る。
「“森田”が一人で歩いてる。岩林と一緒じゃない。」
森田、確か午前中に体育館への道を聞いてきた東椋の生徒だ。
その時は岩林と一緒にいた。
二人の出る競技が違っているという可能性もあるだろう。
でも嫌な予感は、そんな現実的な推測とは関係なく浮かんでくるものだ。
五十嵐の言わんとしていることを理解した。
「どうせ保健室に戻ろうと思っていたんです。急いだ方がいいなら、急ぎましょう」
南条がそう言い、3人はグラウンドを後にした。
今日一日で何往復もした同じ道。
一番急いで歩いているのに、一番遠く感じられた。
そして、五十嵐の嫌な予感は、現実のものとなる。
蝉の合唱に包まれながら校舎に入り、南条が保健室のドアに手をかけた時だった。
部屋の中から、何かが倒れるような大きな音が響いた。
「何でお前が、ここにいるんだ!!!」
その音に被さるようにして聞こえたのは、叫び声。
「…!」
息を飲む。
誰の声なのか判断もつかないまま、3人は保健室になだれ込んだ。
「何事ですか!」
南条がそう言い、カーテンに駆け寄った。
何が起きているのか、一瞬で理解することは出来なかった。
五十嵐の杞憂は杞憂に終わらず、そこには岩林が居た。
岩林の様子を一言で表すなら動揺。
ぶつかって倒したのだろう、包帯や絆創膏の入ったカラーボックスが足元に散らばり、突然現れた俺達に混乱を隠せないでいた。
叫び声を上げたのは和泉だった。
和泉のこんなに大きな声は聞いたことが無かった。和泉の声だとはまず思わなかった。
和泉はパニックを起こしていた。
南条に体を押さえられてもなお何かを叫んでいる。
五十嵐と俺は、為す術もなく呆然と立ち尽くした。
「和泉くん、落ち着いて…!大丈夫ですから!」
気がついたら、岩林の胸ぐらを掴んでいた。
そのまま引き摺るようにして和泉の視界から外す。保健室の壁に背中を押し付けた。
「お前、和泉に何をした?」
橋葉、と、五十嵐が制止の声を上げる。
岩林は今にも泣き出しそうだった。
「違うんです…本当に、知らなかった。本当です。和泉が、居るなんて、全然、思ってもいなかった…」
「何をしたって聞いてるんだよ」
吊り上げる手に力を込める。見下ろされ、岩林は萎縮しきっていた。
癖の強い前髪の隙間から視線を泳がせる。
「…なあ、」
「橋葉!」
五十嵐に腕を掴まれ、はっとする。
岩林は身を捻るようにして抜けていった。
逃げるのかと睨んだが、本人は茫然とした様子で突っ立っている。
五十嵐の視線が、カーテンに向けられる。
その隙間から出てきたのは、南条だった。
「和泉くんですが…帰した方がいいかもしれません。これ以上“ここ”にいるのは、しんどいんじゃないかと。」
言い回しに違和感を覚えるも、ここにいても落ち着かないだろうとは思う。
迎えを呼ぶとしたら、妹尾貴樹が来るのだろう。あの人に会うのはどうも気が引ける。
カーテンを開けて、和泉の様子を知りたかった。けれど、形容詞しがたい不安に躊躇い、手を伸ばすことはできなかった。
和泉が今求めているのは自分ではないと、目の当たりにするのが怖かったのかもしれない。
決定的な態度を避けている。
南条には養護教諭としての義務がある。机の上で生徒の住所録を開き、受話器を手にした。
放心状態だった岩林は、突如はっとしたように顔を上げた。
その足は閉じたカーテンに向かっていて、けれど南条は離れていて、まずいと思い腕を掴む。
岩林は気にするそぶりも見せず、クリーム色の布の向こうへ、叫んだ。
「和泉、ごめん…本当に、ごめん!謝って済む問題じゃないってわかってる。でも、ごめん、和泉、ごめんなさい…!」
最期の方は涙の滲んだその叫びに、呆気に取られたのは自分だけじゃないようだった。
南条は番号を押す手を止めているし、五十嵐も目を丸くしている。
「ごめん和泉、思い出したくないだろうけど、ずっと言いたかったんだよ、お願いだから聞いてくれ。ずっと謝らなきゃって思ってたんだ!」
「ちょっと君、落ち着いてください。彼は今体調が悪いんです。休ませてあげてください。」
堰を切ったように話し始めた岩林を、南条が制した。
岩林は躊躇わない。
硬質なくせ毛の隙間、眼鏡の奥で浮かんだ涙が光った。
「和泉ごめん、ごめん…!どうかしてたんだ。なあ、俺、……和泉…!」
「幸喜!妹尾さんに電話を。…君、和泉君と話がしたいなら落ち着いて。つまみ出しますよ。」
「…っ」
南条の一言に、五十嵐は受話器を取り、岩林はようやく口を閉ざした。
陰気そうな顔は俯き、所在無げに立ち尽くした。
その肩は南条に押さえられている。
「…保健委員の五十嵐です。…ええ、…はい…。」
電話は繋がったらしい。電話口で、抑えた声で五十嵐が説明している。
南条の視線がカーテンの方をさっと見る。
目線で促され、はっとして岩林の腕を放した。
やや日に焼けたポリエステルの布を、恐る恐るめくる。
和泉はベッドの上で丸まっていた。
両手で耳をきつく覆っている。
「和泉」
ベッドの横に丸椅子を引き、腰を下ろす。
和泉の歯が、ガチガチと音を立てていた。
和泉と岩林。
五十嵐は、岩林がかつて和泉を壮絶に虐めていたグループにいたと言っていた。
けれど先ほどまでの岩林の様子を見ると、どうも違うように感じる。
だが、和泉のこの怯えようは何だろう。
「……れ、」
しばらくの沈黙の後、和泉が何かを呟いた。
え?と耳を寄せる。
「…おれ、どこで…、間違ったのかな」
対象のない独り言。
和泉は一層体を縮こまらせた。
「…どこで、何を…間違えたんだろ…」
「いず、」
「貴樹に嫌われたら……おれ、どこにもいけない…っ」
(……えっ)
―――妹尾貴樹が、和泉を嫌う?
妹尾には、和泉に近づいた自分たちを牽制してきたくらい、和泉に対して庇護的な印象しかない。
それに、随分前に和泉を迎えに来た時の優しい目。
和泉だって妹尾を見て心から安堵した表情を見せていたはずだ。
和泉は何も間違えてない。しっかりとそう言い切れないほど、和泉の事を知らないのだと思い知る。
何を言っても無責任な想像の域を出ないのだ。
「…間違えてたら、さ、そこからやり直そうよ、和泉」
耳を閉ざしている和泉に聞こえるように、顔を近づけてそう言う。
和泉はシーツに押し付けていた顔を少しだけ離した。
両耳を塞ぐ手の緊張が和らぐのが見て取れた。
「間違えてたら、間違えた所に戻って…もう一度やり直せばいいんだよ。…俺も、手伝うから」
ベッドの上に丸まった体勢のまま、ゆっくりと和泉が顔を上げた。
長い睫毛に縁どられた大きな瞳と、視線が合わさる。
驚いたような、泣き出しそうな、そんな表情。
和泉が何かを言おうと口を開いた―――その時だった。
叩き付けるように、保健室のドアが開けられた。
「直矢!!」
その声を聞いて、和泉の顔色が変わった。
さっと青ざめ、よろよろと体を起こす。
勢いよくカーテンが開いた。乱暴に引っ張られたせいで、レールの留め具が一つ弾け飛んだ。
和泉はびくりと肩を震わせる。
息を切らして駆け込んできた妹尾は、恐らくこの場にいる誰よりも混乱し、取り乱していた。
「体育祭なんて聞いてない。まさか直矢、競技に出たの?」
和泉の腕が掴まれる。脱力しきった手がだらりと垂れた。
「でっ…出てない、出てない…得点、やってて…」
「得点係?外で?」
掴まれた右腕は高く上げられたまま、和泉はがたがたと震えていた。
疑いようもなく、妹尾への怯えがそこにはあった。
妹尾が視線を動かす。目が合う。
「また君達か」そう言いたげに眉が顰められた。
「直矢、帰ろうか。今日は休もう」
優しげな声音が、かえって不気味だった。
和泉は言われるままに頷いた。
穏やかな物言いとは裏腹に、強引に和泉の腕を引く。
慌てて起き上がった和泉は、内履きに足を通すこともままならないまま妹尾を追いかけた。
けれどつい数分前まで臥せっていた体で、そんな急な動きが出来る訳も無い。
ベッドの足に躓き、和泉は顔から床に打ち付けられた。
「和泉!」「和泉君」
妹尾は振り返り、はっと我に返る。
落ち着きを取り戻すにつれ、湧き上がってくるものは焦りと、―――自己嫌悪。
「…っ直矢、ごめん早かったね。立てる?」
視線を合わせた妹尾に、和泉は縋るようにしがみついた。
髪の毛に隠れて表情は見えない。
妹尾を掴む両手は微かに震えている。
結局、和泉は妹尾に抱えられるようにして保健室を出ていった。
妹尾の服を掴んだまま離さなかったことだけが、印象に強く残っている。
保健室は嵐の後のようだった。
レールが壊れたせいで不均等に揺れるカーテンに、床に広がる救急セットの類。
誰も何かを言い出せないまま、動けないままで、沈黙を破ったのはグラウンドから響いた閉会の号砲だった。
南条が、岩林の肩を押さえたまま言う。
「岩林君。君には何点か聞きたい話があります。今日はもう解散になるので、また後日。連絡先を伺ってよろしいですか」
静かな命令に、岩林は素直に従った。
「橋葉、お前さん、閉会の挨拶あるんじゃないか」
「…あ、…そうだ、忘れてた。…行かないと」
目まぐるしく展開した出来事に、五十嵐もまだぼんやりとした様子である。
橋葉もそれは同じで、行かないとと言ったきり椅子から立ち上がろうともしなかった。
「ここは片付けておきますから、二人は閉会式に行ってください。岩林君も、これを書いてもらってからすぐ向かわせます」
それから、と続ける。
「和泉君、荷物も全て置きっぱなしでしょう。明日、届けに行きます。橋葉君も、幸喜も、一緒に行きましょう」
南条にしては珍しいほど、強い視線だった。
それに一番驚いたのは五十嵐だろう。目を細め、じっと南条を見据えている。
和泉の事を知りたい。
和泉は間違っていないと伝えたい。
「行きます」
>>体育祭 当日:END